雨上がりの私は満開に咲き誇る

お盆を過ぎても一向に涼しくなる気配のない、8月20日。
海広祭当日の夕方、私は母の姿見の前に立っていた。
背後では、母さんが私の浴衣の帯をきゅっきゅっと手際よく締めている。
「本当に新調しなくてよかったの? 高校生になったんだし、もう少し明るい色でもよかったのに」
「これでいいよ。めんどくさいし、どうせ夜で暗くて見えないし」
「そう? まあ、みさきがそれでいいならいいけど。はい、終わったわよ」
「ありがと」

そっけなく返し、私は鏡の中の自分を見つめた。
私が着ているのは、中学生の頃に買ってもらった古い紫色の浴衣だ。紫というより、洗うたびに色が抜けてしまった薄紫色、と言ったほうが正しいかもしれない。当時は少し大きかったはずなのに、今では裾が少し短く、足首が中途半端に覗いてしまっていて、決して華やかとは言えない。
階段を下りてリビングに向かうと、ソファでテレビを見ていた父さんが、少しだけ眩しいものを見るように目を細めてこちらを見た。
「おお、いいじゃないか。気をつけて行ってきなさいよ」
「うん、行ってくる」
私は短く答え、下駄箱から古い下駄を引っ張り出した。
一人娘である私に対し、両親はいつもこんな感じだ。進路や学校のこととなるとつい口うるさくなることもあるけれど、思春期特有の面倒くささを抱えた私の「内側」に対しては、あれこれと深く干渉しようとはしない。出かけるからといって写真を撮らせてと騒ぐこともなく、私が一人で抱え込んでいる空気を察して、あえて適度な距離感を保ってくれている。それは痛いほどわかっているのだが——。
平穏で、退屈で、でも確実に守られている私の日常。
私はそのぬるま湯のような心地よさに甘えきっている。
「じゃあ、行ってくるね」
「人混みではぐれないようにね」

両親の控えめな声援を背に受けて、私は家を出た。
待ち合わせ場所の神社へ続く道を歩きながら、私は少しだけ胸を高鳴らせていた。水色の浴衣を着た涼花と、屋台のりんご飴でも食べながら、他愛のない時間を過ごす。そんな当たり前の夜になるはずだったのだ。

海広神社の入り口にある大きな鳥居の脇で、私は一人、スマホの画面を見つめていた。
カラオケからはじまった私の夏。希望的な夏休みの幕開けかと思ったが、あれから涼花を遊びに誘っても、返事は芳しいものではなかった。あの日から丸一ヶ月。私と涼花は一度も会っていなかった。
涼花のいない夏休みはひどく退屈だった。そらたんのマンスリーコメンテーターの期間も終了し、日に日に起きる時間は遅くなっている。結局去年と同様に、学校の夏休みの宿題以外やることもなく、オルタンシアの動画やゲーム実況などを見て過ごすしかなかった。
今日の約束もなかったことにされるのかと不安だったが、集合時間を聞いてみたらちゃんと返信があった。それでもメッセージは淡々としたもので、画面の中の吹き出しは私の送ったものばかりが右に偏っている。スクロールしてさかのぼれば、もっと気さくで、涼花らしい言葉選びのものが並んでいるのに。いったいどうしちゃったんだろう。

次から次へと鳥居をくぐり、頭のてっぺんから爪先まで完璧にコーディネートされた同世代の女の子たちが通り過ぎていく。そのなかに涼花の姿はない。そんな周囲の女の子たちと寸足らずの自分を比べていると、やっぱり無理してでも新調するか、いっそ私服にしておけばよかったと、じわじわと後悔が押し寄せてくる。スマホを開くと、涼花から『もうすぐ着きます』とメッセージが入っていた。画面を閉じながら、ふと、一緒に浴衣を選んだ日のことを思い出す。あれは忘れもしない、そらたんの卒業発表があった日。ネットでお祭りに着ていく浴衣を探していたとき、涼花は一着の紫の浴衣をじっと見つめていた。
しかし私はそれを遮るように、「絶対に水色がいい」と強く勧めた。
水色は、私の好きな色だ。圧倒的に目を惹く彼女に私の好きな色を着せて、ただの「普通の女子高生」として私の隣に縛り付けておきたかった。
だから私は、自分は寸の足りない古い紫の浴衣を着て、彼女に真新しい水色を着せるというエゴを押し付けてしまったのだ。
雑踏の中でそんな一人反省会を繰り広げていたところ、モヤモヤを吹き飛ばすように、ずっと聞きたかった声が耳に届いた。

「みさきー!」
提灯の赤い光と人々の喧騒をすり抜けて、鈴の音のように透き通った声が響いた。
顔を上げた私の視界に、周囲の空気をそこだけ丸く切り取ったかのような、圧倒的な存在感が飛び込んでくる。涼花だった。
彼女が身に纏っているのは、あの日私が適当な理由をつけて勧めた、真新しい水色の浴衣だ。髪は美容室でセットしてきたのか綺麗にアップにまとめられ、艶やかなうなじが覗いている。水色の生地が夜の闇の中で不思議なほど鮮やかに浮かび上がっていた。
「ごめん、待った?」
カラン、と下駄の音を鳴らして小走りで駆け寄ってくる彼女を見た瞬間、周りの雑踏がスッと遠のくような錯覚に陥った。すれ違う何人もの人が、振り返って涼花を見ているのがわかる。
来ると思わなかった、という言葉を待ち合わせ相手にかけるのは失礼だろうか。ほかにも聞きたいことがたくさんあるが、すべてを無理やり喉の奥に抑え込み、言葉を紡ぐ。
「ううん、今来たとこ。……水色、すごく似合ってる」
私は、ひきつりそうになる頬を必死に持ち上げて、なんとか笑い返した。古ぼけた紫の浴衣を着た自分が、この強烈な光の隣で、どうしようもなく惨めな影になり下がってしまったことを痛感しながら。
(なんか言うことないの? なんで遊べなかったの? 返信冷たくない? 夏休み何してたの?)
不満の言葉が次々に出てきて、自分の中からあふれそうになる。
「りんご飴、食べたいな~!」
しかし、一ヶ月の空白などなかったかのように、涼花は無邪気に微笑んだ。

ふたりで鳥居をくぐり、本殿へと歩く。カラカラと鳴る下駄の音が、私たちの間の余白を嘲笑うようだった。
本殿までは参拝客が長い列をなしていた。私たちもそれに倣う形で列に並ぶ。
なにを話そう。なにから聞けばいい?
そう逡巡する私の気持ちなどちっとも知らない涼花は、口を開く。
「みさきは屋台でなに食べたい?」
さっきから涼花は食べ物の話しかしない。そんなに、おなかがすいているのだろうか。今日の自分は少し判断が鈍っている気がする。うだるような暑さのせいか、慣れない人混みのせいか、それとも——。
「涼花は、夏休みずっとなにしていたの?」
やっと絞り出した声は、周りの雑踏によって、あっけなくかき消された。
「え? みさき、もう一回言って!」
「……ううん、なんでもない。私、かき氷がいい。ブルーハワイ!」
「いいね! 私もかき氷の気分! 行こう!」
涼花の左手が、私の右手をつかむ。参拝の列を外れ、私たちは足早に階段を下る。喧騒の中をかき分けて、ふたりはかき氷の屋台を目指した。からんころん、と下駄の音が少しだけ心地いい響きに変わった。
私はブルーハワイ、涼花はレモン味を買い、人通りの少ない脇道に逸れる。
少し離れたところにいる男子高校生のグループが、あからさまに涼花を見てヒソヒソと耳打ちし合うのが嫌でも視界に入った。涼花本人は気づいていないのか、それとも慣れているのか、手元のレモン味のかき氷をプラスチックスプーンでしゃくしゃくとつぶしている。そんな涼花に、私は問いかけた。
「ねえ、お願いごとはしなくていいの?」
本殿にも参らずに、私たちは列を抜け出し、ここまで走ってきたのだ。
「願い事も大事だけど、列に並ぶだけじゃつまらないから。みさきと一緒にかき氷食べる時間のほうがずっと楽しいし」
「そっか」
じわじわと傷つけられていた心が、一瞬にして修復された気がした。

手元のブルーハワイを一口すくう。舌の上で冷たい甘さが溶けていくのと同じように、私の中のわだかまりも消えていくような錯覚に陥った。
しかし、そのささやかな安堵は、ひどく無神経な声によって打ち砕かれた。
「ねえねえ、そこの水色の浴衣の子。めっちゃ可愛くない?」
先ほどから視界の端でヒソヒソと耳打ちしていた男子高校生のグループが、ついにこちらへ歩み寄ってきた。彼らの視線は、完全に涼花一人にロックオンされている。隣にいる私は、まるで風景の一部か透明人間のように、彼らの視界から綺麗にトリミングされていた。
「地元の子? モデルとかやってるよね? よかったらこの後一緒に回らない?」
ヘラヘラとした軽薄な笑みを浮かべ、カメラを起動したスマホの画面を差し出してくる男たち。勝手に写真、撮ろうとしてるの? 私はいいけど、涼花はだめ。この綺麗な子を一瞬の欲望を満たすために消費しないで。
ああ、言葉が出ない。スマホならすぐに言葉にできるのに、こんなときに涼花を助けられないで、私はなんて臆病なんだろう。どうしたらいいのか分からず、ただプラスチックスプーンを握りしめて硬直してしまった。
けれど、涼花は違った。
「ごめんなさい、友達と二人でゆっくりしたいので」
涼花は一歩も引かず、けれど相手を逆撫ですることもない、完璧な愛想笑いで彼らをあしらったのだ。その声色は穏やかだったが、明確な拒絶の壁があった。
それは、私の知っている「男児向けヒーローアニメを熱く語る、少し天然なクラスメイト」の振る舞いではなかった。無遠慮な視線に晒されることに慣れきった、すでに「見られる側」の住人の顔。その圧倒的なオーラに気圧されたのか、男子たちは「あ、そっか。ごめん」とそそくさと退散していった。
「……行こっか、みさき」
涼花が再び私の右手を取る。
彼女に引かれるまま、人混みを避けてさらに暗い方へと歩き出す。ふと手元に視線を落とすと、プラスチックのカップの中で、ブルーハワイのかき氷はすっかり溶けきっていた。氷の食感はとうに失われ、ただの甘ったるくて生ぬるい青色の液体に成り下がっている。
修復されたと思っていた私たちの時間は、夏の夜の熱気にあてられて、あっという間に形を失ってしまったのだ。

お囃子の太鼓の音が、ドンドンと遠くで鳴っている。祭りの喧騒から遠ざかるにつれ、その鈍い音だけがやけに腹の底に響いた。
手水舎の裏にある、大きな御神木のそば。提灯の光も届かないその暗がりまで来ると、涼花はやっと足を止めた。
「ごめんね、変なふうに巻き込んじゃって」
「ううん……」
涼花は手に持っていたレモン味の氷の残りを、近くのゴミ箱にコトンと捨てた。
「静かだね」
「うん」
暗がりのおかげで、私の寸足らずの浴衣も少しは誤魔化せている気がして、私はようやく深く息を吸い込んだ。生ぬるい夜風が、木々の葉を揺らす。
「ねえ、みさき」
いやだ。
振り返った涼花の顔は、暗闇の中でもハッキリと輪郭を保ち、その瞳には強い意志の光が宿っている。いつも体を揺らして笑う、能天気な友達の顔じゃない。
「私ね、東京に行くことになったんだ」
うん。そっか。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「……引っ越しするの?」
私の問いかけに、涼花はゆっくりと首を横に振った。そして、真っ直ぐに私の目を見て、決定的な言葉を口にした。
「私、アイドルになるんだ」
遠くで鳴っていたお囃子の音が、完全に途切れたように感じる。それはあまりにも長い一瞬だった。
「オルタンシアの、4期生オーディション。……受かったの」

その瞬間、バラバラだったパズルのピースが、頭の中で音を立てて組み合わさっていく。
頭の中でリプレイ映像が早送りで再生されていく。池田そらの卒業発表。不自然な学校の欠席。浴衣を選ぶときの、あの紫への執着。すべてが繋がった。そうだ、オルタンシアは4期生となる新メンバーオーディションの開催を発表していた。間違いなく答えが最初から提示されていたのに、私は気づかなかったのだ。盲目で、自分の落ち度にそらたんの圧倒的な輝きを追うのに必死で、新メンバーオーディションのことがすっかり抜け落ちていた。そんなことあるはずがないと第三者からすると呆れられるかもしれないが、それでも、私の頭を埋め尽くすほどには、そらたんで一杯だったのだ。

「……そっか」
喉の奥から絞り出した声は、ひどく掠れていた。視線の行き場がなく、ごみ箱へと一直線に歩くアリを目で追うことしかできない。
ふと視界の端に、自分の着ている古い浴衣が映り込んだ。紫——オルタンシアのグループカラーだ。
私は涼花に「変わらないでほしい」というエゴから、日常を象徴するような無難な『水色』を彼女に勧めた。私の世界に引き留めるつもりだったのに、彼女がそれを身に纏った瞬間、水色は日常の色ではなくなり、彼女の隠しきれない圧倒的な輝きを逆に際立たせてしまった。
一方で私は、彼女の未来であるアイドルを象徴する『紫』を着ている。しかしそれは、洗うたびに色が抜け落ち、寸が足りなくなった古い浴衣だ。憧れの世界に触れたくても、決して選ばれる側の人間ではない。一般人としての私の限界と諦めを、これ以上ないほど惨めに体現している。
私たちは互いの色を着ているのに。中身の才能と運命は、完璧なまでに分断されていた。これが私と彼女の差だ。どうしようにも覆せない、決定的な差。

おめでとう、と言わなければいけない。友達として、一番に喜んであげなければいけない。頭ではわかっているのに、私の中に渦巻いたのは祝福なんかじゃない。それは、酷く冷たくて、泥のように重い嫉妬と絶望だった。
私はアイドルを冷めた目で見て、「どうせ自分は一般人だ」と諦めたふりをして生きてきた。本当は何者かになりたかったのに、傷つくのが怖くて、安全圏から世界を眺めているだけだった。それなのに彼女は、私がいとも簡単に諦めた夢の切符を、あどけない笑顔のままで掴み取ってしまったのだ。

「基本オーディションは土日だったんだけど、審査が進むにつれて合宿とか、振り入れ練習とか。どうしても学校を欠席しないといけないこともあったの。体調不良で休んだっていうのは嘘。ごめんね」
他に謝るべきこと、いっぱいあるんじゃない?
ふつふつと怒りがわいてくる。涼花と出会ったのは4月で今は8月。会えなかった一ヶ月間を除くと、たった三ヶ月の付き合いだった。それでもすごく濃密で、涼花との思い出のきっと99%ぐらいは良い思い出で埋められていた。なのに、残りのたった1%の黒々とした思いが、ぐーっと広がって大きく膨れ上がる。3%、7%、10%。どんどん割合を増やしていく。

「池田そらさんの卒業の熱をそのまま引き継ぐために、新メンバーのお披露目がすごく早まっちゃって……。私、9月1日には上京しなきゃいけないんだ」
9月1日。つまり今日を入れてあと11日。もうすぐそこまで近づいたタイムリミット。残された時間はあまりにも少なかった。
「だから……残された短い時間、みさきといっぱい思い出を作りたくて」
涼花は少し不安そうに、私の顔色を窺うように言った。
私は、手に持っていた巾着の紐を、指が白くなるほど強く握りしめた。
同じ場所に立って、同じ空気を吸っているはずなのに。輝く水色の浴衣を着た彼女と、色褪せた紫色の浴衣を着た私の間には、もう絶対に飛び越えられない、残酷な境界線が引かれていた。
「うん、応援するよ」
これは建前なのか、本心なのか。自分でもわからない空虚な言葉が、夜の闇にポロリとこぼれ落ち、爆発寸前の黒い風船が情けなくへこみ、しぼんだ。

気づけば自室のベッドで寝ていた。服は浴衣の帯が少し緩められているが、昨日のままだ。いつの間にか眠っていたらしい。髪もぐちゃっとしたままだ。昨日はたくさん歩いたし、人の多いところにいた。かなり髪がべたついて気持ち悪い。
涼花が、私がなりたかったオルタンシアになる。自分が抱えた感情が、喜びなのか、悲しみなのか、あるいは怒りなのかわからない。行き場のない思いがゆらゆらうごめいては、すっと消える。

あのお祭りの夜から、これまでの沈黙が嘘だったかのように、連日涼花からメッセージが届くようになった。
私は彼女が求める「普通の友達」であり続けようと、通知が来ればすぐにスマホを手に取った。通知が来ればすぐに返信をする。すると、畳み掛けるようにしてさらに長文のメッセージが返ってくる。なかには機密情報に近い愚痴なども送られてくるので「バレたらどうすんの!」と言いたくなるが、涼花が私をそれだけ信頼してくれているということだろう。涼花がアイドルの仮面を剥がせる相手で私はありたい。私の前では取り繕わないでほしい。涼花なりに、ただの高校生でいられる最後の猶予期間を必死に楽しもうと——あるいは、惜しむように埋めようとしているのかもしれない。
本当はもっとたくさん遊びに行きたかったのだろうが、彼女には上京や引っ越しの準備があるらしく、私たちが会う約束をできたのは、そらたんの卒業コンサートがある8月30日と、その翌日の二日間だけだった。
卒業コンサートの現地チケットは、あえなく惨敗した。
もしかしたら、オーディションに受かった涼花なら、関係者として現地のチケットを手配できたのかもしれない。けれど彼女は「みさきと一緒に見たい!」の一点張りで、結局、私の家でライブの生配信を見ることになったのだ。
部屋のカレンダーを見上げる。8月の最後の週末にだけ、赤い丸印が居心地悪そうに身を寄せ合うようにして二つ並んでついている。ただでさえ終わりの近づく夏休みが、今はまったく別の意味で、絶対に終わってほしくないと思っている自分がいた。
それでも、涼花の邪魔にはなりたくない。私はただ応援するだけだ。それが、一般人である私のただ一つの役目なのだから。

私は自室の壁に貼ってあった、オルタンシアのポスターを丁寧にはがした。ポスターの跡になっていた部分の壁紙が少しだけ剥がれてしまったので、指でいじってなんとか誤魔化す。これならお母さんには怒られないだろう。もうすぐグループを去るエースが、紙の中でこちらを向いて微笑んでいる。できるだけ、涼花の前では平気な顔をして笑っていたい。これは本心だった。
そらたんの卒業までの数日間、持っていたライブDVDや公式ライブ動画をできるだけ見漁った。これから涼花が紡ぐ物語の前章を、すべて把握しておきたかった。これからこのグループの一員として活動してくれる彼女と、ライブの生配信を見られるのは世界で私だけだ。こんな贅沢なことはないだろう。
いや、だめだ。私はあくまでも友達として応援したい。アイドルとファンではない。だからポスターを外したんだから。

涼花が好きなチョコスナックを買っておこう。わざと暑い場所に置いて溶かそうかな。夜ご飯は冷やし中華がいいかな? じゃあおかずはメロンパンか。何度思い出しても無茶苦茶な取り合わせで、思わず笑みがこぼれてしまう。
体型維持が、なんて言いそうだが、涼花の体型を気にするのは私の役目ではない。むしろ涼花の質量を一グラムでも増やしてやろうと躍起になって食べ物を買い込んでおく。うんと甘い、あのお祭りの夜に彼女が迷いなくゴミ箱に捨てた、レモン味のかき氷なんかよりもずっと甘いものを。
明日、私の部屋にやってくる彼女を限界まで甘やかして、ただの女子高生に引き戻してやるのだ。それが、一般人として置いていかれる私の、ちっぽけで意地悪な、最後の抵抗だった。

約束の8月30日。
涼花は午前中から午後にかけて予定があったらしく、そらたんの卒業コンサートの生配信が始まる19時の15分前に私の家に来た。もっと早く来たら色々遊べたのに。涼花を自室に招き、あらかじめ用意していた冷やし中華で済ます。
「おいしー」
私の隣で麺をすする涼花。今日は夏らしい淡い紫のワンピースを着ているから、汁を飛ばして汚さないか冷や冷やする。あまりにも普通の私の部屋にいる、綺麗なワンピースを着た少女はひどく浮いていた。この部屋になじむのは私だけでいい。

生配信されるのはライブの一部だけで、もっとも大事なそらたんからの最後のメッセージから、フィナーレまでの配信だ。そうしているうちに中継が始まり、テレビの画面いっぱいにそらたんが映し出される。
紫のフリルがたくさんついたドレスで、そらたんは立っていた。目を凝らすと、そのフリルは少しずつデザインが異なっていて、衣装担当のこだわりが垣間見える。アイドルは、卒業の瞬間が最も美しい。その言葉に同意する。まるで芸術品のようだった。
私と涼花は、紫に光るペンライトを持ちながら、そらたんの卒業メッセージに静かに耳を傾ける。
「私はただの女子高生でした。それを特別にしてくれたのはオルタンシアだった。オルタンシアのメンバーになって、私は変わりました。メンバー、家族、友達、そして何より応援してくれるファンのみなさま。ありがとう。私を輝かせてくれてありがとう。見つけてくれてありがとう。オルタンシアはまた新しいステージで輝きます。私のことも、これから輝く新メンバーのことも、どうか温かく見守ってくださると幸いです」
最後の新メンバーへの言及は、突然の人気メンバー卒業に被せる形で発表された新メンバー募集に反発していた一部のファンに対する公式からのメッセージということだろうか。卒業コンサートなのにもかかわらず運営の差し金を感じるが、そんな皮肉な感情はすぐに打ち消された。だって、そらたんがあまりにも綺麗だったから。
画面に見入っていたせいで、気づけば私の口はぽかんと開いていた。きっと、口を開けて餌を待つ鯉みたいなマヌケ顔になっていただろう。私は急激に恥ずかしくなり、開いたままの口をふさぐように、テーブルの上にあるチョコスナックを慌てて詰め込んだ。
そっと隣を盗み見る。ただテレビの液晶をまっすぐ見つめる涼花。その目は少しうるんでいる。その涙の美しさは、顔の造形ではなく、また別の何か。私の語彙力では到底表現できるものではなかった。
私は今日のことをずっと忘れないだろう。涼花もずっと忘れないものであったら、私は嬉しい。

そらたんはマイクを置くパフォーマンスをしてステージから去っていき、卒業コンサートは終了した。そらたんは今日、アイドルを卒業したのだ。いつものライブならお決まりの、アンコールの声はない。彼女の幕引きを邪魔するものは誰もいなかった。
卒業コンサートの生配信はあっという間に終了した。勉強している時間はあんなに長いのに、こういう時間はすぐに過ぎてしまう。私はあらためて涼花のほうを向き、口を開いた。
「今日、涼花と一緒にそらたんを見送れてよかった。寂しいけれど、本当に楽しかった」
幾重にも意味を込めた言葉を、彼女に伝える。涼花はこちらに向き直り、少し赤くなった鼻をすすりながら答えた。
「うん、私もみさきがいて良かった。ありがとう」
私の込めた意味は、涼花にちゃんと伝わっただろうか。私ができる最大の見送りは、これで精いっぱいだ。
「ねえ、帰りたくない。明日もう一日遊ぶからね。だから、今日、泊まってもいい?」
斜め上の提案に私は戸惑う。家族はきっと了承してくれるだろうが、本当によいのだろうか。明日遊んだあとは、彼女はもう東京へ行ってしまうというのに。
普通の女の子でいられる最後の時間を、一秒でも長く無理やり増やそうとしているみたいで。涼花の声には、近づく別れから目を背けるような、微かな焦燥感がはらまれているように聞こえた。
「……うん、いいよ。親に聞いてみるね」
「ほんと!? やったー!」
さっきまで鼻を赤くしてしんみりしていた空気はどこへやら、涼花は体を小さく揺らしながら無邪気な笑顔を弾けさせた。
屈託のない笑顔。今だけは、私で独り占めだ。

無事に親からの許可が下り、そのまま涼花は私の部屋に泊まることになった。もっと早くにお泊まり会をすればよかった。
その夜は、拍子抜けするほど「ただの女子高生のお泊まり会」だった。
お風呂上がりの涼花に私のよれよれになったジャージを貸してあげると、あの芸術品のような紫のワンピースを着ていたときとは打って変わって、見慣れた等身大の彼女に戻った気がして少しだけ安心した。
私たちはクーラーの効いた部屋で、ベッドと床に分かれて寝転がりながら、他愛もない話をした。
チョコスナックをつまみながら、学校の先生の理不尽な怒り方の真似をして笑い転げた。涼花の話をたくさん聞いた。幼い頃の生い立ちや、好きな食べ物、小学校のときの習い事。亡くなったおばあちゃんの話や、今でも捨てられずにいるボロボロのウサギのぬいぐるみのこと。そして、かつて好きだった人の話も。彼女がアイドルになったあと、ファンは躍起になって彼女の情報を集めるだろう。彼女が発信するSNS、雑誌での発言、かつて同級生だったと名乗る人の情報まで。その人たちが絶対に知りえない涼花を、私は一夜にして知った。もちろん、日曜日の朝は男児向けヒーローアニメを見ていること、人の弁当のおかず当てゲームをすること、コンビニのチョイスが絶妙なことも知っている。
アイドルの「ア」の字も出なかった。オーディションのことも、そらたんのことも、これから彼女が足を踏み入れるであろう、キラキラして、残酷で、手の届かない世界の話は一切しなかった。ただひたすらに、狭い部屋の中で無防備な笑い声を響かせた。
涼花が大きな口を開けて笑うたび、私はその姿を静かに網膜に焼き付けた。いつか画面越しでしか見られなくなるであろう涼花の、等身大の笑顔。

夜が更けていく。この他愛もない時間が永遠に続けばいいのにと願う私の気持ちとは裏腹に、やがて「ふぁあ」と大きな欠伸をした涼花の規則正しい寝息が、静かな部屋に溶け込んでいく。
部屋の電気を消し、ベッドに横になる。時計の針は23時30分を回っていた。普段なら私は起きている時間だが、あまりにもはしゃぎすぎたので、心地よい睡魔が襲ってきている。
まだ、どこか信じられない。9月も彼女と一緒にいられる気がする。昼休みには、お弁当の中身当てゲームをしている気がする。もっとちゃんとお弁当の中身の予想をするから。火曜日にはオルタンシアの楽曲をかけるから。
だから、だから本当は、今からでも辞退してくれないかな……。
きっと言葉にしていい願いじゃない。私の中で留めておかなければいけない。17歳なのだから、それくらいの分別はついている。けれど——。
私は静かな暗闇の中で、そっと目を閉じた。