キミが『好き』だと言えなくて。



──結局、本当の気持ちは何ひとつ言うことができないまま、数日が過ぎてしまった。

朱里と梨花の間では、あたしの“好きな人”はすっかり田澤くんになってしまっていて……。それは、とある日の放課後のことだった。


「ね、実優」

6限目の授業が終わり、帰る準備をしていると、何やら嬉しそうに梨花が話しかけてきた。

「どうしたの?」と手を止め、あたしが聞くと、梨花は教室の中をチラッと目で確認した後に、

「今日の日直、代わってあげる」

あたしの耳元でナイショ話をするように言った。

「……え?」

今日の日直……って、今日の仕事はもうほとんど終わったに等しい。
黒板も既に消してあるし、かろうじて残っていることと言えば、日誌を書いて先生に提出することくらい。

それに『代わってあげる』って、その言い方はなに?

「何か用事でもあるの?」

腑に落ちないものを感じながら、とりあえず聞いてみた。
用事があって急いでるから、代わって欲しいのかな……って、純粋に思って。
だけど梨花は「えっ!?」と、信じられないといった顔をして、

「本気で言ってるの!?」

と、声を荒げた。

本気で……って、

「どういう意味?」
「気付いてなかったの?ってことだよ!」

声と一緒に両手で頬を挟まれ、強制的に回された首。
向けられた先は、綺麗に消された黒板で……言いたいことはすぐに分かった。

黒板の右端に書かれた、6月24日という今日の日付。
その下には『日直』と書かれていて、梨花の苗字ある『山本』の文字。
そしてその右隣には……『田澤』

「……だから、何回言ったら」
「大丈夫!礼には及ばないから!」

にっこりと満面の笑顔で、頬から下ろした手を、あたしの肩にポンっと乗せる梨花。

こりゃダメだ……。

諦めたつもりじゃないけど「はぁ」と、思わずため息をついた。その隙が失敗だった。

「あっ、おーい!田澤!」

突然、目の前の梨花が声を張り上げた。

驚いて、ビクッとしたときにはもう遅かった。
梨花はあたしの前からスッと離れて、

「わたし先に帰るから、実優と日誌書いといて」

校内の清掃から教室へ戻ってきた田澤くんに、笑顔でそう告げたのだ。

「ちょ……っ!」
「じゃあねー」

あたしが引き止めるよりも先に、教室を出て行く梨花。

「……」

残されたあたしと目を合わせたのは、キョトンとする田澤くん。

「あ、えと……」

……気まずい。
どうしたらいいんだろう。

梨花みたいに、男女関係なく気軽に話が出来る性格だったらいいのだけど、男子と話すのは少し苦手。
しかも、田澤くんみたいなタイプが、実は一番苦手っていうか……。

上手く言葉がまとまらず、そのまま黙り込んでしまっていると、

「え、なに?もしかして望月さん、亮輔のこと……?」
「へっ!?」

田澤くんの隣にいたクラスメートの男子が、あろうことか冷やかしてきた。

「ち、違うっ!そういうわけじゃなくて!」

必死に否定しようとする。だけど、恥ずかしさから顔が赤くなる。

これじゃ逆効果。
そう分かっているのに、どうにも出来ずにいると、

「チッ」

耳に届いたのは、舌打ち。
パッと目の前を見ると、田澤くんはすごく不機嫌そうで、迷惑そうな顔をしていた。

その表情に怯んで、足がすくむ。

あたし、何か怒らせちゃうようなことをした?

初めて見る田澤くんの表情に恐怖を感じ、どうしよう……と、更に焦っていると、

「お前、あんまりつまんねーこと言うなよ」

そう言って田澤くんがど突いたのは、冷やかしてきたクラスメート。
そして、あたしをもう一度見て、パッと目を逸らすと……、

「あ、おい前原。今日お前暇?」

あたしの後ろへ目を向けて、そう言った。

『前原』その名前を聞いた瞬間、緊張が一瞬解ける。

振り返ってみると、偶然通りがかった様子の前原くんが、ちょうどあたしの真後ろに立っていて。

「俺も部活で急ぐから。前原、お前代わりにやっといて」

田澤くんは一方的に言うと、前原くんの返事も聞かずに歩き出した。



***



これは一体どういう巡りあわせなんだろう。

放課後の教室。ひとつの机に広げた日誌。
向き合ってペンを走らせるのは……前原くん。

まさか、前原くんとこんなことになるなんて思わなかった。本来なら前原くんは全然関係ないわけだし。

「あの……付き合わせちゃってごめんね」

ほんの少し勇気を出して発した声が、他には誰もいない室内に響く。

日誌を書いて終わり……だったはずが、あの後先生に呼ばれて、プリントを刷るのを手伝わされてしまった。
おかげで、窓から差し込む光はもうオレンジ色。

前原くんは手を動かしたまま、「何で望月さんが謝んの?」と、聞いてきた。

「望月さんだって、今日当番だったわけじゃないじゃん」
「あ……うん、そうなんだけど……」

そう言われたらその通りで、あはは……と、愛想笑いを返す。

そして再び……沈黙。
こうなることは予想の範囲内だった。
前原くんは普段からあまり喋らないし、あたしも特別親しいわけじゃない人と話すのは苦手だから。

でも……。

4限目『体育』、5限目『数学』と次第に埋まっていく空欄。何も話さず、こうして過ぎてゆく時間が、とても勿体無く感じられた。

って、いうか……話したいことがあるのに、言葉に出来ない。

だって、いきなりこんな話をしたら、引かれちゃうかもしれない。
もっとも2年以上前のことなんて、前原くんはもう忘れているかもしれなくて。

せっかくふたりっきりで話せるチャンスが到来したっていうのに、あたしは黙ったまま。
意外にもスッと規則正しく伸びた、前原くんの指先を見つめることしか出来なかった。


「……じゃあここ、望月さんから書いてもらえる?」

最後の『今日の出来事』という欄になって、前原くんはあたしに日誌を回した。

「うん」と頷きながら、自分の筆箱からシャーペンを取り出す。

急遽任された日直。何を書こう……と、考えていたときだった。

「……ごめんね」

静かな教室に響いた声に、パッと顔を上げる。
言ったのは他でもない、前原くん。

「何が?」

謝られるようなことなんて、何もされてなくて。
全く心当たりのないあたしは、首を傾げた。すると、

「田澤くんと一緒に書きたかったんでしょ?」
「へっ!?」

予想もしなかった前原くんの発言に、あたしの声は思わず裏返る。
それだけじゃない。思いがけず大きくなってしまった声に、目の前の前原くんは、きょとんと少し驚いた顔をしていて。

「違った?」
「違う!違うよっ!」

今、大声を出して驚かせてしまったばかりだというのに、あたしは更に机をバンッと叩いて、立ち上がった。

「……」

さっきよりも一層目を丸くして、あたしを見る前原くん。

その様子に、何だかとても自分が恥ずかしいことをしたような気分になってきた。……いや、そうなんだけど。

「えっと……」

こんなに声を張り上げちゃって、何必死になってんの?って、感じだよね。
どうしたらいいか分からず、口をパクパクさせていると、

「ふっ……」

あたしは自分の目を疑った。

だって……笑ってる。
前原くんはクスクスと、控えめにだけど笑っていた。

初めて見る彼の表情に、あたしは自分の失態も忘れてポカンとする。

「あぁ……ごめん。望月さんがあんまり一生懸命言うから、おかしくて」

メガネの奥、目尻に溜まった涙を拭いながら謝る前原くん。

「う、ううん……」

あたしはやっと腰を下ろしながら返事するけど……ものすごく戸惑っている。

それは、自分が笑われてしまったからじゃなくて。
前原くんが……笑ったからだ。

一年のときも同じクラスだったし、三年になって三ヶ月近く経とうとするけど……笑顔を見たのは、初めてだった。

だけど、そんなことを素直に言えるわけがなくて。彼の表情をただ見つめていると、

「でもさ……違うなら何で、今みたいにはっきり言わないの?」

「てっきり田澤くんのことが好きなのかと思った」と、続ける前原くん。

「……言ったよ。言ったけど、一回勘違いされちゃったら、聞く耳持ってくれなくて」
「へぇ……。それはちょっと困るね」

意外にも親身になって聞いてくれる前原くんに、あたしは苦笑を返す。

勝手に田澤くんのことが好きだと決めつけられ、半ば無理やり引き合わそうとされちゃって、素直に言ってしまえば迷惑な話。

おかげで、前原くんどころかクラスメートの男子にも勘違いされちゃったし、きっと田澤くん本人にも誤解されている。
まぁ、日頃からモテモテの田澤くんからしたら、あたしが好意を寄せてると知ったところで、特に何とも思わないんだろうけど……。

「でも、梨花も悪気があってのことじゃないし、むしろあたしの為にやってくれてることだから……。それに、何だかんだで強く言えない自分が悪いんだよ」

笑いながら、ごまかすみたいに言った。
だけど、本当にそう。
違うって、強くはっきり言えず、結局状況に流されちゃってる自分が悪い。

しんと静まる室内に、

「えとっ……」

ちょっと暗い雰囲気にしちゃったかと、慌てて空気を変えようと、声をかけようとした。
でも、先に口を開いたのは前原くんの方だった。

「望月さんは優しいね」
「え……」

言われた言葉に目を見開く。
目の前の前原くんは……柔らかく微笑んでいて。

「あ、ごめん。話しかけるから進まないね」

そう言って視線が落とされた先は、あたしの手元の日誌。
『今日の出来事』には、まだ一文字も書けていない。

「あっ、こっちこそごめん!急ぐね!」

指摘されて、あたしは逃げるように日誌へ顔を落とした。

何から逃げたかといえば、それはきっと自分の感情から。顔が熱くなるのを感じて、見られたくないと思った。

それから何故だか分からないけど、泣きそうになった。

……うそ。本当は嬉しくて。
嬉しくて、泣きそうになったんだ。