9月1日。
まだまだ厳しい残暑の中、私は学校へと続く坂を上っていた。先ほどいつもの踏切に引っかかり、5分ほどの足止めを食らった。行き交う電車がせわしなく往来するため同情する。今日も朝からお疲れ様です。この勢いで坂を登れば、まだ着席時間まで20分あるから、余裕だと思う。左手では、充電を満タンにしてきた水色のハンディファンが回転し続けている。別の色より、水色が一番涼しげで、少しでもこの残暑を和らげてくれそうに見えたのでこの色にしたのだ。夏に関する商品であるハンディファンは水色がよく売れるのだろうか。じゃあ冬は何色が売れるのだろう。赤や緑?それはクリスマスカラーに引っ張られすぎだろうか。そもそも冬にハンディファンは売り出さないだろう。お題がそもそも間違っていた。でもハンディファンを持つサンタさんを想像するととてもシュールな絵面が思い浮かび、笑えてきた。一縷の期待をこめて「ハンディファン サンタ」で検索してみるが、なにもヒットしなかった。さすがに季節感皆無だから、ないか……。最近のネットはすごいから、結構突拍子もない組み合わせを入力してみてもなにかしらヒットするので、さすがに時代を先取りしすぎたのだろう。
少し勢いが落ちた蝉の鳴き声が、降り注ぐ日差しに溶けるように響いている。以前ならただ「うるさい」としか感じなかったその声も、今日ばかりはどこか愛おしく耳に届いていた。夏の終わりを惜しむようなその必死な響きは、私の中にポッカリと空いた、祭りの後のようなむなしさと重なる。けれど、その空洞があるからこそ、ここからまた新しい何かで満たしていけるはずだ。ジリジリとした蝉時雨を全身に浴びていると、不思議と前を向く静かな熱が湧いてきた。
いつもの2-2のクラス札がかかった教室の前に立つ。スライド式の扉に手をかけ、ゆっくりと息を吐き出す。
両手で思い切って扉を開けると、そこには見慣れたクラスメイトたちの姿があった。夏休み明けの登校日初日だというのに、男子たちは朝からギャーギャーと何かはしゃいでいる。相変わらず子どもだなあ、と心の中で呆れつつも、自然と口元が綻んでしまう。
喧騒の中へ、私は軽やかな足取りで歩みを進めた。
「おはよう!」
教室の入り口付近ではしゃぐ男子たちの横を通り過ぎるついでに、はしゃぐ声に負けないくらいの声量で挨拶をした。
一瞬、男子たちがピタリと静まり返る。普段は息を潜めている私からの予想外の声かけだったのだろう。それでも、一人がハッとして「……おはよう」と返してくれた。それに続くように、「おはよー」「ちわー」と声が返ってくる。
よかった。第一ミッションクリアだ。自席にたどり着くまでにすれ違ったり、席についている生徒に順番に挨拶をする。誰一人無視することなく、返事が返ってきた。私のクラスの人たち、思っていたよりもずっと良い人たちの集まりだったみたいだ。
今日だけですでに8人と挨拶を交わしている。新記録樹立だ。これから毎日更新する勢いで頑張ってみることにする。名付けて、「挨拶記録更新ゲーム」。学校の先生と生徒に一日何人に挨拶できるか。今日は一日目なので8人にしておこう。初日から飛ばすとバテるのが目に見えているから。挨拶の人数じゃなくて、しゃべったひとの人数のほうがいいかな。突拍子もなく挨拶だけしていると、次の会話を探すのが難しそうだ。そんなことを考えていると、自席にたどりついたのでリュックを下す。
よし、次は第二ミッション。誰でもいいからクラスの女子グループに話しかけなきゃ。明日から通常授業のため、昼休みがはじまる。2学期早々ぼっち飯は回避したいところだ。暇そうにしている女子はいないかな~とあたりを見渡すと、さっきの私の様子を見ていたのか、近くの席に集まっていた女子3人組と目が合った。名前はえっと、田中さん、上本さん、北さんだ。上本さんとは、一年生のときも同じクラスだった気がするが、記憶があいまいなので自信がない。
とりあえず私から「おはよう」と声をかけてみると、三人からも「おはよう」と返ってきた。よし。これをきっかけに次の話題を振らなきゃ...。
挨拶をしただけで通り過ぎるつもりだったが、三人は窓際の最前列――私の席までやってきた。
「ねえ、涼花ちゃんが学校辞めたって本当?」
なーんだ。
私自身に興味を持って話しかけてくれたのかと、少しだけ期待してしまった。けれど、不思議と嫌な気持ちはしない。きっかけはどうであれ、これはチャンスだから活かさないと。
「うん、そうなの。なんで辞めたかまでは私は知らないんだけど、遠くへ行っちゃったみたいで。……寂しいよね」
本当のことに、少しだけ嘘を織り交ぜる。彼女の大切な秘密を守るために。
すると、上本さんが少し気まずそうに、けれども優しい声で言った。
「そっか、そうだったんだ。一番仲良かった原田さんは、寂しいよね。……もしよかったらさ、これから私たちと一緒に行動しようよ」
思わぬお誘いだった。自分から動いてどこかの輪に入っていくしかないと覚悟を決めていたから、とてもラッキーだ。今日は運が私を味方してくれている。
「うん、ありがとう。すっごく嬉しい。これからよろしくね!」
第二のミッションクリア。十分すぎる滑りだしだ。涼花が知らない場所で頑張るのだから、私も頑張らなきゃ。今私ができる涼花への精一杯のことは、自分の面倒を自分で見ること、だという結論に落ち着いた。涼花がこっちに帰ってきたときに、こんなにも友達いるんだ!って驚かせてやる。私は心の底からの笑顔を3人に向けた。
それからは、私を含めた4人でご飯を食べるようになり、行動を共にするようになった。3人は私を快く受け入れてくれて、本当に感謝している。たくさん話をしているうちに、3人の特徴がわかるようになってきた。
田中さんは、ソフトテニス部。少しやけた肌が、短く切りそろえられたショートカットによく似合う。小学校のクラブからずっとテニスを続けており、県大会メンバーの常連だったようだ。中学三年生のときには準優勝という、部史上最高の成績を残したそうだが、本人的には最後の試合で負けてしまったことが悔しくて、高校でもソフトテニスを続けているらしい。幼いころから熱中できるものがあるって素晴らしいことだと思う。
上本さんは、吹奏楽部。楽器はトランペット。中学では文芸部だったが、図書館で絵を描いているときにいつも音楽室から聞こえてくる吹奏楽部の合奏に惹かれ、高校では吹奏楽部一択だったらしい。吹奏楽部員は8割ほどが中学からの経験者らしく、なかなか3年間の経験の差を埋められずにもやもやしているようだが、今は中学のときによく耳にしていた曲を吹けるようになることを目指して、練習に励んでいるようだ。
そして北さんは書道部。書道は書道でも、書道パフォーマンス部だ。書表現はもちろん、音楽・ダンス・演劇などの身体表現を組み合わせ、音楽にあわせて動きや踊りを交えながら紙の上に文字を描いていく。
その動画を見せてもらったが、全く目が足りない。複数人が同時進行でパフォーマンスをするため、見どころが次から次へとやってくるのだ。大きな筆と小さな筆、そして巨大な紙。その対比がおもしろい。目を離さずにじっと見ていると、ただの白い紙から力強い文字が次々と浮き上がってくる。
音楽との調和、パフォーマンスの構成、紙と文字のバランスなど、考えなければならないことが多そうだ。これを複数人で同時進行するのだからすごいものだ。
うちの書道パフォーマンス部の顧問は、高校書道界のなかではかなりの有名人らしい。北さんはその顧問からの指導を受けるために、わざわざ通学に1時間半もかかるこの高校を選んだという。たしかに校舎には、「書道パフォーマンス選手権大会出場」という垂れ幕が誇らしげにかかっている。
すごいな。学力ではなく、部活動で高校を選ぶことなんて考えたことがなかった。なんとなくで放送部を選んでしまった自分が、少し恥ずかしくなった。
みんなそれぞれ打ち込んでいるものがあって、ほんとうにすごい。私は夢中になったものはオルタンシアぐらいだろうか。幼いころから続けているものも、今現在進行形でなにかなっていることもない、高校の強制部活動入部システムによって惰性で続いている放送部くらいだろうか。ほかに突出したものもない。これから何か始められる趣味とかあるだろうか。来年には受験もあるから、いまからほかの部活を兼部する選択肢はなさそうだし、ここまで何もしてこなかった自分に喝を入れる。
私がきちんと同じクラスのみんなを知ろうとしなかったことが悔しい。
涼花以外の人はモブで、誰もが同じだと思っていた。
でも、違う。一人ひとりに様々なバックグラウンドがある。
生まれ育った場所、家族構成、小さい頃に好きだったもの、そして名前。
絶対に何かしらはみんな違う。何から何まで同じ人なんていない。
話を聞いているうちに、「自分も同じような選択をしていたかもな……」とか、「自分なら絶対に選ばない道に進んだんだな」とか、思いを巡らせる。
選択って枝葉のように無数にわかれていて、一つ違う枝にいけば、その後は何もかもが違う自分になるのだろう。ここにいない自分なんて想像ができないが、もちろんありえた世界線だ。
そう思うと、私はちょっと背伸びしてこの学校を受験してよかったと思える。私が高校受験で選んだ選択は間違ってはいなかった。
まずはクラスメイトから。みんなのことをたくさん知っていきたいし、私のことも知ってほしい。
これからでもまだ、間に合うよね。
3人はみんな放課後に部活があるから、一緒には帰れない。だからこそ、お昼休みや移動教室など、話せる時間がある限り、私は3人としゃべっている。
机をくっつけてお弁当のおかずを交換したり、次の授業の教室まで小走りで向かいながら、他愛のないことで笑い合ったり。そんな何気ない時間が、今の私にはとても愛おしい。
放課後のチャイムが鳴ると、3人は「また明日ね!」と手を振って、それぞれの部室へと急いでいく。彼女たちの背中を見送ってから一人で帰路につく瞬間は、正直少しだけ寂しい。
けれど、一人で下る帰り道は、以前のように息苦しくはなかった。空っぽだった私の放課後に、明日もまた学校へ行くのが楽しみだと思える『温かい余韻』が残るようになったからだ。
9月のある土曜日の午後。帰宅して自室でくつろぎながら、私は通学用リュックにつけたうさぎのキーホルダーを指で少し揺らした。
今日は午前中、田中さん、上本さん、北さんの三人とショッピングモールへ遊びに行っていた。電子音がけたたましく鳴り響くゲームセンターで、「ああっ、惜しい!」「次絶対いけるって!」とみんなでガラスケースに張り付いて騒いだ時間が、まだ頭の隅で熱を持っている。涼花とはゲームセンターに行くことはなかったから、私にとっては新しい遊び方だった。
苦戦しながらも、田中さんが「はい、これ」と少し照れくさそうに取ってくれたのが、このうさぎだった。上本さんは猫、北さんはひよこ、そして田中さんは亀。同じシリーズのマスコットたち、つまり「おそろい」だ。はじめての、4人でのおそろい。ちょっと不機嫌そうな顔をしたうさぎが、憎たらしくて、でもたまらなく愛おしい。うさぎのお腹あたりをつんつんと人差し指でつついた。
これからはこの子と一緒に通学するから、もうひとりじゃない。
そんなふうにじんわりとした心地よさに浸っていたときだ。
ブブッと机の上のスマホが揺れた。画面に目を落とすと、通知のポップアップに涼花のLINEのアイコンが見える。私と海に行ったあの日、いつの間にか涼花が撮っていた私の後ろ姿のアイコン。何度見てもちょっとむずがゆく、涼花には変えて、と頼んでいるが、現状受け入れてはもらえていない。私は、すぐに通知をタップして既読をつけた。
『ねえみさき。4期生お披露目コンサートの日程、決まったよ。関係者席のチケット2枚もらったんだ。でも次の日、学校だよね?』
うるうると涙を浮かべる犬の絵文字付きのメッセージ。涼花らしいな、と思わず笑ってしまう。どうやらお披露目コンサートは日曜日に設定されたようだ。
東京へ引っ越した9月1日だってそうだった。「新学期の初日なんだから、見送りに来ちゃ絶対ダメ!」と、彼女は頑なに私の見送りを断った。涼花はいつも、私が自分のせいで学校を休んだり、日常を崩したりするのを極端に嫌がる。
それに、もし私が関係者席にいたら、涼花はステージの上で私を探してしまい、心置きなくアイドルとして輝けないかもしれない。だから、このチケットは私じゃなくて、もっと別の誰か……彼女をずっと側で支えてきた家族に使ってほしい。
『2枚なんでしょ? 涼花のご両親に渡しなよ。次の日学校だし、私は配信で見るから。テレビの前で全力で応援するよ』
もちろん、一般発売でチケット争奪戦に参加するのもやめておく。涼花の思いを汲み取りたい。おとなしく配信チケットを買おう。
『みさき~ありがとう。そうするね。配信中はまばたき禁止だよ!』
涼花アイドルっぽいこと、言うようになったなー、とここに本人はいないが、小突いてみた。
少しずつアイドルらしい振る舞いになってくる彼女の変化に、ちょっとだけ寂しさを覚える。ほんのちょっとだけね。でも、私だって私の場所で頑張るんだから。変化を嘆いていては、なにもできなくなってしまうから。
私は座っていたキャスター付きの椅子を一回転させ、自分の部屋をぐるりと見渡した。涼花がここに泊まった8月30日の夜を思い出す。まだ二ヶ月も経っていないのに、ずいぶん前の出来事のように感じる。
涼花がデビューしたら、グッズをいっぱい買って、この部屋に飾ろう。そして、涼花がこっちに帰ってくるときには壁のポスターを外して、今の状態に戻そう。涼花が「懐かしーな」なんて言いながら、ここでくつろげるように。
この何の変哲もないいつもの部屋さえも、大切な思い出の一部なのだ。
カシャ。
スマホのカメラを起動して、部屋の写真を撮る。これは、オルタンシアの涼花のグッズで部屋を埋め尽くしたあと、彼女が来る日に「原状回復」するための役立つ資料になるはずだ。そう思うと、何気ない部屋の写真が、ちょっとだけ特別に見えた。
涼花はしばらくはこの家に来ることはない。それを埋めるように私は涼花のグッズを飾るだろう。でも私たちの絆が終わったわけではない。見えない光がいつも私をつないでくれる。きっとすぐに会えるよね。
ふいに窓の外を見ると、雨が降っていた。
白雨。涼花から学んだ言葉をふと思い出す。でも、暦の上では「夏」の言葉だから、もう当てはまらないよね。秋が深まる今なら、『秋雨』とか『時雨』かな。どっちも素敵な響きだ。今度涼花に教えてあげよう。もう知っている気もするけれど。
そういえば、オルタンシアの曲に『五月雨まで』という曲があったな。五月雨って、どういう意味なんだろう。『ファイトー!』と書かれた犬のスタンプを涼花に送信し、私はブラウザの検索画面を開いた。検索ボックスに「五月雨」と入力して検索ボタンを押す。
すると、一番上に出てきた五月雨の意味の下に、オルタンシアの公式動画のリンクが載っていた。スマホの作戦にまんまと負けて、そのリンクをタップする。
『五月雨まで』を歌うオルタンシアのメンバーが次々に映し出された。「あなたへのおすすめ」欄には「池田そら卒業コンサートの裏側完全密着!?」というタイトルがつけられ、サムネイルいっぱいに笑う彼女の笑顔がある。すでに再生済みだが、またタップしてみた。前回再生していた、メイクアップのシーンの続きから再生される。動画は40分を超える長尺だが、眺めているとあっという間に見終わってしまった。
アイドルはただ表舞台でそれらしく振る舞っているだけではだめだ。カメラがある限り、それがスマホであれ、テレビカメラであれ、被写体である限り、アイドルを演じなければならない。最近のアイドルは大変だ。もう何度も見ているのだが、結局最後まで食い入るように見入ってしまった。
動画を見終わる頃には、すっかり夕暮れになっていた。楽しい時間は、なぜこんなにも早く過ぎ去ってしまうのだろう。
涼花と過ごした季節があっという間だったのと同じように、時間は決して私たちを待ってくれない。
赤みを帯びた空がカーテンに映り込み、ゆらゆらと物憂げに揺れていた。
気象や雨に関する用語は、一発で読めないことが多い。でも、最初からすんなり読めないからこそ、心と記憶に深く残るのだと私は思う。涼花は天気や星座に詳しかった。なんで詳しかったのかは知らないから、今度聞いてみよう。
その場から立ち上がり、スマホを両手で構え、野球のピッチャーを意識して左足をお腹の高さまでゆっくりと上げる。すこしよろめきながらも振りかぶって、ベッドをめがけてポーンと放り投げる。投げられたスマホはちょうどベッドのど真ん中に着地する。その反動でベッドが多少沈み、スマホが一瞬宙に跳ね返ってほぼ同じ位置に着地した。ナイスコントロール! 頭の中では、マウンドの中心で片手を挙げて声援にこたえる。野球選手というよりは始球式をイメージしながら歩いて、窓を開けてベランダに出た。
ベランダのサンダルがかなり汚い。普段はベランダに出ないから、ベランダに置いてあるサンダルが雨水にさらされたままになっているからか。まあ大丈夫だろうと躊躇なくサンダルに足を入れてしまったが、ちょっと嫌な予感がする。ざらざら、じゃりじゃり。片足をあげて足首を持ち、裏側を覗き込むと黒く汚れてしまっていた。このまま部屋や廊下を歩きまわってしまうと跡がつくため、部屋においてあるタオルで拭って、そのあとお風呂場で足を洗おう。
一度足をサンダルにもどす。ゴム製のサンダルと自分の左足を前後にこすりつける。ざらざら、じゃりじゃり。その感覚がなんだかやめられずに、足を動かしながら上を見上げる。いつの間にか雨はやんでおり、空はあかね色に染まっていた。
あかね色の空が、ずっと奥まで広がっている。部屋から外の様子も見えるが、こうやってベランダに出ると、より広く遠くまで空が見える。空は空でも、ずっと遠く高いところ。部屋の中からでは見えなかった鳥の羽のような、スッとした雲が並んでいた。あかね色と雲の白色。どっちも良い。雲は止まっているようにも見えるが、ゆっくりゆっくりと動いている。
何事にも大きな変化や、成長を求めてしまいがちだが、こんな風にじっと見つめてあげると、雨上がりで虹がかかっていなくても空はきれいなんだな。停滞しているように見えるものでも、時間をかけてじっくり注目してみると、ゆるやかに動いてることに気が付ける。私も、たとえ時間をかけてしまってもいいから小さな変化や成長に気付ける人でいたい。いつもスマホを触っている時間をすこしだけ、空を眺める時間に置き換えてみよう。
空は、毎日違う色と形、表情を見せてくれる。
艶やかに光るあかね色は、今日も私の背中を風がなぞる。
窓とベランダの段差に腰掛け、タオルで軽く足をぬぐうと、小さな砂利や砂がベランダに散らばっていった。私はすす汚れたサンダルとタオルを持って部屋を出た。
階段を下りながら、涼花が言っていた話を思い出す。織姫星は夏だけでなく、秋も、冬も見られる星なのだと教えてくれた。今日も見られるかな。夜になったら、もう一度ベランダに出て、空を眺めてみるか。最も輝く青い星は、今はどこにいるのかな。空は、星の姿を追う私にまた違った顔を見せてくれるようだ。
それまでに、このサンダルをどうにかしなきゃ。タオルを洗濯機に入れ、サンダルをお風呂場に持ち込むと、近くにあったボディーソープをプッシュする。歯ブラシでごしごしこするが、あまり汚れは落ちない。足が黒くならない程度に汚れが落ちたら十分だけど、まだ汚れがひどい。この黒はここに頑固に居座り続ける気なのか。それでも頑張ってこすりつづけると、観念したのかある程度の汚れは落ちてくれた。明らかに洗う前よりピカピカになったサンダルを見て、ふうっと満足する。
涼花とおそろいのワンピースを手洗いしたときも、こんなふうに満足したっけ。あのときは、汚れが落ちないのに、落ちなくて満足していたんだ。今はクローゼットのなかに大事にしまわれている。あまりの汚れっぷりに母に処分されそうになったことがあったのだが、あのときは危なかった。砂か、泥か、アスファルトですれたのか、茶色や黒の点々たちは、一点ものの特別なデザインだ。わたしたちのワンピースはもうあの店のショーウィンドウにはない。スポットライトできらめいてもいない。それでもクローゼットに眠るワンピースは思い出とともに光って見えた。
カレンダーが11月の赤い丸印を示す日。今日は涼花のアイドルデビュー当日である。ずっと先かなとカレンダーに毎日バツ印をつけることでカウントダウンしていたが、丸がついた日はずっと早く到来した。待ち遠しい日がすぐ来たというのは良いことだ。自室に飾られたラムネの瓶。いまは中にビーズをいれてキラキラと存在感を放っており、それを気が済むまで見つめた後、部屋を出た。
今日は自室のテレビじゃなくて、リビングのテレビにスマホをつなげる。いつもよりずっと大きい画面の前で、4期生お披露目コンサートの始まりを待った。すでにオーディション公式サイトでは、合格者の顔写真や趣味、出身地などの情報が解禁されているが、表立って発表されるのはこれが初めてである。
「配信開始まで今しばらくお待ちください」の文字が変わるのを、今か今かと待ち続ける。ソファに座る私の両隣には両親がいる。ふたりはスポーツの試合を見ているかのように、手に汗を握って涼花の登場を待っている。お父さんが持つオルタンシアのペンライトは紫に光っている。その光景が見慣れなくて、ミスマッチで、最高だ。お母さんは、あとで自分たちで食べる用で、ピザやポテト、テイクアウトしておいたハンバーガーを、これでもかというほど並べていた。今日はパーティーだ。
机の上に並ぶ豪華な食事よりも視線はテレビに向く。両親も食事にはいっさい手をつけずにテレビを見つめていた。
何分待っただろうか。ずっと待ちわびていたのに、いざ画面が切り替わると驚いてしまう。ついにきたこのときが。そこには既存メンバーたちが紫の衣装を着て、並んでいた。現リーダーであるメンバーが前でマイクを持ち、オーディションに至るまでの話をはじめる。
オルタンシアになれてよかったこと。大切なメンバーを何人も迎え、見送りを繰り返してきたこと。そしてもっと多くの人にアイドルになってほしいこと。オルタンシアがもっと大きく美しくなるために必要な決断だったこと。
一つ一つ丁寧に語られた言葉は、私たちファンが持ち続けていた疑問の回答になっているようで、なっていない。双方向のようで一方的な言葉たち。裏では、顔も知らない大人たちの思惑が絡みあって、名前さえ知らない誰かの一存で物事が決まったり、覆されたりしているのだろう。そして決められたことだけを遂行するメンバー。でもメンバーは生身の人間で、人形ではない。それでもこの雰囲気に圧倒されて、何も言い返せなくなる。
いつも矢面に立たされるのはアイドルだ。人間離れした美しさと輝きを放ち、アイドルとしてあろうと、幾重にも努力と絶望を重ね続け、やがて卒業を迎える。そしてそれを見て育った子供が大きくなり、またアイドルにあこがれる。アイドルをやるためにだけ芸能活動をし、アイドル卒業のタイミングで引退する者。アイドルを利用して、女優に転身する者。アイドル活動だけでは生計が成り立たないためアルバイトをしながら活動を続ける者。ただグループの名前を存続するためだけに脱退と加入を繰り返すグループ。大胆なプロモーションを行い、デビューするまでの積み重ねさえも切り貼りして売り物にして、デビュー当初が最も輝いていたグループ。ファンと信じられないくらいの距離間で写真を撮る特典会を売りにするグループ。
巡り廻って、アイドルが継承されるのは、単なる憧れか、それとも。どんな理由が裏にあろうと、文句を言いながらも、やっぱり好きなものは好き。都合の悪いものには目をつぶり、ファンはただステージで笑うアイドルの姿だけを信じる。アイドルは特別だ。儚さという人生がアイドルの商品だ。これは魔法以外のなにものでもない。私たちは非科学的なものが、また新たに誕生する瞬間に立ち会っている。
オーディション合格者の8人が、ぞろぞろと並びながらフレームインしてくる。合格者は同じ衣装ではなく、それぞれ思い思いの服を着ている。色も系統も違う服に個性を感じる。どんな服を着るかによって、最初の印象が決まる。もうすでに、アイドルとしての戦略的自己プロデュースははじまっている。合格者の気合いがこもった服なのだろう、これらにこめられた思いを私たちは何もしらないまま、応援していくのだろう。そんなことを考えながら、選ばれた女の子たちを眺める。胸元にあしらわれたリボンが特徴的な女の子の次に、涼花の姿が映ったとき、私は息をのんだ。彼女の姿を見て圧倒されている人は他にもいるだろうが、彼女が着るワンピースに目を奪われ、画面を食い入るように見つめているのは、きっと私だけだ。
ポニーテールに、水色のワンピース。あのときの格好のままだった。3か月の時が経ったというのに、最後に生で見た涼花の姿のままだった。彼女は変わったけれど、何も変わっていなかった。
よく見ると、スカートの裾が泥で汚れたのか、うっすらとシミになっている。きっと画面越しでもわかるのだから、直接見たらかなり目立つものだろう。この服でよくOKしてもらったなあ。ひょっとしたら裏でスタッフとバトルを繰り広げたりしたのかも。なんて想像すると、涼花はどこまでも涼花だな、ぶれない。そういうところだよ、涼花。
8人は一列に並び、端から順番にマイクが渡されていく。アイドルになりたかったと涙ながらに語る子。オルタンシアのコンセプトに惹かれて応募した子。子役経験を持ちながらもアイドルに転身した子。順番に思い思いの言葉が語られていく。そして、とうとう涼花の番が来た。
彼女は少しだけ緊張した面持ちで、けれど真っ直ぐにカメラの奥を――まるで私を見透かすように見つめた。
「はじめまして。……木下涼花です」
少し震える、けれど芯のある声がリビングのスピーカーから響く。
「私は、空を見るのが好きです。突然降ってくる『白雨』も、景色を染める『秋雨』も。どんな天気の日でも、空はずっと遠くまで続いていて……離れた場所にいる大切な人と、繋がっていると思えるからです」
息を吸い込む音が、マイクを通してかすかに聞こえた。
「小さい頃から、両親が共働きで、一人で家にいる時間が長かったんです。今は年の離れた弟がいて賑やかになりましたが、当時の私の寂しさを埋めてくれたのは、テレビの中で輝くアイドルやヒーローでした。だから今度は私が、画面の向こう側であの頃の私のような誰かの孤独を救えるような……いつか、大きな虹をかけられる、そんなヒーローみたいなアイドルになりたいです。よろしくお願いします!」
深くお辞儀をして顔を上げた彼女の笑顔は、もう、紛れもなくプロのアイドルのそれだった。
SNSを開いてみると「言葉選びが綺麗」「長女なんだね」「応援する!」といった文字が次々と流れていく。ファンから見れば、ロマンチックで優等生な、完璧な挨拶だろう。すごいよ涼花。もう涼花には、私以外のたくさんのファンがいるんだね。
あの日曜朝のヒーローアニメに詳しかったのは、ただ弟と一緒に見ていたのではなく、自分が幼き頃もヒーローが涼花を救ってくれたからだったんだ。テレビの画面越しに、また一つ、私は涼花の新しい一面を知ってしまった。
遠くへ行ってしまったのだと、少しだけ胸の奥がちくりと痛む。
けれど、私には痛いほどわかっていた。これは誰かに用意された虚像なんかじゃない。
天気に詳しくて、ヒーローが好きで、弟思いで、少しだけ不器用な――根本にあるのは、私の大好きな「ただの高校生の涼花」の本当の言葉だ。
あの日の海で交わした約束。私がベランダから見上げていた、あかね色と白い雲の空。全部、全部繋がっている。
私が「ファイトー!」のスタンプで送ったエールに、彼女はステージの上から、最高の形で返事をしてくれたのだ。
気づけば、海でボロボロと泣いていた涼花のように、私もぐしゃぐしゃの顔で泣いていた。
涼花、見てるよ。あなたのスタートラインを。心から、おめでとう。ありがとう。
彼女の輝かしい未来を祝して、親子3人で、久しぶりの乾杯をした。
「かんぱーい!」という明るい声に合わせて、グラスが触れ合う澄んだ音がリビングに響く。
手元のサイダーは、シュワシュワと絶え間なく泡が浮き上がっては、水面で小さく弾けて消えるのを繰り返している。一つとして同じ泡は二度と現れず、すべて別物の泡だ。それはまるで、二度とは戻らない過ぎ去った時間や、一瞬のきらめきのために命を燃やすアイドルの姿のようにも見えた。
私はそれを一気飲みし、喉の奥を刺すような炭酸の刺激と一緒に、こぼれそうな涙を無理やり引っ込めようとする。
ふと、あの夜のことが脳裏をよぎった。
8月31日。お揃いの水色のワンピースを泥まみれにして、泣きながら帰宅したあの日。
顔は涙と汗と鼻水でぐしゃぐしゃで、自分でもひどい顔をしているのがわかった。玄関を開けると、いつものように家の明かりと夕食の匂いが私を迎え入れてくれた。泥だらけで目を真っ赤にして帰ってきた私を見て、両親は少し驚いた顔をしたけれど、何も聞かずに「おかえり」「お風呂沸いてるわよ」とだけ言ってくれた。その変わらない日常の温かさに、限界まで張り詰めていた心が少しだけ解けたのを覚えている。
自室に戻り、海水を吸ってずっしりと重くなった水色のワンピースを脱ぐ。ふくらはぎのあたりには、べっとりと砂と泥がこびりついていた。
洗面所へ行き、冷たい水で丁寧に揉み洗いをする。ごしごしと擦るたび、海のしょっぱい匂いがふわりと立ち上った。泥はなかなか落ちてくれなかったけれど、私は諦めずに洗い続けた。この汚れを落とすことは、涼花との思い出を洗い流すことじゃない。またいつか、彼女と並んでこの水色を着る日のために、私は祈るようにワンピースの形を整えたのだ。
シャワーを浴びて部屋に戻る。たった一日前の夜には、この部屋の床に敷いた布団で涼花が静かな寝息を立てていたのに。今はもう、いつもの私一人の空間に戻っている。
壁に掛かったカレンダーを見つめ、私は「8月31日」の枠に、ペンでそっとバツ印をつけた。私たちの長く、濃密だった夏が終わったことを、少しずつ実感していく。
でも、ここからまた始まっていくのだ。
ありがとう青春。そして、これからもよろしくね青春。
時計の針は、もうすぐ深夜零時を回ろうとしていた。
――あの夜と同じだ。
私が急にサイダーのグラスを握りしめたままボロボロと泣き出したのを見て、両親はあの時と同じように「どうしたの」「何かあったの」と問い詰めることも、叱りつけることもしなかった。
ただただ、目の前の娘のただならぬ様子からすべてを察してくれたのだろう。お母さんがそっと背中に手を回し、お父さんが少しぎこちない手つきで肩をポンポンと叩く。両側から温かく包み込むように抱きしめて、無言のまま頭をなでてくれた。
空になったグラスをテーブルに置くと、我慢していた涙があの頃と同じように、とめどなく溢れていく。
私は、二人の間で子供のように泣きじゃくった。私は泣いてばかりだ。ほんの半年前までは、斜に構えて、何かに熱くなることも、こんなに大声で泣く自分でもなかったはずなのに。
でも不思議と、胸の奥はすがすがしい、晴れやかな気持ちで満たされていた。
涼花は、あんなにも眩しい場所で、何万人もの孤独を救うヒーローになった。
それに比べて私はどうだろう。特別な才能もなければ、まだ将来の明確なビジョンだってない。
私はまだ何一つ持ち得ない、ただの17歳の女の子だ。
けれど、何一つ持っていないからこそ、これからの日々で、この両手いっぱいに新しい何かを掴み取っていけるはずだ。
両親の服を涙で濡らしながら、私は窓の外に広がるであろう、見えない星空に向かって静かに決意していた。
まだまだ厳しい残暑の中、私は学校へと続く坂を上っていた。先ほどいつもの踏切に引っかかり、5分ほどの足止めを食らった。行き交う電車がせわしなく往来するため同情する。今日も朝からお疲れ様です。この勢いで坂を登れば、まだ着席時間まで20分あるから、余裕だと思う。左手では、充電を満タンにしてきた水色のハンディファンが回転し続けている。別の色より、水色が一番涼しげで、少しでもこの残暑を和らげてくれそうに見えたのでこの色にしたのだ。夏に関する商品であるハンディファンは水色がよく売れるのだろうか。じゃあ冬は何色が売れるのだろう。赤や緑?それはクリスマスカラーに引っ張られすぎだろうか。そもそも冬にハンディファンは売り出さないだろう。お題がそもそも間違っていた。でもハンディファンを持つサンタさんを想像するととてもシュールな絵面が思い浮かび、笑えてきた。一縷の期待をこめて「ハンディファン サンタ」で検索してみるが、なにもヒットしなかった。さすがに季節感皆無だから、ないか……。最近のネットはすごいから、結構突拍子もない組み合わせを入力してみてもなにかしらヒットするので、さすがに時代を先取りしすぎたのだろう。
少し勢いが落ちた蝉の鳴き声が、降り注ぐ日差しに溶けるように響いている。以前ならただ「うるさい」としか感じなかったその声も、今日ばかりはどこか愛おしく耳に届いていた。夏の終わりを惜しむようなその必死な響きは、私の中にポッカリと空いた、祭りの後のようなむなしさと重なる。けれど、その空洞があるからこそ、ここからまた新しい何かで満たしていけるはずだ。ジリジリとした蝉時雨を全身に浴びていると、不思議と前を向く静かな熱が湧いてきた。
いつもの2-2のクラス札がかかった教室の前に立つ。スライド式の扉に手をかけ、ゆっくりと息を吐き出す。
両手で思い切って扉を開けると、そこには見慣れたクラスメイトたちの姿があった。夏休み明けの登校日初日だというのに、男子たちは朝からギャーギャーと何かはしゃいでいる。相変わらず子どもだなあ、と心の中で呆れつつも、自然と口元が綻んでしまう。
喧騒の中へ、私は軽やかな足取りで歩みを進めた。
「おはよう!」
教室の入り口付近ではしゃぐ男子たちの横を通り過ぎるついでに、はしゃぐ声に負けないくらいの声量で挨拶をした。
一瞬、男子たちがピタリと静まり返る。普段は息を潜めている私からの予想外の声かけだったのだろう。それでも、一人がハッとして「……おはよう」と返してくれた。それに続くように、「おはよー」「ちわー」と声が返ってくる。
よかった。第一ミッションクリアだ。自席にたどり着くまでにすれ違ったり、席についている生徒に順番に挨拶をする。誰一人無視することなく、返事が返ってきた。私のクラスの人たち、思っていたよりもずっと良い人たちの集まりだったみたいだ。
今日だけですでに8人と挨拶を交わしている。新記録樹立だ。これから毎日更新する勢いで頑張ってみることにする。名付けて、「挨拶記録更新ゲーム」。学校の先生と生徒に一日何人に挨拶できるか。今日は一日目なので8人にしておこう。初日から飛ばすとバテるのが目に見えているから。挨拶の人数じゃなくて、しゃべったひとの人数のほうがいいかな。突拍子もなく挨拶だけしていると、次の会話を探すのが難しそうだ。そんなことを考えていると、自席にたどりついたのでリュックを下す。
よし、次は第二ミッション。誰でもいいからクラスの女子グループに話しかけなきゃ。明日から通常授業のため、昼休みがはじまる。2学期早々ぼっち飯は回避したいところだ。暇そうにしている女子はいないかな~とあたりを見渡すと、さっきの私の様子を見ていたのか、近くの席に集まっていた女子3人組と目が合った。名前はえっと、田中さん、上本さん、北さんだ。上本さんとは、一年生のときも同じクラスだった気がするが、記憶があいまいなので自信がない。
とりあえず私から「おはよう」と声をかけてみると、三人からも「おはよう」と返ってきた。よし。これをきっかけに次の話題を振らなきゃ...。
挨拶をしただけで通り過ぎるつもりだったが、三人は窓際の最前列――私の席までやってきた。
「ねえ、涼花ちゃんが学校辞めたって本当?」
なーんだ。
私自身に興味を持って話しかけてくれたのかと、少しだけ期待してしまった。けれど、不思議と嫌な気持ちはしない。きっかけはどうであれ、これはチャンスだから活かさないと。
「うん、そうなの。なんで辞めたかまでは私は知らないんだけど、遠くへ行っちゃったみたいで。……寂しいよね」
本当のことに、少しだけ嘘を織り交ぜる。彼女の大切な秘密を守るために。
すると、上本さんが少し気まずそうに、けれども優しい声で言った。
「そっか、そうだったんだ。一番仲良かった原田さんは、寂しいよね。……もしよかったらさ、これから私たちと一緒に行動しようよ」
思わぬお誘いだった。自分から動いてどこかの輪に入っていくしかないと覚悟を決めていたから、とてもラッキーだ。今日は運が私を味方してくれている。
「うん、ありがとう。すっごく嬉しい。これからよろしくね!」
第二のミッションクリア。十分すぎる滑りだしだ。涼花が知らない場所で頑張るのだから、私も頑張らなきゃ。今私ができる涼花への精一杯のことは、自分の面倒を自分で見ること、だという結論に落ち着いた。涼花がこっちに帰ってきたときに、こんなにも友達いるんだ!って驚かせてやる。私は心の底からの笑顔を3人に向けた。
それからは、私を含めた4人でご飯を食べるようになり、行動を共にするようになった。3人は私を快く受け入れてくれて、本当に感謝している。たくさん話をしているうちに、3人の特徴がわかるようになってきた。
田中さんは、ソフトテニス部。少しやけた肌が、短く切りそろえられたショートカットによく似合う。小学校のクラブからずっとテニスを続けており、県大会メンバーの常連だったようだ。中学三年生のときには準優勝という、部史上最高の成績を残したそうだが、本人的には最後の試合で負けてしまったことが悔しくて、高校でもソフトテニスを続けているらしい。幼いころから熱中できるものがあるって素晴らしいことだと思う。
上本さんは、吹奏楽部。楽器はトランペット。中学では文芸部だったが、図書館で絵を描いているときにいつも音楽室から聞こえてくる吹奏楽部の合奏に惹かれ、高校では吹奏楽部一択だったらしい。吹奏楽部員は8割ほどが中学からの経験者らしく、なかなか3年間の経験の差を埋められずにもやもやしているようだが、今は中学のときによく耳にしていた曲を吹けるようになることを目指して、練習に励んでいるようだ。
そして北さんは書道部。書道は書道でも、書道パフォーマンス部だ。書表現はもちろん、音楽・ダンス・演劇などの身体表現を組み合わせ、音楽にあわせて動きや踊りを交えながら紙の上に文字を描いていく。
その動画を見せてもらったが、全く目が足りない。複数人が同時進行でパフォーマンスをするため、見どころが次から次へとやってくるのだ。大きな筆と小さな筆、そして巨大な紙。その対比がおもしろい。目を離さずにじっと見ていると、ただの白い紙から力強い文字が次々と浮き上がってくる。
音楽との調和、パフォーマンスの構成、紙と文字のバランスなど、考えなければならないことが多そうだ。これを複数人で同時進行するのだからすごいものだ。
うちの書道パフォーマンス部の顧問は、高校書道界のなかではかなりの有名人らしい。北さんはその顧問からの指導を受けるために、わざわざ通学に1時間半もかかるこの高校を選んだという。たしかに校舎には、「書道パフォーマンス選手権大会出場」という垂れ幕が誇らしげにかかっている。
すごいな。学力ではなく、部活動で高校を選ぶことなんて考えたことがなかった。なんとなくで放送部を選んでしまった自分が、少し恥ずかしくなった。
みんなそれぞれ打ち込んでいるものがあって、ほんとうにすごい。私は夢中になったものはオルタンシアぐらいだろうか。幼いころから続けているものも、今現在進行形でなにかなっていることもない、高校の強制部活動入部システムによって惰性で続いている放送部くらいだろうか。ほかに突出したものもない。これから何か始められる趣味とかあるだろうか。来年には受験もあるから、いまからほかの部活を兼部する選択肢はなさそうだし、ここまで何もしてこなかった自分に喝を入れる。
私がきちんと同じクラスのみんなを知ろうとしなかったことが悔しい。
涼花以外の人はモブで、誰もが同じだと思っていた。
でも、違う。一人ひとりに様々なバックグラウンドがある。
生まれ育った場所、家族構成、小さい頃に好きだったもの、そして名前。
絶対に何かしらはみんな違う。何から何まで同じ人なんていない。
話を聞いているうちに、「自分も同じような選択をしていたかもな……」とか、「自分なら絶対に選ばない道に進んだんだな」とか、思いを巡らせる。
選択って枝葉のように無数にわかれていて、一つ違う枝にいけば、その後は何もかもが違う自分になるのだろう。ここにいない自分なんて想像ができないが、もちろんありえた世界線だ。
そう思うと、私はちょっと背伸びしてこの学校を受験してよかったと思える。私が高校受験で選んだ選択は間違ってはいなかった。
まずはクラスメイトから。みんなのことをたくさん知っていきたいし、私のことも知ってほしい。
これからでもまだ、間に合うよね。
3人はみんな放課後に部活があるから、一緒には帰れない。だからこそ、お昼休みや移動教室など、話せる時間がある限り、私は3人としゃべっている。
机をくっつけてお弁当のおかずを交換したり、次の授業の教室まで小走りで向かいながら、他愛のないことで笑い合ったり。そんな何気ない時間が、今の私にはとても愛おしい。
放課後のチャイムが鳴ると、3人は「また明日ね!」と手を振って、それぞれの部室へと急いでいく。彼女たちの背中を見送ってから一人で帰路につく瞬間は、正直少しだけ寂しい。
けれど、一人で下る帰り道は、以前のように息苦しくはなかった。空っぽだった私の放課後に、明日もまた学校へ行くのが楽しみだと思える『温かい余韻』が残るようになったからだ。
9月のある土曜日の午後。帰宅して自室でくつろぎながら、私は通学用リュックにつけたうさぎのキーホルダーを指で少し揺らした。
今日は午前中、田中さん、上本さん、北さんの三人とショッピングモールへ遊びに行っていた。電子音がけたたましく鳴り響くゲームセンターで、「ああっ、惜しい!」「次絶対いけるって!」とみんなでガラスケースに張り付いて騒いだ時間が、まだ頭の隅で熱を持っている。涼花とはゲームセンターに行くことはなかったから、私にとっては新しい遊び方だった。
苦戦しながらも、田中さんが「はい、これ」と少し照れくさそうに取ってくれたのが、このうさぎだった。上本さんは猫、北さんはひよこ、そして田中さんは亀。同じシリーズのマスコットたち、つまり「おそろい」だ。はじめての、4人でのおそろい。ちょっと不機嫌そうな顔をしたうさぎが、憎たらしくて、でもたまらなく愛おしい。うさぎのお腹あたりをつんつんと人差し指でつついた。
これからはこの子と一緒に通学するから、もうひとりじゃない。
そんなふうにじんわりとした心地よさに浸っていたときだ。
ブブッと机の上のスマホが揺れた。画面に目を落とすと、通知のポップアップに涼花のLINEのアイコンが見える。私と海に行ったあの日、いつの間にか涼花が撮っていた私の後ろ姿のアイコン。何度見てもちょっとむずがゆく、涼花には変えて、と頼んでいるが、現状受け入れてはもらえていない。私は、すぐに通知をタップして既読をつけた。
『ねえみさき。4期生お披露目コンサートの日程、決まったよ。関係者席のチケット2枚もらったんだ。でも次の日、学校だよね?』
うるうると涙を浮かべる犬の絵文字付きのメッセージ。涼花らしいな、と思わず笑ってしまう。どうやらお披露目コンサートは日曜日に設定されたようだ。
東京へ引っ越した9月1日だってそうだった。「新学期の初日なんだから、見送りに来ちゃ絶対ダメ!」と、彼女は頑なに私の見送りを断った。涼花はいつも、私が自分のせいで学校を休んだり、日常を崩したりするのを極端に嫌がる。
それに、もし私が関係者席にいたら、涼花はステージの上で私を探してしまい、心置きなくアイドルとして輝けないかもしれない。だから、このチケットは私じゃなくて、もっと別の誰か……彼女をずっと側で支えてきた家族に使ってほしい。
『2枚なんでしょ? 涼花のご両親に渡しなよ。次の日学校だし、私は配信で見るから。テレビの前で全力で応援するよ』
もちろん、一般発売でチケット争奪戦に参加するのもやめておく。涼花の思いを汲み取りたい。おとなしく配信チケットを買おう。
『みさき~ありがとう。そうするね。配信中はまばたき禁止だよ!』
涼花アイドルっぽいこと、言うようになったなー、とここに本人はいないが、小突いてみた。
少しずつアイドルらしい振る舞いになってくる彼女の変化に、ちょっとだけ寂しさを覚える。ほんのちょっとだけね。でも、私だって私の場所で頑張るんだから。変化を嘆いていては、なにもできなくなってしまうから。
私は座っていたキャスター付きの椅子を一回転させ、自分の部屋をぐるりと見渡した。涼花がここに泊まった8月30日の夜を思い出す。まだ二ヶ月も経っていないのに、ずいぶん前の出来事のように感じる。
涼花がデビューしたら、グッズをいっぱい買って、この部屋に飾ろう。そして、涼花がこっちに帰ってくるときには壁のポスターを外して、今の状態に戻そう。涼花が「懐かしーな」なんて言いながら、ここでくつろげるように。
この何の変哲もないいつもの部屋さえも、大切な思い出の一部なのだ。
カシャ。
スマホのカメラを起動して、部屋の写真を撮る。これは、オルタンシアの涼花のグッズで部屋を埋め尽くしたあと、彼女が来る日に「原状回復」するための役立つ資料になるはずだ。そう思うと、何気ない部屋の写真が、ちょっとだけ特別に見えた。
涼花はしばらくはこの家に来ることはない。それを埋めるように私は涼花のグッズを飾るだろう。でも私たちの絆が終わったわけではない。見えない光がいつも私をつないでくれる。きっとすぐに会えるよね。
ふいに窓の外を見ると、雨が降っていた。
白雨。涼花から学んだ言葉をふと思い出す。でも、暦の上では「夏」の言葉だから、もう当てはまらないよね。秋が深まる今なら、『秋雨』とか『時雨』かな。どっちも素敵な響きだ。今度涼花に教えてあげよう。もう知っている気もするけれど。
そういえば、オルタンシアの曲に『五月雨まで』という曲があったな。五月雨って、どういう意味なんだろう。『ファイトー!』と書かれた犬のスタンプを涼花に送信し、私はブラウザの検索画面を開いた。検索ボックスに「五月雨」と入力して検索ボタンを押す。
すると、一番上に出てきた五月雨の意味の下に、オルタンシアの公式動画のリンクが載っていた。スマホの作戦にまんまと負けて、そのリンクをタップする。
『五月雨まで』を歌うオルタンシアのメンバーが次々に映し出された。「あなたへのおすすめ」欄には「池田そら卒業コンサートの裏側完全密着!?」というタイトルがつけられ、サムネイルいっぱいに笑う彼女の笑顔がある。すでに再生済みだが、またタップしてみた。前回再生していた、メイクアップのシーンの続きから再生される。動画は40分を超える長尺だが、眺めているとあっという間に見終わってしまった。
アイドルはただ表舞台でそれらしく振る舞っているだけではだめだ。カメラがある限り、それがスマホであれ、テレビカメラであれ、被写体である限り、アイドルを演じなければならない。最近のアイドルは大変だ。もう何度も見ているのだが、結局最後まで食い入るように見入ってしまった。
動画を見終わる頃には、すっかり夕暮れになっていた。楽しい時間は、なぜこんなにも早く過ぎ去ってしまうのだろう。
涼花と過ごした季節があっという間だったのと同じように、時間は決して私たちを待ってくれない。
赤みを帯びた空がカーテンに映り込み、ゆらゆらと物憂げに揺れていた。
気象や雨に関する用語は、一発で読めないことが多い。でも、最初からすんなり読めないからこそ、心と記憶に深く残るのだと私は思う。涼花は天気や星座に詳しかった。なんで詳しかったのかは知らないから、今度聞いてみよう。
その場から立ち上がり、スマホを両手で構え、野球のピッチャーを意識して左足をお腹の高さまでゆっくりと上げる。すこしよろめきながらも振りかぶって、ベッドをめがけてポーンと放り投げる。投げられたスマホはちょうどベッドのど真ん中に着地する。その反動でベッドが多少沈み、スマホが一瞬宙に跳ね返ってほぼ同じ位置に着地した。ナイスコントロール! 頭の中では、マウンドの中心で片手を挙げて声援にこたえる。野球選手というよりは始球式をイメージしながら歩いて、窓を開けてベランダに出た。
ベランダのサンダルがかなり汚い。普段はベランダに出ないから、ベランダに置いてあるサンダルが雨水にさらされたままになっているからか。まあ大丈夫だろうと躊躇なくサンダルに足を入れてしまったが、ちょっと嫌な予感がする。ざらざら、じゃりじゃり。片足をあげて足首を持ち、裏側を覗き込むと黒く汚れてしまっていた。このまま部屋や廊下を歩きまわってしまうと跡がつくため、部屋においてあるタオルで拭って、そのあとお風呂場で足を洗おう。
一度足をサンダルにもどす。ゴム製のサンダルと自分の左足を前後にこすりつける。ざらざら、じゃりじゃり。その感覚がなんだかやめられずに、足を動かしながら上を見上げる。いつの間にか雨はやんでおり、空はあかね色に染まっていた。
あかね色の空が、ずっと奥まで広がっている。部屋から外の様子も見えるが、こうやってベランダに出ると、より広く遠くまで空が見える。空は空でも、ずっと遠く高いところ。部屋の中からでは見えなかった鳥の羽のような、スッとした雲が並んでいた。あかね色と雲の白色。どっちも良い。雲は止まっているようにも見えるが、ゆっくりゆっくりと動いている。
何事にも大きな変化や、成長を求めてしまいがちだが、こんな風にじっと見つめてあげると、雨上がりで虹がかかっていなくても空はきれいなんだな。停滞しているように見えるものでも、時間をかけてじっくり注目してみると、ゆるやかに動いてることに気が付ける。私も、たとえ時間をかけてしまってもいいから小さな変化や成長に気付ける人でいたい。いつもスマホを触っている時間をすこしだけ、空を眺める時間に置き換えてみよう。
空は、毎日違う色と形、表情を見せてくれる。
艶やかに光るあかね色は、今日も私の背中を風がなぞる。
窓とベランダの段差に腰掛け、タオルで軽く足をぬぐうと、小さな砂利や砂がベランダに散らばっていった。私はすす汚れたサンダルとタオルを持って部屋を出た。
階段を下りながら、涼花が言っていた話を思い出す。織姫星は夏だけでなく、秋も、冬も見られる星なのだと教えてくれた。今日も見られるかな。夜になったら、もう一度ベランダに出て、空を眺めてみるか。最も輝く青い星は、今はどこにいるのかな。空は、星の姿を追う私にまた違った顔を見せてくれるようだ。
それまでに、このサンダルをどうにかしなきゃ。タオルを洗濯機に入れ、サンダルをお風呂場に持ち込むと、近くにあったボディーソープをプッシュする。歯ブラシでごしごしこするが、あまり汚れは落ちない。足が黒くならない程度に汚れが落ちたら十分だけど、まだ汚れがひどい。この黒はここに頑固に居座り続ける気なのか。それでも頑張ってこすりつづけると、観念したのかある程度の汚れは落ちてくれた。明らかに洗う前よりピカピカになったサンダルを見て、ふうっと満足する。
涼花とおそろいのワンピースを手洗いしたときも、こんなふうに満足したっけ。あのときは、汚れが落ちないのに、落ちなくて満足していたんだ。今はクローゼットのなかに大事にしまわれている。あまりの汚れっぷりに母に処分されそうになったことがあったのだが、あのときは危なかった。砂か、泥か、アスファルトですれたのか、茶色や黒の点々たちは、一点ものの特別なデザインだ。わたしたちのワンピースはもうあの店のショーウィンドウにはない。スポットライトできらめいてもいない。それでもクローゼットに眠るワンピースは思い出とともに光って見えた。
カレンダーが11月の赤い丸印を示す日。今日は涼花のアイドルデビュー当日である。ずっと先かなとカレンダーに毎日バツ印をつけることでカウントダウンしていたが、丸がついた日はずっと早く到来した。待ち遠しい日がすぐ来たというのは良いことだ。自室に飾られたラムネの瓶。いまは中にビーズをいれてキラキラと存在感を放っており、それを気が済むまで見つめた後、部屋を出た。
今日は自室のテレビじゃなくて、リビングのテレビにスマホをつなげる。いつもよりずっと大きい画面の前で、4期生お披露目コンサートの始まりを待った。すでにオーディション公式サイトでは、合格者の顔写真や趣味、出身地などの情報が解禁されているが、表立って発表されるのはこれが初めてである。
「配信開始まで今しばらくお待ちください」の文字が変わるのを、今か今かと待ち続ける。ソファに座る私の両隣には両親がいる。ふたりはスポーツの試合を見ているかのように、手に汗を握って涼花の登場を待っている。お父さんが持つオルタンシアのペンライトは紫に光っている。その光景が見慣れなくて、ミスマッチで、最高だ。お母さんは、あとで自分たちで食べる用で、ピザやポテト、テイクアウトしておいたハンバーガーを、これでもかというほど並べていた。今日はパーティーだ。
机の上に並ぶ豪華な食事よりも視線はテレビに向く。両親も食事にはいっさい手をつけずにテレビを見つめていた。
何分待っただろうか。ずっと待ちわびていたのに、いざ画面が切り替わると驚いてしまう。ついにきたこのときが。そこには既存メンバーたちが紫の衣装を着て、並んでいた。現リーダーであるメンバーが前でマイクを持ち、オーディションに至るまでの話をはじめる。
オルタンシアになれてよかったこと。大切なメンバーを何人も迎え、見送りを繰り返してきたこと。そしてもっと多くの人にアイドルになってほしいこと。オルタンシアがもっと大きく美しくなるために必要な決断だったこと。
一つ一つ丁寧に語られた言葉は、私たちファンが持ち続けていた疑問の回答になっているようで、なっていない。双方向のようで一方的な言葉たち。裏では、顔も知らない大人たちの思惑が絡みあって、名前さえ知らない誰かの一存で物事が決まったり、覆されたりしているのだろう。そして決められたことだけを遂行するメンバー。でもメンバーは生身の人間で、人形ではない。それでもこの雰囲気に圧倒されて、何も言い返せなくなる。
いつも矢面に立たされるのはアイドルだ。人間離れした美しさと輝きを放ち、アイドルとしてあろうと、幾重にも努力と絶望を重ね続け、やがて卒業を迎える。そしてそれを見て育った子供が大きくなり、またアイドルにあこがれる。アイドルをやるためにだけ芸能活動をし、アイドル卒業のタイミングで引退する者。アイドルを利用して、女優に転身する者。アイドル活動だけでは生計が成り立たないためアルバイトをしながら活動を続ける者。ただグループの名前を存続するためだけに脱退と加入を繰り返すグループ。大胆なプロモーションを行い、デビューするまでの積み重ねさえも切り貼りして売り物にして、デビュー当初が最も輝いていたグループ。ファンと信じられないくらいの距離間で写真を撮る特典会を売りにするグループ。
巡り廻って、アイドルが継承されるのは、単なる憧れか、それとも。どんな理由が裏にあろうと、文句を言いながらも、やっぱり好きなものは好き。都合の悪いものには目をつぶり、ファンはただステージで笑うアイドルの姿だけを信じる。アイドルは特別だ。儚さという人生がアイドルの商品だ。これは魔法以外のなにものでもない。私たちは非科学的なものが、また新たに誕生する瞬間に立ち会っている。
オーディション合格者の8人が、ぞろぞろと並びながらフレームインしてくる。合格者は同じ衣装ではなく、それぞれ思い思いの服を着ている。色も系統も違う服に個性を感じる。どんな服を着るかによって、最初の印象が決まる。もうすでに、アイドルとしての戦略的自己プロデュースははじまっている。合格者の気合いがこもった服なのだろう、これらにこめられた思いを私たちは何もしらないまま、応援していくのだろう。そんなことを考えながら、選ばれた女の子たちを眺める。胸元にあしらわれたリボンが特徴的な女の子の次に、涼花の姿が映ったとき、私は息をのんだ。彼女の姿を見て圧倒されている人は他にもいるだろうが、彼女が着るワンピースに目を奪われ、画面を食い入るように見つめているのは、きっと私だけだ。
ポニーテールに、水色のワンピース。あのときの格好のままだった。3か月の時が経ったというのに、最後に生で見た涼花の姿のままだった。彼女は変わったけれど、何も変わっていなかった。
よく見ると、スカートの裾が泥で汚れたのか、うっすらとシミになっている。きっと画面越しでもわかるのだから、直接見たらかなり目立つものだろう。この服でよくOKしてもらったなあ。ひょっとしたら裏でスタッフとバトルを繰り広げたりしたのかも。なんて想像すると、涼花はどこまでも涼花だな、ぶれない。そういうところだよ、涼花。
8人は一列に並び、端から順番にマイクが渡されていく。アイドルになりたかったと涙ながらに語る子。オルタンシアのコンセプトに惹かれて応募した子。子役経験を持ちながらもアイドルに転身した子。順番に思い思いの言葉が語られていく。そして、とうとう涼花の番が来た。
彼女は少しだけ緊張した面持ちで、けれど真っ直ぐにカメラの奥を――まるで私を見透かすように見つめた。
「はじめまして。……木下涼花です」
少し震える、けれど芯のある声がリビングのスピーカーから響く。
「私は、空を見るのが好きです。突然降ってくる『白雨』も、景色を染める『秋雨』も。どんな天気の日でも、空はずっと遠くまで続いていて……離れた場所にいる大切な人と、繋がっていると思えるからです」
息を吸い込む音が、マイクを通してかすかに聞こえた。
「小さい頃から、両親が共働きで、一人で家にいる時間が長かったんです。今は年の離れた弟がいて賑やかになりましたが、当時の私の寂しさを埋めてくれたのは、テレビの中で輝くアイドルやヒーローでした。だから今度は私が、画面の向こう側であの頃の私のような誰かの孤独を救えるような……いつか、大きな虹をかけられる、そんなヒーローみたいなアイドルになりたいです。よろしくお願いします!」
深くお辞儀をして顔を上げた彼女の笑顔は、もう、紛れもなくプロのアイドルのそれだった。
SNSを開いてみると「言葉選びが綺麗」「長女なんだね」「応援する!」といった文字が次々と流れていく。ファンから見れば、ロマンチックで優等生な、完璧な挨拶だろう。すごいよ涼花。もう涼花には、私以外のたくさんのファンがいるんだね。
あの日曜朝のヒーローアニメに詳しかったのは、ただ弟と一緒に見ていたのではなく、自分が幼き頃もヒーローが涼花を救ってくれたからだったんだ。テレビの画面越しに、また一つ、私は涼花の新しい一面を知ってしまった。
遠くへ行ってしまったのだと、少しだけ胸の奥がちくりと痛む。
けれど、私には痛いほどわかっていた。これは誰かに用意された虚像なんかじゃない。
天気に詳しくて、ヒーローが好きで、弟思いで、少しだけ不器用な――根本にあるのは、私の大好きな「ただの高校生の涼花」の本当の言葉だ。
あの日の海で交わした約束。私がベランダから見上げていた、あかね色と白い雲の空。全部、全部繋がっている。
私が「ファイトー!」のスタンプで送ったエールに、彼女はステージの上から、最高の形で返事をしてくれたのだ。
気づけば、海でボロボロと泣いていた涼花のように、私もぐしゃぐしゃの顔で泣いていた。
涼花、見てるよ。あなたのスタートラインを。心から、おめでとう。ありがとう。
彼女の輝かしい未来を祝して、親子3人で、久しぶりの乾杯をした。
「かんぱーい!」という明るい声に合わせて、グラスが触れ合う澄んだ音がリビングに響く。
手元のサイダーは、シュワシュワと絶え間なく泡が浮き上がっては、水面で小さく弾けて消えるのを繰り返している。一つとして同じ泡は二度と現れず、すべて別物の泡だ。それはまるで、二度とは戻らない過ぎ去った時間や、一瞬のきらめきのために命を燃やすアイドルの姿のようにも見えた。
私はそれを一気飲みし、喉の奥を刺すような炭酸の刺激と一緒に、こぼれそうな涙を無理やり引っ込めようとする。
ふと、あの夜のことが脳裏をよぎった。
8月31日。お揃いの水色のワンピースを泥まみれにして、泣きながら帰宅したあの日。
顔は涙と汗と鼻水でぐしゃぐしゃで、自分でもひどい顔をしているのがわかった。玄関を開けると、いつものように家の明かりと夕食の匂いが私を迎え入れてくれた。泥だらけで目を真っ赤にして帰ってきた私を見て、両親は少し驚いた顔をしたけれど、何も聞かずに「おかえり」「お風呂沸いてるわよ」とだけ言ってくれた。その変わらない日常の温かさに、限界まで張り詰めていた心が少しだけ解けたのを覚えている。
自室に戻り、海水を吸ってずっしりと重くなった水色のワンピースを脱ぐ。ふくらはぎのあたりには、べっとりと砂と泥がこびりついていた。
洗面所へ行き、冷たい水で丁寧に揉み洗いをする。ごしごしと擦るたび、海のしょっぱい匂いがふわりと立ち上った。泥はなかなか落ちてくれなかったけれど、私は諦めずに洗い続けた。この汚れを落とすことは、涼花との思い出を洗い流すことじゃない。またいつか、彼女と並んでこの水色を着る日のために、私は祈るようにワンピースの形を整えたのだ。
シャワーを浴びて部屋に戻る。たった一日前の夜には、この部屋の床に敷いた布団で涼花が静かな寝息を立てていたのに。今はもう、いつもの私一人の空間に戻っている。
壁に掛かったカレンダーを見つめ、私は「8月31日」の枠に、ペンでそっとバツ印をつけた。私たちの長く、濃密だった夏が終わったことを、少しずつ実感していく。
でも、ここからまた始まっていくのだ。
ありがとう青春。そして、これからもよろしくね青春。
時計の針は、もうすぐ深夜零時を回ろうとしていた。
――あの夜と同じだ。
私が急にサイダーのグラスを握りしめたままボロボロと泣き出したのを見て、両親はあの時と同じように「どうしたの」「何かあったの」と問い詰めることも、叱りつけることもしなかった。
ただただ、目の前の娘のただならぬ様子からすべてを察してくれたのだろう。お母さんがそっと背中に手を回し、お父さんが少しぎこちない手つきで肩をポンポンと叩く。両側から温かく包み込むように抱きしめて、無言のまま頭をなでてくれた。
空になったグラスをテーブルに置くと、我慢していた涙があの頃と同じように、とめどなく溢れていく。
私は、二人の間で子供のように泣きじゃくった。私は泣いてばかりだ。ほんの半年前までは、斜に構えて、何かに熱くなることも、こんなに大声で泣く自分でもなかったはずなのに。
でも不思議と、胸の奥はすがすがしい、晴れやかな気持ちで満たされていた。
涼花は、あんなにも眩しい場所で、何万人もの孤独を救うヒーローになった。
それに比べて私はどうだろう。特別な才能もなければ、まだ将来の明確なビジョンだってない。
私はまだ何一つ持ち得ない、ただの17歳の女の子だ。
けれど、何一つ持っていないからこそ、これからの日々で、この両手いっぱいに新しい何かを掴み取っていけるはずだ。
両親の服を涙で濡らしながら、私は窓の外に広がるであろう、見えない星空に向かって静かに決意していた。
