雨上がりの私は満開に咲き誇る

 朝だ。水色のカーテンの隙間から覗くのは、雲1つない青空。
 青空は、なぜ青空というのだろう。青というより、水色のほうが近い気がする。でも空色という色もあるし……空の色だから空色なのか。頭が回っているのかいないのか、とりとめのない思考が思考を追いかける。

 重い体を起こさないまま、枕元のスマホの画面を点けた。部屋は薄暗く、液晶が眩しくて反射的に目を細める。何度確認しても、日付は無情にも8月31日のままだ。
 涼花(すずか)はすっかり寝ていたが、私は24時を過ぎても眠れなかった。だから、夜を()えたというより、今日から今日へとそのままタイムスリップしたような、不思議でフワフワとした感覚の中にいる。

 いつもと違うのは、床に敷いた布団で涼花が寝ていること。
 すぅ、すぅ、と規則正しい静かな寝息が聞こえる。
 このままずっと、涼花が目を覚まさなければいいのに。2人でずっとこの部屋に引きこもっていれば、彼女が東京に行ってしまうこともないんじゃないか。そんな子どもじみた現実逃避(げんじつとうひ)を、本気で考えてしまう。
 時計の針を止める魔法なんてないことは分かっている。逃避行なんて実現しないことも分かっている。それでも、この静かで青い朝の時間だけは、いつまでも終わらないでほしかった。

 名残惜しいが、そろそろ起こさないといけないので、涼花の体を優しく揺さぶる。

「ねえ涼花、起きてー」

 まだ眠そうな私の声が部屋に響き、そのまま力なく落ちていく。あれ、涼花けっこう寝起き悪いな。さらに何回か名前を呼ぶと、彼女は目を細めながら「うーん」と伸びをした。よかった、よく眠れたようだ。

 涼花を引きずるようにして(正確に言えば、手を引っ張って)洗面所へと連れていく。前髪をヘアバンドでぐいっと上げる涼花。おお、すっぴんなのにメイク完成か、というような素材の良さ。絵になるな、と感心してしまう。

 リビングに涼花を連れていき、2人で食卓に着く。ウインナーはいつもより多く、目玉焼きの見栄えも、サラダの彩りも違う。きっと涼花スペシャルだ。その恩恵(おんけい)(あずか)りながら、具だくさんのサラダを頬張(ほおば)る。モッツァレラチーズなんて冷蔵庫に入っていただろうか。食卓にはめったに出てこないぞ。お母さんが大事にとっていたお中元のハムとソーセージまで大盤振る舞い(おおばんぶるまい)されている。初めてうちの食卓を囲む涼花は、ソワソワしながらハムを咀嚼(そしゃく)していた。
 今日は日曜日。だから私はいつも見ている情報番組ではなく、男児向けヒーローアニメをつけた。涼花は「いつも見てるやつでいいんですよ!」と言うけれど、私の家族と一緒に食卓にいる涼花。それだけで、いつもと違う非日常だ。だからテレビでも、いつもと違うものを見たくなっただけだ。

 涼花はうちの両親から質問攻めに遭っていたが、すべて笑顔で対応していた。なんであんなにも流暢(りゅうちょう)に敬語でしゃべれるんだろう。涼花なんだけど、ちょっと別人のようにも感じてこそばゆい。その化けの皮を()がすために、私は問いかけた。

「涼花、このヒーローが巻いてるベルトは何?」

 少し戸惑っていたが、何かを(あきら)めたのか、彼女は説明し始めた。さっきよりも流暢に、というより、早口で捲し立てる(まくしたてる)ようにしゃべる。

「それはレイジングベルトっていって、変身アイテムなの。で、これを巻いている人は、拓海(たくみ)っていう名前なんだけど、主人公じゃなくて悪役で。あ、で、こっちが光太郎(こうたろう)。こっちが主人公なの」
「へえ、光太郎が巻いているのもレイジングベルトなの?」
 なぜかお父さんが食いついて質問する。
「あ、そう見えますが、これはカームベルトっていいます。英語の綴りはcalmでカームです。穏やかな、って意味です。ちなみにレイジングは怒り狂う、っていう意味です」

 涼花は聞かれていない部分まで勝手に補完(ほかん)して説明してくれた。AIみたいだな。ヒーローアニメのことなら、涼花はAIに負けないだろうな。

「へえ、そうなんだ。黄色のベルト、デザイン凝ってるわね、キラキラしていてちょっとかわいいわ」

 ずっと無言で聞いていたお母さんまで話に参加してきた。予想外である。
 家族との関係は悪くないが、高校生になって会話がちょっと減ってきた。一人っ子だし、実は親も話をするのを待ってくれているのかもしれない。今度、好きなものの話もしてみよう。
 涼花のヒーローアニメのように、熱中できるものがあるのは素敵なことだ。1人で熱中する楽しさが『1』だとしたら、同じものが好きな人と出会い、それを『2』や『3』へと広げていく。1人でいても楽しいけれど、誰かと分かち合えばもっと楽しくなる。そうして広がった人の輪が、自分にとって居心地のいい空間を作ってくれる。今ならそう思えた。

 朝食を終え、ショッピングモールへ行く用意も、2人であーだこーだ言いながら進めた。涼花が「一緒がいい」と言うので、髪型は2人ともポニーテールにした。涼花はつややかな黒髪のロングヘアだが、私はちょっと癖のあるボブヘアだ。長さが足りないのに無理やり結ぶので、短い毛がぴょこぴょことはみ出てしまう。でもそれを気にしているのは私だけで、涼花はお揃いという事実に満足しているようだった。鏡の前で笑う彼女に引っ張られるようにして、私たちは家を出た。

 やってきたのは、いつものショッピングモールだ。
 磨き上げられた緑色のタイルの床。高い吹き抜けの天井から降り注ぐ柔らかな光。全部、いつもと変わらない景色。
 私たちの靴音が、館内を満たすBGMと重なりながら、静かに時を刻んでいく。

 ガラス張りのショーウィンドウには、季節を先取りしたマネキンたちが並び、色鮮やかな新作を(まと)って()ました顔で佇んでいた。連日の猛暑だというのに、早くもベロア素材の上着を着せられている。外の暑さを忘れさせるほど涼しい館内で、彼女たちだけが少し先の季節を生きていた。
 そもそも彼女たちには、自分で着る服を選ぶ権利などないのだろう。ベースはほとんど変わらないのに、あえて対照的な色を着せられ、さも個性があるかのように演出されている。誰かが決めた枠にはまり、ただそこに立って自分の役割を全うするだけだ。

 頭上の照明は小さな光の粒を作り出し、ショーウィンドウ全体にきらきらとした魔法をかけていた。それでも綺麗で、目が離せない。歩きながら、次々と目移りしてしまう。
 すれ違う人が残していく上品な香水の匂いと、どこかのカフェから漂ってくるコーヒーの芳醇(ほうじゅん)な香り。それらがふわりと混ざり合い、言葉では表せない新たな空気を生み出す。それが不思議と不快ではない。
 人々のざわめきすらも、ここでは洗練された映画のノイズとなって溶け込んでいる。
 (まばゆ)いほどに明るいこの巨大な箱庭の中を歩いていると、自分たちもディスプレイの一部になったかのような、心地よい錯覚(さっかく)に包まれる。
 今日は夏休み最終日ということもあり、館内は少しだけ人が少ない気がする。世の中の学生たちは皆、家でおとなしく、明日から日常に戻る衝撃に備えているのだろう。
 けれど、私たちはもう元の日常には戻れない。だからこそ、ここにいるのかもしれない。涼花が「ただの高校生」でいられる、日常の象徴のようなこの場所を、最後のお出かけに選んだのだ。

 開店時間に合わせて入った私たちは、様々な店を当てもなく巡った。
 ペットショップのガラス越しに、うとうとと眠るインコの顔真似をする涼花。ゲームセンターの端にある、少し古びた館内キャラクターの顔出しパネルから、満面の笑みで顔を覗かせる涼花。
 誰もいないエレベーターで、2人で鏡越しに変なポーズを決めて遊んでいたのに、途中の階でおばあちゃんが乗ってきた瞬間、気まずそうにスッと直立不動になる涼花。
 その百面相(ひゃくめんそう)を見ていると、まだ私の知らないこんな一面もあるんだなと、自然と顔がほころんでしまう。すべてを知っているつもりでいたけれど、私は涼花のことをまだ全然知らないのかもしれない。

 お昼はハンバーガーがいいと涼花が言うので、フードコートのファストフード店で席を取った。
 まったく同じセットを頼み、トレイに広げたポテトの本数がどちらのほうが多いのか、2人でムキになって数え合った。結果は、私のほうが6本多かった。でも、涼花のポテトのほうが明らかに揚げたてで、湯気が立っていて美味しそうだ。私は少しだけ不満に思いながら、しなびたポテトをつまんで口に運んだ。

 フードコートを出ると、目の前の若者向けフェミニンショップに目を奪われた。スポットライトをまっすぐに浴びるマネキン。その身体を包む、水色の涼しげなオフショルダーのワンピース。私なら絶対に選ばないデザインだ。フリルをあしらった似たようなものも売っているだろうが、均等に並ぶプリーツと、ふんだんに使われたレースが美しい。

「ねえ、お揃いのワンピース買おっ!」

 昨日着ていた、少しシワの寄った紫のワンピース。それを着た涼花が、ふいに目を輝かせて私を見た。答えなんて、最初から決まっているのだ。
 店に入るなり、涼花はまっすぐ店員のもとへ向かった。

「ショーウィンドウの真ん中のワンピース、2つください!」

 試着室に持ち込むことすら待ちきれない様子で買い求めると、私たちはそのままトイレの個室へ駆け込み、そそくさと新しい服に着替えた。
 水色。私の好きな色であり、涼花に1番似合う色。
 大きな鏡に並んで映る私たちは、まるで双子みたいだった。あのお祭りの夜、水色と紫の浴衣によって残酷なまでに引かれた境界線を、このお揃いの服が今日だけは曖昧(あいまい)にしてくれている気がした。せめてこの数時間だけは、同じ場所に立っていたかったのだ。

 ショッピングモールを出て、近くのバス停へ向かう。次も涼花の行きたい場所に行くことになっている。
 少し前を歩く涼花のワンピースの裾が、海風に(あお)られてひらひらと揺れている。山になっている部分と、谷になっている部分。それが連なってひだとなり、彼女をぐるりと囲んでいる。風に揺れるたび、山が谷になり、谷が山に変わるように見えた。
 まるで、どんな一生にも必ず山と谷があるように。谷にいるときは山を目指し、山にいるときは谷へ落ちてしまうこともある。涼花は山のてっぺんにいるんだろうか。じゃあ私は谷にいるのかな。
 ああ、またいつものネガティブだ。気をつけないと。
 でも谷にいるなら、あとは上がるだけだ。坂だって、山だって、きっと下りるのは楽で、登るのは大変だ。なんか人生みたいだな。そういえばお父さん、昔山登りサークルに入っていたって言ってたっけ。山登り、ちょっと興味出てきたかも。帰ったら聞いてみよう。
 私は涼花がいる山まで、毎日汗を流しながら歩いていけばいい。坂と同じで、山にも必ず頂上があるのだから。
 その華奢(きゃしゃ)な背中を、私はぼんやりと見つめていた。

 バスに乗り込み、目指すのは海広神社(みひろじんじゃ)だ。ショッピングモールからは15分ほどの小さなバス旅。
 窓の外へ流れる景色を追っていると、今日までの出来事が脳内で倍速再生されていく。またあそこに、2人で向かっているのだ。
 揺れる車窓を眺めながら、ふと頭の中に地図を描く。私たちの通う学校、さっきまでいたショッピングモール、そしてこれから向かう海広神社。この3つの場所は市内に点在していて、線で結ぶと綺麗な三角形になる。
 そういえば、夏の大三角形ってあったな。あれはたしか、はくちょう座のデネブと、わし座のアルタイル?あれ?あともう1つあるよね?

「ベガだよ!」
 隣の席から、涼花が食い気味に答えた。
「えっ!?」
 声に出ていたことに驚いて、情けない声が漏れてしまう。いったいいつから私の独り言は外に漏れ出ていたのだろう。
「ベガはね、織姫星とも言うの!1等星のなかでもひときわ明るくて、夏空の中で最も眩しく、青白く輝く星なんだよ。ちなみにアルタイルが彦星で、デネブがはくちょう座ね!織姫星って名前がかわいいよね〜。ベガっていうとなかなか結び付かないんだけど、織姫星って言うと、小さな子でも伝わったりする!ほんとロマンティックだよね〜、一途な彦星かっこいい〜。いったいどこにいるんだ私の彦星!」

 ドヤ顔で解説したうえ、さらに『私の彦星はどこ』なんて言い出す涼花を見て、私は目を丸くした。マンスリーコメンテーターを務めていたそらたんの影響か、気象だけでなく星座にもやけに詳しいらしい。また1つ、彼女の新しい一面を知ってしまった。
 最も眩しく輝く、織姫星か。まさに、これから圧倒的な光を放つ涼花にぴったりだ。

「みさきにぴったりだね!」
「……そうなの?」
 頭の中で思い描いていたのと正反対のことを言われ、条件反射のように間の抜けた声で返してしまう。
「みさきだよ〜。みさきは、たまに変な理由で休む私のことを、いつも文句言わずに待っててくれるじゃん。織姫みたい。私だったら、絶対にそんなに待てないだろうし」

 私とはまったく違う着眼点から、物事を(とら)える涼花。
 私たちを引き合わせ、仲良くなるきっかけをくれたのは、間違いなくオルタンシアというアイドルグループだった。けれど、こうも見ている世界や考え方が違うからこそ、友達でいられたのかもしれない。

「そっか。でも、涼花にあんまり待たされすぎたら、そっぽ向いてどっかに行っちゃおうっと」
「えっ?それは困る!」

 むくれる涼花を見て、私は小さく笑った。
 こんな軽口を叩けるのも、今のうちだけなのだから。

 長蛇の列に阻まれて参拝を諦めた、あの夏祭りの夜。
 遠い昔のことのように感じるが、カレンダーを(さかのぼ)れば、まだたった11日前の出来事だ。まさかこんなに早くリベンジの機会が訪れるとは思っていなかった。何より、この場所を提案したのは、他ならぬ涼花自身だった。

 私たちはお揃いの水色のワンピースを揺らしながら、人気のない静かな境内の階段を上っていく。
 1段、また1段。
 今日も肌を焦がすように暑いが、足取りは驚くほど軽やかだった。

 頂上に着くと、2人で拝殿の前に並ぶ。私はこれまでずっと10円玉や5円玉しか入れてこなかったけれど、今日だけは財布から500円玉を取り出し、賽銭箱へと投げ入れた。
 隣で、ジャラジャラと鈍い音が鳴る。
 涼花はいったいいくら入れたのだろう。財布を逆さにして、ありったけの小銭をぶちまけているようだ。私の500円玉の決意をあっさりと上回るような、いかにも涼花らしい不器用で大胆な行動に、思わず苦笑してしまう。

 涼花は目を固く(つむ)り、小さな手を顔の前でしっかりと合わせた。
 私はとっくに願い事を終えたというのに、涼花はまだそのまま微動(びどう)だにしない。
 圧倒的な光を放ちながら、私のもとから遠ざかっていく織姫は、神様にいったい何を願っているのだろう。
 もうちょっとこのまま横顔を眺めていたいけれど、彼女はそんな期待もつゆ知らず、パチリと目を開けると、私に言い放った。

「よし!海行こう!」

 静寂に包まれた境内を下り、今度は路面電車の駅へと向かう。普段使うことはないが、海広神社から海へ出るには、これが最短ルートになる。
 深い赤色のレトロなボディが写真映えすると、こんな辺鄙(へんぴ)な場所まで観光客が訪れることもある。けれど今日は雲行きが怪しいせいか、駅に人はほとんどいなかった。

 電車に乗り込み、車窓から少しずつ近づいてくる海を眺める。

「ねえ、このままどこまでも行っちゃおうか」
 涼花が海から目を離さないまま、ふいに言った。
「どこまでも、ってどこ?」
「知らないよ、どこかだよ。誰もいないところ」
「じゃあ、夜は自分で火起こしして、ご飯も自給自足だね」
「えー、それはちょっと嫌かも。虫刺されとか絶対無理だし、ふかふかのベッドで寝たい」
 涼花はさっきまでのロマンチックな逃避行の提案をあっさりと撤回し、あからさまに顔をしかめた。
「言い出したのは涼花でしょ。誰もいないところに行くなら、それくらいのサバイバルの覚悟は必要なんだから」
「無人島とは言ってないじゃん!もう少しこう、綺麗で、ルームサービスが来るような隠れ家みたいな?」
「そんな都合のいい場所、あるわけないよ」

 ふふっ、と顔を見合わせて笑い合う。
 どこまでも行っちゃおうか。その言葉の裏に隠れた、明日から始まる新しい日々へのほんの少しの不安や重圧。それに気づかないふりをして、私はあえて現実的な冗談で返した。
 このまま海を越えて、誰も知らない世界へ2人で逃げてしまえたら。——そんな叶わない願いを、ほんの一瞬だけ本気で夢見てしまった自分がいる。

 けれど、ガタゴトと規則正しい音を立てて進む路面電車は、私たちの魔法を解くように、無情にも目的地へと近づいていく。
 やがて電車は海沿いの終点に到着した。子どもっぽいからいつもは絶対にしないけれど、私はほんのちょっとだけジャンプしてホームへと降り立った。涼花と立てていた計画は、ショッピングモールと海広神社で終わりだったから、こうして延長戦を過ごせていることがすごく嬉しい。今日だけ、私と涼花の縁に免じて、1日48時間にしてもらえないだろうか。きっと8月31日を延長してほしい人は、私たち以外にも多くいるはずだから。
 非情にも、別れの時間は着々と近づいている。私たちの夏は、ずっと続くものだと思っていた。こんなはずじゃなかった。思い描いたとおりにはならなかった。あと少し。それでも不思議と、今はそのことが痛くはなかった。

 私たちは駅から海へと続く道の途中で、ラムネを買った。水色の瓶。2人ともあっという間に飲み終えて、歩くたびに中のビー玉がカラカラと涼やかな音を立てる。髪型、ワンピース、ラムネ。今日で3つ目のお揃いだ。

「わあー、綺麗!!」

 どれくらい歩いただろう。彼女の声に顔を上げると、いつの間にか防波堤を越えていて、視界いっぱいに海が広がっていた。

「ねえ、星も見れるかな!?夏の大三角形」
 さっき涼花から学んだことを口に出す。
「夏の大三角形はもうちょっと遅い時間のほうがはっきり見えるだろうけれど、見えないわけじゃないかも」

 腕時計は19時を指している。もうこんな時間なのか。夏なのでまだ少し明るく、完全に日が落ちるにはもう少しだけ時間がかかりそうだ。
 西の空には鈍色(にびいろ)の雲が重く垂れ込めていたが、涼花は波打ち際まで駆けていくと、振り返って私に笑いかけた。

「みさき、ほんとうにありがとう!私、みさきと出会えてすっごく楽しかった」

 まるで、今生の別れのような言い方だ。東京とここ。距離はあるが、1日かければ会える場所だ。だから、すぐに会える。きっと。会えるんだよね?

「……また、会えるよね?」

 言えた。やっと言えた。涼花を見ると、大きな瞳がまっすぐにこちらを捉えている。

「うん、会えるよ!ぜったい会う!もしみさきが拒否しようものなら、家までピンポンしに行くから!『オルタンシアのメンバーになりました、木下涼花です〜!お宅のお嬢さんと仲良くさせてもらってま〜す!』って言いに行くからね!」

 私の一世一代(いっせいちだい)の勇気は、あっけなく彼女のボケによって塗り替えられた。
 ああ、そうだ。私は涼花のこういうところが大好きなんだ。これからもずっと友達だ。

「それはちょっと恥ずかしいかも……」
「えっ!アイドルの友達なのが恥ずかしいの!」
「いや、そういうことじゃなくて」
 ふふふ。視線を交わし、どちらともなく笑い合う。
「ねえみさき、私たちずっと友達だよ。約束ね」

 水色のワンピースを(まと)う彼女が、小指をこちらに差し出した。普通の女の子でいられる期限が、すぐそこまで迫っている。
 その瞬間、私は小指を絡ませるよりも早く海へと走り出し、ざぶんと水しぶきを上げて足を踏み入れた。
 履いていた靴が濡れることや、買ったばかりのお揃いのワンピースの裾が汚れることなんて、もうどうでもよかった。ふくらはぎまで海に浸かった私を見て、涼花は一瞬だけ目を丸くし、やがて弾けたように笑って海の中へと飛び込んできた。

「うん、約束」

 私たちは波の音に包まれながら、今度こそ小指をしっかりと絡ませ、小さく上下に揺らした。
 繋ぎ合った細い指先に、2人の永遠を託すように。
 目を合わせた瞬間、どうしようもない気持ちが込み上げてきた。ずっと友達だからね。何度も心の中で繰り返しては、それを確かめるように小指に力を入れる。
 ほんとは、行かないでほしい。アイドルしないでほしい。ずっとここにいて、普通の女の子として生きようよ。声にはならない。言っていいことと、言わないほうがいいことの区別くらい、ついている。言葉にしなければ伝わらないと知っているけれど、今はこれでいい。涼花の気持ちが、痛いほどに伝わっているから。

 指切りを終え、小指を離した私たちは、足で水をかけ合う。なんてベタな展開にはしない。ただ2人で空を眺める。西の空は厚い雲に遮られて、月どころか夏の大三角形を見ることも絶望的だった。
 それでもいい。
 次第に茜色から深い群青(ぐんじょう)へと染まっていく空。重く垂れ込めた鈍色の雲の隙間から、夕陽の黄金色の光線が幾重(いくえ)にも放射状(ほうしゃじょう)に広がり、海全体を優しく静かに照らし始めた。
 光を乱反射(らんはんしゃ)してきらきらと輝く波打ち際は、そこだけが透き通るような水色に染まって見えた。
 誰がなんと言おうと、あれは水色だ。
 あのお祭りの夜、彼女が着ていた浴衣と同じ、圧倒的な光の色。お揃いのワンピースを着ていても、彼女はもうすぐ手の届かない空の上へと行ってしまうけれど。
 ——この水色の景色の中でなら、きっと本当の気持ちを伝えられる。

「涼花!」

 1メートルも離れていない相手にかけるには大きすぎる声で、私は彼女の名前を呼んだ。
 涼花はきょとんとしたが、すぐに表情を切り替え、「なーに!」と返してくれる。

「涼花!ほんとうは、最初の頃、涼花がちょっと難しい子だなって思ってた!涼花は何でも持っていて、ずるいって嫉妬(しっと)してたと思う!でも、最初から何でも持ってたわけではないんだよね!親が共働きだから自分でお弁当作ったり、何気ない日常も楽しもうといろいろ考えたり!そうやってポジティブに振る舞ってくれる人なんだって気づいた!」
 息を吸い込み、さらに続ける。
「私、ちゃんと涼花に向き合えてなかった!こんなネガティブと仲良くしてくれてありがとう!ずっと友達だからね!今度返信を無視されたら拗ねるからね!太陽みたいな涼花が、これから先、幸せでありますようにー!」

 さっき神社で祈ったこと。ぜんぶ涼花だ。これが私の願い。今は見えないけれど必ずそこにある夏の大三角形に向けて宣言する。
 ちゃんと伝えた。言いたいこと、全部。きっと、もう悔いはない。

「みさき……っ、みさきぃぃ……っ」

 晴れ晴れとした私の前で、本当に彼女の声なのか疑いたくなるような、ぐちゃぐちゃな泣き声が響く。大きな瞳からぼろぼろと溢れ出る涙は、あのカラオケの日に見たものよりもずっと大きくて、どこまでも透き通っていた。頬を伝い、足元の海へと溶けていく。
 一世一代の愛の告白をした私より先に、泣くなんて。それはあまりにもずるいだろう。

 よろよろとこちらへ歩み寄ってきた涼花は、しがみつくように私を抱きしめた。
 濡れたワンピースの裾も気にせず、ただ強く、強く。寄せては返す波の音の中で、私たちは互いの体温を確かめ合うように、2人の最後の時間を胸に刻み込んだ。

「みさき、ほんとにありがとね」

 自宅の最寄りのバス停で、2人で涼花が乗る最終バスを待っていた。「送るよ」とうちのお父さんが申し出てくれたが、最後は2人きりでお別れをしたかった。私がどう断ろうかと迷っていると、涼花が丁重に断ってくれた。

「それは私のセリフ。こんなに充実した夏休みは初めてだよ。全部涼花のおかげ。ありがとう」

 ありったけの感謝をこめて伝える。涼花は泣き疲れたのか、ちょっと眠そうだ。さっき4回目の欠伸を噛み殺していたのを私は知っている。

「みさき、私が学校にいなくても、忘れないでね?」
「ねえ、それこそ私のセリフだよ。これから涼花はうんと多くの人と出会っていくんだから」
「そうなのかな、私はみさきみたいな人に今後一生出会えない気がするけどな」

 大げさだが、それを口に出すのはやめる。暗くて、涼花の表情がよく見えない。泣いているのか笑っているのかさえ分からなかった。来てほしくないのに、待っていた最終バスが、まばゆい光を発して停車する。

「またね!」

 車内の明かりが、彼女の顔にはっきりとした陰影を作る。何度も視線を交わしたその目元には、涙が流れた跡がついていた。
 涼花が乗ったバスを見送った。これで、最後だ。でもお別れじゃない。また会える。
 彼女は涼花だ。これからアイドルとして世に解き放たれ、オルタンシアの4期生として羽ばたいていく。今はその夢を応援しよう。
 きっと彼女の言動のすべてが、地方在住のただの女子高生では持ち得ないほどの影響力を持つようになるだろう。今まで知り得なかった世界を経験し、ずっと大きくて広いコミュニティに所属する。この街がちっぽけに思えるくらい、ぐっと世界が広がるんだろう。

 だけど涼花はこれから、常に周囲の視線に晒され続けることになる。それに、女性アイドルの寿命はとても短い。
 人間としての命はその後も長く長く続いていくというのに、表舞台で「アイドル」としての命を1度終えれば、まるで最初から存在しなかったかのように消滅してしまう——そんな錯覚さえ抱く。一瞬だけ夜空にきらめいて、すぐに燃え尽きてしまう花火や閃光のように。
 その刹那(せつな)の輝きのために、彼女たちは青春の多くの時間を費やし、自分をすり減らしながら歌い踊るのだ。私たちファンが熱狂して見つめているアイドルなんて、どこまでいっても作られた虚像(きょぞう)に過ぎない。
 その虚像に、涼花がなってしまう。
 17歳の等身大の命を燃やしてまで、その虚像になる価値は本当にあるのだろうか。ここでただの女子高生として、ポテトの数を数えて笑い合って生きるほうが、ずっと幸せなのではないだろうか。ここにいる限り、何万という人に注目されることはないが、理不尽(りふじん)に晒されたり傷つけられたりすることもない。
 アイドルになれば、プライベートとの境目はあやふやになる。四六時中、誰かの理想の「偶像(ぐうぞう)」を演じ続けなければならない。常に気を張り、世間の空気を読み、流行に乗り、あるいは自ら流行を生み出していく。
 それは本当に、涼花なのだろうか。彼女はただ、日曜朝のアニメが好きなだけの、普通の女の子なのに。
 環境が変わったからといって、きっと彼女の中身が明日から急に変わるわけではない。それでも、時間をかけて、彼女は否応(いやおう)なしに「偶像」へと近づいていくのだろう。

 それにオルタンシアがずっと安泰ともいえない。急な運営方針の変更や、グループの存続が危うくなるほどのスキャンダル、もしかしたら社会情勢の変化。メンバーやファンの力だけではどうにもならない状況が待っているかもしれない。
 もしそうなったときは、どうか私を頼ってほしい。涼花に石を投げつける人がいれば、私が跳ね返そう。前は失敗してしまったけれど、次は絶対に守る。大丈夫だから。だから私はここにいよう。ここで涼花の帰りを待ち続けたい。私がそうしていたいから。
 だから私といるときだけは、いつもの涼花でいてね。

 嫉妬も、絶望も、諦めも。
 私の中で渦巻く真っ黒な感情を切り裂いて、一束の光が胸の奥まで差し込んでくる。
 絡めた小指から伝わる熱だけが、薄明(はくめい)の空を貫く一本の光のように、私の胸の奥まで届いていた。

 遠ざかる赤いテールランプが、やがて夜の闇にすっかり溶けて見えなくなる。
 私は1人、右手の小指に残るかすかな熱を握りしめるようにして、自分の家へと向かって歩き出した。