「──あと今日は、みんなに話さなきゃならないことがもうひとつあります。前原くんがお父さんの仕事の都合で、引っ越すことになりました」
担任の先生がみんなの前でそう告げたのは、朝のホームルームの終わりがけだった。
まさか彼がいじめられているなんて知らない先生は、先生なりに考えてこのタイミングを選んだんだと思う。突然の報告に小さくどよめいた教室内に経緯を説明したあと、
「最後に前原くんとの思い出を沢山作って下さい」
と、言ったから。
でも、出来たなら最後の最後、帰りのホームルームにしてほしかったと思った。だって……。
「前原くーん、転校するとか聞いてないんですけどー」
何となく予想していた通り。ホームルームが終わって先生が教室から去ると、前原くんに絡んでいく男子の姿があった。
「めっちゃ寂しいじゃんー」
嫌でも耳に入ってくる声を聞きながら、『嘘つき』って下唇を噛む。それから、もう前原くんに関わらないでよ……と。
せめて最後くらい、穏やかに過ごして欲しい。
だけどそんな私の願いも叶わず、転校を知ったからか、いつもより多く、休憩の度に前原くんは絡まれていて。
そして……事件が起こったのは、昼休憩のことだった。
「あーもうマジうぜー」
ガラッと勢いよく開けられたドアの音と、荒々しい声。
いつものように朱里と梨花とお弁当を食べていた私だけど、ビクッとして振り返った。
すると教室に入ってきたのは、田澤くんを含む野球部の男子3人。休憩中だというのに、3人とも面白くなさそうな顔。
「メシ食う時間、もうほとんど残ってねーじゃん」
その中のひとりが、舌打ちをしながらそう言い放ち、しんと静まりかえる教室内。
3人がこうなってしまった理由は、クラスの全員が知っている。
四時限目の授業の途中。教材を忘れた先生が、職員室へといったん戻った。その時にみんな雑談し始めて、ざわざわとうるさくなって……。
中でも騒いでいたのが、この3人。
そして……先生が戻ってきたときというのが、前原くんのノートを取り上げて、ちょうど冷やかしているときだった。
もちろん3人はその場で怒られたけど、それだけじゃなく授業後に職員室まで来るようにと言われていた。……つまり、お説教は今の今まで続いていたということ。
怒られて自業自得だよ。いい気味だ……なんて、心の中で少し思っていたけど、戻ってきた3人の表情を見て、ゾッと嫌な予感がした。
「……誰のせいだろうな」
ボソッと言ったのは田澤くん。
名前こそ出していないけど、視線の先……教室に入ってきたばかりの3人の前には前原くんがいた。
嫌な予感が確信へと変わって、箸を持つ私の手が小さく震える。
……ううん、私だけじゃない。たぶんクラスのみんな、これから起こることを予感していた。だから、静まり返っていた。
視線だけを向けたあと、田澤くんはスッと前原くんの後ろを通り過ぎ、
「前原くーん……」
名前を呼んだのは、残った男子のうちのひとり。そのままゆっくりと前原くんの真後ろに立つと、
「お前のせいで怒られてたのに、何で呑気に弁当なんか食ってるのかなぁ?」
前原くんの胸ぐらを掴んで、ガタンッ!と大きな音を立て、無理矢理立たせていた。そして、
「勉強しか出来ねぇネクラなくせに、ちょーしこいてんじゃねぇよ!」
大きな罵声と一緒に、前に突き飛ばされた前原くんの体。
思わず私は目を閉じた。その瞬間だった。
ガッ!と、鈍い音が聞こえて。
「きゃあっ!」
女子の悲鳴が響いた。
恐る恐る目を開く。すると私の目に飛び込んできた光景は、 頭を押さえて倒れた、前原くんの姿だった。
でも、それだけじゃない。
「ーっ……」
顔を歪め、押さえた指の隙間からは……真っ赤な血が流れているのが見えた。
「ひっ!」
「え、あっ、ちょっと!」
出血していることに気付いた女子たちが、次々に怯えた、焦った声を上げる。
「あ……」
突き飛ばした張本人も、さすがにヤバいって顔をしていた。だけど──。
「ちょっと押したくらいでこけんなよ」
え……?
もうひとりの男子が言った言葉に、耳を疑った。
ちょっと押したくらい……?
いや、そんな力の入れ方じゃなかったじゃん。
それに前原くん血が……ケガしてるのに。
「ほんとそれ。勉強のしすぎで足腰弱ってんじゃねーの?」
さっきまで焦った表情を浮かべていた男子も、まるで前原くんがちょっとこけたみたいに、はははと軽く笑う。
何でよ。待ってよ。
みんなどうして何も言わないの……?
ゆっくりと上半身を起こす前原くん。
メガネは落ち、苦痛に顔を歪めたままなのに、みんな様子をうかがうだけで、手を差し出そうとする人は誰もいない。
そのとき、前原くんの腕をつたって、教室の白い床に赤い血が一滴落ちた。
濃い赤のその色は、昨日見た自分の血と同じ。
すりむいた私の膝を手当てしてくれたのは、前原くん。その後も家まで送ってくれて、何度も「大丈夫?」って言葉をかけてくれた。すごくすごく心配してくれた。
そんな誰よりも優しい人なのに、どうして……。
どうして前原くんがこんな目に遭わなきゃいけないの……?
みんなケガをすれば、赤い血が流れる。
男でも女でも、生きていればみんな一緒。
この人たちは自分の家族や友達、好きな人がケガをしたとき、笑うんだろうか。
痛みに顔を歪める姿を見ているだけなんだろうか。
……違う、違うでしょ。
私だって……違う!!
「もうやめてっ! いい加減にしてよ!!」
私は自分が出せる精一杯の声で、そう叫んでいた。
昨日、前原くんからの置き手紙を読んだとき、自殺するんじゃないかと不安になったのは、私がいじめられている立場だったら、自殺を考えてしまうかもしれないと思ったから。
つまり、それだけ酷いことをされていると知りながら、私は見ているだけだった。
前原くんのことが好きなのに、ギリギリになるその直前まで、見ているだけだった。自分に危害が加わらないところで、見ているだけだった──。
前原くんに謝罪しても、嫌われていないことを知っても、モヤモヤした気持ちのままだったのは……根本的に自分が何も変わっていなかったから。
周りの目を気にして本当のことが言えない、自分の大嫌いな部分がそのままだったから、ずっとモヤモヤしていたんだ。
「み、実優……」
「望月……?」
目の前の朱里たち、前原くんをいじめていた男子、クラスメートのみんなが目を丸くして私を見る。
無理もない。誰も何も言えない空気の中、いきなり叫んで立ち上がって、ボロボロと涙を流しているんだもん。
だけど後悔はしていない。
だって、間違ったことはしていないから。
今度こそちゃんと本当の気持ちを言っているから。
止めどなく流れる涙でよく見えない。だけど頭を押さえたままの前原くんの顔が、戸惑っているのだけわかった。
「ごめんね……」
今さらもう遅いよね。
もっと早くに声を上げるべきだった。
本当に本当にごめんなさい。
聞こえるか聞こえないかの声で謝った私は、震える下唇をぎゅっと噛む。すると、
「……は、なに? お前らがデキてるってあの噂、やっぱマジだったの?」
沈黙を破ったのは、前原くんを怪我させた男子。
「こんな根暗のどこがいいの? 望月さん、趣味悪すぎじゃね?」
ジリ……と、一歩近付いてきた男子に、私は反射的に後ずさる。
私に、女子に危害を加えるとは思わないけど、前原くんを怪我させた人。怖くないと言ったら、それは嘘で……。
「望月さんさぁ……っ!?」
ガンッ!!
馬鹿にするような目で、私に何かを言おうとした瞬間、男子の身体は近くにあった机に勢いよくぶつかった。
その胸ぐらを掴んでいたのは、前原くん。
「望月さんに近寄んな」
ギッと鋭く睨みつける前原くんに、男子は少し怯んだように顔を青くする。だけどすぐに、
「は……調子乗んなよ!!」
男子は前原くんのお腹を蹴り上げて、前原くんは後方に倒れた。
「っ……」
お腹に手を当て、痛みに顔を歪めながらも、男子を睨みつける前原くん。
「なに?お前やんの?」
ニヤニヤと笑う男子の後ろには、いつの間にか他の男子も立っていて……その更に後ろに冷めた目で、前原くんを見下ろす田澤くんの姿があった。
だ、だめ……このままじゃ。
前原くん怪我してるのに!
そうこうしている間にも、額の方からは血が流れていて、床には擦れた血の跡。これ以上はダメだと、前原くんの前へと飛び出そうとした時だった。
「おい、何やってる!!」
ガラッと開けられた引き戸から現れたのは、先生。
「前原っ!?どうした!?」
ただならぬ教室の雰囲気に、一瞬先生は顔をしかめるけど、すぐに怪我をして倒れている前原くんに気付いてくれた。
先生の登場と、前原くんに駆け寄るその姿にホッとして、私は全身の力が抜けそうになった。
良かった……と、安堵したのもつかの間。
「違うんです、先生。こいつが先に喧嘩ふっかけてきて……ちょっとど突いたら転んじゃって」
悪びれる様子もなく告げられた言葉に、頭の中が真っ白になる。
え……今、なんて言った?
前原くんが先に喧嘩ふっかけた……?
怒りでふるふると、ぎゅっと力を込めた拳が震える。
「俺もこいつに胸ぐら掴まれて──」
「違いますっ!」
もう我慢ならなかった。私は大きく叫ぶように男子の言葉を遮った。
もうこれ以上前原くんを傷つけないで。
もう、やめて──。
「先生、違います。私が全部話します」
