「望月さん、ちょっと来てくれる?」
帰りのホームルームが終わって、やっと帰れるとホッとした私に、声をかけて来たのは担任の先生だった。
「あ、はい……」
言われるがまま席を立ち、先生の後を追って教室を出る。
何だろう……。もしかして、クラス内で噂になっていることが、先生の耳にも入っちゃったんじゃないか。
そんなことを考えて、少しドキドキしていた。……でも。
「いきなりごめんね」
職員室に入った先生は、自分の席の椅子に腰かけ、口を開いた。
「望月さん、前原くんと一緒に朝、図書室で勉強してるんだって?」
「えっ?」
「上野先生から聞いたの」
上野先生は現代文の先生で、図書委員の担当。前原くんとの勉強は誰にも言ってなかったはずなのにと、一瞬ドキッとしたけど、毎朝鍵を貸してくれるのは上野先生で、すぐに経緯を納得した。
「それでね……」
先生は一旦私から目を離し、手にしていたプリントの束をペラペラとめくる。それはさっきのホームルームで集めた、進路希望調査用紙。
……と、いうことは。
体の前で重ねていた手を、ぎゅっと握る。
たぶんこれから怒られるんだ……。だって、前原くんの志望校はとんでもなく偏差値の高いところ。
合格出来たらかなりすごいことだし、先生が応援しないわけがなくて、『邪魔しないであげて』って、言われるんだと思った。
そしてそれは、私自身も少し心配していたことで、反論出来ないっていうか、怒られちゃっても仕方ないと思った。ところが、先生が私の前に差し出したのは、前原くんの進路希望調査表ではなく、自分のもの。
最も、他人の進路希望を軽々しく見せることはしないと思うけど……でも。
「望月さんの進路は、本当にこれでいいの?」
「え……」
先生の問いかけは予想もしなかったもので、私は思わず目を丸くした。
「いや、だって勉強してるんでしょう? てっきり少し上を目指すんだと思ってたんだけど……」
そう言って先生が目を向けたプリントには、それほど努力しなくても入れるだろう短大の名前。
卒業後、特にやりたいことが見つかってない私は、とりあえずといった感じで梨花と同じ短大を希望していた。
「望月さんは英語がなぁ……って、先生も思ってたんだけど、今日の休み明けテスト、よく出来てた。このまま頑張れば、もう少し上も目指せると思うの」
ペラッと小さな音を立てて、先生はプリントを再度私の前に差し出した。
「もう一回、考えてみてくれる?」
***
「……」
返却されたばかりのプリント。それを見ながら教室へと戻るため、私は廊下を歩いていた。
まさか自分の進路のことを言われるとは、思ってもみなかった。しかも、もう少し上を目指したら、なんて。
すごいな……前原くんは。
正直言うと、今日の休み明けテストでは、私自身も手応えを感じていた。田澤くんのことや渡辺さんのことで、100%集中することは出来なかったけど……それでも、以前とは比にならないくらい、スラスラと問題が解けた。
それは、間違いなく前原くんのおかげ。夏休み前から今日まで、前原くんが教えてくれたから……。
学校が始まって今日1日。あまり良いことがなく、むしろ悪いことばかりで、すっかり落ち込んでいたけど、最後の最後で良いことが起きた。
先生に褒められたこと、もう少し上を目指そうと言われたこと、早く前原くんに伝えたい。
早く“ありがとう”が言いたくて、私は足を急がせた。なのに──。
「だから! 変な言いがかりはやめてってば!」
私が教室に戻ると、怒った様子で張り上げた声が響いた。
「言いがかりじゃない! さっき先生が話してたの、ちゃんとこの耳で聞いたんだから!」
部活に行ったり、もう既に帰ったりで、人数の減った教室。その中心で言い合いをしていたのは梨花と、クラスメートの女子。
梨花の隣には朱里もいて、クラスメートの女子の隣には、渡辺さんの姿もあった。それだけで、嫌な予感は充分した。
「あ……」
私の姿に気付くなり、梨花が小さく声を上げて、予感は確信へと変わりかける。
「……どうしたの?」
今さら逃げるわけにもいかなくて、私は震えそうになる声を絞り出した。すると、
「ごめん、実優……」
申し訳なさそうに謝ってきた梨花。そして、
「前原と実優が付き合ってるんじゃないかとか、変なこと言ってくるから……」
渡辺さん達を睨み付けるようにして、そう続けた。
「えっ……」
ドキッと鼓動が跳ねる。何で……って思ったときには、クラスメートが既に口を開いていた。
「さっき先生と話してるの聞いたよ。あいつと毎朝勉強してるんでしょ?」
私に向けられた冷たい目。
「勉強とか言って、ホントは違うことしてたりして」
「やだ、あの前原と?」
渡辺さんの周りで、クスクスと馬鹿にするような笑い声が起こる。
「だからいい加減なこと言うのやめなって」
「そうよ!」
私を庇って、声を荒げる朱里と梨花。
どうしてこんなことに……。
戸惑うばかりで立ち尽くす私に、
「じゃあ、どうしてあいつと勉強なんかしてたの?」
質問を投げかけてきたのは渡辺さん。
「望月さん、本当は前原と付き合ってるんじゃないの……?」
そう問いかける口元は笑っていた。
渡辺さんが好きなのは田澤くんで、私が前原くんと付き合っていようがいまいが、関係ないはず。むしろ、単純に考えれば付き合っている方が、都合がいいはずだ。
でも……そんなのもう関係ないんだって、渡辺さんの表情を見て分かった。
“田澤くんに告白された”
それだけでもう、私は彼女に嫌われてしまっていて。
ただ単に私を困らせ、傷付けたいだけなんだ……。
「黙ってないで何とか言ったら?」
両腕を組んで威圧的な渡辺さんの声が、教室に響く。
「前原と付き合ってるわけないじゃん! ね、実優」
そう言って、私の腕をぎゅっと抱きしめたのは梨花。
疑うことなく私を真っすぐ見る、ふたりの眼差しが突き刺さる。
……言わなくちゃ、本当のこと。
朝、前原くんと勉強していることも、付き合っていることも、渡辺さん達が言っていることは……全部真実なんだって。
「わ、私は……」
腕を抱きしめる梨花の手に、空いた片方の手でそっと触れ、私は本当のことを言おうとした。……でも。
真実を言ったら、ふたりはどんなを顔するだろう。
だって目の前のふたりは、私が前原くんと付き合っているだなんて、きっと少しも思っていない。
だからこうして、渡辺さん達に言い返してくれているわけで……。
もし、私が本当に前原くんと付き合ってるって言ったら……?
間違いなく、今のふたりの立場はなくなる。
そしたら、ふたりは私のことをどう思うんだろう。
本当のことを言ったら、ふたりは……。
「実優?」
一度口を開きながら、なかなか続きを言おうとしない私に、朱里が声をかける。
……私ね、前原くんのことが好きなんだ。
ずっとずっと言えなかったけど、今日こそ朱里と梨花にはちゃんと言おうって決めた。親友のふたりには言おうと思った。だけど……。
思い出したのは今日1日、渡辺さんの友達を中心に無視されたこと。
……怖かった。まるでいじめられているようで、ちょっとしたことがすごく怖かった。
それでも、何とか笑顔で過ごせたのは、朱里と梨花がいたから。ふたりがそばにいてくれて、味方してくれたから、大丈夫だった。
今も、こうして庇ってくれて、すごくすごく嬉しい。
私はふたりを失いたくない。
ひとりぼっちにはなりたくない。
いじめられたくない。
私は──。
「……うん、付き合ってない。前原くんと付き合ったりしてないよ」
自分で最低だと思った。言いながら胸の奥が鋭くズキンと痛んだ。それなのに、
「ほら、やっぱり!」
顔をパッと明るくして、勝ち誇ったように渡辺さん達を見る梨花。朱里もまた同じで、そんなふたりの様子に心の底からホッとする自分がいた。
「っ、じゃあ何で一緒に勉強なんかしてたのよ!?」
渡辺さんの隣に立ったクラスメートが、焦ったように声を上げる。
「それは……」
嘘をつくのにいっぱいいっぱいで、そこまで考えていなかった私。咄嗟には何も浮かんでこなくて、口ごもりかけた……その時だった。
「先生に頼まれただけだよ」
静まり返った教室に響いた声。聞き覚えのありすぎる声にビクッとして、振り返ると、教室の引き戸の前に立っていたのは、前原くんだった。
なん……で……。
まるで石のように固まる体。目を見開いたまま、立ち尽くすばかりの私と目を合わせたあと、前原くんはすぐにパッと顔を逸らして。
「英語、苦手だから教えるようにって、先生に頼まれたんだ」
言いながら、目の前の自分の机から鞄を持ち上げた。
「は、何それ。先生に言われたからって、前原とふたりで勉強してたの? きっも!」
「頼まれたからってさぁ、前原と一緒に勉強しようと思う?」
背後から聞こえる罵声と、クスクスと響く嘲笑。
や……やめて。
言い返すことも前原くんの顔を見ることも出来なくて、私はぎゅっと目を閉じた。すると、
「望月さんは、あんた達と違って優しいから」
静かに、でも真っすぐ聞こえた前原くんの声。
え……。
驚いた私が目を開けると、
「は?」
明らかに苛立った声が、後ろから聞こえて。
「前原のくせに何言ってんの?」
一歩、こっちへと近付く気配。
ただならぬ雰囲気に、どうしようと焦った次の瞬間。
「……何やってんの?」
前原くんの立つ方とは反対側から、声をかけてきたのは、田澤くん。
教室にいた誰もが、まさかの人物の姿にびっくりした。だけど、一番動揺したのはきっと渡辺さんだった。
「今日ミーティングあるって言ってなかったっけ?」
田澤くんに冷やかな声で言われた渡辺さんは、「あっ!」と声を上げ、
「みんな待ってる」
「ご、ごめんっ!」
慌てた様子で私達に背を向けた。
助かった……と、言っていいのかわからない。現れた人が人なだけに、広がるのは複雑な気持ちばかり。それに……。
チラッと向けられた田澤くんの視線に、気付きながら私はわざと目を逸らした。すると、急いでいたのもあったんだろう。
そのまま何も言わずに田澤くんは出て行き、彼を追いかけるように、渡辺さんも教室を後にした。そして、
「あ、ちょっと! 菜々子!」
何だか取り残されてしまったといった、渡辺さんの友達たち。
「……っ」
グループのリーダーを失った彼女らは、とってもバツの悪そうな表情を浮かべ、「行こう」と逃げるようにまた教室から出て行った。
「……」
さっきまでの騒動が、まるで嘘のように突然静まり返る教室。残ったのは、私と朱里と梨花。それから、前原くん。
苦手な人たちはみんな目の前からいなくなったのに、残ったのは大好きな人たちなのに、全く心は休まらない。
それどころか、バクバクと強く脈打つ鼓動。居心地がすごく悪くて、吐いてしまいそうな気持ち悪ささえも感じる。
その理由は、自分が一番わかってる。
うそを……ついた。
前原くんと付き合ってなんかいないって、はっきりと言ってしまった。それを、前原くん本人に聞かれてしまった。
……違うの。
前原くんのことを好きな気持ちは本当なの。
それなのにウソをついてしまったのは、朱里達を、友達を失いたくなくて。だから……。
ほんの十数秒。頭の中ではぐるぐると、彼に対する言い訳を必死に考えていた。だけど──。
「実優、大丈夫?」
そっと肩に触れてきた梨花。 本来ならホッとするところなはずなのに、私はドキッとして肩を振るわせた。
そんな私の様子に、キョトンとした梨花の目がゆっくりと動く。視線が向けられようとした先は、前原くん。
「あ……」
何か勘ぐられた気がして、私は咄嗟に言葉を探した。でも、
「望月さん」
教室に響いた前原くんの声。
「迷惑かけて、ごめん」
優しく……微笑むようにそう言い残して、前原くんは教室を出て行った。
三人だけになった教室。
「……前原って、言うときは言うんだね」
ポツリ、呟くみたいに言ったのは朱里。
「思ったよりいい奴じゃん……」
続けて梨花が言う。
……そう、そうだよ。前原くんはいい人。
みんなが思っているより優しくて強くて、ずっとずっと素敵な人だよ。
私が一番知ってる。私が一番近くでみていた。それなのに──。
なんてことを私はしてしまったんだろう。
ふたりの言葉に頷くことすら出来ない。
前原くんは自分のことなんてかえりみず、私を庇ってくれたのに、私は……私は──。
「実優?」
隣に立った梨花が、声をかける。
『朱里たちにはちゃんと言う……言わせて!』
今朝の、図書室での自分の発言が頭の中で響いて。
その言葉に微笑んだ、前原くんの表情が思い浮かんで。
『迷惑かけて、ごめん』
さっきの前原くんの言葉。
私は込み上げ溢れそうになる声を堪えて、ぎゅっと下唇を噛んだ。
だって、こんなの卑怯だ。一番最低な嘘をついて裏切った。
そんな私に、泣く資格なんかないのに──。
帰りのホームルームが終わって、やっと帰れるとホッとした私に、声をかけて来たのは担任の先生だった。
「あ、はい……」
言われるがまま席を立ち、先生の後を追って教室を出る。
何だろう……。もしかして、クラス内で噂になっていることが、先生の耳にも入っちゃったんじゃないか。
そんなことを考えて、少しドキドキしていた。……でも。
「いきなりごめんね」
職員室に入った先生は、自分の席の椅子に腰かけ、口を開いた。
「望月さん、前原くんと一緒に朝、図書室で勉強してるんだって?」
「えっ?」
「上野先生から聞いたの」
上野先生は現代文の先生で、図書委員の担当。前原くんとの勉強は誰にも言ってなかったはずなのにと、一瞬ドキッとしたけど、毎朝鍵を貸してくれるのは上野先生で、すぐに経緯を納得した。
「それでね……」
先生は一旦私から目を離し、手にしていたプリントの束をペラペラとめくる。それはさっきのホームルームで集めた、進路希望調査用紙。
……と、いうことは。
体の前で重ねていた手を、ぎゅっと握る。
たぶんこれから怒られるんだ……。だって、前原くんの志望校はとんでもなく偏差値の高いところ。
合格出来たらかなりすごいことだし、先生が応援しないわけがなくて、『邪魔しないであげて』って、言われるんだと思った。
そしてそれは、私自身も少し心配していたことで、反論出来ないっていうか、怒られちゃっても仕方ないと思った。ところが、先生が私の前に差し出したのは、前原くんの進路希望調査表ではなく、自分のもの。
最も、他人の進路希望を軽々しく見せることはしないと思うけど……でも。
「望月さんの進路は、本当にこれでいいの?」
「え……」
先生の問いかけは予想もしなかったもので、私は思わず目を丸くした。
「いや、だって勉強してるんでしょう? てっきり少し上を目指すんだと思ってたんだけど……」
そう言って先生が目を向けたプリントには、それほど努力しなくても入れるだろう短大の名前。
卒業後、特にやりたいことが見つかってない私は、とりあえずといった感じで梨花と同じ短大を希望していた。
「望月さんは英語がなぁ……って、先生も思ってたんだけど、今日の休み明けテスト、よく出来てた。このまま頑張れば、もう少し上も目指せると思うの」
ペラッと小さな音を立てて、先生はプリントを再度私の前に差し出した。
「もう一回、考えてみてくれる?」
***
「……」
返却されたばかりのプリント。それを見ながら教室へと戻るため、私は廊下を歩いていた。
まさか自分の進路のことを言われるとは、思ってもみなかった。しかも、もう少し上を目指したら、なんて。
すごいな……前原くんは。
正直言うと、今日の休み明けテストでは、私自身も手応えを感じていた。田澤くんのことや渡辺さんのことで、100%集中することは出来なかったけど……それでも、以前とは比にならないくらい、スラスラと問題が解けた。
それは、間違いなく前原くんのおかげ。夏休み前から今日まで、前原くんが教えてくれたから……。
学校が始まって今日1日。あまり良いことがなく、むしろ悪いことばかりで、すっかり落ち込んでいたけど、最後の最後で良いことが起きた。
先生に褒められたこと、もう少し上を目指そうと言われたこと、早く前原くんに伝えたい。
早く“ありがとう”が言いたくて、私は足を急がせた。なのに──。
「だから! 変な言いがかりはやめてってば!」
私が教室に戻ると、怒った様子で張り上げた声が響いた。
「言いがかりじゃない! さっき先生が話してたの、ちゃんとこの耳で聞いたんだから!」
部活に行ったり、もう既に帰ったりで、人数の減った教室。その中心で言い合いをしていたのは梨花と、クラスメートの女子。
梨花の隣には朱里もいて、クラスメートの女子の隣には、渡辺さんの姿もあった。それだけで、嫌な予感は充分した。
「あ……」
私の姿に気付くなり、梨花が小さく声を上げて、予感は確信へと変わりかける。
「……どうしたの?」
今さら逃げるわけにもいかなくて、私は震えそうになる声を絞り出した。すると、
「ごめん、実優……」
申し訳なさそうに謝ってきた梨花。そして、
「前原と実優が付き合ってるんじゃないかとか、変なこと言ってくるから……」
渡辺さん達を睨み付けるようにして、そう続けた。
「えっ……」
ドキッと鼓動が跳ねる。何で……って思ったときには、クラスメートが既に口を開いていた。
「さっき先生と話してるの聞いたよ。あいつと毎朝勉強してるんでしょ?」
私に向けられた冷たい目。
「勉強とか言って、ホントは違うことしてたりして」
「やだ、あの前原と?」
渡辺さんの周りで、クスクスと馬鹿にするような笑い声が起こる。
「だからいい加減なこと言うのやめなって」
「そうよ!」
私を庇って、声を荒げる朱里と梨花。
どうしてこんなことに……。
戸惑うばかりで立ち尽くす私に、
「じゃあ、どうしてあいつと勉強なんかしてたの?」
質問を投げかけてきたのは渡辺さん。
「望月さん、本当は前原と付き合ってるんじゃないの……?」
そう問いかける口元は笑っていた。
渡辺さんが好きなのは田澤くんで、私が前原くんと付き合っていようがいまいが、関係ないはず。むしろ、単純に考えれば付き合っている方が、都合がいいはずだ。
でも……そんなのもう関係ないんだって、渡辺さんの表情を見て分かった。
“田澤くんに告白された”
それだけでもう、私は彼女に嫌われてしまっていて。
ただ単に私を困らせ、傷付けたいだけなんだ……。
「黙ってないで何とか言ったら?」
両腕を組んで威圧的な渡辺さんの声が、教室に響く。
「前原と付き合ってるわけないじゃん! ね、実優」
そう言って、私の腕をぎゅっと抱きしめたのは梨花。
疑うことなく私を真っすぐ見る、ふたりの眼差しが突き刺さる。
……言わなくちゃ、本当のこと。
朝、前原くんと勉強していることも、付き合っていることも、渡辺さん達が言っていることは……全部真実なんだって。
「わ、私は……」
腕を抱きしめる梨花の手に、空いた片方の手でそっと触れ、私は本当のことを言おうとした。……でも。
真実を言ったら、ふたりはどんなを顔するだろう。
だって目の前のふたりは、私が前原くんと付き合っているだなんて、きっと少しも思っていない。
だからこうして、渡辺さん達に言い返してくれているわけで……。
もし、私が本当に前原くんと付き合ってるって言ったら……?
間違いなく、今のふたりの立場はなくなる。
そしたら、ふたりは私のことをどう思うんだろう。
本当のことを言ったら、ふたりは……。
「実優?」
一度口を開きながら、なかなか続きを言おうとしない私に、朱里が声をかける。
……私ね、前原くんのことが好きなんだ。
ずっとずっと言えなかったけど、今日こそ朱里と梨花にはちゃんと言おうって決めた。親友のふたりには言おうと思った。だけど……。
思い出したのは今日1日、渡辺さんの友達を中心に無視されたこと。
……怖かった。まるでいじめられているようで、ちょっとしたことがすごく怖かった。
それでも、何とか笑顔で過ごせたのは、朱里と梨花がいたから。ふたりがそばにいてくれて、味方してくれたから、大丈夫だった。
今も、こうして庇ってくれて、すごくすごく嬉しい。
私はふたりを失いたくない。
ひとりぼっちにはなりたくない。
いじめられたくない。
私は──。
「……うん、付き合ってない。前原くんと付き合ったりしてないよ」
自分で最低だと思った。言いながら胸の奥が鋭くズキンと痛んだ。それなのに、
「ほら、やっぱり!」
顔をパッと明るくして、勝ち誇ったように渡辺さん達を見る梨花。朱里もまた同じで、そんなふたりの様子に心の底からホッとする自分がいた。
「っ、じゃあ何で一緒に勉強なんかしてたのよ!?」
渡辺さんの隣に立ったクラスメートが、焦ったように声を上げる。
「それは……」
嘘をつくのにいっぱいいっぱいで、そこまで考えていなかった私。咄嗟には何も浮かんでこなくて、口ごもりかけた……その時だった。
「先生に頼まれただけだよ」
静まり返った教室に響いた声。聞き覚えのありすぎる声にビクッとして、振り返ると、教室の引き戸の前に立っていたのは、前原くんだった。
なん……で……。
まるで石のように固まる体。目を見開いたまま、立ち尽くすばかりの私と目を合わせたあと、前原くんはすぐにパッと顔を逸らして。
「英語、苦手だから教えるようにって、先生に頼まれたんだ」
言いながら、目の前の自分の机から鞄を持ち上げた。
「は、何それ。先生に言われたからって、前原とふたりで勉強してたの? きっも!」
「頼まれたからってさぁ、前原と一緒に勉強しようと思う?」
背後から聞こえる罵声と、クスクスと響く嘲笑。
や……やめて。
言い返すことも前原くんの顔を見ることも出来なくて、私はぎゅっと目を閉じた。すると、
「望月さんは、あんた達と違って優しいから」
静かに、でも真っすぐ聞こえた前原くんの声。
え……。
驚いた私が目を開けると、
「は?」
明らかに苛立った声が、後ろから聞こえて。
「前原のくせに何言ってんの?」
一歩、こっちへと近付く気配。
ただならぬ雰囲気に、どうしようと焦った次の瞬間。
「……何やってんの?」
前原くんの立つ方とは反対側から、声をかけてきたのは、田澤くん。
教室にいた誰もが、まさかの人物の姿にびっくりした。だけど、一番動揺したのはきっと渡辺さんだった。
「今日ミーティングあるって言ってなかったっけ?」
田澤くんに冷やかな声で言われた渡辺さんは、「あっ!」と声を上げ、
「みんな待ってる」
「ご、ごめんっ!」
慌てた様子で私達に背を向けた。
助かった……と、言っていいのかわからない。現れた人が人なだけに、広がるのは複雑な気持ちばかり。それに……。
チラッと向けられた田澤くんの視線に、気付きながら私はわざと目を逸らした。すると、急いでいたのもあったんだろう。
そのまま何も言わずに田澤くんは出て行き、彼を追いかけるように、渡辺さんも教室を後にした。そして、
「あ、ちょっと! 菜々子!」
何だか取り残されてしまったといった、渡辺さんの友達たち。
「……っ」
グループのリーダーを失った彼女らは、とってもバツの悪そうな表情を浮かべ、「行こう」と逃げるようにまた教室から出て行った。
「……」
さっきまでの騒動が、まるで嘘のように突然静まり返る教室。残ったのは、私と朱里と梨花。それから、前原くん。
苦手な人たちはみんな目の前からいなくなったのに、残ったのは大好きな人たちなのに、全く心は休まらない。
それどころか、バクバクと強く脈打つ鼓動。居心地がすごく悪くて、吐いてしまいそうな気持ち悪ささえも感じる。
その理由は、自分が一番わかってる。
うそを……ついた。
前原くんと付き合ってなんかいないって、はっきりと言ってしまった。それを、前原くん本人に聞かれてしまった。
……違うの。
前原くんのことを好きな気持ちは本当なの。
それなのにウソをついてしまったのは、朱里達を、友達を失いたくなくて。だから……。
ほんの十数秒。頭の中ではぐるぐると、彼に対する言い訳を必死に考えていた。だけど──。
「実優、大丈夫?」
そっと肩に触れてきた梨花。 本来ならホッとするところなはずなのに、私はドキッとして肩を振るわせた。
そんな私の様子に、キョトンとした梨花の目がゆっくりと動く。視線が向けられようとした先は、前原くん。
「あ……」
何か勘ぐられた気がして、私は咄嗟に言葉を探した。でも、
「望月さん」
教室に響いた前原くんの声。
「迷惑かけて、ごめん」
優しく……微笑むようにそう言い残して、前原くんは教室を出て行った。
三人だけになった教室。
「……前原って、言うときは言うんだね」
ポツリ、呟くみたいに言ったのは朱里。
「思ったよりいい奴じゃん……」
続けて梨花が言う。
……そう、そうだよ。前原くんはいい人。
みんなが思っているより優しくて強くて、ずっとずっと素敵な人だよ。
私が一番知ってる。私が一番近くでみていた。それなのに──。
なんてことを私はしてしまったんだろう。
ふたりの言葉に頷くことすら出来ない。
前原くんは自分のことなんてかえりみず、私を庇ってくれたのに、私は……私は──。
「実優?」
隣に立った梨花が、声をかける。
『朱里たちにはちゃんと言う……言わせて!』
今朝の、図書室での自分の発言が頭の中で響いて。
その言葉に微笑んだ、前原くんの表情が思い浮かんで。
『迷惑かけて、ごめん』
さっきの前原くんの言葉。
私は込み上げ溢れそうになる声を堪えて、ぎゅっと下唇を噛んだ。
だって、こんなの卑怯だ。一番最低な嘘をついて裏切った。
そんな私に、泣く資格なんかないのに──。
