ほんの少し緊張しながら、私は教室へと足を踏み入れた。それは入り口に一番近い場所に、彼……前原くんの席があるから。
昨日の今日だし、大丈夫。
「おは……って、えっ!?」
私はいつものように読書をする前原くんに挨拶しようとした……のだけど、ふたりの女子に突然取り押さえられた。
「えっ、ちょっ……!」
片手に持っていたカバンは朱里に取り上げられ、背中を押すのは梨花。
グイグイと誘導されるがまま歩いて、ストンと腰を強制的に下ろされたのは自分の席。
「さーて、聞かせてもらいましょうか!」
「昨日、人が部活に行ってる間に、良いことがあったんだって~?」
ニヤニヤと、いやらしい笑みを浮かべるふたり。
その様子に、何のことを言っているのか、嫌でも見当がついてしまった。
「ちょっとふたりとも落ち着いて。昨日、田澤くんとは日誌書いたりしてないよ」
これ以上面倒なことになるのは嫌だから、自分から口を開く。すると、「えっ?」と驚いた声を上げたのは梨花だった。
「何で!?」
「田澤くんも部活で急ぐからって……」
「え。じゃあ実優がひとりで書いたの?」
「ううん、前原くんが手伝ってくれることになって」
机の上に両手をついて身を乗り出した梨花は、そこまで言ったところで「へぇ……」と、あまり面白くなさそうな声を上げた。そして、
「何かごめんね。実優のためにと思ったんだけど……面倒なこと、ただ押しつけちゃっただけになっちゃった」
とても申し訳なさそうに梨花に謝られ、私は一瞬きょとんとしたけど、すぐに首を横に振る。
だって、前原くんと一緒に日誌を書いたことは、“ただ面倒なこと”ではなかった。
「結構……楽しかったよ」
「え?」
私はが言うと、ふたりは目を丸くした。
「あんまり喋らない人なのかと思ってたけど、そんなことなかったし」
どっちかと言うと、喋れなかったのは私の方。そんな私に、前原くんは自分から話しかけてきてくれた。
……まぁ、その内容は少しびっくりするものではあったけど。
それに、初めて見た前原くんの笑顔はとても温かくて。
きっとみんなが思っているほど、暗い人なんかではないと思った。
結局昨日は入学したときの出来事について、何も話せずじまいだったけど、もう少し話をして仲良くなれたら話そうと、お礼を言いたいと思った。
……そのことも含めて、
「あのね、実は……」
本当に気になっているのは田澤くんじゃなくて、前原くんなんだってことを、私は勇気を出して、ふたりに素直に伝えようとした……その時だった。
ガタンッ!
教室の後方で何かがぶつかったような、大きな音が響いた。
私はもちろん、梨花も朱里もクラス中のみんなが、反射的に音のした方へと目を向ける。
するとそこには、机の位置からは大きくずれた椅子と……そこから転げ落ちそうになっている、前原くんの姿があった。
そしてその後ろには、田澤くんの姿。
何が起こったのかは、その瞬間を見ていなかったから分からない。ただ、
「……邪魔」
短く呟いた田澤くんの声が、しんと静まり返った教室に響いた。そして、何事もなかったのように歩き出す田澤くん。
誰が先陣を切ったのかは分からないけど、クスッと小さく笑う声が広がり、
「亮輔、おはよー」
「おはよう、田澤くん」
次々に人気者の彼を囲む、挨拶の声。
一度静まり返った教室は、一瞬にしていつも通りの騒がしさを取り戻した。
たったひとり……前原くんを置き去りにして。
「何、あれ、ちょっとびっくりしたね……」
呆然とする私に、そう声をかけてきたのは朱里。
「うん……」
田澤くんを追うことも、何か言葉を発することもなく、黙って椅子を直した前原くんは、再び机の上の本に手を伸ばしていた。
「前原って、見るからにどんくさそうじゃん。どうせ変な位置にいたんでしょー」
大したことないよと、笑う梨花。
変な緊張でドキドキと鼓動が速くなる中、本当にそうかな……って、心の中で疑問に思った。
だって、読書をする前原くんの姿勢はすごく良い。
ガヤガヤ騒いでいる男子ならともかく、前原くんが邪魔になることってあるのかな……。
考えすぎは良くないけど……何となく違う気がした。
あれは田澤くんの言いがかりっていうか……。
「望月」
「ん……」
「望月」
「ちょっ、実優!」
ボーっとしていた私は、梨花達に声をかけられるまで気付かなかった。
『望月』という、決してふたりはしてこない呼び方。それから低い……男子の声。
ハッとして顔を上げると、
「……え」
驚きのあまり、思わず声が漏れた。
私の目の前に立っていた人は、田澤くんだったから。
「……」
どうして……と、目を丸くすることしか出来ない。
田澤くんが私に用なんて、心当たりなんか全くない。
それにこのタイミング。
あるはずないけど、私の心の中の声が聞こえてしまったんじゃないかと、本気でヒヤリとした時だった。
「昨日は悪かった」
「え?」
「日直」
仏頂面でそれだけ言うと、田澤くんは私に背を向けた。
「……」
ポカンとしながら、遠ざかってゆく背中を見つめていると、
「何で?何で田澤が実優に謝んの?」
とても不思議そうに梨花が首を傾げた。
「それは……」
私にもよく分からない。
「日直」とは言っていたけれど、私が代わってあげた相手は梨花で。田澤くんが謝るべき相手は、前原くんの方だと思う。
ただ、ひとつ心当たりがあるとすれば……。
「もしかして、実優に気があるんじゃないの?」
ちょっと冷やかすような朱里の言葉に、梨花は「あっ!」と声を上げるなり口元を手で隠し、目を輝かせるけど、
「そんなことないよ。……っていうか、たぶん逆」
昨日、クラスメートの男子にからかわれて、明らかに迷惑そうな顔をした田澤くん。
つまり、少しでも私なんかと噂になるのが嫌で、前原くんに代わりを頼んだわけで……。きっと、そのことに対して謝ってきたんだろう。
それは、簡単に言えばフられてしまったも当然。
話を聞いたふたりは「えー」と、声を上げた。
だから私は別に、田澤くんのことは何とも思ってないんだってば……。
実際そう声に出したかったけど、今言ったところできっと聞き入れてくれない。何となくそう感じたから、私は開きかけた口を閉じた。
それにしても……まさか田澤くんに謝られるとは思わなかったな。
チラッと目を向ければ、田澤くんは既にクラスメートの輪の中にいて、さっきの仏頂面が嘘のように、友達とふざけ合って笑顔を振りまいている。
いつもクラスの中心にいる人だから、私みたいな冴えない女子の気持ちなんて、考えない人だと勝手に思っていた。だから、ちょっと苦手だった。
でも、違うのかな。
実際は優しい人、なのかな……。
さっきの前原くんとのやり取りを見て、『もしかして』なんて思ったけど、やっぱり私の考えすぎだったのかもしれない。
思いがけない彼からの謝罪に、私の心配は消えかけていた。だけど……クラスの日常が突如変わったのは、それからすぐのことだった。
