雨上がりの私は満開に咲き誇る

 それから数日が経ち、ようやく迎えた水曜日。今日が夏休み前、最後の登校日だ。涼花は何事もなかったかのように教室に現れた。

「あれ、みさき今日は早いね」

 いつもはホームルーム5分前くらいに来る私だが、今日はまだ15分もある。まあ、最終登校日だし、少し早めに来ておこうか、という軽い気まぐれだ。

「うん、最終登校日だし、明日から夏休みだから」
「うんうん、そうだよね!今日頑張ったら夏休みだからね〜」

 そう言いながら私の隣を通り過ぎ、涼花は自席へと歩いていった。
 いや、体調不良はどうしたの?あれから土日を挟んで数日、涼花は休んでいたのに。もう夏休みまで会えないと思っていたから、拍子抜けしてしまった。

 席を立ち、涼花のもとへ向かう。椅子に座った彼女の前に立ち、その目を見る。

「涼花、どうしたの。返信もなかったし、心配していたんだよ」

 毎日顔を合わせている人との間に、急にできた数日の空白はとても大きなものだ。

「ごめん、ちょっと熱出ちゃってずっと寝てたの!」
 そんなことなのか、と言いたくなるくらい、あっけらかんと答えた。
「返信くらいくれてもよかったのに」
 涼花の言い方がちょっと気になり、(とげ)のある言葉を返してしまった。
「ほんとごめん、夏休み前でテンション上がって熱出ちゃって。この時期の熱って、なかなか下がらないの。大変だったよ〜!」

 謝る側と謝られる側という関係では、圧倒的に謝る側が有利だ。
 こうして無邪気に「ごめん」と先手を打たれてしまうと、こちらは自動的に許すしかなくなる。ここで文句を言えば、まるでこっちが心の狭い人間みたいになるのだから、ずるい。
 まあいいけど。こうして学校で会えたし。
 夏休みに入る前に会えたのは素直に嬉しい。このまま次に会うのが海広祭だったら、ちょっと気まずかったかもしれないから。涼花が何も言わずに休んだ初日にはカッとなってしまったが、すでにクールダウンしている。心の中で小さく毒を吐き、その気持ちを箪笥の奥に押し込んだ。

「みさきは元気だった?」

 涼花がまっすぐ見つめてくるので、その圧に耐えきれなくなり、なんとなく目を()らす。
 昼休みや移動教室はぼっち行動に逆戻りしたが、涼花がいない間も淡々と学校生活をこなした。

「うん、元気だよ。暑くてバテてるけど」

 心底安堵したように、涼花が胸を撫で下ろす。ちょっとわざとらしい気がしてイラッとくる。そんなに心配なら、メッセージの1つくらい返してくれたらいいのに。隙あらばスマホをチェックしてしまう自分からすると、ちょっと理解できない感覚だった。スマホを全然触らずに1週間も過ごすものなんだろうか。本当に熱があったの?本当に信じていいの?心の隅にある黒ずんだ雲がモヤモヤと膨らみ、少しずつ質量を増やしていく。
『ちょっとくらい連絡してくれてもよかったのに』そう喉まで出かかったその一言を、もう1度口にすることはできなかった。涼花はこの空白の期間、何をしていたの?本当にずっと、一切携帯を見ずに寝込んでいたの?
 本当は、かなり孤独で、寂しかった。いつもいる学校が広くて、息苦しかった。涼花がいないとどうやって授業を受ければいいのか、それまでどうやって登下校していたのかさえ、分からなくなっていた。このままもう涼花は来ないんじゃないかと不安だった。なのに。

「ねえみさき、今日の放課後空いてる?」

 予想外のお誘いに現実に引き戻され、呆気(あっけ)に取られる。膨らみ続け、今にも降り出しそうだった心の雨雲は、さーっと流れ去った。今日は夏休み前の最後の登校日だから、学校も午前中で終わる。教室ではほかの生徒も、放課後に何をして遊ぶかという話で盛り上がっていた。

「空いてるよ」

 少し視線を右に向け、冷気を逃がさないように閉め切られた窓の格子越しに外を覗く。いかにも夏!という天気で、見事な晴れ空だ。真っ青な空が綺麗だな、と思う。その中にぽつんと浮かぶ太陽は、じりじりと光を放ち続けている。1人で少し寂しそうだな。なんて。

「そっか!じゃあカラオケ行こ!」

 カラオケか。涼花と放課後に遊ぶことは今までにもあったけれど、歩いて行けるファミレスか、学校からバスで15分ほどのところにあるショッピングセンターの2択だった。カラオケがあるのは電車で2駅先の駅前だから、少し遠くて、放課後に一緒に行くのは今日が初めてだ。近場のファミレスはうちの生徒の溜まり場になっているので、今日はいっぱいになるだろう。

「いいね、カラオケにしよう」

 私がすんなりOKしたのが予想外だったのか、彼女は「へ?」と声を漏らし、一瞬固まる。右側の口元が少し(ゆが)み、(しわ)が寄っている。なんとも言えない表情だ。

「え?行かないの?行かないならやめとくか」
 涼花のリアクションがないので、私が追い打ちをかける。()ねてますアピールができなかったから、その仕返しだ。
「行く!やった、楽しみ」

 なんとか調子を取り戻し、彼女はいつもの明るい表情に戻っていた。口元が左右対称に緩み、くっきりと(えくぼ)を作っている。

 涼花との久しぶりの会話を終え、自席に戻る。スカートのポケットからスマホを取り出すと、開きっぱなしだったトーク画面が目に入った。私が送った右側の吹き出しは、そのまま残っている。変わったのは、その横に『既読』がついていることだけだ。

 皆が着席すると、教室前方のスクリーンに校長室の映像が映し出された。椅子に座る校長が、毎度おなじみの長い話を始める。
 この灼熱(しゃくねつ)にもかかわらず、うちの学校は体育館にまだクーラーが設置されていない。運動部の人たちは大きな業務用扇風機をフル稼働させて(しの)いでいるそうだ。この暑さと体育館特有のこもった熱気では、熱中症で倒れる人が出るのは時間の問題だろう。体育の授業だけでもバテるのに、毎日放課後に運動していて大丈夫なのだろうか。かわいそうに。
 うちは公立高校で校舎やトイレもボロいが、今の時代、必需品(ひつじゅひん)ともいえるクーラーを体育館に導入する予算さえないらしい。隣町の商業高校はクーラーどころか、綺麗なカフェテリアも完備されているというのに。いったいうちの学校の金はどこに消えているんだろう。教育委員会よ、もっと予算を増やしてくれ。
 まあそういうわけで、夏場は体育館に集まるのが危険なので、全校朝会などは基本的に教室でライブ配信を見る形になった。それでも「夏以外の期間は対面で開催する」という方針に、校長の無駄な意地を感じる。うざい。

 隣の男子は、1番前の席にもかかわらず、机の下でスマホを触っている。スクリーンを見やすくするために教室の照明が落とされており、前方の光が少し(まぶ)しいせいか、自分の席からはスマホの画面がいい感じにぼやけて見えない。きっと振り返ったら、かなりの数の生徒がこっそりスマホを見たり、別のことをしたりしているだろう。
 つい先日の三者面談で返された成績表には3と4が並び、今後の進路に(かげ)りが見えて、お母さんから少し怒られたところだ。ここで見つかって成績に響いたりしたら嫌なので、私は大人しくやめておこう。

「あー長かった!!なんで校長の話は長いのがデフォルトなの!!」
 今日も校長の話に捕まってしまった。思わず伸びをしながら、愚痴がこぼれる。
「全国共通なんじゃない?私も校長先生ぐらい権力があったら、長々と話をしてしまいそう。自分の経験談とかをそれなりの人数の子どもたちに聞かせるなんて、校長先生ぐらいしかできないもん」

 午前中しかなかったくせに、すごく長く感じた最終登校日が終了し、坂を下りきった先で涼花と話す。
 部活勢が学校に残っているせいか、私たちと同じように帰路につく生徒はちらほらいる程度だ。それに、うちのクラスの一部の男子たちは、ファミレスの席を確保するため、ロングホームルームが終わった瞬間にダッシュで教室を飛び出していった。
 涼花と私は、そんな彼らの喧騒(けんそう)とは無縁のペースで、2駅先のカラオケへ向かうべく、のんびりと歩みを進めていた。

 電車に乗り、空いていた座席に横並びで座る。涼花と私の家は反対方向のため、いつもは駅のホームで解散するが、今日は違う。そのちょっとした違いが、夏休みスタートの高揚感とぴったり重なった。
 右隣に座る涼花の横顔を盗み見る。視線はスマホに向いており、若干うつむき加減で真顔に近い表情だが、二重顎になったり、涙袋(なみだぶくろ)が消え去ったりはしていない。鼻はツンと上を向き、その綺麗な鼻筋に思わず見惚れてしまいそうになる。顔の立体感ってこういうことだよな。

「どうかした?」

 しまった。見ているのがバレたか。慌てて涼花の向こう側に見える、電車の扉の窓に視線を動かす。
 青い空に、綿菓子みたいな入道雲が浮かんでいる。絵の具をそのままベタ塗りしたような真っ白な部分と、ちょっと灰色がかった影のような部分。その中間にある薄暗い青。そして、太陽の光を受けた、透明に近い白。入道雲1つにも、いろいろな色がある。その真ん中を真っ二つに貫くような、細い飛行機雲も見えた。根元は鮮明な白だが、先端は今にも消えてしまいそうなくらい細く、弱々しい。その奥には空の青が透けて見えていた。

「今日もいい天気だし、暑すぎるね。雲がモクモクしてるもん」
 特に意味のない発言。いかにも取り繕った言葉が、自分の唇からペラペラと出てきた。
「そうだねー!夏休み中はもっと暑くなるのかな」

 私の挙動不審(きょどうふしん)な言動に触れてこなかったので、ほっとする。
 彼女のビジュアルに、最初は少し嫉妬(しっと)と嫌悪があったが、4月から4ヶ月間付き合ってみて、裏表のない、単純にいい子だと思うようになった。神様がゆっくり時間をかけて作った子が、涼花なのだ。嫉妬を超えた羨望(せんぼう)というか、一緒にいることを自慢したくなるような気持ちが芽生えていた。
 涼花は多くは語らないけれど、もしかしたらこの子は、過去に自分のビジュアルのせいで人間関係に悩んだ時期があったのかもしれない。
 私は涼花と特別に温度感や性格が合うわけではないし、むしろ正反対な気がする。私がちょっとネガティブで、性格が悪いことだってきっと分かっているはずだ。斜に構えた発言をしてしまうこともある。それでも、そんな私の言動や態度を注意することはない。
 私が彼女の容姿などに過剰に言及せず、対等に接するところを、涼花は気に入ってくれているのかもしれない。

 カラオケ店の最寄り駅で降りる。クーラーの効いた電車から自ら下車したのに、放り出されたような気分だ。アスファルトの上に、熱気のようなものがゆらゆらと揺れている。
 目的のカラオケ店は、改札を出て向かい側に並ぶ店の、右端の雑居ビルに入っていた。4階から8階がカラオケ店で、1階は床屋さんだったため少し分かりづらかったが、看板が出ているので間違いない。床屋の前にある、くるくる回る赤と青の棒の横を通り過ぎる。これって何て言うんだっけ。そんなことを考えていると、エレベーターのドアが開き、私たちは乗り込んだ。
 ドアはあまりにも勢いよく閉まり、かごの中には一切クーラーが効いていない。申し訳程度に取り付けられた小さな扇風機を見て、顔を見合わせて苦笑した。上部の階数ランプが移り変わり、1階ずつ上がっていることを示す。床屋さんとカラオケ以外に、美容室が1軒入っているようだった。

 やがて4階で止まったエレベーターの扉が一瞬で開き、名も知らないアーティストの曲が爆音で聞こえてきた。受付を済ませると、案内されたのは7階の部屋だった。店内の移動は階段のみらしく、冷気の漂う階段を1段ずつ上がっていく。たどり着いた部屋は、2人で歌うにはちょうどいいサイズだった。

「やっと着いたー、遠かったね!」

 学校を出てから1時間ほどが経っており、もう13時を少し過ぎている。いつもなら5限目が始まり、眠気と戦う時間帯だが、今日は空腹だし、眠気も一切なかった。

 さっそく、駅で立ち寄ったコンビニのビニール袋をローテーブルに載せ、私たちは向かい合って座った。それぞれのお昼ご飯を取り出す。
 私は少し小さめのそぼろ弁当。最近のコンビニはいろいろな需要に応えて、小さめのお弁当も売ってくれるので非常にありがたい。一方、涼花が取り出したのは、増量キャンペーン中の、いつもより大きいサイズの冷やし中華とメロンパン。すごい取り合わせだ。

「冷やし中華とメロンパン?」
 学校がある日はお互いお弁当のため、涼花のコンビニでのチョイスが絶妙だとは知らなかった。
「えへへ、どっちも美味しそうだったから買っちゃった!ちょっと食べすぎかなあ」
 食べる量というより、そのチョイスについて聞きたかったのだが、私の言葉が足りなかった。
「いや食べすぎじゃないよ、暑いんだしたくさん食べなきゃ」
「そうだよね!夏バテ対策だもん!たくさん歩いたしカロリー消費したからOKだよね!」

 たくさん歩いたからOKというのが涼花らしい。決して夢見がちなのではなく、真っ当な理由で突き進むのが涼花だ。冷やし中華のフィルムを剥がす彼女はご機嫌そのもので、頭の上に音符マークが見えそうだった。

「あ!」
 涼花がいつもより2段階ぐらい大きな声を出したので、少しびっくりしてそちらを見る。彼女は自分のビニール袋を(あさ)りながら言った。
「箸がないよー」

 さっきの音符はどこへ行ったのやら、今度は頭の上に下向きの矢印が見えそうだった。彼女は袋の中身を全部出す。カットパイナップルとミルクティーの紙パック、チョコレートスナックが出てくるが、箸はないらしい。あとは申し訳なさそうに、ペタンコのおしぼりがあった。後から出てきた購入品たちもなかなかの取り合わせである。

 私はリュックの中をごそごそと探し、普段あまり使わないものが入っている内ポケットのチャックを開ける。ウエットティッシュ、目薬、パッケージがシワシワになったラムネと一緒に、予備の割り箸があった。包装はしわくちゃで、見た目は残念だが、開ければ問題なく使えるだろう。取り出して、少しわざとらしく、すっと彼女の前に差し出す。

「これ使いなー?」

 パアア、とでもいうように、みるみるうちに涼花の表情が明るくなる。顔がコロコロ変わり、一昔前のキャラクター育成ゲームみたいだ。この前見た実況動画を思い出し、思わず吹き出してしまう。

「友よ〜、ありがとう、ほんとに助かる〜神」

 涼花らしくないワードチョイスが、私の笑いのツボにさらに追い打ちをかけてくる。楽しい。これからの夏休み、たくさん会いたい。
 去年の夏休みは放送部の活動もなく、塾にも通っていなかった。私は大半を家で過ごし、オルタンシアの動画やゲーム実況を見て自堕落な日々を送った。が、今年は涼花がいる。海広祭だけでなく、ほかにもいろいろなところに行きたい。オルタンシアのMVの撮影場所巡礼(じゅんれい)とか行けないかな?
 半年前には考えもしなかったアイデアが次々と湧いてくる。

「みさきからもらった箸で〜いただきます!」

 袋に入ったタレをプラスチックの容器に流し込み、涼花は箸を割った。私も手元のそぼろ弁当の(ふた)を開け、プラスチックのスプーンを覆うビニールを外した。
 駅からカラオケまでそんなに長く歩いていないが、持ち運び方が悪かったのか、蓋には飛び散ったそぼろがくっついていた。もとはそぼろ、錦糸卵(きんしたまご)、青菜で綺麗なグラデーションになっていたはずだ。でも食べたら一緒だから問題ない。
 スプーンで蓋についたそぼろを集め、口に運ぶ。お肉の甘みがしっかりとしていて美味しい。涼花は麺を(すす)っている。真っ白なブラウスに汁が飛び散らないか見ていてヒヤヒヤするが、今のところ大丈夫そうだ。
 1人で食べるただの「栄養補給」とは違う、ちゃんと味のするお昼ご飯だ。涼花がいるだけで、カラオケの閉鎖的な空間も、時間の流れ方も、心地よいものに変わる。

 クーラーの効いた部屋で優雅にご飯を食べ終えると、涼花は備え付けのマイクと、その右側にあるリモコンを取った。
 リモコンの液晶をタップし、何やら楽曲を探している。部屋は少し薄暗く、下から照らす液晶の明かりで、涼花の顔が幽霊のように見える。貞子って実はこういう顔してるんじゃないかな。涼花が貞子役をしたら結構様になりそう。ふふっ。気づけば私は笑っていた。

「えーなにー?」と涼花がこっちを見るが、「何でもないよ」と返す。「なになに、気になるー」と言うものの、不快ではなさそうだ。

「よし!」

 そう言い、涼花はリモコンをローテーブルに置く。ピピッと音が鳴り、涼花が送ったテレパシーがカラオケ本体に届く。テレビ画面の右上に表示された文字を見て、私は目を見開いた。

「この曲を、みさきに(ささ)げます!」

 ボケているのか、真剣なのか分からないセリフ。マイクを両手で握りしめ、観客が私しかいない部屋で、涼花は満面の笑みを向けた。私にだけ向けられた、スペシャルステージだ。
 画面に表示されたのは、オルタンシアの初期メンバー、つまり1期生の募集オーディションの課題曲として制作された『スタートライン』だった。CD化はされておらず、サブスク公開もされていない。この曲を聴くには、公式YouTubeチャンネルのオーディション動画内で流れる一部をチェックするか、わざわざ楽曲を購入しなければならない。

「スタートライン、知ってるんだ」
「うん!」

 マイクを通した涼花の声が、私の声の3倍ほどの大きさで響いた。少し高いトーンだが、キンキンするような不快感はなく、聞き取りやすい、よく通る透明感のある声だ。
 30秒ちょっとという長めのイントロに合わせて、涼花はステップを踏む。楽しそうに歌うその姿は、ひどく(さま)になっていて目を奪われた。
 いつもならなぜか食い入るように見てしまうカラオケ映像なんて、今はノイズでしかない。画面の中で笑う女性は、時代遅れなハート柄のTシャツに、派手な水玉ズボンを合わせている。目の前でステップを踏む涼花と比べると、なおさらチープで芋臭(いもくさ)く見えた。まるであの時の自分みたいに。
 ……いや、隣で輝く涼花と比べれば、今だってちっとも垢抜けてなどいないのだけれど。
 それでも、純粋に夢を見られていたあの頃は、幸せだったのだと思う。

「雨上がりの空に、私たちは色を変える。」
 そう打ち出された1期生オーディションのサイトを見たとき、当時小学6年生だった私は、とても心が(おど)ったのを覚えている。
 代わり映えのしない退屈な日常と、何の特徴もない「ただの凡人(ぼんじん)の自分」を持て余していた。だからこそ、『色を変える』というその言葉は、まるで魔法みたいに思えたのだ。
 最初から完成された特別な誰かじゃなくてもいい。あの場所に行けば、このくすんだ自分を脱ぎ捨てて、鮮やかな何者かに生まれ変われるかもしれない——。そんな無邪気な勘違いを抱かせるほど、そのコンセプトは私の心を強く撃ち抜いた。

 私はお母さんのスマホを使って勝手に自撮りをし、(つたな)い志望動機を書いて、書類選考に応募した。
 が、あえなく惨敗(ざんぱい)
 選考結果の通知先をお母さんがよく使うメールアカウントに設定してしまったため、その無謀な挑戦はすぐにバレてしまった。
 こっぴどく怒られるかと思いきや、お母さんは「アイドルになるのは簡単じゃないねえ」と苦笑いしただけだった。それどころか、小中学生の私がオルタンシアのライブに行くことさえ、「そんなに好きなら行っておいで」と快く許可してくれるような、理解のある親だった。
 だからこそ、私は純粋なファンとして、彼女たちを追いかけ続けることができた。ライブ会場でキラキラと輝く本物のアイドルたちを見るたびに、自分は「そっち側」の人間ではないのだと、子どもながらに痛感(つうかん)していった。

 親に「他のアイドルのオーディションも受けたい?」と聞かれたことがあった。
 私は迷わず首を横に振った。

「ううん。私は、オルタンシアになりたかっただけだから」

 そう、私はアイドルという職業そのものになりたかったわけじゃない。オルタンシアという特別な存在の一部になりたかっただけなのだ。そして、自分がそこに立つにはあまりにも平凡すぎるという残酷な現実も、とうに理解していた。だから、その後に開催された2期生以降のオーディションには、一切応募していない。

 そして今。
 目の前で軽やかにステップを踏む涼花を見ていると、当時の自分の無謀さが浮き彫りになり、不思議と笑えてくる。何年越しかの伏線回収だ。
 ああ、選ばれるのはこういう子なんだ。
 神様が細部まで心を込めて作ったような容姿。無自覚に人の目を()きつける圧倒的なオーラ。私のような凡人がいくら手を伸ばしても届かない正解の場所に、涼花は息をするように自然に立っている。
 そこにあるのは嫉妬なんて黒い感情ではなく、圧倒的な敗北感と、それを上回るほどの清々(すがすが)しい納得だった。

「涼花、上手だね、歌」

 ステージ終わりのアイドルのように、わざとらしく頭を下げる彼女に声をかけた。
 顔を上げた彼女の目には、なぜか涙が溜まっている。なんか変なこと言っただろうか。
 涼花は両目に溜まる涙を、マイクを持たない左手の甲で(ぬぐ)い、片眉をぐっと下げる。そして口角を上げて、白い歯を見せた。なんてぎこちない笑顔なんだろう。

「よかった!」

 涼花は持っていたマイクを元に戻し、チョコスナックの封を開けた。1つつまみ、自分の口に放り込んだあと、次につまんだスナックを私に差し出す。

「はい、あーん」

 言われるがままに口を開く。(はた)から見たら、餌を待つ(こい)みたいだろう。涼花がくれたチョコスナックは、すっかり溶けてしまっていた。こんな酷暑の中だから当たり前だが、コンビニにはあれだけたくさんのお菓子があるのに、なぜチョコスナックにしたのだろう。
 予想通り、涼花の手には溶けたチョコレートがついていた。彼女はコンビニでもらったおしぼりで入念に拭っている。でも、夏にクーラーの効いた部屋で食べる、ちょっと溶けたチョコは案外美味しい。

「次は、みさきの番だよ」

 そう言って、涼花はリモコンを渡してきた。何を歌おうかな、と考える。少し逡巡(しゅんじゅん)した結果、最近よくSNSのショート動画で見る、女性アイドルのキャッチーな曲を選んだ。送信ボタンを押し、マイクを手に取る。

「オルタンシアじゃないの?」

 送信された曲名を見るなり、涼花がつぶやく。ちょっと不満そうだ。でも、これでいいんだ。今歌いたい曲を選んだだけだ。オルタンシアの気分じゃない。

「うん、この曲流行ってるでしょ?涼花知ってる?」
「知ってるけれど……」

 まだ何か言いたげな涼花をよそに、私はサビから始まる歌を歌い始めた。何度も繰り返されるフレーズ。歌っていると楽しい。涼花みたいな透明感のある歌声ではないが、カラオケはこれで十分だ。歌が進むにつれ、涼花の表情も和らぎ、最後には一緒にフレーズを口ずさんでいた。

 カラオケもほどほどに切り上げて外に出ると、地面のあちこちに水溜まりができていた。むわっと湿気が押し寄せる。冷房の効いた室内とはまた違う、サウナのようにまとわりつく暑さだった。
 視線を遠くに向けると、3軒先にあるシャッターの閉まった自転車屋が目に入った。シャッターには「なかたサイクル」と書かれている。()びた鉄の支柱が頼りなく支える緑色のテントは、右端が少し傾いており、その軒先からは一定の間隔で雨の滴が落ちていた。
 私が最近見るのは、毎朝ご飯を食べるときに流れる、全国放送の天気予報だ。お気に入りのアイドル『そらたん』がワイプに映るので、つい見てしまう。地元の天気がマーク1個で示される、かなりアバウトな予報だけれど、それでも雨予報ではなかったはずだ。

「雨、降っていたみたいだね」
 水溜まりを避けるように大回りで歩く涼花にそう言うと、「白雨(しらさめ)だったのかな。今日は雨予報じゃなかったよね」と返ってきた。
 しらさめ?
 聞き慣れない言葉に遭遇(そうぐう)し、戸惑う。

「しらさめ、って何?初めて聞いたかも」
 ふふん、よくぞ聞いてくれました!と言わんばかりに、彼女はすらすらと解説を始めた。
「白雨ってね、白に雨って書いて『しらさめ』っていうの。明るい空から急に降ってくる激しいにわか雨のことなんだって。にわか雨や夕立とだいたい同じ意味。厳密に言うとちょっとニュアンスは違うらしいけれど。ただのにわか雨とか夕立って言うより、白雨って響きのほうが、なんかおしゃれでしょ?」

 しらさめ。確かに綺麗な言葉だ。でも私には、春雨(はるさめ)みたいでちょっと美味しそうだな、という感想が勝ってしまう。おしゃれとは程遠い人生を歩んできたため、その感性はちょっと分かんない。頭には麻婆春雨(マーボーはるさめ)が浮かんでいる。今度お母さんに作ってもらうようにお願いしてみようかな。「そうだね」とだけ無難に返した。

 カラオケの余韻を楽しむように、私たちはあえてぐるっと遠回りして駅に向かう。
 あちこちにある水溜まりを右へ左へ、リズミカルに避けながら涼花は言う。

「雨を浴びながら帰るのも楽しそうだけどな〜」

 無邪気に笑いながらジグザグに歩き、私の倍は歩数を稼いでいる涼花を見て、少しだけ口角が上がる。

「ええ?止んでてよかったよ。雨降ってたら風邪引くじゃん」
「だ〜か〜ら、しらさめ!」

 振り返って涼花が言う。その拍子にちょっとよろけたのか、左足が水溜まりに(つか)っていた。本人より先に、私が気づいてしまう。
 黙っておこうか。でも、そのドヤ顔と、しっかり水溜まりにハマった足元が面白くて、つい肩が震えてしまう。
 私の異変に気づいた涼花は足元を見る。

「え?ちょっと水溜まり!あ、靴が!あ、靴下にも染みてきた!ちょっと〜」

 明らかにテンションが下がっている。けれど私と目が合うと、涼花の口角が徐々に上がった。靨が見えたところで、私たちはどちらともなく笑い合う。私は涼花に(なら)って水溜まりの(ふち)を歩き、彼女の後ろに並んだ。

「私もやろうかな!」

 涼花が私に背中を向け、親指を立ててグッドマークを作る。そして、謎ステップを踏みながら歩き始めた。私もそれに合わせて後をついていく。右。左。右。左。視線の先には、もう駅が見えていた。
 せっかく遠回りしたのに、もう着いてしまう。涼花が発案するこの謎のゲーム、すごく楽しいのに。あと100mほど延長してくれないだろうか。

 私に背中を向けたまま、今度は人差し指を立ててピンと腕を伸ばした涼花が、(さと)すように言った。

「よし、2人で食べすぎた分のカロリー消費だ!」
「いっぱい食べてたのは涼花だけでしょ」
 ちょっとその発言には異議があるので、ツッコミを入れる。意外と大食いな涼花とは一緒にされたくない。
「え!それは裏切り発言だよ!でも私のほうが歌って踊ったもん!」
「はいはい、そうだね」
「あ、めんどくさがってる!」

 こんな他愛(たあい)のない会話をずっとしていたい。少し自分の立ち回りを変えれば、涼花はそれにちゃんと応えてくれる。もっと早くに気づくべきだった。でもまだ7月。夏休みはこれからだし、高校2年生が終わるまでにも半年以上ある。もし進級してクラスが変わったとしても、仲良くすることはできる。いっぱい会う機会を作ればいいだけだ。
 この時間がずっと続けばいい。すべてをジップロックに詰め込み、空気を抜いて、リュックの奥底に閉じ込めておけたらな。また好きなときに取り出して、いつでもこの続きを再開できたらどんなに良いだろう。
 さっきまで2人でたくさん歌った青春ソングたち。涼花はとにかく本人映像付きの曲にこだわっていた。薄暗い部屋のモニターの中で歌う少女たちは、間違いなく完璧で(まぶ)しかったけれど、今の私たちはきっと負けていない。
 ジメジメした夕暮れの湿度も、水溜まりを避ける不格好なステップも、全部ひっくるめて、私たちで上書き保存してしまおう。名曲のサビを、青春のど真ん中を不器用に歩く私たちが勝手に拝借(はいしゃく)して、自分たちのものにしてしまえばいいのだ。

 ふと見上げた空は、紫と水色の中間色に、少しだけオレンジのインクを(こぼ)したような色合いだった。
 完璧に晴れ渡った青空なんかじゃなくても。たまに目を合わせ、なんとなく笑う2人。
 夕暮れの曖昧(あいまい)な光に照らされて、涼花の形の良い唇がふわりと(ほころ)ぶ。大きな瞳にグラデーションの空を映したその横顔は、見惚れてしまうほど整っていた。
 足元の泥跳ねを気にしながら帰る、こんな何気ない道さえも。

「綺麗だね」

 青春代表を気取ろうとする私たちを、今日も役目を終えて隠れようとする太陽が、静かに見守っていた。