9月1日。今日は2学期の始業式だ。
まだまだ厳しい残暑の中、私は学校へと続く坂を上っていた。先ほどいつもの踏切に引っかかり、5分ほどの足止めを食らった。せわしなく往来する電車を心の中で労う。今日も朝からお疲れ様です。
この調子で坂を上れば、着席時間までまだ20分あるから余裕だろう。左手では、フル充電してきた水色のハンディファンが回り続けている。
他の色より水色が1番涼しげで、少しでもこの残暑を和らげてくれそうに見えたから、この色にしたのだ。夏を象徴するアイテムであるハンディファンは、やっぱり水色がよく売れるのだろうか。
じゃあ、冬は何色が売れるのだろう。赤や緑?それはクリスマスカラーに引っ張られすぎだよな。よく考えたら、冬にハンディファンなんて売っているわけがない。最初から思考の方向性が間違っていた。
でも、ハンディファンを持つサンタさんを想像すると、とてもシュールな絵面で笑えてくる。
一縷の期待を込めて「ハンディファン サンタ」で検索してみるが、何もヒットしなかった。
さすがに季節感皆無だから、ないか……。
最近のネットはすごいから、結構突拍子もない組み合わせを入力してみても何かしら情報が出てくるのだが、さすがに時代を先取りしすぎたのだろう。
少し勢いが落ちた蝉の鳴き声が、降り注ぐ日差しに溶けるように響いている。
以前ならただ「うるさい」としか感じなかったその声も、今日ばかりはどこか愛おしく耳に届いていた。
夏の終わりを惜しむような必死の響きは、私の中にぽっかりと空いた、祭りの後のような虚しさと重なる。
けれど、その空洞があるからこそ、ここからまた新しい何かで満たしていけるはずだ。
ジリジリとした蝉時雨を全身に浴びていると、不思議と前を向こうという静かな熱が湧いてきた。
いつもの2-2のクラス札がかかった教室の前に立つ。
引き戸に手をかけ、ゆっくりと息を吐き出す。
両手で思い切って扉を開けると、そこには見慣れたクラスメイトたちの姿があった。
夏休み明けの登校初日だというのに、男子たちは朝からギャーギャーと何やらはしゃいでいる。
相変わらず子どもだなあ、と心の中で呆れつつも、自然と口元が綻んでしまう。
喧騒の中へ、私は軽やかな足取りで歩みを進めた。
「おはよう!」
教室の入り口付近ではしゃぐ男子たちの横を通り過ぎながら、その声に負けないくらいの声量で挨拶をした。
一瞬、男子たちがピタリと静まり返る。普段は息を潜めている私からの声かけが、予想外だったのだろう。
それでも、1人がハッとして「……おはよう」と返してくれた。
それに続くように、「おはよー」「ちわー」と声が返ってくる。
よかった。第1ミッションクリアだ。
自席に向かう途中ですれ違った生徒や、すでに席に着いている生徒に順番に挨拶をする。
誰1人無視することなく、返事をしてくれた。
私のクラスの人たち、思っていたよりもずっと良い人たちだったみたいだ。
今日だけですでに8人と挨拶を交わしている。新記録樹立だ。
これから毎日更新する勢いで頑張ってみることにする。
名付けて、「挨拶記録更新ゲーム」。
学校の先生や生徒のうち、1日で何人に挨拶できるか。
今日は1日目なので8人にしておこう。初日から飛ばすとバテるのが目に見えているから。
挨拶の人数じゃなくて、しゃべった人の人数のほうがいいかな。唐突に挨拶だけしても、次の会話を探すのが難しそうだ。
そんなことを考えながら自席にたどり着き、リュックを下ろす。
よし、次は第2ミッション。
誰でもいいからクラスの女子グループに話しかけなきゃ。
明日から通常授業が始まるため、昼休みもある。2学期早々ぼっち飯は回避したいところだ。
暇そうにしている女子はいないかな〜と辺りを見渡すと、さっきの私の様子を見ていたのか、近くの席に集まっていた女子3人組と目が合った。
名前はえっと、田中さん、上本さん……北さんだ。
上本さんとは、1年生のときも同じクラスだった気がするが、記憶が曖昧なので自信がない。
とりあえず私から「おはよう」と声をかけてみると、3人からもまばらに「おはよう」と返ってきた。
よし。第2ミッションの第1関門はクリアだな。これをきっかけに次の話題を振らなきゃ……。
次の言葉を探していると、3人が窓際の最前列——私の席までやってきた。
「ねえ、涼花ちゃんが学校辞めたって本当?」
なーんだ。
私自身に興味を持って話しかけてくれたのかと、少しだけ期待してしまった。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしない。きっかけはどうであれ、これはチャンスだから活かさないと。
「うん、そうなの。なんで辞めたかまでは私は知らないんだけど、遠くへ行っちゃったみたいで。……寂しいよね」
本当のことに、少しだけ嘘を織り交ぜる。彼女の大切な秘密を守るために。
すると、上本さんが少し気まずそうに、けれども優しい声で言った。
「そっか、そうだったんだ。1番仲良かった原田さんは、寂しいよね。……もしよかったらさ、これから私たちと一緒に行動しようよ」
思わぬお誘いだった。自分から動いてどこかの輪に入っていくしかないと覚悟を決めていたから、とてもラッキーだ。今日は運が私に味方してくれている。
「うん、ありがとう。すっごく嬉しい。これからよろしくね!」
第2ミッションクリア。十分すぎる滑り出しだ。
涼花が知らない場所で頑張るのだから、私も頑張らなきゃ。
今、涼花のために私ができる精一杯のことは、自分の面倒を自分で見ることだ。そういう結論に落ち着いた。
涼花がこっちに帰ってきたときに、こんなにも友達いるんだ!って驚かせてやる。
私は心の底からの笑顔を3人に向けた。
翌日。2学期最初の昼休みは、火曜日の放送当番から始まった。当番を終えて教室に戻ると、いつものように残り時間は10分ほど。私は新調した巾着袋を手に、3人のもとへ向かう。
狭い教室の中を移動するだけなのに、昇降口から教室までの道のりよりもずっと長く感じる。少し緊張するが、大丈夫。3時間目の移動教室にも一緒に行ったのだから、受け入れてくれるはずだ。移動教室が一緒なら、お弁当も一緒でいいよね。
手の中の巾着には、今朝自分で作ったお弁当が入っている。「今日から自分の分は自分で作るから!」と、お母さんに宣言してきた。
このパステルピンクの巾着は、涼花と最後に遊んだあの日、ショッピングモールの雑貨屋さんで買ってもらったものだ。目に留まったものの、ピンクはちょっと幼いと思って棚に戻そうとしたところ、涼花が買ってプレゼントしてくれた。
「涼花って、スマートなことできちゃうのね!」と言ったら、むくれていたっけ。
涼花との思い出が、私の背中をそっと押す。
「えっと……お弁当、一緒に食べてもいい……かな?」
すでに集まってお弁当を広げていた3人が、一斉にこちらへ顔を向け、その後、互いに顔を見合わせた。
一瞬の沈黙。ああ、これが苦手なんだ。
必死に耐えていると、その沈黙を打ち破ったのは田中さんの声だった。
「もちろん!ここおいで〜」
そう言って、椅子の上で体を横にずらし、半分ほど場所を空けてくれる。
「え?」
戸惑いながらも、私はそこへ滑り込んだ。2人で椅子に半分ずつ座る格好になる。
「え?」
え?なんかまずかっただろうか。
3人はまた顔を見合わせると、どっと笑い声を上げた。北さんが大きく口を開けて笑いながら、説明してくれる。
「あっははは、冗談だよ」
「え、冗談なの?」
当の田中さんも笑っている。
「まさか本当に座るとは思わんかった!ナイスプレー!」
「ナイスプレー……」
ナイスプレーってテニスでも言うの?野球じゃないの?と、2人はケラケラ笑いながら、まだ輪に入りたての私にはついていけないテンポで会話を繰り広げる。
取り残された私は、ひとしきり笑い終えた上本さんにこっそり聞いた。
「えっと……どうしたらいい、私は」
上本さんは箸を手に、はにかんだ。
「これから一緒にご飯食べよう!ってことだよ」
ちょっと独特な入会方法だったが、無事、行動だけでなくご飯まで一緒に食べる権利を手にすることができた。よかった。
涼花は次々と話題を振ってくれていたけれど、この3人とはそうはいかないだろう。新参者として何か話題を提供せねばと思っていると、上本さんが耳打ちしてくれた。
「気、遣わなくていいからね。友達だから」
そう、友達だ。一緒に移動して、ご飯を食べて、同じ時間を過ごす。
移動は一緒でもご飯は別、なんて、いちいち分けて考えなくていいんだ。私たちは友達なのだから。
「うん。ありがとう!ねえ、上本さんのおかず、それ餃子?」
上本さんのお弁当箱に2つ並んでいる、茶色いおかずを指さした。
「そう、餃子なの。近所に餃子屋さんがあって、冷凍のものをいっぱい買いだめしてて。うちの定番のおかずなんだよね〜」
上本さんは箸でつまんだ餃子を見せてくれて、そのまま私が開けたお弁当箱へ1つ移した。
「え?いいの?」
パリッと背筋を伸ばした餃子が、私がぎゅうぎゅうにおかずを詰めた不格好なお弁当の真ん中に鎮座している。
「うん、いいよ!おいしいから食べてみて」
箸で餃子をつまもうとすると、田中さんとじゃれ合っていた北さんが声を上げた。
「あ!いいな、もらったの?」
「それ、おいしいやつだよ。いいな〜」
田中さんも、羨ましがるというより、この場を盛り上げようとしてくれているようだった。
私はここでやっていける。
そう確信して、ふっと顔を上げ、3人に向かって声を張った。
「いいでしょ!いただきまーす!」
いつもより大きく口を開けて、餃子を大げさに頬張ってみせた。
それからは、私を含めた4人でご飯を食べ、行動を共にするようになった。
3人は私を快く受け入れてくれて、本当に感謝している。
たくさん話をしているうちに、それぞれのことが分かるようになってきた。
田中さんは、ソフトテニス部。少し焼けた肌に、短く切りそろえた髪がよく似合う。
小学校のクラブからずっとテニスを続けており、県大会出場メンバーの常連だったようだ。
中学3年生のときには準優勝という、部史上最高の成績を残したそうだ。けれど本人は最後の試合で負けてしまったことが悔しくて、高校でもソフトテニスを続けているらしい。
幼い頃から熱中できるものがあるって素晴らしいことだと思う。
上本さんは、吹奏楽部。楽器はトランペット。確かに、楽器らしきものを持っているのを見たことがあった。
中学では文芸部だったが、図書館で絵を描いているときに、いつも音楽室から聞こえてくる吹奏楽部の合奏に惹かれたという。高校では吹奏楽部一択だったらしい。
部員の8割ほどが中学からの経験者で、なかなか3年間の差を埋められずにもやもやしているようだ。それでも、中学のときによく耳にしていた曲を吹けるようになることを目指して、練習に励んでいる。
そして北さんは書道部。書道は書道でも、書道パフォーマンス部だ。
書にダンスや演劇などの身体表現を組み合わせ、音楽に合わせて動いたり踊ったりしながら紙の上に文字を描いていく。
その動画を見せてもらったが、まったく目が足りない。
複数人が同時にパフォーマンスをするため、見どころが次から次へとやってくるのだ。
大きな筆と小さな筆、そして巨大な紙。その対比が面白い。
目を離さずにじっと見ていると、ただの白い紙に力強い文字が次々と浮かび上がってくる。
音楽との調和、パフォーマンスの構成、紙と文字のバランスなど、考えなければならないことが多そうだ。これをみんなで息を合わせてやるのだからすごい。
うちの書道パフォーマンス部の顧問は、高校書道界ではかなりの有名人らしい。
北さんはその顧問の指導を受けるために、わざわざ通学に1時間半もかかるこの高校を選んだという。
確かに校舎には、「書道パフォーマンス選手権大会出場」という垂れ幕が誇らしげにかかっている。
すごいな。学力ではなく、部活動で高校を選ぶことなんて考えたことがなかった。
なんとなくで放送部を選んでしまった自分が、少し恥ずかしくなった。
みんなそれぞれ打ち込んでいるものがあって、本当にすごい。
私が夢中になったものはオルタンシアぐらいだろうか。
幼い頃から続けているものもないし、今、他に何かに夢中になっているわけでもない。続けているものといえば、高校の強制部活動入部システムによって惰性で続いている放送部くらいだ。
他に突出したものもない。これから始められる趣味とかあるだろうか。
来年には受験もあるから、今から他の部活を兼部する選択肢はなさそうだ。ここまで何もしてこなかった自分に喝を入れる。
同じクラスのみんなのことを、きちんと知ろうとしてこなかったのも悔しい。
涼花以外の人はモブで、誰もが同じだと思っていた。
でも、違う。1人1人に様々なバックグラウンドがある。
生まれ育った場所、家族構成、小さい頃に好きだったもの、そして名前。
みんな必ず何かしら違う。何から何まで同じ人なんていない。
話を聞いているうちに、「自分も同じような選択をしていたかもな……」とか、「自分なら絶対に選ばない道に進んだんだな」とか、思いを巡らせる。
人生って枝のように無数に分かれていて、1つ違う枝に進めば、その後は何もかもが違う自分になるのだろう。
ここにいない自分なんて想像ができないが、もちろんあり得た世界線だ。
そう思うと、ちょっと背伸びしてこの学校を受験してよかったと思える。私の高校受験での選択は間違っていなかった。
まずはクラスメイトから。みんなのことをたくさん知っていきたいし、私のことも知ってほしい。
これからでもまだ、間に合うよね。
3人はみんな放課後に部活があるから、一緒には帰れない。だからこそ、お昼休みや教室を移動するときなど、話せる時間がある限り、私は3人としゃべっている。
机をくっつけてお弁当のおかずを交換したり、次の授業の教室まで小走りで向かいながら、他愛のないことで笑い合ったり。
そんな何気ない時間が、今の私にはとても愛おしい。
放課後のチャイムが鳴ると、3人は「また明日ね!」と手を振って、それぞれの部室へと急いでいく。
彼女たちの背中を見送ってから1人で帰路に就く瞬間は、正直少しだけ寂しい。
けれど、1人で下る帰り道は、以前のように息苦しくはなかった。
空っぽだった私の放課後に、明日もまた学校へ行くのが楽しみだと思える、温かい余韻が残るようになったからだ。
9月のある土曜日の午後。帰宅して自室でくつろぎながら、私は通学用リュックにつけたうさぎのキーホルダーを指で少し揺らした。
今日は午前中、田中さん、上本さん、北さんの3人とショッピングモールへ遊びに行っていた。
電子音がけたたましく鳴り響くゲームセンターで、「ああっ、惜しい!」「次絶対いけるって!」とみんなでガラスケースに張り付いて騒いだ時間が、まだ頭の隅で熱を持っている。
涼花とはクレーンゲームで遊ぶことはなかったから、私にとっては新しい遊び方だった。
苦戦しながらも田中さんが取ってくれて、「はい、これ」と少し照れ臭そうに渡してくれたのが、このうさぎだった。
上本さんは猫、北さんはひよこ、そして田中さんは亀。
同じシリーズのマスコットたち、つまり「お揃い」だ。初めての、4人でのお揃い。
ちょっと不機嫌そうな顔をしたうさぎが、憎たらしくて、でもたまらなく愛おしい。
うさぎのお腹辺りをツンツンと人差し指でつついた。
これからはこの子と一緒に通学するから、もう1人じゃない。
そんなふうにじんわりとした心地よさに浸っていたときだ。
ブブッと机の上のスマホが揺れた。画面に目を落とすと、通知のポップアップに涼花のLINEのアイコンが見える。
私と海に行ったあの日、いつの間にか涼花が撮っていた私の後ろ姿のアイコン。
何度見てもちょっとむず痒く、涼花には変えて、と頼んでいるが、今のところ受け入れてもらえていない。
私はすぐに通知をタップして既読をつけた。
『ねえみさき。4期生お披露目コンサートの日程、決まったよ。関係者席のチケット2枚もらったんだ。でも次の日、学校だよね?』
うるうると涙を浮かべる犬の絵文字付きのメッセージ。
涼花らしいな、と思わず笑ってしまう。どうやらお披露目コンサートは日曜日に決まったようだ。
東京へ引っ越した9月1日だってそうだった。「新学期の初日なんだから、見送りに来ちゃ絶対ダメ!」と、彼女は頑なに私の見送りを断った。
涼花はいつも、私が自分のせいで学校を休んだり、日常を崩したりするのを極端に嫌がる。
それに、もし私が関係者席にいたら、涼花はステージの上で私を探してしまい、心置きなくアイドルとして輝けないかもしれない。
だから、このチケットは私じゃなくて、もっと別の誰か……彼女をずっと傍で支えてきた家族に使ってほしい。
『2枚なんでしょ?涼花のご両親に渡しなよ。次の日学校だし、私は配信で見るから。テレビの前で全力で応援するよ』
もちろん、一般発売でチケット争奪戦に参加するのもやめておく。
涼花の思いを汲み取りたい。大人しく配信チケットを買おう。
『みさき〜ありがとう。そうするね。配信中はまばたき禁止だよ!』
涼花、アイドルっぽいことを言うようになったなー、と、ここにはいない本人を小突く真似をした。
少しずつアイドルらしく振る舞うようになっていく彼女に、ちょっとだけ寂しさを覚える。
ほんのちょっとだけね。でも、私だって私の場所で頑張るんだから。
変化を嘆いていては、何もできなくなってしまうから。
私は座っていたキャスター付きの椅子を1回転させ、自分の部屋をぐるりと見渡した。
涼花がここに泊まった8月30日の夜を思い出す。
まだ1ヶ月も経っていないのに、ずいぶん前の出来事のように感じる。
涼花がデビューしたら、グッズをいっぱい買って、この部屋に飾ろう。
そして、涼花がこっちに帰ってくるときには壁のポスターを外して、今の状態に戻そう。
涼花が「懐かしーな」なんて言いながら、ここでくつろげるように。
この何の変哲もないいつもの部屋さえも、大切な思い出の一部なのだ。
カシャ。
スマホのカメラを起動して、部屋の写真を撮る。
これは、オルタンシアの涼花のグッズで部屋を埋め尽くした後、彼女が来る日に『原状回復』するための資料として役立つはずだ。
そう思うと、何気ない部屋の写真が、ちょっとだけ特別に見えた。
涼花はしばらくこの家に来ることはない。その不在を埋めるように、私は涼花のグッズを飾るだろう。
でも私たちの絆が終わったわけではない。見えない光がいつも私たちを繋いでくれる。
きっとすぐに会えるよね。
ふと窓の外を見ると、雨が降っていた。
白雨。涼花から学んだ言葉を思い出す。
でも、暦の上では「夏」の言葉だから、もう当てはまらないよね。
秋が近づく今なら、『秋雨』とか『時雨』かな。
どっちも素敵な響きだ。今度涼花に教えてあげよう。もう知っている気もするけれど。
そういえば、オルタンシアの曲に『五月雨まで』という曲があったな。
五月雨って、どういう意味なんだろう。
『ファイトー!』と書かれた犬のスタンプを涼花に送信し、私はブラウザの検索画面を開いた。
検索ボックスに「五月雨」と入力して検索ボタンを押す。
すると、1番上に出てきた五月雨の意味の下に、オルタンシアの公式動画のリンクが載っていた。
スマホの作戦にまんまと負けて、そのリンクをタップする。
『五月雨まで』を歌うオルタンシアのメンバーが次々に映し出された。
「あなたへのおすすめ」欄には、「池田そら卒業コンサートの裏側完全密着!?」というタイトルの動画が並んでいる。サムネイルいっぱいに彼女の笑顔がある。
すでに見た動画だが、またタップしてみた。
前回止めた、メイクアップのシーンの続きから再生される。
動画は40分を超える長尺だが、眺めているとあっという間に時間が過ぎていく。
アイドルはただ表舞台でそれらしく振る舞っているだけでは駄目だ。
スマホであれテレビカメラであれ、その被写体である限り、アイドルを演じなければならない。
最近のアイドルは大変だ。もう何度も見ている動画なのに、結局最後まで食い入るように見つめてしまった。
見終わる頃には、すっかり夕暮れになっていた。楽しい時間は、なぜこんなにも早く過ぎ去ってしまうのだろう。
涼花と過ごした季節があっという間だったのと同じように、時間は決して私たちを待ってくれない。
赤みを帯びた空の色が映ったカーテンが、ゆらゆらと物憂げに揺れていた。
気象や雨に関する用語は、1発で読めないことが多い。
でも、最初からすんなり読めないからこそ、心と記憶に深く残るのだと私は思う。
涼花は天気や星座に詳しかった。なんで詳しかったのかは知らないから、今度聞いてみよう。
その場から立ち上がり、スマホを両手で構え、野球のピッチャーを意識して左足をお腹の高さまでゆっくりと上げる。
少しよろめきながらも振りかぶって、ベッドをめがけてポーンと放り投げる。
スマホはちょうどベッドのど真ん中に着地した。
その衝撃でベッドが少し沈み、スマホは一瞬宙に跳ねてから、ほぼ同じ位置に着地する。
ナイスコントロール!
頭の中では、マウンドの中心で片手を挙げて声援に応える。
野球選手というよりは始球式に出た気分で歩き、窓を開けてベランダに出た。
ベランダのサンダルがかなり汚い。普段はここに出ないため、雨水にさらされたままになっていたからだろうか。
まあ大丈夫だろうと躊躇なく足を入れてしまったが、ちょっと嫌な予感がする。
ざらざら、じゃりじゃり。片足を上げて足首を持ち、足の裏を覗き込むと、黒く汚れていた。
このまま部屋や廊下を歩き回ると跡が付く。部屋に置いてあるタオルで拭って、その後お風呂場で足を洗おう。
1度足をサンダルに戻し、ゴムの底に左足を前後に擦り付ける。
ざらざら、じゃりじゃり。その感覚がなんだかやめられず、足を動かしながら空を見上げる。
いつの間にか雨は止んでおり、空はずっと奥まで茜色に染まっていた。
部屋からも外の様子は見えるが、こうやってベランダに出ると、より広く遠くまで空が見える。
空は空でも、ずっと遠く高いところ。部屋の中からでは見えなかった、鳥の羽のようなスッとした雲が並んでいた。
茜色と雲の白色。どっちも良い。雲は止まっているようにも見えるが、ゆっくりゆっくりと動いている。
何事にも大きな変化や成長を求めてしまいがちだが、こんなふうにじっと見つめてみると、雨上がりに虹が架かっていなくても空は綺麗なんだな。
停滞しているように見えるものでも、時間をかけて目を向ければ、緩やかに動いていることに気づける。
私も、たとえ時間がかかっても、小さな変化や成長に気づける人でいたい。
いつもスマホを触っている時間を少しだけ、空を眺める時間に置き換えてみよう。
空は、毎日違う色と形、表情を見せてくれる。
艶やかに光る茜色の空の下、今日も私の背中を風がなぞる。
窓際の段差に腰掛け、タオルで軽く足を拭うと、小さな砂利や砂がベランダに散らばっていった。
私は汚れたサンダルとタオルを持って部屋を出た。
階段を下りながら、涼花がしてくれた話を思い出す。
織姫星は夏だけでなく、秋も、冬も見られる星なのだと教えてくれた。
今日も見られるかな。夜になったら、もう1度ベランダに出て、空を眺めてみるか。
最も輝く青い星は、今はどこにいるのかな。
空は、星の姿を追う私にまた違った顔を見せてくれるのだろう。
それまでに、このサンダルをどうにかしなきゃ。
タオルを洗濯機に入れ、サンダルをお風呂場に持ち込むと、近くにあったボディーソープのポンプを押す。
歯ブラシでごしごし擦るが、あまり汚れは落ちない。
足が黒くならない程度に落ちれば十分だけど、まだ汚れが酷い。
この黒はここに頑固に居座り続ける気なのか。
それでも頑張って擦り続けると、観念したのか、ある程度の汚れは落ちてくれた。
洗う前より明らかに綺麗になったサンダルを見て、満足してふうっと息をつく。
涼花とお揃いのワンピースを手洗いしたときも、こんなふうに満足したっけ。
あのときは、汚れが落ち切らなくても満足していたんだ。
ワンピースは今、クローゼットの中に大事にしまわれている。
あまりの汚れっぷりにお母さんに処分されそうになったことがあったが、あのときは危なかった。
砂か、泥か、アスファルトで擦れたのか、茶色や黒の点々たちは、1点ものの特別なデザインだ。
私たちのワンピースはもうあの店のショーウィンドウにはない。スポットライトで煌めいてもいない。
それでもクローゼットに眠るワンピースは、思い出と共に光って見えた。
11月。カレンダーに赤い丸印を付けた日が来た。今日は涼花のアイドルデビュー当日である。
ずっと先だと思いながら、カレンダーに毎日バツ印を付けてカウントダウンしていたが、思いのほか早かった。
待ち遠しい日がすぐ来たというのは良いことだ。
自室に飾られたラムネの瓶は、今は中にビーズが入り、キラキラと存在感を放っている。それを見つめながら、涼花と交わした会話を思い出す。
離れてからも、涼花とはメッセージや通話でたくさん話をした。レッスンについて、「今日はうまくできなかった」と漏らした日もあった。
詳しい事情は分からないけれど、「大丈夫だよ!涼花なら絶対大丈夫だから!」と背中を押した。「それでも限界になったら、ちゃんと言うんだよ」とも付け加えて。
新しい友達との間にあった緊張が、思ったより早く解けたことも報告した。
涼花は「浮気したのかあ。寂しいなあ」なんてとぼけていたので、「アイドルがそんなこと言うな!」って、思わずツッコミを入れてしまった。
涼花いわく、まだデビューしていないからOKらしい。
それは屁理屈だ。「過去のことを週刊誌とかに掘り返されたらどうすんの!」って、私が喝を入れる。
「どっちがこれからアイドルになるんだよ、プロ意識が足りないよ!」
なんて話もしたっけ。
おっと、もうこんな時間。思い出に気持ちよく浸っていたいが、そろそろこちらも準備しなければいけない。
自室を出て、階段を下りる。リビングにはすでに両親が集まっていた。
私はスマホをリビングのテレビに繋げる。
今日は自室の小さいテレビじゃない。いつもよりずっと大きい画面の前で、4期生お披露目コンサートの始まりを待った。
すでにオーディション公式サイトでは、合格者の顔写真や趣味、出身地などの情報が解禁されているが、観客の前に立つのはこれが初めてである。
「配信開始まで今しばらくお待ちください」の文字が変わるのを、今か今かと待ち続ける。
ソファに座る私の両隣には両親がいる。2人はスポーツの試合を見ているかのように、手に汗を握って涼花の登場を待っている。
お父さんが持つオルタンシアのペンライトは紫に光っている。その光景が見慣れなくて、ミスマッチで、最高だ。
お母さんは、後で食べるためにと、ピザやポテト、テイクアウトしたハンバーガーをこれでもかというほど並べていた。今日はパーティーだ。
けれど、テーブルに並ぶ豪華な食事よりも、視線はテレビに向く。両親も食事には一切手を付けず、画面を見つめていた。
何分待っただろうか。ずっと待ちわびていたのに、いざ画面が切り替わると驚いてしまう。ついに来た、この時が。
そこには先輩メンバーたちが紫の衣装を着て並んでいた。現リーダーが前でマイクを持ち、オーディションに至るまでの話を始める。
オルタンシアになれてよかったこと。大切なメンバーを何人も迎え、見送ってきたこと。
そして、もっと多くの人にアイドルになってほしいこと。オルタンシアがもっと大きく美しくなるために必要な決断だったこと。
1つ1つ丁寧に語られた言葉は、私たちファンが持ち続けていた疑問への答えになっているようで、なっていない。
双方向のようで一方的な言葉たち。裏では、顔も知らない大人たちの思惑が絡み合って、名前さえ知らない誰かの一存で物事が決まったり、覆されたりしているのだろう。
そして、決められたことを遂行するメンバー。でもメンバーは生身の人間で、人形ではない。
それでもこの雰囲気に圧倒されて、何も言い返せなくなる。
いつも矢面に立たされるのはアイドルだ。
人間離れした美しさと輝きを放ち、アイドルであり続けようと、幾重にも努力と絶望を重ね続け、やがて卒業を迎える。
そしてそれを見て育った子どもが大きくなり、またアイドルに憧れる。
アイドルをやるためだけに芸能活動をし、卒業と同時に引退する者。
アイドルを利用して、女優に転身する者。
アイドル活動だけでは生計が成り立たず、アルバイトをしながら活動を続ける者。
ただ名前を存続させるためだけに、メンバーの脱退と加入を繰り返すグループ。
大胆なプロモーションを行い、デビューまでの積み重ねさえも切り貼りして売り物にした末に、デビュー当初が最も輝いていたグループ。
ファンと信じられないくらいの距離感で写真を撮る特典会を売りにするグループ。
巡り巡って、アイドルが継承されるのは、単なる憧れゆえか、それとも。
どんな理由が裏にあろうと、文句を言いながらも、やっぱり好きなものは好き。
都合の悪いものには目を瞑り、ファンはただステージで笑うアイドルの姿だけを信じる。
アイドルは特別だ。その儚い人生が商品になる。
これは魔法以外の何ものでもない。私たちは非科学的なものが、また新たに誕生する瞬間に立ち会っている。
オーディション合格者の8人が、ぞろぞろと並びながらフレームインしてくる。
合格者は揃いの衣装ではなく、それぞれ思い思いの服を着ている。
色も系統も違う服に個性を感じる。どんな服を着るかによって、最初の印象が決まる。
すでに、アイドルとしての戦略的自己プロデュースは始まっている。
それぞれの気合いがこもった服なのだろう。私たちはそこに込められた思いを何も知らないまま、応援していくのだろう。
そんなことを考えながら、選ばれた女の子たちを眺める。
胸元にあしらわれたリボンが特徴的な女の子の次に、涼花の姿が映ったとき、私は息を呑んだ。
彼女の姿を見て圧倒されている人は他にもいるだろうが、そのワンピースに目を奪われ、画面を食い入るように見つめているのは、きっと私だけだ。
ポニーテールに、水色のワンピース。あのときの格好のままだった。
3ヶ月が経ったというのに、最後に直接会った涼花の姿のままだった。
彼女は変わったけれど、何も変わっていなかった。
よく見ると、スカートの裾が泥で汚れたのか、うっすらとシミになっている。
画面越しでも分かるのだから、直接見たらかなり目立つものだろう。
この服でよくOKしてもらったなあ。ひょっとしたら裏でスタッフとバトルを繰り広げたりしたのかも。
なんて想像すると、涼花はどこまでも涼花だな、と思う。ブレない。そういうところだよ、涼花。
8人は1列に並び、端から順番にマイクが渡されていく。
アイドルになりたかったと涙ながらに語る子。
オルタンシアのコンセプトに惹かれて応募した子。
子役経験を持ちながらもアイドルに転身した子。
それぞれが思い思いの言葉を語っていく。そして、とうとう涼花の番が来た。
彼女は少しだけ緊張した面持ちで、けれどまっすぐにカメラの奥を——まるで私を見透かすように見つめた。
「はじめまして。……木下涼花です」
少し震える、けれど芯のある声がリビングのスピーカーから響く。
「私は、空を見るのが好きです。突然降ってくる『白雨』も、景色を染める『秋雨』も。どんな天気の日でも、空はずっと遠くまで続いていて……離れた場所にいる大切な人と、繋がっていると思えるからです」
息を吸い込む音が、マイクを通して微かに聞こえた。
「小さい頃から、両親が共働きで、1人で家にいる時間が長かったんです。今は年の離れた弟がいて賑やかになりましたが、当時の私の寂しさを埋めてくれたのは、テレビの中で輝くアイドルやヒーローでした。だから今度は私が、画面の向こう側にいる、あの頃の私のような誰かを孤独から救えるような……いつか、大きな虹を架けられる、そんなヒーローみたいなアイドルになりたいです。よろしくお願いします!」
深くお辞儀をして顔を上げた彼女の笑顔は、もう、紛れもなくプロのアイドルのそれだった。
SNSを開いてみると「言葉選びが綺麗」「長女なんだね」「応援する!」といった文字が次々と流れていく。
ファンから見れば、ロマンチックで優等生らしい、完璧な挨拶だろう。すごいよ涼花。
もう涼花には、私以外のたくさんのファンがいるんだね。
あの日曜朝のヒーローアニメに詳しかったのは、ただ弟と一緒に見ていたからではなく、幼い頃の涼花もヒーローに救われていたからだったんだ。
テレビの画面越しに、また1つ、私は涼花の新しい一面を知ってしまった。
遠くへ行ってしまったのだと、少しだけ胸の奥がちくりと痛む。
けれど、私には痛いほど分かっていた。これは誰かに用意された虚像なんかじゃない。
天気に詳しくて、ヒーローが好きで、弟思いで、少しだけ不器用な——これは、私の大好きな「ただの高校生の涼花」から出てきた本当の言葉だ。
あの日の海で交わした約束。私がベランダから見上げていた、茜色の空と白い雲。全部、全部繋がっている。
私が「ファイトー!」のスタンプで送ったエールに、彼女はステージの上から、最高の形で返事をしてくれたのだ。
気づけば、海でボロボロと泣いていた涼花のように、私もぐしゃぐしゃの顔で泣いていた。
涼花、見てるよ。あなたのスタートラインを。心から、おめでとう。ありがとう。
彼女の輝かしい未来を祝して、3人で久しぶりの乾杯をした。
「かんぱーい!」
明るい声に合わせて、グラスが触れ合う澄んだ音がリビングに響く。
手元のサイダーでは、シュワシュワと絶え間なく泡が浮き上がっては、水面で小さく弾けて消えていく。
同じ泡は2度と現れず、1つ1つがすべて別物だ。
それはまるで、2度とは戻らない過ぎ去った時間や、一瞬の煌めきのために命を燃やすアイドルの姿のようにも見えた。
私はサイダーを一気に飲み、喉の奥を刺すような炭酸の刺激で、こぼれそうな涙を無理やり引っ込めようとする。
ふと、あの夜のことが脳裏をよぎった。
8月31日。お揃いの水色のワンピースを泥まみれにして、泣きながら帰宅したあの日。
顔は涙と汗と鼻水でぐしゃぐしゃで、自分でも酷い顔をしているのが分かった。
玄関を開けると、いつものように家の明かりと夕食の匂いが私を迎え入れてくれた。
泥だらけで目を真っ赤にして帰ってきた私を見て、両親は少し驚いた顔をしたけれど、何も聞かずに「おかえり」「お風呂沸いてるわよ」とだけ言ってくれた。
その変わらない日常の温かさに、限界まで張り詰めていた心が少しだけ解けたのを覚えている。
自室に戻り、海水を吸ってずっしりと重くなった水色のワンピースを脱ぐ。
裾の、ちょうどふくらはぎに当たる辺りには、べっとりと砂と泥がこびり付いていた。
洗面所へ行き、冷たい水で丁寧に揉み洗いをする。
ごしごしと擦るたび、海のしょっぱい匂いがふわりと立ち上った。
泥はなかなか落ちてくれなかったけれど、私は諦めずに洗い続けた。
この汚れを落としたからといって、涼花との思い出が消えるわけじゃない。
またいつか、彼女と並んでこの水色を着る日のために、私は祈るようにワンピースの形を整えたのだ。
シャワーを浴びて部屋に戻る。たった1日前の夜には、この部屋の床に敷いた布団で涼花が静かな寝息を立てていたのに。今はもう、いつもの私1人の空間に戻っている。
壁に掛かったカレンダーを見つめ、私は「8月31日」の枠に、ペンでそっとバツ印を付けた。
私たちの長く、濃密だった夏が終わったことを、少しずつ実感していく。
でも、ここからまた始まっていくのだ。
ありがとう青春。そして、これからもよろしくね、青春。
お父さんが手元の空き缶を置くカツンという小さな音で、私はふっと我に返った。
いつの間にかサイダーのグラスを両手で握りしめたまま、またボロボロと涙をこぼしていたことに気づいて、少し驚く。
けれど両親はあのときと同じように、「どうしたの」「何かあったの」と問い詰めることも、叱りつけることもしなかった。
目の前の娘のただならぬ様子から、すべてを察してくれたのだろう。
お母さんがそっと背中に手を回し、お父さんが少しぎこちない手つきで肩をポンポンと叩く。
両側から温かく包み込むように抱きしめて、無言のまま頭を撫でてくれた。
空になったグラスをテーブルに置くと、堪えようとしていた涙があの頃と同じように、とめどなく溢れていく。
私は、2人の間で子どものように泣きじゃくった。
私は泣いてばかりだ。ほんの半年前までは斜に構えて、何かに熱くなることも、こんなに大声で泣くこともなかったはずなのに。
でも不思議と、胸の奥は清々しく、晴れやかな気持ちで満たされていた。
涼花は、あんなにも眩しい場所で、何万人もの孤独を救うヒーローになった。
それに比べて私はどうだろう。特別な才能もなければ、まだ将来の明確なビジョンだってない。
私はまだ何一つ持っていない、ただの17歳の女の子だ。
けれど、何一つ持っていないからこそ、これからの日々で、この両手いっぱいに新しい何かを掴み取っていけるはずだ。
両親の服を涙で濡らしながら、私は窓の外に広がっているであろう、見えない星空に向かって静かに決意した。
まだまだ厳しい残暑の中、私は学校へと続く坂を上っていた。先ほどいつもの踏切に引っかかり、5分ほどの足止めを食らった。せわしなく往来する電車を心の中で労う。今日も朝からお疲れ様です。
この調子で坂を上れば、着席時間までまだ20分あるから余裕だろう。左手では、フル充電してきた水色のハンディファンが回り続けている。
他の色より水色が1番涼しげで、少しでもこの残暑を和らげてくれそうに見えたから、この色にしたのだ。夏を象徴するアイテムであるハンディファンは、やっぱり水色がよく売れるのだろうか。
じゃあ、冬は何色が売れるのだろう。赤や緑?それはクリスマスカラーに引っ張られすぎだよな。よく考えたら、冬にハンディファンなんて売っているわけがない。最初から思考の方向性が間違っていた。
でも、ハンディファンを持つサンタさんを想像すると、とてもシュールな絵面で笑えてくる。
一縷の期待を込めて「ハンディファン サンタ」で検索してみるが、何もヒットしなかった。
さすがに季節感皆無だから、ないか……。
最近のネットはすごいから、結構突拍子もない組み合わせを入力してみても何かしら情報が出てくるのだが、さすがに時代を先取りしすぎたのだろう。
少し勢いが落ちた蝉の鳴き声が、降り注ぐ日差しに溶けるように響いている。
以前ならただ「うるさい」としか感じなかったその声も、今日ばかりはどこか愛おしく耳に届いていた。
夏の終わりを惜しむような必死の響きは、私の中にぽっかりと空いた、祭りの後のような虚しさと重なる。
けれど、その空洞があるからこそ、ここからまた新しい何かで満たしていけるはずだ。
ジリジリとした蝉時雨を全身に浴びていると、不思議と前を向こうという静かな熱が湧いてきた。
いつもの2-2のクラス札がかかった教室の前に立つ。
引き戸に手をかけ、ゆっくりと息を吐き出す。
両手で思い切って扉を開けると、そこには見慣れたクラスメイトたちの姿があった。
夏休み明けの登校初日だというのに、男子たちは朝からギャーギャーと何やらはしゃいでいる。
相変わらず子どもだなあ、と心の中で呆れつつも、自然と口元が綻んでしまう。
喧騒の中へ、私は軽やかな足取りで歩みを進めた。
「おはよう!」
教室の入り口付近ではしゃぐ男子たちの横を通り過ぎながら、その声に負けないくらいの声量で挨拶をした。
一瞬、男子たちがピタリと静まり返る。普段は息を潜めている私からの声かけが、予想外だったのだろう。
それでも、1人がハッとして「……おはよう」と返してくれた。
それに続くように、「おはよー」「ちわー」と声が返ってくる。
よかった。第1ミッションクリアだ。
自席に向かう途中ですれ違った生徒や、すでに席に着いている生徒に順番に挨拶をする。
誰1人無視することなく、返事をしてくれた。
私のクラスの人たち、思っていたよりもずっと良い人たちだったみたいだ。
今日だけですでに8人と挨拶を交わしている。新記録樹立だ。
これから毎日更新する勢いで頑張ってみることにする。
名付けて、「挨拶記録更新ゲーム」。
学校の先生や生徒のうち、1日で何人に挨拶できるか。
今日は1日目なので8人にしておこう。初日から飛ばすとバテるのが目に見えているから。
挨拶の人数じゃなくて、しゃべった人の人数のほうがいいかな。唐突に挨拶だけしても、次の会話を探すのが難しそうだ。
そんなことを考えながら自席にたどり着き、リュックを下ろす。
よし、次は第2ミッション。
誰でもいいからクラスの女子グループに話しかけなきゃ。
明日から通常授業が始まるため、昼休みもある。2学期早々ぼっち飯は回避したいところだ。
暇そうにしている女子はいないかな〜と辺りを見渡すと、さっきの私の様子を見ていたのか、近くの席に集まっていた女子3人組と目が合った。
名前はえっと、田中さん、上本さん……北さんだ。
上本さんとは、1年生のときも同じクラスだった気がするが、記憶が曖昧なので自信がない。
とりあえず私から「おはよう」と声をかけてみると、3人からもまばらに「おはよう」と返ってきた。
よし。第2ミッションの第1関門はクリアだな。これをきっかけに次の話題を振らなきゃ……。
次の言葉を探していると、3人が窓際の最前列——私の席までやってきた。
「ねえ、涼花ちゃんが学校辞めたって本当?」
なーんだ。
私自身に興味を持って話しかけてくれたのかと、少しだけ期待してしまった。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしない。きっかけはどうであれ、これはチャンスだから活かさないと。
「うん、そうなの。なんで辞めたかまでは私は知らないんだけど、遠くへ行っちゃったみたいで。……寂しいよね」
本当のことに、少しだけ嘘を織り交ぜる。彼女の大切な秘密を守るために。
すると、上本さんが少し気まずそうに、けれども優しい声で言った。
「そっか、そうだったんだ。1番仲良かった原田さんは、寂しいよね。……もしよかったらさ、これから私たちと一緒に行動しようよ」
思わぬお誘いだった。自分から動いてどこかの輪に入っていくしかないと覚悟を決めていたから、とてもラッキーだ。今日は運が私に味方してくれている。
「うん、ありがとう。すっごく嬉しい。これからよろしくね!」
第2ミッションクリア。十分すぎる滑り出しだ。
涼花が知らない場所で頑張るのだから、私も頑張らなきゃ。
今、涼花のために私ができる精一杯のことは、自分の面倒を自分で見ることだ。そういう結論に落ち着いた。
涼花がこっちに帰ってきたときに、こんなにも友達いるんだ!って驚かせてやる。
私は心の底からの笑顔を3人に向けた。
翌日。2学期最初の昼休みは、火曜日の放送当番から始まった。当番を終えて教室に戻ると、いつものように残り時間は10分ほど。私は新調した巾着袋を手に、3人のもとへ向かう。
狭い教室の中を移動するだけなのに、昇降口から教室までの道のりよりもずっと長く感じる。少し緊張するが、大丈夫。3時間目の移動教室にも一緒に行ったのだから、受け入れてくれるはずだ。移動教室が一緒なら、お弁当も一緒でいいよね。
手の中の巾着には、今朝自分で作ったお弁当が入っている。「今日から自分の分は自分で作るから!」と、お母さんに宣言してきた。
このパステルピンクの巾着は、涼花と最後に遊んだあの日、ショッピングモールの雑貨屋さんで買ってもらったものだ。目に留まったものの、ピンクはちょっと幼いと思って棚に戻そうとしたところ、涼花が買ってプレゼントしてくれた。
「涼花って、スマートなことできちゃうのね!」と言ったら、むくれていたっけ。
涼花との思い出が、私の背中をそっと押す。
「えっと……お弁当、一緒に食べてもいい……かな?」
すでに集まってお弁当を広げていた3人が、一斉にこちらへ顔を向け、その後、互いに顔を見合わせた。
一瞬の沈黙。ああ、これが苦手なんだ。
必死に耐えていると、その沈黙を打ち破ったのは田中さんの声だった。
「もちろん!ここおいで〜」
そう言って、椅子の上で体を横にずらし、半分ほど場所を空けてくれる。
「え?」
戸惑いながらも、私はそこへ滑り込んだ。2人で椅子に半分ずつ座る格好になる。
「え?」
え?なんかまずかっただろうか。
3人はまた顔を見合わせると、どっと笑い声を上げた。北さんが大きく口を開けて笑いながら、説明してくれる。
「あっははは、冗談だよ」
「え、冗談なの?」
当の田中さんも笑っている。
「まさか本当に座るとは思わんかった!ナイスプレー!」
「ナイスプレー……」
ナイスプレーってテニスでも言うの?野球じゃないの?と、2人はケラケラ笑いながら、まだ輪に入りたての私にはついていけないテンポで会話を繰り広げる。
取り残された私は、ひとしきり笑い終えた上本さんにこっそり聞いた。
「えっと……どうしたらいい、私は」
上本さんは箸を手に、はにかんだ。
「これから一緒にご飯食べよう!ってことだよ」
ちょっと独特な入会方法だったが、無事、行動だけでなくご飯まで一緒に食べる権利を手にすることができた。よかった。
涼花は次々と話題を振ってくれていたけれど、この3人とはそうはいかないだろう。新参者として何か話題を提供せねばと思っていると、上本さんが耳打ちしてくれた。
「気、遣わなくていいからね。友達だから」
そう、友達だ。一緒に移動して、ご飯を食べて、同じ時間を過ごす。
移動は一緒でもご飯は別、なんて、いちいち分けて考えなくていいんだ。私たちは友達なのだから。
「うん。ありがとう!ねえ、上本さんのおかず、それ餃子?」
上本さんのお弁当箱に2つ並んでいる、茶色いおかずを指さした。
「そう、餃子なの。近所に餃子屋さんがあって、冷凍のものをいっぱい買いだめしてて。うちの定番のおかずなんだよね〜」
上本さんは箸でつまんだ餃子を見せてくれて、そのまま私が開けたお弁当箱へ1つ移した。
「え?いいの?」
パリッと背筋を伸ばした餃子が、私がぎゅうぎゅうにおかずを詰めた不格好なお弁当の真ん中に鎮座している。
「うん、いいよ!おいしいから食べてみて」
箸で餃子をつまもうとすると、田中さんとじゃれ合っていた北さんが声を上げた。
「あ!いいな、もらったの?」
「それ、おいしいやつだよ。いいな〜」
田中さんも、羨ましがるというより、この場を盛り上げようとしてくれているようだった。
私はここでやっていける。
そう確信して、ふっと顔を上げ、3人に向かって声を張った。
「いいでしょ!いただきまーす!」
いつもより大きく口を開けて、餃子を大げさに頬張ってみせた。
それからは、私を含めた4人でご飯を食べ、行動を共にするようになった。
3人は私を快く受け入れてくれて、本当に感謝している。
たくさん話をしているうちに、それぞれのことが分かるようになってきた。
田中さんは、ソフトテニス部。少し焼けた肌に、短く切りそろえた髪がよく似合う。
小学校のクラブからずっとテニスを続けており、県大会出場メンバーの常連だったようだ。
中学3年生のときには準優勝という、部史上最高の成績を残したそうだ。けれど本人は最後の試合で負けてしまったことが悔しくて、高校でもソフトテニスを続けているらしい。
幼い頃から熱中できるものがあるって素晴らしいことだと思う。
上本さんは、吹奏楽部。楽器はトランペット。確かに、楽器らしきものを持っているのを見たことがあった。
中学では文芸部だったが、図書館で絵を描いているときに、いつも音楽室から聞こえてくる吹奏楽部の合奏に惹かれたという。高校では吹奏楽部一択だったらしい。
部員の8割ほどが中学からの経験者で、なかなか3年間の差を埋められずにもやもやしているようだ。それでも、中学のときによく耳にしていた曲を吹けるようになることを目指して、練習に励んでいる。
そして北さんは書道部。書道は書道でも、書道パフォーマンス部だ。
書にダンスや演劇などの身体表現を組み合わせ、音楽に合わせて動いたり踊ったりしながら紙の上に文字を描いていく。
その動画を見せてもらったが、まったく目が足りない。
複数人が同時にパフォーマンスをするため、見どころが次から次へとやってくるのだ。
大きな筆と小さな筆、そして巨大な紙。その対比が面白い。
目を離さずにじっと見ていると、ただの白い紙に力強い文字が次々と浮かび上がってくる。
音楽との調和、パフォーマンスの構成、紙と文字のバランスなど、考えなければならないことが多そうだ。これをみんなで息を合わせてやるのだからすごい。
うちの書道パフォーマンス部の顧問は、高校書道界ではかなりの有名人らしい。
北さんはその顧問の指導を受けるために、わざわざ通学に1時間半もかかるこの高校を選んだという。
確かに校舎には、「書道パフォーマンス選手権大会出場」という垂れ幕が誇らしげにかかっている。
すごいな。学力ではなく、部活動で高校を選ぶことなんて考えたことがなかった。
なんとなくで放送部を選んでしまった自分が、少し恥ずかしくなった。
みんなそれぞれ打ち込んでいるものがあって、本当にすごい。
私が夢中になったものはオルタンシアぐらいだろうか。
幼い頃から続けているものもないし、今、他に何かに夢中になっているわけでもない。続けているものといえば、高校の強制部活動入部システムによって惰性で続いている放送部くらいだ。
他に突出したものもない。これから始められる趣味とかあるだろうか。
来年には受験もあるから、今から他の部活を兼部する選択肢はなさそうだ。ここまで何もしてこなかった自分に喝を入れる。
同じクラスのみんなのことを、きちんと知ろうとしてこなかったのも悔しい。
涼花以外の人はモブで、誰もが同じだと思っていた。
でも、違う。1人1人に様々なバックグラウンドがある。
生まれ育った場所、家族構成、小さい頃に好きだったもの、そして名前。
みんな必ず何かしら違う。何から何まで同じ人なんていない。
話を聞いているうちに、「自分も同じような選択をしていたかもな……」とか、「自分なら絶対に選ばない道に進んだんだな」とか、思いを巡らせる。
人生って枝のように無数に分かれていて、1つ違う枝に進めば、その後は何もかもが違う自分になるのだろう。
ここにいない自分なんて想像ができないが、もちろんあり得た世界線だ。
そう思うと、ちょっと背伸びしてこの学校を受験してよかったと思える。私の高校受験での選択は間違っていなかった。
まずはクラスメイトから。みんなのことをたくさん知っていきたいし、私のことも知ってほしい。
これからでもまだ、間に合うよね。
3人はみんな放課後に部活があるから、一緒には帰れない。だからこそ、お昼休みや教室を移動するときなど、話せる時間がある限り、私は3人としゃべっている。
机をくっつけてお弁当のおかずを交換したり、次の授業の教室まで小走りで向かいながら、他愛のないことで笑い合ったり。
そんな何気ない時間が、今の私にはとても愛おしい。
放課後のチャイムが鳴ると、3人は「また明日ね!」と手を振って、それぞれの部室へと急いでいく。
彼女たちの背中を見送ってから1人で帰路に就く瞬間は、正直少しだけ寂しい。
けれど、1人で下る帰り道は、以前のように息苦しくはなかった。
空っぽだった私の放課後に、明日もまた学校へ行くのが楽しみだと思える、温かい余韻が残るようになったからだ。
9月のある土曜日の午後。帰宅して自室でくつろぎながら、私は通学用リュックにつけたうさぎのキーホルダーを指で少し揺らした。
今日は午前中、田中さん、上本さん、北さんの3人とショッピングモールへ遊びに行っていた。
電子音がけたたましく鳴り響くゲームセンターで、「ああっ、惜しい!」「次絶対いけるって!」とみんなでガラスケースに張り付いて騒いだ時間が、まだ頭の隅で熱を持っている。
涼花とはクレーンゲームで遊ぶことはなかったから、私にとっては新しい遊び方だった。
苦戦しながらも田中さんが取ってくれて、「はい、これ」と少し照れ臭そうに渡してくれたのが、このうさぎだった。
上本さんは猫、北さんはひよこ、そして田中さんは亀。
同じシリーズのマスコットたち、つまり「お揃い」だ。初めての、4人でのお揃い。
ちょっと不機嫌そうな顔をしたうさぎが、憎たらしくて、でもたまらなく愛おしい。
うさぎのお腹辺りをツンツンと人差し指でつついた。
これからはこの子と一緒に通学するから、もう1人じゃない。
そんなふうにじんわりとした心地よさに浸っていたときだ。
ブブッと机の上のスマホが揺れた。画面に目を落とすと、通知のポップアップに涼花のLINEのアイコンが見える。
私と海に行ったあの日、いつの間にか涼花が撮っていた私の後ろ姿のアイコン。
何度見てもちょっとむず痒く、涼花には変えて、と頼んでいるが、今のところ受け入れてもらえていない。
私はすぐに通知をタップして既読をつけた。
『ねえみさき。4期生お披露目コンサートの日程、決まったよ。関係者席のチケット2枚もらったんだ。でも次の日、学校だよね?』
うるうると涙を浮かべる犬の絵文字付きのメッセージ。
涼花らしいな、と思わず笑ってしまう。どうやらお披露目コンサートは日曜日に決まったようだ。
東京へ引っ越した9月1日だってそうだった。「新学期の初日なんだから、見送りに来ちゃ絶対ダメ!」と、彼女は頑なに私の見送りを断った。
涼花はいつも、私が自分のせいで学校を休んだり、日常を崩したりするのを極端に嫌がる。
それに、もし私が関係者席にいたら、涼花はステージの上で私を探してしまい、心置きなくアイドルとして輝けないかもしれない。
だから、このチケットは私じゃなくて、もっと別の誰か……彼女をずっと傍で支えてきた家族に使ってほしい。
『2枚なんでしょ?涼花のご両親に渡しなよ。次の日学校だし、私は配信で見るから。テレビの前で全力で応援するよ』
もちろん、一般発売でチケット争奪戦に参加するのもやめておく。
涼花の思いを汲み取りたい。大人しく配信チケットを買おう。
『みさき〜ありがとう。そうするね。配信中はまばたき禁止だよ!』
涼花、アイドルっぽいことを言うようになったなー、と、ここにはいない本人を小突く真似をした。
少しずつアイドルらしく振る舞うようになっていく彼女に、ちょっとだけ寂しさを覚える。
ほんのちょっとだけね。でも、私だって私の場所で頑張るんだから。
変化を嘆いていては、何もできなくなってしまうから。
私は座っていたキャスター付きの椅子を1回転させ、自分の部屋をぐるりと見渡した。
涼花がここに泊まった8月30日の夜を思い出す。
まだ1ヶ月も経っていないのに、ずいぶん前の出来事のように感じる。
涼花がデビューしたら、グッズをいっぱい買って、この部屋に飾ろう。
そして、涼花がこっちに帰ってくるときには壁のポスターを外して、今の状態に戻そう。
涼花が「懐かしーな」なんて言いながら、ここでくつろげるように。
この何の変哲もないいつもの部屋さえも、大切な思い出の一部なのだ。
カシャ。
スマホのカメラを起動して、部屋の写真を撮る。
これは、オルタンシアの涼花のグッズで部屋を埋め尽くした後、彼女が来る日に『原状回復』するための資料として役立つはずだ。
そう思うと、何気ない部屋の写真が、ちょっとだけ特別に見えた。
涼花はしばらくこの家に来ることはない。その不在を埋めるように、私は涼花のグッズを飾るだろう。
でも私たちの絆が終わったわけではない。見えない光がいつも私たちを繋いでくれる。
きっとすぐに会えるよね。
ふと窓の外を見ると、雨が降っていた。
白雨。涼花から学んだ言葉を思い出す。
でも、暦の上では「夏」の言葉だから、もう当てはまらないよね。
秋が近づく今なら、『秋雨』とか『時雨』かな。
どっちも素敵な響きだ。今度涼花に教えてあげよう。もう知っている気もするけれど。
そういえば、オルタンシアの曲に『五月雨まで』という曲があったな。
五月雨って、どういう意味なんだろう。
『ファイトー!』と書かれた犬のスタンプを涼花に送信し、私はブラウザの検索画面を開いた。
検索ボックスに「五月雨」と入力して検索ボタンを押す。
すると、1番上に出てきた五月雨の意味の下に、オルタンシアの公式動画のリンクが載っていた。
スマホの作戦にまんまと負けて、そのリンクをタップする。
『五月雨まで』を歌うオルタンシアのメンバーが次々に映し出された。
「あなたへのおすすめ」欄には、「池田そら卒業コンサートの裏側完全密着!?」というタイトルの動画が並んでいる。サムネイルいっぱいに彼女の笑顔がある。
すでに見た動画だが、またタップしてみた。
前回止めた、メイクアップのシーンの続きから再生される。
動画は40分を超える長尺だが、眺めているとあっという間に時間が過ぎていく。
アイドルはただ表舞台でそれらしく振る舞っているだけでは駄目だ。
スマホであれテレビカメラであれ、その被写体である限り、アイドルを演じなければならない。
最近のアイドルは大変だ。もう何度も見ている動画なのに、結局最後まで食い入るように見つめてしまった。
見終わる頃には、すっかり夕暮れになっていた。楽しい時間は、なぜこんなにも早く過ぎ去ってしまうのだろう。
涼花と過ごした季節があっという間だったのと同じように、時間は決して私たちを待ってくれない。
赤みを帯びた空の色が映ったカーテンが、ゆらゆらと物憂げに揺れていた。
気象や雨に関する用語は、1発で読めないことが多い。
でも、最初からすんなり読めないからこそ、心と記憶に深く残るのだと私は思う。
涼花は天気や星座に詳しかった。なんで詳しかったのかは知らないから、今度聞いてみよう。
その場から立ち上がり、スマホを両手で構え、野球のピッチャーを意識して左足をお腹の高さまでゆっくりと上げる。
少しよろめきながらも振りかぶって、ベッドをめがけてポーンと放り投げる。
スマホはちょうどベッドのど真ん中に着地した。
その衝撃でベッドが少し沈み、スマホは一瞬宙に跳ねてから、ほぼ同じ位置に着地する。
ナイスコントロール!
頭の中では、マウンドの中心で片手を挙げて声援に応える。
野球選手というよりは始球式に出た気分で歩き、窓を開けてベランダに出た。
ベランダのサンダルがかなり汚い。普段はここに出ないため、雨水にさらされたままになっていたからだろうか。
まあ大丈夫だろうと躊躇なく足を入れてしまったが、ちょっと嫌な予感がする。
ざらざら、じゃりじゃり。片足を上げて足首を持ち、足の裏を覗き込むと、黒く汚れていた。
このまま部屋や廊下を歩き回ると跡が付く。部屋に置いてあるタオルで拭って、その後お風呂場で足を洗おう。
1度足をサンダルに戻し、ゴムの底に左足を前後に擦り付ける。
ざらざら、じゃりじゃり。その感覚がなんだかやめられず、足を動かしながら空を見上げる。
いつの間にか雨は止んでおり、空はずっと奥まで茜色に染まっていた。
部屋からも外の様子は見えるが、こうやってベランダに出ると、より広く遠くまで空が見える。
空は空でも、ずっと遠く高いところ。部屋の中からでは見えなかった、鳥の羽のようなスッとした雲が並んでいた。
茜色と雲の白色。どっちも良い。雲は止まっているようにも見えるが、ゆっくりゆっくりと動いている。
何事にも大きな変化や成長を求めてしまいがちだが、こんなふうにじっと見つめてみると、雨上がりに虹が架かっていなくても空は綺麗なんだな。
停滞しているように見えるものでも、時間をかけて目を向ければ、緩やかに動いていることに気づける。
私も、たとえ時間がかかっても、小さな変化や成長に気づける人でいたい。
いつもスマホを触っている時間を少しだけ、空を眺める時間に置き換えてみよう。
空は、毎日違う色と形、表情を見せてくれる。
艶やかに光る茜色の空の下、今日も私の背中を風がなぞる。
窓際の段差に腰掛け、タオルで軽く足を拭うと、小さな砂利や砂がベランダに散らばっていった。
私は汚れたサンダルとタオルを持って部屋を出た。
階段を下りながら、涼花がしてくれた話を思い出す。
織姫星は夏だけでなく、秋も、冬も見られる星なのだと教えてくれた。
今日も見られるかな。夜になったら、もう1度ベランダに出て、空を眺めてみるか。
最も輝く青い星は、今はどこにいるのかな。
空は、星の姿を追う私にまた違った顔を見せてくれるのだろう。
それまでに、このサンダルをどうにかしなきゃ。
タオルを洗濯機に入れ、サンダルをお風呂場に持ち込むと、近くにあったボディーソープのポンプを押す。
歯ブラシでごしごし擦るが、あまり汚れは落ちない。
足が黒くならない程度に落ちれば十分だけど、まだ汚れが酷い。
この黒はここに頑固に居座り続ける気なのか。
それでも頑張って擦り続けると、観念したのか、ある程度の汚れは落ちてくれた。
洗う前より明らかに綺麗になったサンダルを見て、満足してふうっと息をつく。
涼花とお揃いのワンピースを手洗いしたときも、こんなふうに満足したっけ。
あのときは、汚れが落ち切らなくても満足していたんだ。
ワンピースは今、クローゼットの中に大事にしまわれている。
あまりの汚れっぷりにお母さんに処分されそうになったことがあったが、あのときは危なかった。
砂か、泥か、アスファルトで擦れたのか、茶色や黒の点々たちは、1点ものの特別なデザインだ。
私たちのワンピースはもうあの店のショーウィンドウにはない。スポットライトで煌めいてもいない。
それでもクローゼットに眠るワンピースは、思い出と共に光って見えた。
11月。カレンダーに赤い丸印を付けた日が来た。今日は涼花のアイドルデビュー当日である。
ずっと先だと思いながら、カレンダーに毎日バツ印を付けてカウントダウンしていたが、思いのほか早かった。
待ち遠しい日がすぐ来たというのは良いことだ。
自室に飾られたラムネの瓶は、今は中にビーズが入り、キラキラと存在感を放っている。それを見つめながら、涼花と交わした会話を思い出す。
離れてからも、涼花とはメッセージや通話でたくさん話をした。レッスンについて、「今日はうまくできなかった」と漏らした日もあった。
詳しい事情は分からないけれど、「大丈夫だよ!涼花なら絶対大丈夫だから!」と背中を押した。「それでも限界になったら、ちゃんと言うんだよ」とも付け加えて。
新しい友達との間にあった緊張が、思ったより早く解けたことも報告した。
涼花は「浮気したのかあ。寂しいなあ」なんてとぼけていたので、「アイドルがそんなこと言うな!」って、思わずツッコミを入れてしまった。
涼花いわく、まだデビューしていないからOKらしい。
それは屁理屈だ。「過去のことを週刊誌とかに掘り返されたらどうすんの!」って、私が喝を入れる。
「どっちがこれからアイドルになるんだよ、プロ意識が足りないよ!」
なんて話もしたっけ。
おっと、もうこんな時間。思い出に気持ちよく浸っていたいが、そろそろこちらも準備しなければいけない。
自室を出て、階段を下りる。リビングにはすでに両親が集まっていた。
私はスマホをリビングのテレビに繋げる。
今日は自室の小さいテレビじゃない。いつもよりずっと大きい画面の前で、4期生お披露目コンサートの始まりを待った。
すでにオーディション公式サイトでは、合格者の顔写真や趣味、出身地などの情報が解禁されているが、観客の前に立つのはこれが初めてである。
「配信開始まで今しばらくお待ちください」の文字が変わるのを、今か今かと待ち続ける。
ソファに座る私の両隣には両親がいる。2人はスポーツの試合を見ているかのように、手に汗を握って涼花の登場を待っている。
お父さんが持つオルタンシアのペンライトは紫に光っている。その光景が見慣れなくて、ミスマッチで、最高だ。
お母さんは、後で食べるためにと、ピザやポテト、テイクアウトしたハンバーガーをこれでもかというほど並べていた。今日はパーティーだ。
けれど、テーブルに並ぶ豪華な食事よりも、視線はテレビに向く。両親も食事には一切手を付けず、画面を見つめていた。
何分待っただろうか。ずっと待ちわびていたのに、いざ画面が切り替わると驚いてしまう。ついに来た、この時が。
そこには先輩メンバーたちが紫の衣装を着て並んでいた。現リーダーが前でマイクを持ち、オーディションに至るまでの話を始める。
オルタンシアになれてよかったこと。大切なメンバーを何人も迎え、見送ってきたこと。
そして、もっと多くの人にアイドルになってほしいこと。オルタンシアがもっと大きく美しくなるために必要な決断だったこと。
1つ1つ丁寧に語られた言葉は、私たちファンが持ち続けていた疑問への答えになっているようで、なっていない。
双方向のようで一方的な言葉たち。裏では、顔も知らない大人たちの思惑が絡み合って、名前さえ知らない誰かの一存で物事が決まったり、覆されたりしているのだろう。
そして、決められたことを遂行するメンバー。でもメンバーは生身の人間で、人形ではない。
それでもこの雰囲気に圧倒されて、何も言い返せなくなる。
いつも矢面に立たされるのはアイドルだ。
人間離れした美しさと輝きを放ち、アイドルであり続けようと、幾重にも努力と絶望を重ね続け、やがて卒業を迎える。
そしてそれを見て育った子どもが大きくなり、またアイドルに憧れる。
アイドルをやるためだけに芸能活動をし、卒業と同時に引退する者。
アイドルを利用して、女優に転身する者。
アイドル活動だけでは生計が成り立たず、アルバイトをしながら活動を続ける者。
ただ名前を存続させるためだけに、メンバーの脱退と加入を繰り返すグループ。
大胆なプロモーションを行い、デビューまでの積み重ねさえも切り貼りして売り物にした末に、デビュー当初が最も輝いていたグループ。
ファンと信じられないくらいの距離感で写真を撮る特典会を売りにするグループ。
巡り巡って、アイドルが継承されるのは、単なる憧れゆえか、それとも。
どんな理由が裏にあろうと、文句を言いながらも、やっぱり好きなものは好き。
都合の悪いものには目を瞑り、ファンはただステージで笑うアイドルの姿だけを信じる。
アイドルは特別だ。その儚い人生が商品になる。
これは魔法以外の何ものでもない。私たちは非科学的なものが、また新たに誕生する瞬間に立ち会っている。
オーディション合格者の8人が、ぞろぞろと並びながらフレームインしてくる。
合格者は揃いの衣装ではなく、それぞれ思い思いの服を着ている。
色も系統も違う服に個性を感じる。どんな服を着るかによって、最初の印象が決まる。
すでに、アイドルとしての戦略的自己プロデュースは始まっている。
それぞれの気合いがこもった服なのだろう。私たちはそこに込められた思いを何も知らないまま、応援していくのだろう。
そんなことを考えながら、選ばれた女の子たちを眺める。
胸元にあしらわれたリボンが特徴的な女の子の次に、涼花の姿が映ったとき、私は息を呑んだ。
彼女の姿を見て圧倒されている人は他にもいるだろうが、そのワンピースに目を奪われ、画面を食い入るように見つめているのは、きっと私だけだ。
ポニーテールに、水色のワンピース。あのときの格好のままだった。
3ヶ月が経ったというのに、最後に直接会った涼花の姿のままだった。
彼女は変わったけれど、何も変わっていなかった。
よく見ると、スカートの裾が泥で汚れたのか、うっすらとシミになっている。
画面越しでも分かるのだから、直接見たらかなり目立つものだろう。
この服でよくOKしてもらったなあ。ひょっとしたら裏でスタッフとバトルを繰り広げたりしたのかも。
なんて想像すると、涼花はどこまでも涼花だな、と思う。ブレない。そういうところだよ、涼花。
8人は1列に並び、端から順番にマイクが渡されていく。
アイドルになりたかったと涙ながらに語る子。
オルタンシアのコンセプトに惹かれて応募した子。
子役経験を持ちながらもアイドルに転身した子。
それぞれが思い思いの言葉を語っていく。そして、とうとう涼花の番が来た。
彼女は少しだけ緊張した面持ちで、けれどまっすぐにカメラの奥を——まるで私を見透かすように見つめた。
「はじめまして。……木下涼花です」
少し震える、けれど芯のある声がリビングのスピーカーから響く。
「私は、空を見るのが好きです。突然降ってくる『白雨』も、景色を染める『秋雨』も。どんな天気の日でも、空はずっと遠くまで続いていて……離れた場所にいる大切な人と、繋がっていると思えるからです」
息を吸い込む音が、マイクを通して微かに聞こえた。
「小さい頃から、両親が共働きで、1人で家にいる時間が長かったんです。今は年の離れた弟がいて賑やかになりましたが、当時の私の寂しさを埋めてくれたのは、テレビの中で輝くアイドルやヒーローでした。だから今度は私が、画面の向こう側にいる、あの頃の私のような誰かを孤独から救えるような……いつか、大きな虹を架けられる、そんなヒーローみたいなアイドルになりたいです。よろしくお願いします!」
深くお辞儀をして顔を上げた彼女の笑顔は、もう、紛れもなくプロのアイドルのそれだった。
SNSを開いてみると「言葉選びが綺麗」「長女なんだね」「応援する!」といった文字が次々と流れていく。
ファンから見れば、ロマンチックで優等生らしい、完璧な挨拶だろう。すごいよ涼花。
もう涼花には、私以外のたくさんのファンがいるんだね。
あの日曜朝のヒーローアニメに詳しかったのは、ただ弟と一緒に見ていたからではなく、幼い頃の涼花もヒーローに救われていたからだったんだ。
テレビの画面越しに、また1つ、私は涼花の新しい一面を知ってしまった。
遠くへ行ってしまったのだと、少しだけ胸の奥がちくりと痛む。
けれど、私には痛いほど分かっていた。これは誰かに用意された虚像なんかじゃない。
天気に詳しくて、ヒーローが好きで、弟思いで、少しだけ不器用な——これは、私の大好きな「ただの高校生の涼花」から出てきた本当の言葉だ。
あの日の海で交わした約束。私がベランダから見上げていた、茜色の空と白い雲。全部、全部繋がっている。
私が「ファイトー!」のスタンプで送ったエールに、彼女はステージの上から、最高の形で返事をしてくれたのだ。
気づけば、海でボロボロと泣いていた涼花のように、私もぐしゃぐしゃの顔で泣いていた。
涼花、見てるよ。あなたのスタートラインを。心から、おめでとう。ありがとう。
彼女の輝かしい未来を祝して、3人で久しぶりの乾杯をした。
「かんぱーい!」
明るい声に合わせて、グラスが触れ合う澄んだ音がリビングに響く。
手元のサイダーでは、シュワシュワと絶え間なく泡が浮き上がっては、水面で小さく弾けて消えていく。
同じ泡は2度と現れず、1つ1つがすべて別物だ。
それはまるで、2度とは戻らない過ぎ去った時間や、一瞬の煌めきのために命を燃やすアイドルの姿のようにも見えた。
私はサイダーを一気に飲み、喉の奥を刺すような炭酸の刺激で、こぼれそうな涙を無理やり引っ込めようとする。
ふと、あの夜のことが脳裏をよぎった。
8月31日。お揃いの水色のワンピースを泥まみれにして、泣きながら帰宅したあの日。
顔は涙と汗と鼻水でぐしゃぐしゃで、自分でも酷い顔をしているのが分かった。
玄関を開けると、いつものように家の明かりと夕食の匂いが私を迎え入れてくれた。
泥だらけで目を真っ赤にして帰ってきた私を見て、両親は少し驚いた顔をしたけれど、何も聞かずに「おかえり」「お風呂沸いてるわよ」とだけ言ってくれた。
その変わらない日常の温かさに、限界まで張り詰めていた心が少しだけ解けたのを覚えている。
自室に戻り、海水を吸ってずっしりと重くなった水色のワンピースを脱ぐ。
裾の、ちょうどふくらはぎに当たる辺りには、べっとりと砂と泥がこびり付いていた。
洗面所へ行き、冷たい水で丁寧に揉み洗いをする。
ごしごしと擦るたび、海のしょっぱい匂いがふわりと立ち上った。
泥はなかなか落ちてくれなかったけれど、私は諦めずに洗い続けた。
この汚れを落としたからといって、涼花との思い出が消えるわけじゃない。
またいつか、彼女と並んでこの水色を着る日のために、私は祈るようにワンピースの形を整えたのだ。
シャワーを浴びて部屋に戻る。たった1日前の夜には、この部屋の床に敷いた布団で涼花が静かな寝息を立てていたのに。今はもう、いつもの私1人の空間に戻っている。
壁に掛かったカレンダーを見つめ、私は「8月31日」の枠に、ペンでそっとバツ印を付けた。
私たちの長く、濃密だった夏が終わったことを、少しずつ実感していく。
でも、ここからまた始まっていくのだ。
ありがとう青春。そして、これからもよろしくね、青春。
お父さんが手元の空き缶を置くカツンという小さな音で、私はふっと我に返った。
いつの間にかサイダーのグラスを両手で握りしめたまま、またボロボロと涙をこぼしていたことに気づいて、少し驚く。
けれど両親はあのときと同じように、「どうしたの」「何かあったの」と問い詰めることも、叱りつけることもしなかった。
目の前の娘のただならぬ様子から、すべてを察してくれたのだろう。
お母さんがそっと背中に手を回し、お父さんが少しぎこちない手つきで肩をポンポンと叩く。
両側から温かく包み込むように抱きしめて、無言のまま頭を撫でてくれた。
空になったグラスをテーブルに置くと、堪えようとしていた涙があの頃と同じように、とめどなく溢れていく。
私は、2人の間で子どものように泣きじゃくった。
私は泣いてばかりだ。ほんの半年前までは斜に構えて、何かに熱くなることも、こんなに大声で泣くこともなかったはずなのに。
でも不思議と、胸の奥は清々しく、晴れやかな気持ちで満たされていた。
涼花は、あんなにも眩しい場所で、何万人もの孤独を救うヒーローになった。
それに比べて私はどうだろう。特別な才能もなければ、まだ将来の明確なビジョンだってない。
私はまだ何一つ持っていない、ただの17歳の女の子だ。
けれど、何一つ持っていないからこそ、これからの日々で、この両手いっぱいに新しい何かを掴み取っていけるはずだ。
両親の服を涙で濡らしながら、私は窓の外に広がっているであろう、見えない星空に向かって静かに決意した。



