4月。私は高校3年生になった。
体育館に張り出されたクラス替え一覧のどこにも、木下涼花の名前はなかった。そのことが、彼女がこの町からいなくなってしまった事実をあらためて私に感じさせる。それでも、一緒に進級したような気分だ。
窓の外には満開の桜が見える。「どうか入学式まで桜、もってくれよ~」と担任が言っていたのを思い出した。毎年、入学式前に桜が満開に咲き誇り、入学式前日くらいの雨であらかた散ってしまうのはなぜだろう。これを「花散らしの雨」というが、誰かが、桜よりもきれいな新入生たちの笑顔が桜の陰に隠れることを防ぐために、計画的に雨を降らせているのではないかと思っている。私の高校入学も雨だったなあ。今年迎える新入生たちはどんな子たちなんだろう。たった一、二年しか変わらないのに「若いなあ」と思わせるのは、どういう魔法がかかっているのだろう。あと、今日はよく花粉が飛ぶらしい。私は花粉症じゃないが、お父さんが今日も大きなくしゃみをしながら外出していった。マスクと花粉症の薬がないと外に出られないらしい。いつも無表情なのに家の中でもマスクをされると、もう何を考えているのかもわからない。お父さんが気にしていた今日の花粉情報は、あの朝の情報番組のお天気キャスターになった池田そらちゃんが言っていたものだ。
彼女の活躍は、相変わらずまぶしいものだった。
どんなに当たり前の出来事や代わり映えのない毎日でも、少し工夫すれば楽しい時間が送れる。そう教えてくれた涼花は、いま眩しいステージの上で輝いている。あまりにもまぶしい星だから、サングラスがほしい。それでは星も見えないか。
11月、彼女はオルタンシア4期生メンバーとしてアイドルデビューを果たした。そらたんのような圧倒的なバズりがあったわけではない。でも、むしろなくてよかった。彼女が積み重ねたものが、ただ一瞬の娯楽のために使い倒されるのは癪だ。ゆっくりと、でもじっくりと。彼女の魅力に気づき、着実にファンになる人が増えればいい。涼花は着実に、自分の輪を広げていっていた。
そんな彼女の活動が評価されたのか、彼女は最新曲のカップリング曲でWセンターに大抜擢された。同じ4期生のショートカットヘアが特徴のメンバーと対になる形で映る涼花の姿を見たときは、息をのむどころか、そこら辺の空気ごと飲み干していたと思う。涼花とカラオケに行った日のことを思い出しながら、今日も三角の再生ボタンをタップする。だから私は表題曲より、カップリング曲ばかりを聞いている。ついに音楽アプリの「あなたが最も聞いている曲」の1位になっている。その表示を見るたび、私は誇らしい気持ちになる。
そして今度、有名なアニメ映画の吹き替え声優を務めるらしい。少し高いトーンだが、キンキンするような不快感はなく、聞き取りやすい透明感のあるあの声が買われたのだろうか。すでに田中さん、上本さん、北さんと私の4人で、公開初日に見に行く約束をした。その日は金曜日だが、みんな放課後の部活をこっそり休んでくれるらしい。映画館で配布されたチラシをリメイクして、下敷きにしてみた。これで合法的に涼花のグッズをさりげなく高校に持ってこれる。
先日、オルタンシアの梅雨ツアーの当落発表があり、私は一人のファンとして無事にチケットを掴み取った。涼花には内緒で見に行きたい。きっと事前に伝えたら、彼女は私のために「アイドルの涼花」じゃなくなってしまうかもしれないから。全力でアイドルしている涼花を見に行きたい。彼女がかけてくれるアイドルの魔法を解くのは、ファンとしてではなく、友人としての私がいいから。
そして私は、悩みに悩んだあげく、地元の公立大学の地域環境学部を第一志望にした。
2年生の夏には「何を勉強するのかわからない」「校舎が古くて狭い」と見下していたあの学部だ。けれど、歴史小説のページをめくるうちに、ふと気がついたのだ。小説の中に描かれる街並みや人々の営みと同じように、私たちが当たり前のように暮らすこの街にも、これまで刻んできた歴史があり、守るべき景色があるということに。
「地域環境」とは、決してよくわからない理系や文系の学問などではなく、まさにこの足元にある私たちの日常そのものを学び、どう未来へ残していくかを考えるものだったのだ。
涼花が全国という大きなステージへ羽ばたいていく一方で、私は私自身の足元にあるこの場所を、もっと深く見つめ直したかった。田中さんたちと笑い合った少し寂れたショッピングセンター、歴史小説を読みふけった休日の静かな公園、そして放送室の小さな窓から見える、夕日に染まる穏やかな街並み。私たちが生まれたこの街が、これからも変わらずあり続けるように。まずは、今私たちのこの町が抱える問題について幅広く学んでみたいと思ったからだ。
両親も私の決断には最初半信半疑だったが、今懸命に勉強に取り組む私の姿を見て、応援してくれている。何の情報で知り得たのか、最近お父さんがやたらと飲むゼリーとチョコレートを買ってきてくれる。お父さんの頃の定番の夜食メニューの取り合わせだったらしい。お父さんらしさがつまった応援に、嬉しく思う。お母さんも、家事回りでこれまで以上に私を気遣ってくれる。二人のバックアップがあるから、私は頑張れる。いつもありがとう。
周囲の人の応援と猛勉強の甲斐があって、2年生の夏ごろよりは全体的にどの教科も10点ほど点数を伸ばしている。だが、三者面談で担任から告げられるのは、
「まだ足りない」
である。現実を突きつけられながらも、「まだまだやれる」と私の可能性を信じて、担任の先生は発破をかけてくれているのだ。
あの時不満だった大学までの片道1時間半の通学時間も、無事に合格できたら「歴史小説をじっくり読める隙間時間になる」と思える。そして、同じようにボロいと見下していた今の高校の校舎も、「歴史がある」と思えばなんだか愛着が湧きそうだ。残り一年、もっと校舎に居座って使い込んでやろう。今の状況を嘆くのではなく、良いところに着目して、うんと楽しむ工夫をしよう。
そして、毎日息を切らして登っているあの過酷な上り坂。今朝そこを通ったとき、ふと道の脇に目をやると、去年の夏にはすっかり干からびていたあの紫陽花が、いつの間にか瑞々しく青々とした大きな葉を広げていた。鮮やかな花を落とし、厳しい冬を越えて新しく生まれ変わったその姿は、驚くほど力強く、生命力に満ちていた。今はまだ花がなくても、しっかりと自分の足元に根を張り、次の季節に向けて静かに息づいている。その青々とした葉の頼もしさが、今の私自身の歩みと重なって、少しだけ誇らしかった。
受験結果はどうなるかわからないが、私はこの1年を受験勉強に捧げるつもりだ。
ふと思い出したのは、涼花のアイドルデビューが発表された次の日の記憶。そのときは高校2年生だった。もう懐かしい、ずっと前の出来事のように感じる。クラスでは騒然となっていた。木下涼花が急に学校をやめたのはそういうことだったのか。数か月ぶりの伏線回収にみな驚いていた。「木下可愛かったもんなー」と涼花の魅力を知っていたかのように言い始める男子に心の中で舌打ちをする。
私は登校と同時に、「知っていたの?」「なんで教えてくれなかったの?」と質問攻めにあい、一時的にみんなの中心に立たされるような状況になった。涼花がいなくなったことだけで私はダメージを食らっているのに、そうやって質問攻めにあうと、ふさがりかけていたかさぶたをひっぺがすようで痛かった。が、田中さん、上本さん、北さんが守ってくれたのだ。
あの日が私の運命の分かれ道だったと今になって感じる。涼花がいなくなって自分の振る舞いがわからなくなっていた時。涼花がいたことが本当は幻だったんじゃないかと自信がなくなっていた時。涼花との思い出が自分の中で消えてしまうのではないかと不安になっていた時。走り続けなければ、と停滞がなによりも怖かった。どこか空白だった自分。そしてそれを無理やり埋めてしまおうと、自分が寂しいことを認めたくなくて、紛らわせようと空回りしていた自分。自分の瞳から色が消えるのが怖かった。また戻ってしまう。
きっとあの3人がいなければ、じわじわと自分を見失っていって、どこかでぽきりと折れて沈んでいた。私は孤独じゃないんだ。
3年生になって3人とはクラスが離れ離れになってしまっても、今でも親交は続いている。毎週一回はどこかしらで予定をあわせて会うようにしている。ショッピングセンター、カラオケ、映画館、公園、海。もうこの辺で遊べるところには行き尽くしているが、どこに行っても3人と話せるだけで楽しい。どこで会うかが重要ではないのだ。
ちょうど昨日は、少し足を延ばして隣町にあるカフェにパンケーキを食べに行った。くるくる渦巻く生クリームがのったハニーヨーグルトパンケーキは、甘さと酸っぱさが絶妙なバランスでおいしかった。カフェに広がるはちみつの甘ったるい匂いがより私の食欲をかきたて、イメージ写真よりも大きかったパンケーキをぺろりと食べたうえで、帰りのコンビニでアイスクリームまで食べてしまった。「今度は、大きなパフェ食べに行きたいね!」なんて4人で笑い合った。私は3人が友達でい続けてくれる限り、ずっと仲良くしたい。大切な存在だ。
もちろん、甘いものの話ばかりしていたわけではない。私たちはもう3年生だ。話題は自然と進路のことになる。田中さんは美容系の専門学校へ、上本さんは県外の私立大学へ、そして北さんは私と同じ公立大学への進学を考えているという。北さんは文学部で、私は地域環境学部だから直接的にライバルになるわけではないが、同じ志望校ということで、お互いを高めるよき同志である。家で電話をつなげながら、問題を出し合いっこしたりして勉強している。「勉強しよう!」と思えるのは、間違いなく北さんの影響があるからだ。
そんな彼女は書道パフォーマンス部の引退時期が秋頃なので、部活と並行しながら勉強していてほんとうに尊敬している。私の放送部は放課後に目立った活動がないので、放課後は勉強に全振りできるのに彼女はそうでないから。一緒に頑張れる仲間がいるだけで、こんなにも心強い。みんなそれぞれ、自分の進むべき道を真剣に見据えている。私の世界も、行動範囲も、どんどん広がっている。昨日のカロリーをチャラにするためにも、そして自分の未来に向かうためにも、今日はいっぱい歩かなきゃ。
高校3年生のクラスは、進学希望のレベル感など傾向によって分けられている。私は特進クラスとなった。北さんも特進クラスだが、別クラスになってしまった。特進クラスは2クラスしかないため、二分の一のくじを引き当てられなかった私はやっぱり運がない。「運は受験のときまで取っておこうねー」なんて北さんと話した。そのためか、2年生のときよりも大学受験を見据えて勉強する人が多いのか、クラスは静かなことが多い。
でも始業式の日には、何人かに囲まれて涼花についてのデジャヴのように質問攻めにまたあった。私は実はちょっとだけ有名人なのかもしれない。私は「涼花のことは何も話せないよー」と笑って言い、潮が引くように散っていくクラスメイトの波に逆流するようにして、教室で一人本を読んでいる子に話しかけた。
愛想笑いを浮かべ続けるのにも、正直少し疲れてしまっていた。熱狂の中心にいるのは私じゃないのに、涼花の名前が出るだけでどうしても周囲が騒がしくなる。そんな喧騒から完全に切り離されたように、彼女の周りだけが見えない防音ガラスで覆われているような気がしたのだ。淡々とページをめくるその「音のない空間」に、私は無性に惹きつけられていた。
「それ、なんていう本?」
急に話しかけられた彼女は、肩をびくっと震わせてこちらを見上げた。戸惑いと、少しの警戒を含んだ目が瞬きをする。
「あ、ごめんね。邪魔するつもりはなかったんだけど、なんだか面白そうだったから」
私がそう続けると、彼女は少しだけはにかんで、そっと本の表紙をこちらに向けてくれた。
そこには、刀を構えた武士の渋いイラストと、力強い筆文字のタイトルが躍っていた。
「……幕末の、お話。新選組の……」
消え入りそうな声だったけれど、自分の好きなものを大事に教えようとしてくれるその控えめな熱量に、私はなんだかほっとした。涼花のような強烈な光とは違う、木漏れ日のような穏やかな温度がそこにはあった。
「へえ、新選組か! 面白そう。私、原田みさき。もしよかったら、読み終わったあとでいいから貸してくれないかな」
彼女――小林さんとは、これが最初の会話だった。
いまでも私は小林さんと行動を共にしている。あの出会い以来、私もすっかり本を読むようになった。本を読むなんて1年前の自分には到底考えられない話だが、今ではリュックの中にいつも文庫本が入っている。本を読んでいる時間は時間を忘れ、没頭できるところが好きだ。受験生であるプレッシャーも、友達が華々しい活躍をしていることも忘れ、まるで私とは違う人生を生きている気分を味わえる。特に歴史小説は時代が違うので、価値観や取り巻く社会情勢が違って面白い。タイムスリップしたらこんなんなのかなと想像を膨らませながら、文字を追う。あくまでも小説なので史実とは違うところもあるが、登場人物の名前や性格、大きな出来事は史実を反映しているものが多く、日本史の勉強にもなる。一石二鳥だ。
リュックの片隅に入れた文庫本は、私の世界を広げてくれる四次元ポケットだ。文庫本によって前よりもさらに重くなったリュックを、丁寧に置く。リュックに文庫本を入れると傷みやすいから、なにかいい方法はないだろうか。今はリュックの中でぐちゃっとならないように整理整頓することしか思いついていない。この部屋の中での序列二位が文庫本たちだと思う。ちなみに1位は涼花のグッズだ。ほこりや折れがつかないように、できるだけきれいな状態を維持したく、動画サイトやSNSでグッズのきれいな保管方法を調べまくっている。動画サイトで紹介している人たちのグッズ管理術には本当に目から鱗が落ちる。プロだ。それを本業としているかのような徹底ぶりで、それもまるっと推しへの愛である。
3位が自分。ついに自室に本棚を買い、勉強机の右側に設置した。すこしずつ本棚が埋まっていくのが、私の「好き」で満たされているようで、見ているだけで楽しい。まだ上の一段目の半分も埋まっていないが、いつか自分の好きな本たちで埋めて自分だけの本棚にしたい。
一直線に伸びる廊下を歩き、放送部が集まる教室へと向かう。
「へっくしょん!」
扉を開けようとした瞬間、中から大きなくしゃみが聞こえてきた。スライド扉を開けると、真っ先にマスク姿の石川が目に入る。きっとあいつだ。相変わらずマイクには声を入れてくれないけれど、冬に機材がトラブルを起こしたとき、誰よりも早く冷静に対処してくれたのは彼だった。私が提案した鍵開け・鍵締めの当番制も、文句も言わずに律儀に守ってくれている。あいつはあいつなりのやり方で、きちんと放送部の活動に参加し、裏から支えてくれているのだ。
新入生歓迎会の前に一度、放送部で集まることになった。もちろん、そんな恒例行事は今までない。私が提案したら、みんな集まってくれたのだ。
教室に集まったのは、石川を含め9人。例年通り、曜日当番制で一日二人を担当するとしたら人数が足りない。なんとかして新入部員を入れなければならない。もちろん、幽霊ではなく、ちゃんと活動してくれる部員だ。
前に立つ松田先生が会を仕切ってくれる。黒板には『放送部 今後の活動方針について』と横書きで書かれていた。「目次」と書かれたあとに、何点か話し合い事項が並んでいる。私は「ただ新入生歓迎会の前に顔合わせの機会を作りたい」と提案しただけだったのに、こんなにちゃんと考えてくれていたことに驚いたし、心から感謝した。
止まない雨がないように、季節が巡るように。
私たちは同じ日常を過ごしていたとしても、少しずつ、だが着実に変化している。めまぐるしい日々に嘆きたくなる日もある。
でも、どんなときでも、少し行動を起こしてみれば、自分の足で歩いてみれば、少しだけなにかが変わる。なにもないなんてことはないのだ。たとえ起きた出来事が自分の追い風でも、向かい風でも。
濡れた窓ガラスを伝う水滴を数えるような退屈な日々だとしても、自分で決めたこの場所で、ただ一瞬の光を燃やすためにすべてを使い尽くしていたい。
「まずは1。今期の部長について」
松田先生の声で我に返る。
「いままでは前部長からの指名制だったんだけど、今回は立候補制にしようと思って。できれば3年生がいいんだけど、だれかいるかな?」
教室の空気が、ぴたりと固まるのがわかった。
昔の私なら息を潜めてやり過ごしていた、この重苦しくて独特な空気。今でもちょっと苦手だ。
誰もが下を向き、誰かが口を開くのを待っている沈黙の数秒間。私の脳裏に、この1年間の出来事がよぎった。
新しい友達と食べた甘酸っぱいパンケーキの味。少しずつ「好き」で埋まっていく真新しい本棚。私を信じて背中を押してくれた担任の言葉。そして、スポットライトを浴びて輝く、涼花の姿。
ふと、隣に座る石川のほうを見ると、ばっちりと目が合った。彼はマスク越しに何かを口パクし、首を黒板のほうにくいっと振った。
ああ、そうだ。今、私には頼もしい味方がいる。田中さん、上本さん、北さん、小林さん、石川、その他多くのクラスメイト、そして両親、涼花。私にはこんなにも多くのフォロワーがいる。
私が動き出せば、ちゃんとみんなが助け舟を出してくれる。だから勇気を振り絞って一歩を踏み出せばいい。きっと大丈夫。
誰もが同じだと思っていた私はもういない。枝葉のように分かれた選択肢の中で、私は今、間違いなく私自身の意志でこの枝を選ぼうとしている。
全国のステージに立つ君と、この狭い校舎にしか声が届かない私。
規模は違うかもしれないけれど、私は私のステージでマイクを握るんだ。
ここから私の新章をはじめようか。
大きく息を吸い込み、私は、右手をまっすぐ上へと挙げる。
「私、部長やります」
輝ける場所がないのなら、自分で作ればいい。
ただ、それだけの話だ。
体育館に張り出されたクラス替え一覧のどこにも、木下涼花の名前はなかった。そのことが、彼女がこの町からいなくなってしまった事実をあらためて私に感じさせる。それでも、一緒に進級したような気分だ。
窓の外には満開の桜が見える。「どうか入学式まで桜、もってくれよ~」と担任が言っていたのを思い出した。毎年、入学式前に桜が満開に咲き誇り、入学式前日くらいの雨であらかた散ってしまうのはなぜだろう。これを「花散らしの雨」というが、誰かが、桜よりもきれいな新入生たちの笑顔が桜の陰に隠れることを防ぐために、計画的に雨を降らせているのではないかと思っている。私の高校入学も雨だったなあ。今年迎える新入生たちはどんな子たちなんだろう。たった一、二年しか変わらないのに「若いなあ」と思わせるのは、どういう魔法がかかっているのだろう。あと、今日はよく花粉が飛ぶらしい。私は花粉症じゃないが、お父さんが今日も大きなくしゃみをしながら外出していった。マスクと花粉症の薬がないと外に出られないらしい。いつも無表情なのに家の中でもマスクをされると、もう何を考えているのかもわからない。お父さんが気にしていた今日の花粉情報は、あの朝の情報番組のお天気キャスターになった池田そらちゃんが言っていたものだ。
彼女の活躍は、相変わらずまぶしいものだった。
どんなに当たり前の出来事や代わり映えのない毎日でも、少し工夫すれば楽しい時間が送れる。そう教えてくれた涼花は、いま眩しいステージの上で輝いている。あまりにもまぶしい星だから、サングラスがほしい。それでは星も見えないか。
11月、彼女はオルタンシア4期生メンバーとしてアイドルデビューを果たした。そらたんのような圧倒的なバズりがあったわけではない。でも、むしろなくてよかった。彼女が積み重ねたものが、ただ一瞬の娯楽のために使い倒されるのは癪だ。ゆっくりと、でもじっくりと。彼女の魅力に気づき、着実にファンになる人が増えればいい。涼花は着実に、自分の輪を広げていっていた。
そんな彼女の活動が評価されたのか、彼女は最新曲のカップリング曲でWセンターに大抜擢された。同じ4期生のショートカットヘアが特徴のメンバーと対になる形で映る涼花の姿を見たときは、息をのむどころか、そこら辺の空気ごと飲み干していたと思う。涼花とカラオケに行った日のことを思い出しながら、今日も三角の再生ボタンをタップする。だから私は表題曲より、カップリング曲ばかりを聞いている。ついに音楽アプリの「あなたが最も聞いている曲」の1位になっている。その表示を見るたび、私は誇らしい気持ちになる。
そして今度、有名なアニメ映画の吹き替え声優を務めるらしい。少し高いトーンだが、キンキンするような不快感はなく、聞き取りやすい透明感のあるあの声が買われたのだろうか。すでに田中さん、上本さん、北さんと私の4人で、公開初日に見に行く約束をした。その日は金曜日だが、みんな放課後の部活をこっそり休んでくれるらしい。映画館で配布されたチラシをリメイクして、下敷きにしてみた。これで合法的に涼花のグッズをさりげなく高校に持ってこれる。
先日、オルタンシアの梅雨ツアーの当落発表があり、私は一人のファンとして無事にチケットを掴み取った。涼花には内緒で見に行きたい。きっと事前に伝えたら、彼女は私のために「アイドルの涼花」じゃなくなってしまうかもしれないから。全力でアイドルしている涼花を見に行きたい。彼女がかけてくれるアイドルの魔法を解くのは、ファンとしてではなく、友人としての私がいいから。
そして私は、悩みに悩んだあげく、地元の公立大学の地域環境学部を第一志望にした。
2年生の夏には「何を勉強するのかわからない」「校舎が古くて狭い」と見下していたあの学部だ。けれど、歴史小説のページをめくるうちに、ふと気がついたのだ。小説の中に描かれる街並みや人々の営みと同じように、私たちが当たり前のように暮らすこの街にも、これまで刻んできた歴史があり、守るべき景色があるということに。
「地域環境」とは、決してよくわからない理系や文系の学問などではなく、まさにこの足元にある私たちの日常そのものを学び、どう未来へ残していくかを考えるものだったのだ。
涼花が全国という大きなステージへ羽ばたいていく一方で、私は私自身の足元にあるこの場所を、もっと深く見つめ直したかった。田中さんたちと笑い合った少し寂れたショッピングセンター、歴史小説を読みふけった休日の静かな公園、そして放送室の小さな窓から見える、夕日に染まる穏やかな街並み。私たちが生まれたこの街が、これからも変わらずあり続けるように。まずは、今私たちのこの町が抱える問題について幅広く学んでみたいと思ったからだ。
両親も私の決断には最初半信半疑だったが、今懸命に勉強に取り組む私の姿を見て、応援してくれている。何の情報で知り得たのか、最近お父さんがやたらと飲むゼリーとチョコレートを買ってきてくれる。お父さんの頃の定番の夜食メニューの取り合わせだったらしい。お父さんらしさがつまった応援に、嬉しく思う。お母さんも、家事回りでこれまで以上に私を気遣ってくれる。二人のバックアップがあるから、私は頑張れる。いつもありがとう。
周囲の人の応援と猛勉強の甲斐があって、2年生の夏ごろよりは全体的にどの教科も10点ほど点数を伸ばしている。だが、三者面談で担任から告げられるのは、
「まだ足りない」
である。現実を突きつけられながらも、「まだまだやれる」と私の可能性を信じて、担任の先生は発破をかけてくれているのだ。
あの時不満だった大学までの片道1時間半の通学時間も、無事に合格できたら「歴史小説をじっくり読める隙間時間になる」と思える。そして、同じようにボロいと見下していた今の高校の校舎も、「歴史がある」と思えばなんだか愛着が湧きそうだ。残り一年、もっと校舎に居座って使い込んでやろう。今の状況を嘆くのではなく、良いところに着目して、うんと楽しむ工夫をしよう。
そして、毎日息を切らして登っているあの過酷な上り坂。今朝そこを通ったとき、ふと道の脇に目をやると、去年の夏にはすっかり干からびていたあの紫陽花が、いつの間にか瑞々しく青々とした大きな葉を広げていた。鮮やかな花を落とし、厳しい冬を越えて新しく生まれ変わったその姿は、驚くほど力強く、生命力に満ちていた。今はまだ花がなくても、しっかりと自分の足元に根を張り、次の季節に向けて静かに息づいている。その青々とした葉の頼もしさが、今の私自身の歩みと重なって、少しだけ誇らしかった。
受験結果はどうなるかわからないが、私はこの1年を受験勉強に捧げるつもりだ。
ふと思い出したのは、涼花のアイドルデビューが発表された次の日の記憶。そのときは高校2年生だった。もう懐かしい、ずっと前の出来事のように感じる。クラスでは騒然となっていた。木下涼花が急に学校をやめたのはそういうことだったのか。数か月ぶりの伏線回収にみな驚いていた。「木下可愛かったもんなー」と涼花の魅力を知っていたかのように言い始める男子に心の中で舌打ちをする。
私は登校と同時に、「知っていたの?」「なんで教えてくれなかったの?」と質問攻めにあい、一時的にみんなの中心に立たされるような状況になった。涼花がいなくなったことだけで私はダメージを食らっているのに、そうやって質問攻めにあうと、ふさがりかけていたかさぶたをひっぺがすようで痛かった。が、田中さん、上本さん、北さんが守ってくれたのだ。
あの日が私の運命の分かれ道だったと今になって感じる。涼花がいなくなって自分の振る舞いがわからなくなっていた時。涼花がいたことが本当は幻だったんじゃないかと自信がなくなっていた時。涼花との思い出が自分の中で消えてしまうのではないかと不安になっていた時。走り続けなければ、と停滞がなによりも怖かった。どこか空白だった自分。そしてそれを無理やり埋めてしまおうと、自分が寂しいことを認めたくなくて、紛らわせようと空回りしていた自分。自分の瞳から色が消えるのが怖かった。また戻ってしまう。
きっとあの3人がいなければ、じわじわと自分を見失っていって、どこかでぽきりと折れて沈んでいた。私は孤独じゃないんだ。
3年生になって3人とはクラスが離れ離れになってしまっても、今でも親交は続いている。毎週一回はどこかしらで予定をあわせて会うようにしている。ショッピングセンター、カラオケ、映画館、公園、海。もうこの辺で遊べるところには行き尽くしているが、どこに行っても3人と話せるだけで楽しい。どこで会うかが重要ではないのだ。
ちょうど昨日は、少し足を延ばして隣町にあるカフェにパンケーキを食べに行った。くるくる渦巻く生クリームがのったハニーヨーグルトパンケーキは、甘さと酸っぱさが絶妙なバランスでおいしかった。カフェに広がるはちみつの甘ったるい匂いがより私の食欲をかきたて、イメージ写真よりも大きかったパンケーキをぺろりと食べたうえで、帰りのコンビニでアイスクリームまで食べてしまった。「今度は、大きなパフェ食べに行きたいね!」なんて4人で笑い合った。私は3人が友達でい続けてくれる限り、ずっと仲良くしたい。大切な存在だ。
もちろん、甘いものの話ばかりしていたわけではない。私たちはもう3年生だ。話題は自然と進路のことになる。田中さんは美容系の専門学校へ、上本さんは県外の私立大学へ、そして北さんは私と同じ公立大学への進学を考えているという。北さんは文学部で、私は地域環境学部だから直接的にライバルになるわけではないが、同じ志望校ということで、お互いを高めるよき同志である。家で電話をつなげながら、問題を出し合いっこしたりして勉強している。「勉強しよう!」と思えるのは、間違いなく北さんの影響があるからだ。
そんな彼女は書道パフォーマンス部の引退時期が秋頃なので、部活と並行しながら勉強していてほんとうに尊敬している。私の放送部は放課後に目立った活動がないので、放課後は勉強に全振りできるのに彼女はそうでないから。一緒に頑張れる仲間がいるだけで、こんなにも心強い。みんなそれぞれ、自分の進むべき道を真剣に見据えている。私の世界も、行動範囲も、どんどん広がっている。昨日のカロリーをチャラにするためにも、そして自分の未来に向かうためにも、今日はいっぱい歩かなきゃ。
高校3年生のクラスは、進学希望のレベル感など傾向によって分けられている。私は特進クラスとなった。北さんも特進クラスだが、別クラスになってしまった。特進クラスは2クラスしかないため、二分の一のくじを引き当てられなかった私はやっぱり運がない。「運は受験のときまで取っておこうねー」なんて北さんと話した。そのためか、2年生のときよりも大学受験を見据えて勉強する人が多いのか、クラスは静かなことが多い。
でも始業式の日には、何人かに囲まれて涼花についてのデジャヴのように質問攻めにまたあった。私は実はちょっとだけ有名人なのかもしれない。私は「涼花のことは何も話せないよー」と笑って言い、潮が引くように散っていくクラスメイトの波に逆流するようにして、教室で一人本を読んでいる子に話しかけた。
愛想笑いを浮かべ続けるのにも、正直少し疲れてしまっていた。熱狂の中心にいるのは私じゃないのに、涼花の名前が出るだけでどうしても周囲が騒がしくなる。そんな喧騒から完全に切り離されたように、彼女の周りだけが見えない防音ガラスで覆われているような気がしたのだ。淡々とページをめくるその「音のない空間」に、私は無性に惹きつけられていた。
「それ、なんていう本?」
急に話しかけられた彼女は、肩をびくっと震わせてこちらを見上げた。戸惑いと、少しの警戒を含んだ目が瞬きをする。
「あ、ごめんね。邪魔するつもりはなかったんだけど、なんだか面白そうだったから」
私がそう続けると、彼女は少しだけはにかんで、そっと本の表紙をこちらに向けてくれた。
そこには、刀を構えた武士の渋いイラストと、力強い筆文字のタイトルが躍っていた。
「……幕末の、お話。新選組の……」
消え入りそうな声だったけれど、自分の好きなものを大事に教えようとしてくれるその控えめな熱量に、私はなんだかほっとした。涼花のような強烈な光とは違う、木漏れ日のような穏やかな温度がそこにはあった。
「へえ、新選組か! 面白そう。私、原田みさき。もしよかったら、読み終わったあとでいいから貸してくれないかな」
彼女――小林さんとは、これが最初の会話だった。
いまでも私は小林さんと行動を共にしている。あの出会い以来、私もすっかり本を読むようになった。本を読むなんて1年前の自分には到底考えられない話だが、今ではリュックの中にいつも文庫本が入っている。本を読んでいる時間は時間を忘れ、没頭できるところが好きだ。受験生であるプレッシャーも、友達が華々しい活躍をしていることも忘れ、まるで私とは違う人生を生きている気分を味わえる。特に歴史小説は時代が違うので、価値観や取り巻く社会情勢が違って面白い。タイムスリップしたらこんなんなのかなと想像を膨らませながら、文字を追う。あくまでも小説なので史実とは違うところもあるが、登場人物の名前や性格、大きな出来事は史実を反映しているものが多く、日本史の勉強にもなる。一石二鳥だ。
リュックの片隅に入れた文庫本は、私の世界を広げてくれる四次元ポケットだ。文庫本によって前よりもさらに重くなったリュックを、丁寧に置く。リュックに文庫本を入れると傷みやすいから、なにかいい方法はないだろうか。今はリュックの中でぐちゃっとならないように整理整頓することしか思いついていない。この部屋の中での序列二位が文庫本たちだと思う。ちなみに1位は涼花のグッズだ。ほこりや折れがつかないように、できるだけきれいな状態を維持したく、動画サイトやSNSでグッズのきれいな保管方法を調べまくっている。動画サイトで紹介している人たちのグッズ管理術には本当に目から鱗が落ちる。プロだ。それを本業としているかのような徹底ぶりで、それもまるっと推しへの愛である。
3位が自分。ついに自室に本棚を買い、勉強机の右側に設置した。すこしずつ本棚が埋まっていくのが、私の「好き」で満たされているようで、見ているだけで楽しい。まだ上の一段目の半分も埋まっていないが、いつか自分の好きな本たちで埋めて自分だけの本棚にしたい。
一直線に伸びる廊下を歩き、放送部が集まる教室へと向かう。
「へっくしょん!」
扉を開けようとした瞬間、中から大きなくしゃみが聞こえてきた。スライド扉を開けると、真っ先にマスク姿の石川が目に入る。きっとあいつだ。相変わらずマイクには声を入れてくれないけれど、冬に機材がトラブルを起こしたとき、誰よりも早く冷静に対処してくれたのは彼だった。私が提案した鍵開け・鍵締めの当番制も、文句も言わずに律儀に守ってくれている。あいつはあいつなりのやり方で、きちんと放送部の活動に参加し、裏から支えてくれているのだ。
新入生歓迎会の前に一度、放送部で集まることになった。もちろん、そんな恒例行事は今までない。私が提案したら、みんな集まってくれたのだ。
教室に集まったのは、石川を含め9人。例年通り、曜日当番制で一日二人を担当するとしたら人数が足りない。なんとかして新入部員を入れなければならない。もちろん、幽霊ではなく、ちゃんと活動してくれる部員だ。
前に立つ松田先生が会を仕切ってくれる。黒板には『放送部 今後の活動方針について』と横書きで書かれていた。「目次」と書かれたあとに、何点か話し合い事項が並んでいる。私は「ただ新入生歓迎会の前に顔合わせの機会を作りたい」と提案しただけだったのに、こんなにちゃんと考えてくれていたことに驚いたし、心から感謝した。
止まない雨がないように、季節が巡るように。
私たちは同じ日常を過ごしていたとしても、少しずつ、だが着実に変化している。めまぐるしい日々に嘆きたくなる日もある。
でも、どんなときでも、少し行動を起こしてみれば、自分の足で歩いてみれば、少しだけなにかが変わる。なにもないなんてことはないのだ。たとえ起きた出来事が自分の追い風でも、向かい風でも。
濡れた窓ガラスを伝う水滴を数えるような退屈な日々だとしても、自分で決めたこの場所で、ただ一瞬の光を燃やすためにすべてを使い尽くしていたい。
「まずは1。今期の部長について」
松田先生の声で我に返る。
「いままでは前部長からの指名制だったんだけど、今回は立候補制にしようと思って。できれば3年生がいいんだけど、だれかいるかな?」
教室の空気が、ぴたりと固まるのがわかった。
昔の私なら息を潜めてやり過ごしていた、この重苦しくて独特な空気。今でもちょっと苦手だ。
誰もが下を向き、誰かが口を開くのを待っている沈黙の数秒間。私の脳裏に、この1年間の出来事がよぎった。
新しい友達と食べた甘酸っぱいパンケーキの味。少しずつ「好き」で埋まっていく真新しい本棚。私を信じて背中を押してくれた担任の言葉。そして、スポットライトを浴びて輝く、涼花の姿。
ふと、隣に座る石川のほうを見ると、ばっちりと目が合った。彼はマスク越しに何かを口パクし、首を黒板のほうにくいっと振った。
ああ、そうだ。今、私には頼もしい味方がいる。田中さん、上本さん、北さん、小林さん、石川、その他多くのクラスメイト、そして両親、涼花。私にはこんなにも多くのフォロワーがいる。
私が動き出せば、ちゃんとみんなが助け舟を出してくれる。だから勇気を振り絞って一歩を踏み出せばいい。きっと大丈夫。
誰もが同じだと思っていた私はもういない。枝葉のように分かれた選択肢の中で、私は今、間違いなく私自身の意志でこの枝を選ぼうとしている。
全国のステージに立つ君と、この狭い校舎にしか声が届かない私。
規模は違うかもしれないけれど、私は私のステージでマイクを握るんだ。
ここから私の新章をはじめようか。
大きく息を吸い込み、私は、右手をまっすぐ上へと挙げる。
「私、部長やります」
輝ける場所がないのなら、自分で作ればいい。
ただ、それだけの話だ。
