カタンと鍵を開けて、教室よりも古びた引き戸をカラカラと開き、私達が入ったのは図書室。少しホコリっぽい気もする、本特有の独特な匂いのする空間。
だけど早朝のそこは、夏だというのに空気がひんやりとしている気がして、気持ち良い。
「でもよく鍵貸してもらえたね」
言いながら振り返る私の後に入って引き戸を閉めたのは……前原くん。
放課後、涙を流しながら前原くんに謝ったあの日。あれから私達は少し話をすることが出来た。
その時に、朝はいつもどこにいるのか……っていう話になって、今朝に至るのだけど。
「あぁ……勉強したいからって言って、貸してもらってるんだ」
木造の長机の上にカバンを下ろしながら、前原くんが答える。
「そうなんだ」
「てっきり普通に読書かと思った」と、続けると、「まぁそれもあるけどね」と、前原くんは苦笑した。
毎朝、クラスの誰よりも早く登校してきているのに、前原くんが教室にいない理由。それは、図書室にいたから。
やっぱり、教室にいるといじめられるからかな……。
心の片隅で思いながらも、口には出さない。
とても静かで穏やかな朝を、私の発言で壊すのは嫌だったし、それに……嬉しかったから。
普段、朝は入室出来ないはずの図書室。まるで前原くんのひみつ基地を教えてもらったみたいで、嬉しかった。
そんな場所を“逃げ場”と言ってしまうのは、嫌だった。
……でも、前原くんってこんな朝から勉強しなくても、頭良くなかったっけ?
勝手なイメージもあるかもしれない。だけど私の記憶が正しければ、確か学年で1位2位を争うほど、優秀だった気がする。
そんなことを考える私を他所に、カバンの中から筆箱やノートなど、これから使うであろう勉強道具を取り出す前原くん。
「……えっ!?」
その中のひとつ、問題集に書かれた文字を見て、私は思わず声を上げた。
「前原くん、ここ受けるの!?」
問題集の表紙に書かれていた、大学名。それは、知らない人なんていないだろう、有名国立大学だった。
「あー……まぁ、一応ね」
驚きのあまり身を乗り出した私に、謙遜するみたいに苦笑する前原くん。その返事を聞きながら、私は目をパチパチさせた。
賢かった気はしていたけれど、まさか……こんなに頭が良かったなんて……。
「……すごい。すごいねっ!」
「いや、まだ受かったわけじゃないし……」
「ううんっ!すごいよ!」
受験するっていうだけでも相当なレベル。そりゃあ先生だって、快く図書室の鍵を渡しちゃうわけだ。
「前原くんなら合格出来る気がする! っていうか、絶対合格する! 私応援してるっ!」
「……」
静かな室内に響いた声。
ハッと気付いたときには、少し驚いた様子の前原くんの顔が目の前にあった。
……わ。何ひとりで興奮しちゃってるんだろう。
恥ずかしさで、顔がカーッと赤くなる。
「ご、ごめん……」
謝りながら問題集を机の上に戻すと、
「いや、ありがとう」
前原くんはにっこりと微笑んだ。
「……じゃあ、バスに乗って図書館に行ってたんだ?」
「塾がない日はだいたいね。家よりその方がはかどるから」
前原くんの前には勉強道具。私の前には、棚から適当に取って来た一冊の本。
図書室に入ってから、何分くらい経ったかな?前原くんの手は、喋りながらでもスラスラと問題を解いていくのに、私の手はなかなか本のページをめくろうとしない。
私には意味さえ分からないような難問を、魔法でも使っているみたいに解いていく前原くん。
同じ授業を受けているはずなんだけどな……と、考えながらその姿をボーっと見ていた。すると、
「望月さん?」
「えっ、あっ、ごめん! 邪魔しちゃってた?」
「ううん、そうじゃなくて。図書室なんかに連れて来て、退屈だったかなって思って」
少し心配そうに言ってくれた前原くんに、
「そっ、そんなことないっ!」
私はぶんぶんと勢い良く、首を横に振った。その姿に前原くんがクスッと笑う。
「っ……」
さっきやったばっかりなのに、またやっちゃったと、恥ずかしさで俯きつつも、
「すごいなって思って見てたの」
思ったことを素直に声に出した。
「勉強とか私は全然出来ないから、魔法みたいだな……って」
「魔法って」
そんなすごいものじゃないよと、謙遜して前原くんは笑うけど、そんなことない。
「ううん、すごいよ。私なんかこの前のテストで英語、赤点ギリギリだったもん……」
思い出すと自分で自分が虚しくなる。かろうじて補習は免れたものの、あんな点数久しぶりに見た。
「望月さんって、そんなに成績悪いイメージじゃなかったけど……」
「英語は本当にダメなの」
英語……それだけは、どうしてこんなに出来ないんだろうってくらい、他との差が歴然。つい最近担任の先生にも指摘されていたことで、がっくりうなだれる。
「そっか……」
短く相づちを打つ前原くん。
あ……意外と馬鹿なんだって、もしかして呆れられちゃったかな。
「でもっ……」
国語は得意なんだよって、自分でもよく分からないフォローを入れようとした時だった。
「もし良かったら教えようか?」
「……え?」
「今日みたいに朝とか、望月さんに時間があったら夏休みなんかでもいいし……」
「……」
特に難しいことを言われているわけじゃないのに、意味がすぐには理解出来なかった。
教えてくれる?朝とか、夏休みに……?
それって……。
「どうかな?必要ない?」
ポカンとする私に、前原くんが首を傾げて訊ねてきて。
「ううんっ、ぜひっ!ぜひお願いします!」
私は両手を膝の上に重ね、机にぶつけそうな勢いで頭を下げた。
***
「実優おそーい。また寝坊?」
予鈴が鳴るギリギリ。図書室の鍵を返しに行った前原くんより先に教室に戻ると、少し呆れ顔の朱里に迎えられた。
もちろん、寝坊なんてしていない。みんなよりずっとずっと早く、学校へ来ていた。だけど、
「まぁ……そんな感じ」
真実を隠して、私が返したのは苦笑い。
『望月さんにさ、お願いがあるんだけど……』
そう前原くんに切り出されたのは、図書室を出る直前だった。
『教室とか人のいるところでは、話しかけたりしないことにしない?一緒に勉強することも、ふたりだけの秘密ってことにして』
言いながら、優しく微笑んだ前原くん。
“ふたりだけの秘密”という言葉はとても甘くて、思わず顔を赤らめてしまいそうになったけど、喜んじゃいけないってすぐに気付いた。また、私もを庇おうとしてくれているって。
私だって、生半可な気持ちで「大丈夫」なんて言ったわけじゃない。だから、そんなずるいようなことはしないつもりだった。だけど……。
「そういえば昨日の放課後、見たんだけどさ……」
耳を澄ませば、必ずと言っていいほど1日に一度は耳にする、似たようなウワサ話。
誰と誰がいつ、一緒にいて。だから付き合っているとか、いないとか……。
いつからこんなに色濃く、男女という線引きがされるようになったんだろう。少しでも異性とふたりでいたりすれば、簡単に誤解される。
「あ……」
誰が発した声、というわけでもないけれど、自然と少しざわついた教室。見ると、私より少し遅れて教室に入ってきたのは前原くん。
目と目が一瞬パッと合って。だけど、どっちからってこともなく、お互いが目を逸らした。
『また変に誤解されちゃったら、困るでしょ』
ふたりっきりの図書室で、前原くんが私に続けた言葉。
何のことを言っているか分かったから、思わず口ごもった。
変に誤解といえば、それは田澤くんのこと。
私が田澤くんのことを好きだって、朱里たちに誤解されていることを指していると分かったから、何も言えなくなった。
私は前原くんのことが好き。だから何か勘ぐられても、それは誤解なんかじゃない。だけど、前原くんは……?
気付かれないようにもう一度、そっと前原くんの方を見る。ついこの前まで倒されたりしていた彼の机は、ちゃんと在るべき場所に立っていて。
夏休み直前。テストや進路のことで、ここのところ忙しかったせいか、前原くんの周りは以前よりも静かだった。
「……」
このままイジメが収まってくれたらと思う。だけど、私とのことがもしウワサになってしまったら。
想像したら、前原くんの提案を受け入れないわけにはいかなかった。だって困るのは……前原くんだから。
それから、私と前原くんは図書室で、毎朝のように一緒に勉強した。夏休みに約束していることもあって、連絡先も交換した。
こうして仲良くしていることは秘密。教室や他の生徒がいる場所では、話しかけたりしないように気を付けた。
そして誰にも気付かれぬまま、迎えた夏休み──。
