「実優、起きてる? お昼ご飯は……」
「いらない!」
部屋のドアをノックして、聞いてくれたお母さん。だけど私はひと言返事して、布団を被る。
今日は月曜日。なのに家にいるのは、お腹が痛いと嘘をついて学校を休んでしまったから。
「そう……何かあったら言ってね」
静かな声を残して、遠ざかっていく気配。パタンとリビングのドアが閉まった音が聞こえて、私は布団の中から顔を出した。
窓の外を見てみれば、眩しいばかりの青空が広がっていて、咎められるみたいに胸が苦しくなる。
別に学校に行きなさいって、誰かに強要されたわけじゃない。むしろお母さんは、休みたいなら休んでいいって雰囲気だった。
きっと担任の先生から連絡があって、事情は何となくわかっているんだろう。
それでも、こうして嫌悪感でいっぱいになっているのは、このままじゃダメだと自分自身が思っているから。
逃げたってどうしようもない。それに今は受験に向けた大切な時期。
行かなくちゃ……。
そう思った私は、いつも通りの時間に起きて、一度は制服に腕を通した。でも……。
勉強机の上に置いたスマホ。その電源を入れようとして、入れられなかった。
金曜日。前原くんの最後の登校日。
彼がいじめられていることを先生に話した私は、結局教室に戻ることが出来なかった。
午後からはずっと保健室にいて、先生に荷物を取って来てもらって、みんなより少し早く下校させてもらった。
だから……あれから前原くん以外とは話していないし、会ってもいない。スマホにも誰からの連絡も来なくて、怖くなって電源を落としたのが、金曜日の夜。
電源を入れたとして、やっぱり誰からの連絡もなかったとしたら……。そう考えると指が震えて、ボタンを押すことなんて出来なかった。
そしてそのまま、学校に行く勇気もなくて、休んでしまった。
ベッドからゆっくり起き上がって、勉強机の前に立つ。
電源が落ちたままの、真っ暗な画面のスマホ。
朱里や梨花のことを信じてないわけじゃない。だけど不安にならずにいられないのは、私が一番よく知っているから。
輪の中からはみ出したくない、いじめられたくないという気持ちも。本当に大切に想ってるのに、自分が一番になってしまう瞬間があることも。
もし……もしも朱里と梨花に無視でもされたら、私は本当にひとりになってしまう。
みんなの前で「やめて」と叫び、前原くんを擁護した私。学校に行ったとして想像する光景は、ひとりぼっち。誰にも話しかけられず、でもこっちを見てひそひそと話す声が今にも聞こえそうな気がした。
あの時の自分の行動を後悔しているわけじゃない。
最後に前原くんが笑ってくれたから良かったと思うし、私自身今までのどんな自分よりも好きだと思った。
でも……いざひとりになると思うと、臆病になってしまって。不安で、怖くて、一歩も前に進めない。
「っ……」
結局スマホに触れることもなく、私はまたベッドに倒れ込んだ。
呆れるほど弱い自分が本当に嫌になる。でも、朱里と梨花に嫌われた現実を見たくない。ひとりぼっちになりたくない。
正直な思いは溢れ出して、ごまかすことなんか出来なくて。
「前原くんっ……」
せめて前原くんがいてくれたらいいのに。
どうして転校なんてしちゃうの……。
会いたくて……でももう会えなくて。
私は誰にも傷つけられることのない自分の部屋の中、ぎゅうっと枕を抱きしめた。
──それから、いつの間に眠ってしまったんだろう。
気がつくと部屋の中は薄暗くなっていて、時計を見なくても夕方だとわかった。病気でもないのに一日中寝ていると、さすがに頭がボーっとする。それに朝から何も食べてなくて、お腹も空いてしまった。
そろそろお母さんに顔見せておいた方がいいよね……。
そう思って、リビングへと向かおうとした時。
パタパタと近付いてくる足音が聞こえたと思ったら、コンコンと次には部屋のドアをノックする音。
「実優? お母さんちょっと買い物に行ってくるから」
「あ、うん……」
せっかく部屋を出ようと思ったのに、そのタイミングでお母さんは外出してしまった。
……もうちょっと早く起きれば良かった。
家の中にポツンとひとり。静かなリビングに立って、後悔する。
とりあえず冷蔵庫の中から麦茶を出すと、コップに一杯注いでからソファーに腰掛けた。物音ひとつしない静けさが嫌で、テレビを点けると夕方のニュース。
いつも教室でおしゃべりしたり、梨花に付き合ったりしてるから、学校から帰るのはもう少し遅い時間。こうしてニュース番組をまじまじと見ることはなくて、何だか不思議な感じ。
今ごろふたりはどうしているんだろう。
受験に備えて、運動部はほとんどが引退しており、朱里もこの前引退したから、たぶん梨花と一緒にいる。
私のこと、何て言ってるかな……。
そもそも話題にもなってなかったりして。
こうしている間にもふたりとの距離が開いてく気がして、置いてけぼりになった気分で、胸の奥が苦しくなる。
学校を休んだのは私なのに……本当に勝手だ。
テレビのニュースの内容なんか頭に入ってくるはずもなく、私はソファーに座ったまま両膝を抱えてうつむいた。
ひとりだと嫌なことばかり考えてしまう。
早くお母さん帰ってこないかな……。
まるで子どもみたいにそう思った時だった。
ピンポーンと、突如響いたインターホンの音にビクッとして、顔を上げる。
誰だろう。
お母さんが鍵忘れちゃったとか……?
「……はい」
仕方なくインターホンのボタンを押して出てみた。すると、
『あ、すみません。実優さんの友達の上村と申しますが……』
え……?
聞こえた声、それから名前に耳を疑わずにはいられなかった。
上村っていうのは、朱里の苗字。
何で朱里が……?
予想外の人物に戸惑って、何も返事出来ずにいると、
『……実優?』
聞こえて来たのは、問いかける朱里の声。そして、
『実優なの!? 実優ごめん、お願いだから出て来て!』
今にも泣き出しそうな、梨花の必死な声。
──ピッ!
それを聞いて、私は咄嗟に終了のボタンを押していた。
だって、なんで……。
どうして朱里と梨花が……。
動揺して、ボタンを押したままの手が震えている。
ピンポーン、ピンポーン。
再び家の中に鳴り響くインターホンの音。何の心の準備もしてなくて、今ふたりに会うのは怖くて、このまま出ずにいようかとも思った。でも……。
「実優!」
外から聞こえるふたりの声。今出なきゃ、ふたりに会わなきゃ何もかもがダメになる。
そんな気がして、私は恐る恐る玄関のドアを開けに行った。……すると、
「実優っ!」
私の顔を見るなり、いきなり飛び出して抱きついてきたのは梨花。
「もう何でスマホの電源切ってるわけ!?全然繋がんないしっ……」
言いながら梨花は、ひっくひっくとしゃくり上げて鳴いていて。そして、
「心配したんだよ」
付け足すみたいに言った朱里も、梨花のすぐ後ろで涙ぐんでいた。
「え……」
思いがけないふたりの様子に、私は戸惑わずにはいられない。
何でふたりが泣いているの……?
「ふたりは……私のこと、嫌いになったりしてないの……?」
「はぁ? 何で嫌いになんのよ。……ていうか、こっちが嫌われたと思って心配して……」
泣きながら返事して、ぎゅうっと抱きついた力を更に込める梨花。
「ごめんね。実優の気持ち、わかってあげられなくてごめんね……」
私の肩にそっと触れて、朱里がそう謝ってくれて。
「──っ……」
私はやっと、ふたりが自分のためにここまで来てくれたことを理解した。
「ごめん、本当にごめんねっ……」
「ううん……ううんっ!」
泣いて謝る梨花の声に、必死に首を横に振る。
そんな私の目からも、涙が勢いよく流れ落ちる。
「私の方こそごめん……」
ふたりのこと、最後まで信じきることが出来なかった。
いつもふたりは私のことを考えて、味方してくれていたのに、信じきれなかった。
“もしかしたら”と考えて、逃げてしまった。
だからこうして家まで来て、泣いてくれているふたりの姿を見ると、ほんの少しでも疑ってしまった自分が恥ずかしくて仕方ない。でも……。
「ごめんねっ……」
「ううん、ごめんね」
お互いに“ごめんね”の繰り返し。はたから見たら、何をやっているんだろうと思われるだろう。
だけど私達はそれだけで、お互いを想う気持ちが伝わるようだった。
ひとりぼっちじゃなかった。
朱里と梨花が……大好きな友達が傍にいてくれた。
それが嬉しくて嬉しくて、私の目からは涙が止まらなかった──。
***
「え……前原くんが?」
「うん、わたしと梨花に言ってきたんだよね。実優のことお願い……って」
朱里と梨花にそう教えられたのは、気持ちが落ち着いて、家に上がってもらってからだった。
「あの後さ、実優教室に戻って来なかったでしょ? 結構大変なことになってて、わたし達もどうしたらいいかわからなくて……」
「ね」と、顔を見合わせる朱里と梨花。
聞けば、その日はふたりともあまりに唐突な出来ごとに動揺して、ほとんど会話もなく帰宅しようとしていた。
そこを、前原くんに呼び止められ、自分のことで私を巻き込んで申し訳ないと思っていること。
私は何も悪くないから、どうか変わらず傍にいてあげてほしいということを、ふたりに直接話してくれたらしい。
「そんなの言われなくてもわかってるし!……って言ってやりたかったところなんだけど、本当はちょっと戸惑ってて。前原に言われた後に、やっと実優のこと、ふたりで話したんだよね」
朱里の言葉に、梨花はこくんと頷く。そして出た答えというのが、
「あたし達はやっぱり実優のことが好きだから、ふたりで実優のこと支えようって」
にっこり微笑んで改めて言われた言葉に、胸がじーんと熱くなる。でもすぐに、梨花の表情は何だか物寂しげなものに変わった。
「ひとりだったら正直、どうするべきか迷ってたかもしれない。でも、朱里もいるから大丈夫って思ったの。……ごめんね、あたし達ずるいよね」
そう言うと、
「実優はすごいね」
「ひとりで立ち向かうんだもんね」
梨花と朱里は口を揃えて、私の行動を褒めてくれた。
……違う。違うよ……。
「そんなことない、すごくないよ……。私、ずっと言えなかったもん……」
私もふたりと同じ。迷ってばっかりで、前原くんと仲良くしていたことすら、言うことが出来なかった。
「本当にすごいのは前原くんだよ……」
自分が一番苦しい思いをしているのに、いつも私を気遣ってくれた。そしてそれは本当に最後まで……。
こうして自分がいなくなった後のことまで考えて、行動してくれてるんだもん。
彼の優しさを思うと、また涙が込み上げてくる。
ありがとうって感謝の気持ちを伝えたいのに、そんな小さな願いすらもう叶わない。寂しくて悲しくて、そのまま黙りこんでうつむいてしまった。そんな私に、
「実際のところは……どうだったの?」
聞いてきたのは、梨花。
「どうって?」
「前原のこと。本当に付き合ってなかったの?」
「えっ……」
思いがけない直球な質問に、顔がカァッと熱くなる。
でも、そっか……。まだふたりにちゃんと話していないんだ、私と前原くんのこと。
付き合っていたかといえば、それは……。
「……わかんない。告白はされたけど、そういう具体的な話はしてなかったから。でも……」
今なら言える。やっと素直に言える。
ふたりにずっと打ち明けたくて。
でも言えなかった、私の気持ち。
「私は好き、だよ。前原くんのことが好きだよ……」
言葉にするのははじめてで。恥ずかしくてうつむいた……すると、
「ごめんっ!」
目の前から聞こえた声に、慌てて顔を上げる。見れば、頭を下げていたのは朱里。
「わたしが前原と仲良くするなみたいなこと、言ったからでしょ?」
「そんなこと……」
「そんなこと言ったの!?」
私は否定しようとした。だけど、その声に見事に重なって勝ったのは、梨花の声だった。
「なっ! 梨花だって、前原のこと暗いとかって言ってたじゃん!」
「でも私はそこまで言ってないもん!」
「はあ!? この裏切り者!」
いつの間にか言い合いをはじめたふたりに、キョトンとしていた私だけど、
「ふっ……あははっ」
「ちょっと実優、何で笑うの?」
「ごめんごめん、何かあんまりいつも通りだから……」
たぶん、色々あった後だから。いつもと大して変わらないふたりの様子に、ものすごくホッとした。
でもそんな、笑っていられたのもつかの間。
「もう人がせっかく謝ってんのに。でも、その様子じゃ大丈夫そうだね」
「え……?」
朱里の言葉に首を小さく傾げると、
「連絡取ってるんでしょ?」
当たり前のことみたいに簡単に、そう尋ねられた。
誰とっていうのは、話の流れで言われなくてもわかる。
「……まさかあれから取ってないの?」
少し驚いた様子で言った梨花に、私がこくんと静かに頷くと、
「何やってんの! 連絡先は!? 知らないとかないよね?」
「それは知ってるけど……」
「じゃあ、連絡しなきゃ!」
「スマホは!?」と、私の腕を引いて立ち上がり、ものすごい勢いで部屋を見渡す。
そして机の上に置いていたスマホを見つけると、
「ほら!」
それを手に取って私に差し出した。
「え、今から?」
「当たり前じゃん! このままさよならになっちゃってもいいの!?」
「それは……嫌だけど」
「だったらほら!」
梨花に強く急かされて朱里を見れば、梨花の意見に同意するみたいに頷かれて。
あぁもう恥ずかしいなぁ……。
私は顔を赤くしながら、ずっと入れられなかった電源ボタンを長押しした。
間もなくして立ち上がり表示された画面。そこにはメッセージやSNSの通知、今までの着信などが、ずらっと並んでいた。
パッと見ただけでも目につく名前は、『朱里』『梨花』。
【実優ごめん】
【見たら返事ちょうだい】
少し表示された言葉だけでも、胸に詰まるものがあって。
「ふたりとも……」
ありがとうって、改めて言葉にしようと思ったのに、
「あーはいはい! あたし達のことはいいから!」
照れ隠しの意味もあったのかもしれない。わざと話を逸らすように、前原くんへの連絡を急がせた。
「は、はい……」
こうなってしまったら、もはや梨花の言いなり。でも、いきなり電話をかける勇気はなくて、まずはメッセージを送ってみようとアプリを開く。すると、
「え……」
心配して連絡をくれていたのはふたりだけじゃなかったことを、私はやっと知った。
「なに? どうしたの?」
スマホに目を向けたまま、固まってしまった私。梨花が横から画面を覗きこんできて、便乗するように朱里も立ち上がって、覗きこんで。
「……何だ。心配して損した」
ふたりは声をそろえて、少し呆れた様子でそう言った。でも……。
「良かったじゃん」
ポンポンッと肩を、頭を撫でられる。
私に届いていたのは、前原くんからのメッセージ。その内容は、
【 大丈夫だよ。望月さんはひとりじゃない。良い友達がいるから。また落ち着いたら連絡するね。 】
前原くん……。
「うん、うんっ……!」
私はふたりに、前原くんの言葉に、泣きながら頷いた。
前原くんは全部お見通しだったんだね。
私が学校に行けなくなってしまうことも。
朱里と梨花がいるから大丈夫だってことも……。
ぜんぶ全部わかっていて、心配してメッセージを送ってくれていたんだ。そして……。
「前原って、結構良い男だよね。教室で実優のこと庇ったときとか、意外にもカッコよかったし」
「あれ?好きになっちゃった?」
「んー……少し気になるかも?」
「えっ!?」
つぶやいた梨花に問いかけた朱里。その返事に、私は動揺して大きな声を上げた。
すると梨花はプッと吹き出して、
「冗談ですよー!あたし同級生には興味ないから! 実優はほんとにかわいいなぁ~」
言いながら、私の髪を乱暴にくしゃくしゃっと撫でた。
「もっ!もうっ!」
からかわれて、恥ずかしくて、顔を真っ赤にする。でも、本当にドキッとして焦った。
冗談で良かったと胸を撫で下ろすと、
「これからはちゃんと聞かせてよ?」
肘でツンツンと私の体をつつきながら、梨花が言ってきた。
「これから……?」
「そう、これからコイバナ! いっぱい聞かせてよね!」
「っ……!」
にんまりと笑った梨花に、また思わず顔が赤くなる。
「いいなぁ。これでふたりは彼氏持ちかぁ」
少し寂しそうにつぶやく朱里。
「だから!まだ彼氏じゃないってば!」
私が慌ててそう言うと、
「「まだ?」」
ふたりは声を合わせて、にやりと笑って私を見た。
「ーっ、もうからかわないでっ!」
ぐるんと、ふたりに背を向ける。好きな相手が誰であろうと、私はからかわれてしまう運命らしい。
もうほんと、恥ずかしくて顔から火が出ちゃいそう。だけど……嬉しい。
これからはふたりに、普通に恋の相談が出来ること。そして……。
手の中のスマホをそっと見れば、【また連絡するよ】と書かれたメッセージ。
……また。さよならじゃない。
それは、“これから”があるっていうこと……。
『引っ越すけど、4月には自分だけ戻って来ようと思ってる。そしたら、その時にまた……』
あのとき前原くんが言ってくれた言葉を、信じてもいいってことだよね……。
4月になったら。春に、なったら……。
そう思うと嬉しくて、幸せだと感じた。だから──。
ゆっくりと振り返る。そして、
「私……明日は学校に行くね」
ふたりに向かって、そう微笑んだ。
大丈夫。私はひとりじゃない。朱里と梨花、とても優しくて素敵な友達がいてくれるから。
それを気付かせてくれた前原くん。
今なら、私がいたから学校に来れていたと言ってくれた、前原くんの気持ちがよくわかる。
だからこそ、何も出来なかった自分が悔しくて、後悔ばかりが浮かぶけど……。
過ぎてしまった時間はもう、戻すことなんて出来ない。……だから。私は過去じゃなく、未来に向かって進んでいこうと思う。
笑った私を見て、前原くんが嬉しそうにしてくれたから。
私は、私が笑顔になれる未来に進んでいく。 怖いけど……でも、他でもない自分のために、最初の一歩を踏み出すの。
