***
「……じゃあ、さっきの続きから。前原」
現代文の授業中。本読みを指名した先生の声に、ほんの少し教室内がざわついた。
理由は先生を除いて、みんな分かっている。
「すみません。教科書忘れてきました」
ガタッと椅子を引いた音と一緒に響いた声。
「前原ー、この前も忘れものしてただろ。受験前にボーっとしすぎだぞ」
呆れたようにため息をつく先生。クラスのみんなは、クスクスと小さく笑う。
だけど私は笑えない。だって……。
「じゃあ隣の坂本、悪いけど教科書貸してやって」
「えー!」
明らかに嫌そうな坂本さんの声。
「ほら早く」
先生に急かされて、渋々渡したようだけど、「マジあり得ない」と迷惑そうに言った声が、少し離れた私の席まで届いた。
あり得ないならどうして……そんなことするの。
坂本さんにも、先生にも誰にも言えず、心の中で呟く。
だって前原くんは、本当は教科書を忘れたりなんかしていない。
じゃあ、どうして前原くんの手元に教科書がないのか。
それは……隠されてしまったから。
授業が始まる少し前。休憩中、前原くんが席を立った隙に、クラスメートの男子数人が、机の上にあった教科書を掃除ロッカーの上へと隠した。
戻って来た前原くんは、当然教科書を探していたけど、とうとう見つけられないまま、チャイムは鳴ってしまった。
前原くんが本読みをしている間も、微かに聞こえる嘲笑。教科書を隠されたり、意味もなくバカにするみたいに笑われたり、こういうことは今日が初めてじゃない。
あれから。田澤くんに邪魔だと言われたあの日から、少しずつみんなの前原くんへの接し方がおかしくなった。
最も簡単な言葉で表すとすれば……いじめ。
一体何が原因なのか分からない。だけど気付いたときには、前原くんはいじめの対象になっていた。
***
「みーゆ!」
国語の授業が終わってすぐ。ポンッと軽く頭を叩かれた感触に顔を上げると、朱里が立っていた。
「見てこれ!」
そう言って朱里が差し出してきたスマホを見ると、恋リアで成立したカップルのショートムービー。
「え、かわいすぎる」
「だよね、このカップルエモすぎー」と、朱里と二人で騒いでいると、
「また他人の恋愛で盛り上がってんの?」
少し呆れたような声がして、現れたのは梨花。
「梨花も恋リア見てみなよ、マジいいから!」
朱里の説明に、こくこくと頷いてみせる。すると梨花は「えー……」と、半信半疑といった声を上げながらも、
「じゃあ、ちょっと観てみようかな……」
スマホを取り出して呟いた。
「何だかんだで気になってたんじゃん」
「べ、別に!」
ニヤニヤと笑う朱里に、少し恥ずかしそうに頬を赤く染める梨花。
「どうでもいいけど、次の授業移動でしょ。早く行こう」
話を紛らわすかのように言った梨花の言葉に、私は苦笑しながら頷いた。
「さては、また彼氏とケンカしたな?」
「っ、違うから!」
廊下を歩きながらも、話題はさっきの続き。
ふたりは……私の周りは、何も変わらない普段通りの日常。
前原くんがいじめられていても、それが直接私達の会話の中に上がることはない。
こうしていると、どこか他人ごとで。
さっき教室で起きたこと、確かに感じた憤りさえも、忘れてしまいそうになる。
見て見ぬふりをすることは簡単……だけど。
「……実優?」
突然ふたりが足を止め、振り返った。
理由は私が立ち止まったから。
「あ……ごめん。間違えて数学のノート持って来ちゃったみたい。取ってくるから先に行ってて!」
ふたりに向かってそう言うと、私は踵を返して走り出した。向かった先はもちろん教室だけど、決してノートを取り間違えたわけではない。
「っ……」
息を切らして教室へと戻ると、そこには残っていた男子がひとり。まだ教室にいるって、何となくそんな予感はしてた。
教室に入ってすぐの場所。
床にはバラバラに散らばった教科書たち。
それを拾っていたのは……前原くん。
私を見て「あ……」と、小さく声を漏らした前原くんの姿に、チクンと胸の奥が痛んだ。
散らばった教科書はきっと、他の男子達にやられたんだと思う。……それなのに。
「びっくりした。どうしたの?」
何でもないように、前原くんは私に声をかけてきた。
「あの……」
戸惑いながらも、手伝おうと伸ばしかけた手を、私は引っ込める。
戻ってきたのには、ちゃんと理由があって。それは……。
前原くんの横を通り過ぎ、足早で向かったのは、掃除用具が入ったロッカーの前。
「ふー」と一旦息を吐いてから、つま先立ちで手を伸ばす。
「望月さん……?」
いきなり何をしているんだろうって思うよね。
不思議そうに名前を呼ぶ声が聞こえるけど、私は手を伸ばし続ける。
だってここにあるから。
「っ、取れたっ……!」
何年分かわからないくらいのホコリを落としながら、私がやっと手に取ったのは、現代文の教科書。
それは1時間前に隠された、前原くんのもの。
吸ってしまったホコリに咳きこみながら、教科書を軽く手で掃って、前原くんの方を向く。
誰もいない隙に、前原くんに返してあげるつもりだった。……だけど。
「それ……」
目を丸くして呟いた、前原くん。
「えっと、ね……」
驚いた様子の彼の表情に、私を急に襲ってきたのは罪悪感。
隠された場所を知っていた。それなのに、教えてあげられなかった。自分が今していることは、都合良く親切にしているだけ……。偽善者でしかない。
それに気付いて、見透かされた気がして、何も言えなくなった。すると、近付いて来たのは前原くんの方。
無表情にも見える顔。他には誰もいない教室。
響くのは前原くんの足音だけ。
「あのっ……」
「ありがとう」
『違うの』って、慌てて声を上げようとした瞬間だった。前原くんは私の手から教科書を受け取って……微笑んだ。
「……」
……何が“違う”んだろう。
自分が言おうとした言葉が恥ずかしくて、下唇を噛む。
何も違わない。そればかりか、この期に及んで自らを庇おうとした自分が情けない。
ありがとうなんて言わないで。
「私は何も……」
無邪気な笑顔が刺さるようで、俯きながら言った……そのとき。
「実優ー。ノートならわたしが借りて……」
声と一緒に、突然ひとりの女子が教室に入ってきた。
それは……朱里。
「実優……?」
私と、向かい合って立つ前原くんの姿を見て、朱里は目を見開いた後に、
「……ちょっと!」
私の手を引いて、半ば強引に教室の外へと連れ出した。
「あ、朱里?」
掴まれた腕が少し痛い。何だか怒っているようにも思えて、戸惑いつつも声をかけた。
すると、やっと足を止めてくれた朱里は振り返り、
「何やってんの」
「え?」
「誰かに見られて、変な誤解されたらどうすんの?」
眉間にシワを寄せて、珍しく怒ったように言った。
「……変な誤解?」
その意味が、私には全く分からない。聞き返すと、「ホントお人好しなんだから」と、ため息交じりに呟かれて。
「前原のことが好きだとか、付き合ってるとかって、ウワサにでもなったらどうすんの?」
「え……」
朱里の言葉に、私の思考は止まった。それって……。
「……じゃあ、さっきの続きから。前原」
現代文の授業中。本読みを指名した先生の声に、ほんの少し教室内がざわついた。
理由は先生を除いて、みんな分かっている。
「すみません。教科書忘れてきました」
ガタッと椅子を引いた音と一緒に響いた声。
「前原ー、この前も忘れものしてただろ。受験前にボーっとしすぎだぞ」
呆れたようにため息をつく先生。クラスのみんなは、クスクスと小さく笑う。
だけど私は笑えない。だって……。
「じゃあ隣の坂本、悪いけど教科書貸してやって」
「えー!」
明らかに嫌そうな坂本さんの声。
「ほら早く」
先生に急かされて、渋々渡したようだけど、「マジあり得ない」と迷惑そうに言った声が、少し離れた私の席まで届いた。
あり得ないならどうして……そんなことするの。
坂本さんにも、先生にも誰にも言えず、心の中で呟く。
だって前原くんは、本当は教科書を忘れたりなんかしていない。
じゃあ、どうして前原くんの手元に教科書がないのか。
それは……隠されてしまったから。
授業が始まる少し前。休憩中、前原くんが席を立った隙に、クラスメートの男子数人が、机の上にあった教科書を掃除ロッカーの上へと隠した。
戻って来た前原くんは、当然教科書を探していたけど、とうとう見つけられないまま、チャイムは鳴ってしまった。
前原くんが本読みをしている間も、微かに聞こえる嘲笑。教科書を隠されたり、意味もなくバカにするみたいに笑われたり、こういうことは今日が初めてじゃない。
あれから。田澤くんに邪魔だと言われたあの日から、少しずつみんなの前原くんへの接し方がおかしくなった。
最も簡単な言葉で表すとすれば……いじめ。
一体何が原因なのか分からない。だけど気付いたときには、前原くんはいじめの対象になっていた。
***
「みーゆ!」
国語の授業が終わってすぐ。ポンッと軽く頭を叩かれた感触に顔を上げると、朱里が立っていた。
「見てこれ!」
そう言って朱里が差し出してきたスマホを見ると、恋リアで成立したカップルのショートムービー。
「え、かわいすぎる」
「だよね、このカップルエモすぎー」と、朱里と二人で騒いでいると、
「また他人の恋愛で盛り上がってんの?」
少し呆れたような声がして、現れたのは梨花。
「梨花も恋リア見てみなよ、マジいいから!」
朱里の説明に、こくこくと頷いてみせる。すると梨花は「えー……」と、半信半疑といった声を上げながらも、
「じゃあ、ちょっと観てみようかな……」
スマホを取り出して呟いた。
「何だかんだで気になってたんじゃん」
「べ、別に!」
ニヤニヤと笑う朱里に、少し恥ずかしそうに頬を赤く染める梨花。
「どうでもいいけど、次の授業移動でしょ。早く行こう」
話を紛らわすかのように言った梨花の言葉に、私は苦笑しながら頷いた。
「さては、また彼氏とケンカしたな?」
「っ、違うから!」
廊下を歩きながらも、話題はさっきの続き。
ふたりは……私の周りは、何も変わらない普段通りの日常。
前原くんがいじめられていても、それが直接私達の会話の中に上がることはない。
こうしていると、どこか他人ごとで。
さっき教室で起きたこと、確かに感じた憤りさえも、忘れてしまいそうになる。
見て見ぬふりをすることは簡単……だけど。
「……実優?」
突然ふたりが足を止め、振り返った。
理由は私が立ち止まったから。
「あ……ごめん。間違えて数学のノート持って来ちゃったみたい。取ってくるから先に行ってて!」
ふたりに向かってそう言うと、私は踵を返して走り出した。向かった先はもちろん教室だけど、決してノートを取り間違えたわけではない。
「っ……」
息を切らして教室へと戻ると、そこには残っていた男子がひとり。まだ教室にいるって、何となくそんな予感はしてた。
教室に入ってすぐの場所。
床にはバラバラに散らばった教科書たち。
それを拾っていたのは……前原くん。
私を見て「あ……」と、小さく声を漏らした前原くんの姿に、チクンと胸の奥が痛んだ。
散らばった教科書はきっと、他の男子達にやられたんだと思う。……それなのに。
「びっくりした。どうしたの?」
何でもないように、前原くんは私に声をかけてきた。
「あの……」
戸惑いながらも、手伝おうと伸ばしかけた手を、私は引っ込める。
戻ってきたのには、ちゃんと理由があって。それは……。
前原くんの横を通り過ぎ、足早で向かったのは、掃除用具が入ったロッカーの前。
「ふー」と一旦息を吐いてから、つま先立ちで手を伸ばす。
「望月さん……?」
いきなり何をしているんだろうって思うよね。
不思議そうに名前を呼ぶ声が聞こえるけど、私は手を伸ばし続ける。
だってここにあるから。
「っ、取れたっ……!」
何年分かわからないくらいのホコリを落としながら、私がやっと手に取ったのは、現代文の教科書。
それは1時間前に隠された、前原くんのもの。
吸ってしまったホコリに咳きこみながら、教科書を軽く手で掃って、前原くんの方を向く。
誰もいない隙に、前原くんに返してあげるつもりだった。……だけど。
「それ……」
目を丸くして呟いた、前原くん。
「えっと、ね……」
驚いた様子の彼の表情に、私を急に襲ってきたのは罪悪感。
隠された場所を知っていた。それなのに、教えてあげられなかった。自分が今していることは、都合良く親切にしているだけ……。偽善者でしかない。
それに気付いて、見透かされた気がして、何も言えなくなった。すると、近付いて来たのは前原くんの方。
無表情にも見える顔。他には誰もいない教室。
響くのは前原くんの足音だけ。
「あのっ……」
「ありがとう」
『違うの』って、慌てて声を上げようとした瞬間だった。前原くんは私の手から教科書を受け取って……微笑んだ。
「……」
……何が“違う”んだろう。
自分が言おうとした言葉が恥ずかしくて、下唇を噛む。
何も違わない。そればかりか、この期に及んで自らを庇おうとした自分が情けない。
ありがとうなんて言わないで。
「私は何も……」
無邪気な笑顔が刺さるようで、俯きながら言った……そのとき。
「実優ー。ノートならわたしが借りて……」
声と一緒に、突然ひとりの女子が教室に入ってきた。
それは……朱里。
「実優……?」
私と、向かい合って立つ前原くんの姿を見て、朱里は目を見開いた後に、
「……ちょっと!」
私の手を引いて、半ば強引に教室の外へと連れ出した。
「あ、朱里?」
掴まれた腕が少し痛い。何だか怒っているようにも思えて、戸惑いつつも声をかけた。
すると、やっと足を止めてくれた朱里は振り返り、
「何やってんの」
「え?」
「誰かに見られて、変な誤解されたらどうすんの?」
眉間にシワを寄せて、珍しく怒ったように言った。
「……変な誤解?」
その意味が、私には全く分からない。聞き返すと、「ホントお人好しなんだから」と、ため息交じりに呟かれて。
「前原のことが好きだとか、付き合ってるとかって、ウワサにでもなったらどうすんの?」
「え……」
朱里の言葉に、私の思考は止まった。それって……。
