雨上がりの私は満開に咲き誇る

朝だ。水色のカーテンのすきまから覗く、青空。なぜ青空というのだろう。青より、水色のほうが厳密ではないだろうか。でも空色、という色もあるし。でも空の色だから空色か。まだ頭が回らなくてぼーっとする。
枕元にあるスマホの画面をつける。部屋は薄暗く、液晶がまぶしくて反射的に目を細めた。何度確認しても、日付は無情にも8月31日のままだ。
涼花はすっかり寝ていたが、私は二十四時を過ぎても眠れなかったので、夜を越えたというよりは、今日から今日へとそのままタイムスリップしたような、不思議でフワフワとした感覚の中にいる。
いつもと違うのは、下に敷いた布団で涼花が寝ていること。
すぅ、すぅ、と規則正しい静かな寝息が聞こえる。
このままずっと、涼花が目を覚まさなければいいのに。二人でずっとこの部屋に引きこもって、このまま家を出なければ、彼女が東京に行ってしまうこともないんじゃないか。そんな子供じみた現実逃避を、本気で考えてしまう。
時計の針を止める魔法なんてないことはわかっている。逃避行なんて実現しないこともわかっている。それでも、この静かで青い朝の時間だけは、いつまでも終わらないでほしかった。
名残惜しいが、そろそろ起きないといけないので、涼花の体を優しく揺さぶる。
「ねえ涼花、起きてー」
まだ眠そうな私の声が部屋に響き、どうしようもなく落下していく。あれ、涼花けっこう寝起き悪いな。あと何回か涼花の名前を呼ぶと、涼花は目を細めながらうーん、と伸びをした。よかった、よく眠れたようだ。
涼花を引きずるようにして(正確に言えば、手を引っ張って)洗面所へと連れていく。前髪をヘアバンドでぐいっとあげる涼花。おお、メイク完成か、というような素材の良さ。絵になるな、と感心してしまう。

リビングに涼花をつれてきて、二人は食卓に着く。いつもよりウインナーの数や目玉焼きの見栄え、サラダの彩りが違う。きっと涼花スペシャルだ。涼花の恩恵に与りながら、いつもより具材が多く乗ったサラダをほおばる。モッツァレラチーズなんて冷蔵庫に入っていただろうか。食卓にはめったに出てこないぞ。お母さんが大事にとっていたお中元のハムとソーセージが大盤振る舞いされている。はじめて来る家の食卓の場にいる涼花がソワソワしながら、ハムを咀嚼していた。
今日は日曜日。だから私はいつも見ている情報番組ではなく、男児向けヒーローアニメをつけた。涼花は「いつも見てるやつでいいんですよ!」と言うけれど、私の家族と一緒に食卓にいる涼花。それだけがいつもと違う非日常だ。だからいつもと違うものを見たくなっただけだ。
涼花は、うちの両親から質問攻めにあっていたが、すべて笑顔で対応していた。なんであんなにも流ちょうに敬語でしゃべれるんだろう。涼花なんだけど、ちょっと涼花じゃない別人のようにも感じてこそばゆい。彼女が取り繕う化けの皮をはがすために、私は問いかけた。
「涼花、このヒーローが巻いてるベルトは何?」
少し戸惑っていたが、なにかをあきらめたのか、彼女は説明し始めた。さっきのしゃべりかたよりも、流ちょう、というよりかは早くまくし立てるようにしゃべる。
「それはレイジングベルトっていって、変身アイテムなの。で、これを巻いている人は、拓海っていう名前なんだけど主人公じゃなくて悪役で。あ、で、こっちが光太郎。こっちが主人公なの」
「へえ、光太郎が巻いているのもレイジングベルトなの?」
なぜかお父さんが食い入るように質問する。
「あ、そう見えますが、これはカームベルトっていいます。英語の綴りはcalmでカームです。穏やかな、って意味です。ちなみにレイジングは怒り狂う、っていう意味です」
涼花は聞かれていない部分まで勝手に補完して説明してくれた。AIみたいだな。ヒーローアニメのことなら、涼花はAIに負けないだろうな。
「へえ、そうなんだ。黄色のベルト、デザイン凝ってるわね、キラキラしていてちょっとかわいいわ」
ずっと無言で聞いていた母までも話に参加してきた。予想外である。
家族との関係性は悪くはないが、高校生になって会話がちょっと減ってきた。私は一人っ子だし、親は実は私が話をするのを待ってくれているのかもしれない。私も今度、好きなものを両親に共有してみよう。
私のオルタンシアのように、涼花のヒーローアニメのように、熱中できるものがあるのは素敵なことだ。一人で熱中する時間が『1』だとしたら、同じものが好きな人と出会い、それを『2』や『3』へと広げていく。一人でいても楽しいけれど、誰かと分かち合えばもっと楽しくなる。そうして広がった人の輪が、自分にとって居心地のいい空間を作ってくれる。今ならそう思えた。

朝食を食べ終え、ショッピングモールへ行く用意をするのも、二人であーだこーだ言いながらだった。涼花が「一緒がいい」と言うので、髪型は二人ともポニーテールにした。涼花はつややかな黒髪ロングヘアだが、私はちょっと癖があるボブヘアだ。それを無理やりポニーテールにするので、ぴょこぴょこ枝毛がでてしまうし、髪の長さが若干足りていない。でもそれを気にしているのは私だけで、涼花はお揃いという事実に満足しているようだった。

磨き上げられた緑色のタイルの床に、高く抜けた吹き抜けの天井から柔らかな光が降り注ぐ。
私たちの歩調に合わせて鳴る靴音が、館内を満たす聞き慣れたBGMと心地よく重なり合っていた。
整然と並ぶガラス張りのショーウィンドウ。その向こう側では、季節を先取りしたマネキンたちが、色鮮やかな新作の服を纏って澄ました顔でこちらを見つめている。外は毎日35度を超えているため、ベロア素材の上着は暑いのではないかと心配してしまうが、ここはクーラーが効いているから大丈夫か。
そもそも彼女たちには、自分で着る服を選ぶ権利さえないのだろう。ベースはほとんど変わりないのに、あえて対照的な色を着せられ、個性があるかのように演出されていた。誰かが決めた枠にはまり、ただそこに立って、自分の役割を全うするだけ。マネキンを上部から照らす照明は小さな光を作り出し、ショーウィンドウの空間全体にきらきらとした魔法をかけているようだった。それでも綺麗で、目が離せなくなって、歩みを進めながらも次々と目移りしてしまう。

人とすれ違うたび、その人が落とす上品な香水の匂いと、どこかのカフェから漂ってくるコーヒーの芳醇な香りがふわりと空中で混ざり合い、言葉では表せない新たな空気を生み出す。それが不思議と不快ではない。
人々のざわめきすらも、ここでは洗練された映画のノイズとなって溶け込んでいる。
眩いほどに明るいこの巨大な箱庭の中を歩いていると、まるで自分たちも、このディスプレイの一部になったかのような心地よい錯覚に包まれる。
私と涼花は、いつものショッピングセンターに来ていた。
夏休み最終日ということもあり、館内は少しだけ人が少ない気がする。世の中の学生たちは皆、家でおとなしく明日からの日常に戻る衝撃に備えているのだろう。
けれど、私たちはもう元の日常には戻れない。だからこそ、ここにいるのかもしれない。涼花が「ただの高校生」でいられる、日常の象徴のようなこの場所を、最後のお出かけに選んだのだ。

開店時間に合わせて入り、私たちは様々な店を当てもなく巡った。
ペットショップのガラス越しに、うとうとと寝ているインコの顔真似をする涼花。ゲームセンターの端にある、少し古びた館内キャラクターの顔出しパネルから、満面の笑みで顔を覗かせる涼花。
誰も乗っていないエレベーターに乗り込み、ふたりで鏡越しに変なポーズを決めて遊んでいたのに、途中の階で扉が開いておばあちゃんが乗ってきた瞬間、気まずそうにスッと直立不動になる涼花。
そのころころと変わる百面相を見ていると、涼花にはまだ私の知らないこんな一面もあるんだなと、自然と顔がほころんでしまう。涼花のすべてを知っているつもりでいたけれど、私は涼花のことをまだ全然知らないのかもしれない。

お昼はハンバーガーがいいと涼花が言うので、フードコートのファストフード店で席を取った。
まったく同じセットを頼み、トレイの上に広げたポテトの本数がどちらのほうが多いのか、ふたりでムキになって数え合った。結果は、私のほうが6本多かった。でも、涼花のトレイに乗っているポテトのほうが明らかに揚げたてで、湯気が立っていておいしそうだ。私は少しだけ不満に思いながら、しなびたポテトをつまんで口に運んだ。

フードコートを出ると目の前にある若者向けフェミニンショップ。ショーウィンドウでスポットライトを浴びるマネキンに目を奪われた。水色の涼しげなオフショルダーのワンピース。私なら絶対に選ばないデザインのものだ。「ふりリル」に似たようなデザインも売っているだろうが、均等なプリーツとふんだんに使われたレースが美しい。
「ねえ、お揃いのワンピース買おっ!」
昨日からずっと着ている、少しシワの寄った紫のワンピース姿の涼花が、ふいに目を輝かせて言った。

私たちはアパレルショップに入った。涼花は「ショーウィンドウの真ん中のワンピース、二つください!」と店員に頼み、私たちは購入した服を持ってトイレの個室でそそくさと着替えた。
水色。私の好きな色であり、涼花が一番似合う色。
大きな鏡に並んで映る私たちは、まるで双子みたいだった。あのお祭りの夜、水色と紫の浴衣で残酷なまでに引かれてしまった境界線を、このお揃いの服が今日だけは曖昧にしてくれている気がした。せめてこの数時間だけは、同じ場所に立っていたかったのだ。

ショッピングセンターを出て、近くのバス停へ向かう。次も涼花の行きたい場所に行くことになっている。
少し前を歩く涼花のワンピースの裾が、海風に煽られてひらひらと揺れている。山になっている部分と、谷になっている部分。それが連なってひだとなり、彼女をぐるりと囲んでいる。風に揺れるたび、山が谷になり、谷が山に変化しているように見える。
まるで、どんな一生にも必ず山と谷があるように。谷にいる時は山を目指し、山にいる時は谷へ落ちてしまうこともある。涼花は山のてっぺんにいるんだろうか。じゃあ私は谷にいるのかな。
ああ、またいつものネガティブだ。気をつけないと。
でも谷にいるなら、あとは上がるだけだ。坂だって、山だって、きっと降りるのは楽で、登るのは大変だ。なんか人生みたいだな。そういえばお父さん、昔山登りサークルに入っていたって言ってたっけ。山登り、ちょっと興味出てきたかも。帰ったら聞いてみよう。
私は涼花がいる山まで、毎日汗を流しながら歩いて行けばいい。坂と同じで、山にも必ず頂上があるのだから。
その華奢な背中を、私はぼんやりと見つめていた。

私たちは、海広神社へと向かっている。ショッピングセンターからは15分ほどのバス旅になる。
揺れる車窓からの景色を眺めながら、ふと頭の中に地図を描く。私たちの通う学校、さっきまでいたショッピングセンター、そしてこれから向かう海広神社。この3つの場所は市内に点在していて、線で結ぶと綺麗な三角形になる。
そういえば、夏の大三角形ってあったな。あれはたしか、白鳥座のデネブと、わし座のアルタイル? あれ?あともう一つあるよね?
「ベガだよ!」
隣の席から、涼花が食い気味に答えた。
「えっ!?」
声に出ていたことに対する驚きで、情けない変な声が漏れてしまう。いったいいつから私の独り言は外に漏れ出していたのだろう。
「ベガはね、織姫星とも言うの! ベガは一等星のなかでもひときわ明るくて、夏空の中で最も眩しく、青白く輝く星なんだよ。ちなみにアルタイルが彦星で、デネブがはくちょう座ね! 織姫星って名前がかわいいよね~。ベガっていうとなかなか結び付かないんだけど、織姫星って言うと、小さな子でも伝わったりする! ほんとロマンティックだよね~、織姫と彦星の話! 今でも好きだな~、一途な彦星かっこいい~。いったいどこにいるんだ私の彦星!」
ドヤ顔で解説した上に、涼花を見て、私は目を丸くした。マンスリーコメンテーターを務めていたそらたんの影響か、気象だけでなく星座にもやけに詳しいらしい。また一つ、彼女の新しい一面を知ってしまった。
最も眩しく輝く、織姫星か。まさに、これから圧倒的な光を放つ涼花にぴったりだ。
「みさきにぴったりだね!」
「……そうなの?」
私が頭の中で思い描いていたことと正反対の発言をする涼花に、条件反射のように間の抜けた声で返してしまう。
「みさきだよ~。みさきは、たまに変な理由で休む私のことを、いつも文句言わずに待っててくれるじゃん。織姫みたい。私だったら、絶対にそんなに待てないだろうし」
私とはまったく違う着眼点から、物事を捉える涼花。
私たちが仲良くなるきっかけであり、引き合わせてくれたのは、間違いなくオルタンシアというアイドルグループだった。けれど、こうも見ている世界や考え方が違うからこそ、友達でいられたのかもしれない。
「そっか。でも、涼花にあんまり待たされすぎたら、そっぽ向いてどっかに行っちゃおうっと」
「えっ? それは困る!」
むくれる涼花を見て、私は小さく笑った。
こんな軽口を叩けるのも、今のうちだけなのだから。

長蛇の列に阻まれて参拝を諦めた、お祭りの夜。
遠い昔のことのように感じるが、カレンダーを遡ればまだたった10日前の出来事だ。リベンジの機会がこんなにも早く訪れるとは思っていなかった。
私たちはお揃いの水色のワンピースを揺らしながら、人気のない静かな境内の階段を上っていく。
一段、また一段。
今日も肌を焦がすように暑いが、足取りは驚くほど軽やかだった。
頂上に着くと、ふたりで拝殿の前に並ぶ。私はこれまでずっと10円玉や5円玉しか入れてこなかったけれど、今日だけは財布の中から500円玉を取り出し、賽銭箱へと投げ入れた。
隣で、ジャラジャラと鈍い音が鳴る。
涼花はいったいいくら入れたのだろう。ありったけの小銭を財布から逆さにぶちまけているようだ。私の500円玉の決意をあっさりと上回るような、いかにも涼花らしい不器用で大胆な行動に、思わず苦笑してしまう。
隣を見ると、涼花は目を固く瞑り、小さな手を顔の前でしっかりと合わせていた。
私はとっくに願い事を終えたというのに、涼花はまだそのまま微動だにしない。
圧倒的な光を放ちながら、私の元から遠ざかっていく織姫は、神様にいったい何を願っているのだろう。
もうちょっとこのまま彼女の横顔を眺めるのもいいけれど、彼女は私の期待もつゆ知らず、パチリと目を開けると、私に言い放った。
「よし! 海行こう!」

静寂に包まれた境内を下り、今度は路面電車の駅へと向かう。普段使うことはないが、海広神社から海へ出るには、これが最短ルートになる。
深い赤色のレトロなボディが写真映えすると、こんな辺鄙な場所まで観光客が訪れることもあるが、今日は雲行きが怪しいせいか、駅に人はほとんどいなかった。
電車に乗り込み、車窓から少しずつ近づいてくる海を眺める。
「ねえ、このままどこまでも行っちゃおうか」
涼花が海から目を離さないまま、ふいに言った。
「どこまでも、ってどこ?」
「知らないよ、どこかだよ。誰も人がいないところ」
「じゃあ、夜は自分で火起こしして、ご飯も自給自足だね」
「えー、それはちょっと嫌かも。虫刺されとか絶対無理だし、ふかふかのベッドで寝たい」
涼花はさっきまでのロマンチックな逃避行の提案をあっさりと撤回し、あからさまに顔をしかめた。
「言い出したのは涼花でしょ。誰もいないところに行くなら、それくらいのサバイバル覚悟が必要なんだから」
「無人島とは言ってないじゃん! もう少しこう、綺麗で、ルームサービスが来るような隠れ家みたいな?」
「そんな都合のいい場所、あるわけないよ」
ふふっ、と互いに顔を見合わせて笑い合う。
どこまでも行っちゃおうか。その言葉の裏に隠れた、明日から始まる新しい日々へのほんの少しの不安や重圧。それに気づかないふりをして、私はあえて現実的な冗談で返した。
このまま海を越えて、誰も知らない世界へふたりで逃げてしまえたら。――そんな叶わない願いを、ほんの一瞬だけ本気で夢見てしまった自分がいる。
けれど、ガタゴトと規則正しい音を立てて進む路面電車は、私たちの魔法を解くように、無情にも目的地へと近づいていく。

やがて電車は海沿いの終点に到着し、2人はホームへと降り立った。子供っぽいからいつもは絶対にしないけれど、ほんのちょっとだけジャンプして駅に降り立った。涼花とあらかじめ立てていた計画は、ショッピングセンターと海広神社で終わりだったから、こうして延長戦を過ごせていることがすごく嬉しい。今日だけ、私と涼花の縁に免じて、一日48時間にしてもらえないだろうか。きっと8月31日を延長してほしい人は私たち以外にも多くいるはずだから。
非情にも、着々と別れの時間は近づいている。私たちの夏は、ずっと続くものだと思っていた。こんなはずじゃなかった。予定調和ではなかった。あと少し。それでも不思議と、今は痛いものではなかった。
駅から海へと続く道を歩き出す。私たちは途中にあった自販機でラムネを買った。水色の瓶。あっという間に二人とも飲み終えていて、歩くたびに中に入ったビー玉が、カラカラと涼やかな音を立てる。髪型、ワンピース、ラムネ。今日で3つ目のお揃いだ。

「わあー、綺麗!!」
気づいたら防波堤を越えていて、視界いっぱいに海が広がっていた。
「ねえ、星も見れるかな!? 夏の大三角形」
さっき涼花から学んだことを口に出す。
「夏の大三角形はもうちょっと遅い時間のほうが鮮明だろうけれど、見えないわけじゃないかも」
腕時計は19時を指している。もうこんな時間なのか。夏なのでまだ少し明るく、完全に日が落ちるにはもう少しだけ時間がかかりそうだ。
西の空には重く鈍色の雲が垂れ込めていたが、涼花は波打ち際まで駆けていくと、振り返って私に笑いかけた。
「みさき、ほんとうにありがとう! 私、みさきと出会えてすっごく楽しかった」
まるで、今生の別れのような言い方だ。東京とここ。距離はあるが、一日かければ会える場所だ。だから、すぐに会える。きっと。会えるんだよね?
「……また、会えるよね?」
言えた。やっと言えた。涼花を見ると、大きな瞳が真っ直ぐにこちらを捉えている。
「うん、会えるよ! ぜったい会う! もしみさきが拒否しようものなら、家までピンポンしに行くから! 『オルタンシアのメンバーになりました、木下涼花です〜! お宅のお嬢さんと仲良くさせてもらってま〜す!』って言いに行くからね!」
私の一世一代の勇気は、あっけなく彼女のボケによって塗り替えられた。
ああ、そうだ。私は涼花のこういうところが大好きなんだ。これからもずっと友達だ。
「それはちょっと恥ずかしいかも……」
「えっ! アイドルの友達なのが恥ずかしいの!」
「いや、そういうことじゃなくて」
ふふふ。互いに視線を交わし、どちらともなく笑いあう。
「ねえみさき、私たちずっと友達だよ。約束ね」
普通の女の子でいられる期限を迎えようとしている、白いワンピースを纏う彼女は、小指をこちら側に差し出した。

その瞬間、私は海へと走り出し、ざぶんと足を踏み入れた。
履いていた靴が濡れてしまうとか、買ったばかりのお揃いのワンピースの裾が汚れるとか、そんなことはもうどうでもよかった。ふくらはぎくらいまで海に浸かった私を見て、涼花は目を丸くし、やがて楽しそうに笑って自分も海に入ってきた。
「うん、約束」
私たちは波の音に包まれながら、小指を絡ませて小さく上下に揺らした。繋いだ小さな指先に、永遠を託す。
目を合わせた瞬間、どうしようもない気持ちが込み上げてきた。ずっと友達だよ。何度も心の中で反芻する。
ほんとは、行かないでほしい。アイドルしないでほしい。ずっとここにいて、普通の女の子として生きようよ。声にはならない。言っていいこと、言わないほうがいいことがあることくらい、わかっている。言葉にしなければ伝わらないと知っているけれど、今はこれでいい。涼花の気持ちが、痛いほどに伝わっているから。

小指を離し、指切りした私たちは足で水をかけ合う。なんてベタな展開にはしない。ただ二人で空を眺める。西の空を見ると、急に湧き出した厚い雲に遮られて、月どころか夏の大三角形を見ることは絶望的だった。
それでもいい。
次第に茜色から深い群青へと染まっていく空。重く垂れ込めた鈍色の雲の隙間から、夕陽の黄金色の光線が幾重にも放射状に広がり、海全体を優しく静かに照らし始めた。あのお祭りの夜、彼女が着ていた浴衣と同じ、圧倒的な光の色。お揃いのワンピースを着ていても、彼女はもうすぐ手の届かない空の上へと行ってしまうけれど。
光を乱反射してきらきらと輝く波打ち際は、そこだけが透き通るような水色に染まって見えた。
誰がなんと言おうと、あれは水色だ。
――この水色の景色の中でなら、きっと本当の気持ちを伝えられる。

「涼花!」
半径1m以内にいる人に対してかける声量ではない声で、私は彼女の名前を呼んだ。
きょとんとしたが、すぐに表情を切り替え、
「なーに!」
と返してくれる。
「涼花! ほんとうは最初は、涼花がちょっと難しい子だなって思ってた! 涼花は何でも持っていて、ずるいって嫉妬してたと思う! でも、最初から何でも持ってたわけではないんだよね! 親が共働きだから自分でお弁当作ったり、何気ない日常も楽しもうといろいろ考えてポジティブに振る舞ってくれている人だって気づいた!」
息を吸い込み、さらに続ける。
「私、ちゃんと涼花に向き合えてなかった! こんなネガティブと仲良くしてくれてありがとう! ずっと友達だからね! 今度返信無視されたら拗ねるからね! 太陽みたいな涼花が、これから先、幸せでありますようにー!」
さっき神社で願った願い事。ぜんぶ涼花だ。これが私の願い。今は見えないけれど必ずそこにある夏の大三角形に向けて宣言する。
ちゃんと伝えた。言いたいこと、全部。きっと、悔いはない。
「みさき…っ、みさきぃぃ」
ほんとうに彼女の声なのか疑いたくなるくらいのぐちゃぐちゃな声。大きな瞳から流れでる涙。カラオケの日に見たものより、ずっと大きくて透き通っていた。涙は頬をつたい、海と混じる。一世一代の愛の告白をした私より先に泣くのか。それはずるいだろう。
のろのろとこちらまで歩み寄り、ぎゅっと抱きしめられた。足とワンピースの裾を海に浸しながら。ふたりは最後の時間を共有し合った。

「みさき、ほんとにありがとね」
私の自宅の最寄りのバス停。二人で涼花が乗る最終バスが来るのを待っていた。送るよ、とうちのお父さんが申し出たが、お別れは二人でしたい。私がどうしようかなと迷ったが、涼花が丁重に断っていた。
「それは私のセリフ。こんなに充実した夏休みは初めてだよ。全部涼花のおかげ。ありがとう」
ありったけの感謝をこめて涼花に伝える。涼花は泣き疲れたのか、ちょっと眠そうだ。さっき4回目のあくびをかみ殺していたのを私は知っている。
「みさき、私が学校にいなくても、忘れないでね?」
「ねえ、それこそ私のセリフだよ。これから涼花はうんと多くの人と出会っていくんだから」
「そうなのかな、私はみさきみたいな人に今後一生出会えない気がするけどな」
大げさだが、それを口に出すのはやめる。涼花の表情がちょっと暗くてよく見えない。泣いているのか笑っているのかさえわからなかった。待っていないけれど、待っていた最終バスがまばゆい光を発してバス停に停車する。
「またね!」
バスの車内光で照らされた彼女の顔は陰影をはっきりと映し出す。何度も合わせた目からは、線の跡がついていた。

涼花が乗ったバスを見送る。これで、最後だ。でもお別れじゃない。また会える。
彼女は涼花だ。これからアイドルとして世に解き放たれ、オルタンシアの4期生として羽ばたいていく。今はその夢を応援しよう。

彼女の行動、言動、すべてが、地方在住のただの一般女子高生ならなり得ないほどの影響力を持つようになるだろう。ただの女子高生では知り得なかった体験や経験を得て、ずっとずっと大きくて広いコミュニティに所属する。この町がちっぽけに思えるくらいには、ぐっと世界が広がるんだろう。
だけどその一方で、常に周囲の目に晒され、それに、女性アイドルの寿命はとても短い。
人間としての命はその後も長く長く続いていくというのに、表舞台で「アイドル」としての命を一度終えれば、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消滅してしまうと錯覚する。一瞬だけ夜空にきらめいて、すぐに燃え尽きてしまう花火や閃光のように。
その刹那の輝きのために、彼女たちは青春の多くの時間を消費し、すり減らして、歌い踊るのだ。私たちファンが熱狂して見ているアイドルは、どこまでいっても作られた虚像でしかない。
その虚像に、涼花がなってしまう。
17歳の等身大の命を燃やしてまで、その虚像になる価値は本当にあるのだろうか。ここでただの女子高生として、ポテトの数を数えて笑い合って生きるほうが、ずっと幸せなのではないだろうか。ここにいる限り、何万という人に注目されることはないが、理不尽に晒されたり傷つけられたりすることもない。
アイドルになれば、プライベートとの境目はあやふやになる。四六時中、誰かの理想の「偶像」を演じ続けなければならない。常に気を張り、世間の空気にアンテナを張り、流行に乗り、あるいは自ら流行を生み出していく。
それは本当に、涼花なのだろうか。彼女はただ、日曜朝のアニメが好きなだけの、普通の女の子なのに。
環境が変わったからといって、きっと彼女の中身が明日から急に変わるわけではない。それでも、徐々に時間をかけて、彼女は否応なしに「偶像」へと近づいていくのだろう。
それにオルタンシアがずっと安泰ともいえない。急な運営方針の変更や、グループ存続が危うくなるほどのスキャンダル、もしかしたら社会情勢の変化など、メンバーやファンの力だけではどうにもならない状況だって考えられる。
もしそうなったときは、私を頼ってほしい。もし彼女に石を投げつける人がいれば、私が跳ね返そう。前は失敗してしまったけれど、次は絶対に守る。大丈夫だから。だから私はここにいよう。ここで涼花の帰りを待ち続けたい。私がそうしたい。
だから私といるときだけはいつもの涼花でいてね。
嫉妬も、絶望も、諦めも。
私の中に渦巻いていた真っ黒な感情のすべてを透過して、この透明な光の束が胸の奥底まで差し込んでくる。
絡み合った小指から伝わる熱だけが、薄明の空と海を繋ぐあの眩い帯のように、確かに私を貫いている。

遠ざかる赤いテールランプが、やがて夜の闇にすっかり溶けて見えなくなる。
私は一人、右手の小指に残るかすかな熱を握りしめるようにして、自分の家へと向かって歩き出した。