「あっ、やっと来た!実優!」
いつもと変わらない朝。開きっぱなしになっていた引き戸から、教室の中へ足を踏み入れると、待ち構えていたように名前を呼ばれた。
「もー、遅刻ギリギリじゃん」
「ごめんごめん。昨日教えてもらったマンガ、アプリで読んでたら、寝るのが遅くなっちゃって……」
言いながらあたしは、肩にかけたカバンを自分の机に置く。
「どうだった?」
「うん、すごく良かった!次は」
いつ更新だっけ?と、親友である朱里に問いかけようとした。だけど、
「……あんたたち、わたしの存在忘れてんじゃないわよ」
机に突っ伏していた上半身を重たげに上げ、不機嫌そうな顔をあたし達に向けた女子。それは、もうひとりの親友である梨花。
ショートカットで背も高く、女子バスケ部のキャプテンをやっている朱里。
梨花はそんな朱里とは対照的に、いかにも『女子してます』って感じの女の子。
長い髪はいつもピンクのシュシュやリボンでまとめられていて、スカートの長さはクラスで1、2を争うくらい短い。
そして、あたし……望月実優。
これと言った取り柄もない、成績も身長も容姿も、どこを取っても平凡な高校三年生。
全くタイプの違うあたし達だけど、高一のとき隣の席だったことをきっかけに朱里と仲良くなって、高二のときに朱里の幼なじみだという梨花と仲良くなった。
そして、ほんの二ヶ月ほど前。
三年生へと進級したあたし達は、幸運にも三人とも同じクラスになれた。
「……な、何があったの?」
いつも身だしなみバッチリの梨花だけど、今日は髪の毛もそのままで、目には薄っすらとくまさえ出来て見える。
理由は何となく予想出来たけど、一応声をかけてみた。すると、
「昨日、彼氏とケンカしたらしいよ」
苦笑しながら答えたのは、朱里。
あたしはそのひと言で、朱里と同じく苦笑いを返した。それを梨花は見逃さない。
「ちょっと!何で実優まで呆れた顔すんの!?」
「や、だって……」
わざわざ言われなくったって分かる。
ケンカの理由は、きっととても些細なことだと。
ちょうど三年生になった頃、梨花に大学生の彼氏が出来たのは良いけれど、それから何度『そんなことでケンカ?』と、言いたくなるような愚痴を聞かされたことか……。
まあ、だいたいは梨花のちょっとしたヤキモチが原因だ。
それを素直に口にしたわけではないけれど、あたしが言わんとしていることは何となく察したようで、
「現実はマンガみたいに甘くないんだからね」
梨花はちょっと拗ねたように呟いた。そして、
「ふたりともマンガとか、恋リアとかばっかり見てないでさぁ……リアルに好きな人とかいないわけ?」
頬杖をついて、ムスッとした表情のまま聞いてきた。
「あー……そういうの、あたしはとりあえずいいやぁ」
「朱里はそう言うと思った!で、実優は?」
「へっ、あたし?」
まるで睨みつけるかのような鋭い目で見られて、思わず言葉を詰まらせる。
好きな人はいない。
でも、気になっている人なら……いなくもない。
そっと視線を動かして、あたしの目に映ったのは、廊下側の一番後ろの席。
そこに座っていたクラスメートは痩せ型にメガネの男子で、物静かに読書をしていた。
「……まさか、前原のことが好きなの?」
「えっ!?」
怪訝そうに探る梨花の声に、あたしはすっとんきょうな声を上げ、少し慌てながら、
「違うよ!そういうわけじゃなくてっ!」
一生懸命、否定しようとした。だけど、
「梨花、違うって。前原じゃなくて……」
横から口を挟んだのは朱里。
梨花と一緒に、クイッと顎で合図した朱里の視線の先を追うと……ちょうどクラスメートの一人が、前原くんの後ろを通って教室に入ってきた所だった。
「はよ!」
「おはよー」
自然と男女の区別もなく、起こる挨拶。
それは彼がとても人気者だから。
「あー……田澤か」
さっき納得のいかない顔をしていた梨花も、何だといった感じで名前を挙げた。
「まぁ、前原のわけないよねぇ……あいつ全然喋んないし。でも、実優が田澤を好きとかちょっと意外」
「うんうん、あたしも。実優ってそんなミーハーなタイプじゃないと思ってたし」
勝手に頷き合って、話をまとめるふたり。
田澤くんは野球部のエースで、顔はいわゆるイケメン。
性格は少しやんちゃで、先生に呼び出されるようなことも何度もしてる。でも、明るく頼もしい性格で、クラスの中心にいつもいる人。
女性関係の噂も絶えなくて、彼のことを好きだとか、他校にファンがいるっていう話まである。
だから、ふたりがそう思うのも無理はないけれど……。
「ちょっと待って。あたし、田澤くんが好きとか言ってないんだけど!」
本人に聞こえちゃまずいから小声で、あたしは力いっぱい否定した。……それなのに。
「はぁ……」
小さなため息をつきながら、担任の先生からの朝の連絡を聞く。いや、耳だけ向けて、頭の中に内容は入って来ていない。
結局、誤解は解けず、あたしは田澤くんのことが好きだと、ふたりに認識されてしまった。
何であのとき目を向けちゃったんだろう……って、違うか。ちゃんと言えなかった自分が悪い。でも、
『前原のわけないよねぇ……あいつ全然喋んないし』
思い出すのは、梨花の言葉。
あんなふうに言われたら、とてもじゃないけど言い出せなかった。
好きなわけじゃないけど、気になっている人がいて。
それがその……前原くんなんだってこと。
田澤くんがいつもクラスの中心にいる人ならば、前原くんはいつもクラスの隅っこにいる人。
席について読書ばかりしていて、女子はおろか男子とだってあまり話している所を見ない。
この学校でもう二年の時を過ごしてきたけれど、一体何人の人が前原翼という、彼のフルネームを答えることが出来るだろうか。
それくらい……影の薄い男子。
だけどあたしには、入学してきたその日から特別な人だった。
高校の入学式。親戚のお姉さんが通っていた憧れの学校に入学出来たのは良いものの、中学時代の友達とは全員離れてしまった。
知らない人ばかりの学校。
緊張しないなんて無理な話で、これから始まる新しい生活に、期待よりも不安の方が圧倒的に大きかった。
どうしよう……。
中学からの友達だろうか、みんな何かしら誰かと喋っていて。教室に足を踏み入れてみたものの、自然と出来上がっているグループに、孤独感と不安は一層大きくなった。
カタカタと震え出す手。
怖くて、自分の席までも歩いていけない。
今すぐ逃げ出したくて……でも、そんな勇気もなくて、立ち尽くしていたときだった。
「……大丈夫?」
背後からかけられた声に、ビクッとしながら振り返ると、立っていたのはメガネをかけた男子。
初めて見る人で、正直戸惑って。目を丸くしたまま、何も言えずにいると……。
「これ、よかったら」
彼はあたしに、あるものを差し出した。
それは、手のひらサイズの小さなカイロ。
「え……」と声を上げながらも、あたしが反射的に受け取ると、
「ずっと震えてたから」
笑うでもなく、微笑むでもなく、彼はあくまで真顔のままそう言って、自分の席へと歩いて行った。
「……」
寒くて震えていたわけじゃないんだけど……。
あたしの手に残されたカイロは、見当違い。
だけど、それはポカポカと、すごく温かくて。
不思議なことに、あたしの表情には自然と笑みが浮かんでいた。震えるくらいの緊張が、少しほぐれた瞬間だった。
その……カイロを渡してくれた男子っていうのが、他でもない前原くん。
それから彼は、あたしにとってちょっとだけ特別な人。
好きっていうのとは少し違うけど、恩人……っていうのかな。
もともと引っ込み思案な性格もあって、タイミングが掴めなくて、『ありがとう』って言うことも出来ずにいるけど……心の奥では、ずっと感謝している。
そんな人だから、自分の親友にあんな風に言われちゃうのは、あまり心地よいものではないんだけど……。
「はぁ」と、もう一度ため息をつく。
周りを気にしちゃって、親友にさえ思っていることが言えない自分は、ずるくて嫌なやつだ。
