「……っ?……姫野?おーい」
心地よくもどこか現実味のない声が、遠くから降ってくる。
「美優ー?ちょっと、呼ばれてるよ~?」
誰かに肩を優しく揺すぶられ、美優はゆっくりと目を開けた。
涙で濡れていたはずの頬は乾いており、アスファルトの熱も、生温い風の感触もない。
ぼやけた視界がだんだんと焦点を結び、はっきりとしてくる。
視界が開けた瞬間、目の前に至近距離で人の顔が覗き込んでいるのが見えた。美優は心臓が跳ね上がるほどびっくりして、勢いよく机から飛び起きた。
「へっ……!?びっくりしたっ、何々っ!?」
慌てふためく美優の前で、顔を覗き込んでいた男子生徒が少しクスッと楽しそうに笑った。
光の加減で鮮やかにきらめくターコイズブルーの瞳に、柔らかく波打つアッシュブラウンの髪。クラスメイトの相良優希だった。
「ごめん、姫野さん。驚かせるつもりはなかったんだ。提出物集めてたんだけど……起こしちゃって」
優希はすまなさそうに眉を下げてみせる。
彼の声を聞いて、美優の脳はようやくはっきりと覚醒し始めた。見慣れた高校の教室。窓から差し込むうららかな陽射し。
隣の席に座っていた親友の萌華も、ノートを片手に振り返ってキャッキャと笑っている。
「あはは!美優、授業中爆睡だったもんねー。先生の目を盗んでよくあんなに深く眠れるなぁって、感心しちゃった」
友達の明るい声を聞きながら、美優の胸の奥にはまだ、鉛のような重みが残っていた。
――なんだ、夢か。
中学時代の、あのあまりにも切なくて、今でも胸が引き裂かれそうになる最悪な失恋の記憶。卒業式の日の図書室、響いた乾いた音、そして頬を伝った涙の熱さ。
夢の余韻のせいで、美優の表情がほんの一瞬、暗く曇った。
その変化に、優希はいち早く気づいたらしい。瞳を少し細め、覗き込むように覗き込んで心配そうに声をかけてくる。
「姫野大丈夫?……なんか、具合悪いの?」
優希の真っ直ぐな視線に、美優はハッとして慌てて首を振った。過去の傷に囚われている場合ではないと、必死に笑みを作る。
「ううん、全然!ただちょっと寝惚けてただけ。ごめんね相良くんっ、提出物だよねっ」
美優はカバンの中から、慌てて指定されていた数学のノートを取り出して優希に手渡した。
優希はノートを受け取ると、それまでの心配そうな表情から一転、いたずらっぽく爽やかに笑った。そして少し声を潜め、ニヤリとしてみせる。
「いいよ。お陰で、可愛い姫野さんのレアな寝顔が見られたし」
「えっ……あはは……」
不意打ちのからかいに、美優は顔を少し火照らせながら、苦笑いを返すことしかできなかった。
窓の外を通り過ぎる風は、あの夢の生温い風とは違い、どこか新生活の始まりを告げるように爽やかに吹き抜けていった。



