12時10分まで——あと20秒。マイクのボリュームを上げる。5、4、3、2、1。ピンポンパンポン——。
「みなさん、こんにちは。お昼の校内放送の時間です。今日の連絡は、明日の全校朝会についてです。明日は朝8時30分までに登校し、着席を完了させてください。それでは、今日のリクエスト曲です。1曲目は北原武の『おとしもの』、2曲目はオルタンシアの『グラデーション』です。それでは、どうぞ」
マイクのボリュームを下げ、音量つまみを上げる。あらかじめセットしておいたCDプレイヤーの再生ボタンを、石川が押す。それを機に、ふっと緊張がほどけた。昨日の放送当番が、デッキからCDを取り出すのを忘れたのだろう。石川はそのCDを人差し指に引っかけ、クルクルと回しながら言う。
「お疲れぃ」
火曜日の放送当番でペアを組んでいる石川は、同じ学年の男子だ。クラスは別で、1年生の頃からコンビを組んでいるものの、接点はほとんどない。放送当番のときにだけ顔を合わせる、ただの「知り合い」だった。センター分けに眼鏡。一見するとモテそうなルックスなのに、独特のイントネーションのせいで、不意にオタク感が漏れ出している。横から覗き込むと、やたらと高い鼻が目についた。
ペアを組み始めた1年生の頃、「密室に2人……!青春ラブコメきた!?」なんて一瞬でも期待した過去の自分を、今すぐタコ殴りにしてやりたい。石川は絶対にマイクに声を入れない。「なんで放送部なんかに入ったんだよ」とツッコミを入れたくなるくらいには、好感度が降下している。出会った瞬間が好感度マックスだったなあ、なんて。
「原田は放送うまいね。松田っちも褒めてたし」
おおお、急に褒めてくるじゃん。びっくりした……。
「ありがと」と返しつつ、心なしか凝った体をほぐすように伸びをする。
松田っちというのは、うちの顧問だ。美術を受け持つ女性の先生で、いつもふんわりと広がる花柄のスカートをはいている。小さい子どもがいて、とにかく忙しい人だ。基本的には美術室か職員室にいて、放送前にひょっこり顔を出すのもたまにしかない。顧問とは名ばかりだ。それに、部員が集まるのは、新年度の顔合わせが1度あるきり。正直なところ、先輩の顔すらよく覚えておらず、LINEのアイコンくらいしか把握していない。しかも登録名はイニシャルやあだ名なので、本名さえ分からない人が大半である。
たまに全体への共有事項を知らせてくれるのは「Yu」というアカウントだ。おそらくこの人が部長なのだろうが、アカウント名は男女どちらでもあり得るし、アイコンも何かのキャラクターで、実態がまったく見えてこない。なんとなく文面の口調から女子ではないかと踏んでいるけれど、もし違っていたら猛烈に失礼なので、心の中にそっと留めている。あとは、よく「諸事情」を理由に当番の代打を頼んでくるのが「はると」だ。幽霊部員じゃないだけマシだが、頻繁にほかの人に当番を代わってもらっているので、もう少し責任をもって仕事に取り組んでほしいと思ったりする。顔は分からないが。
私は基本的に当番を休まないし、1度だけ体調を崩したときには、石川にやってもらうよう頼んだ。が、後日聞いた話によると、その日の放送は音楽だけが流れたらしい。さすがにそれはダメだろと思ったが、私は足を引っ張った側だったので責めることはできなかった。
逆に石川は、今のところ当番皆勤賞である。こういう奴は体調を崩したりしないのだろうか。これだけ当番を欠かさないのなら、もうちょっと向上心があってもいいのだが、それがないのが石川の謎生態だ。こういうのは、理解しようとすること自体がまず間違いなのかもしれない。
もうこの時点でお分かりだろうが、我が放送部は、放送コンテストを目指して発声練習に励むような熱心な部活ではない。普段の決め事は、全部LINEで完結する。もう組織として終わりだ。この状況を私がどうにかしようとは思わないが、もうちょっとどうにかならないものかとは、日々感じている。なにせこの部は、どの部活にも入る気がない生徒たちを収容する「受け皿」としてしか機能していないのだ。
グループLINEの表示を見る限り、部員は46人いるらしい。しかし大半はスタンプ1つ送ってこない幽霊部員で、まともに返答をくれるのは12人程度。当番を回すのすらギリギリなのが現実だった。
石川は指に引っかけていたCDを機材の上に置くと、「じゃあ、あとよろしく」と言って帰ろうとする。ふと彼の足元を見ると、ぐちゃぐちゃに絡まっていたはずのマイクのコードが、綺麗にほどかれていた。それだけでなく、音量つまみまで丁寧に初期位置へと戻されている。
……やるじゃないか。いやいやいや、先に帰る奴を褒めてどうする。「んー」と返事をして、今日も通常運転の私とあいつの会話に一区切りをつけた。
まあ、そうだよね。石川はいつも、CDを再生したら放送室を出ていく。本人としては仕事を全うしているつもりなんだろう。本当は、再生を終えたCDを回収して放送室を施錠し、職員室へ鍵を返却するまでが放送当番の役割のはずなんだけどな。部長がLINEのピン留めメッセージに手順を書いていたし、トーク履歴をさかのぼれば確認できるはずだ。石川はそれを知らないのかもしれないが、指摘するのも面倒くさくて、なあなあにしている。放送室に来ないわけじゃないし、悪いやつではない。
バタン、と重たい防音扉が閉まると、部屋にはスピーカーから流れる音楽と、私1人だけが残った。この密室は、昼休みの騒がしささえも見事に遮断する。お腹が空いたので早く放送当番を終わらせたい気持ちを抑え、たった1人でじっと曲の終わりを待つ。
防音された空間には似合わない爽やかな楽曲と、そこに命を吹き込むメンバーの声が、ジワジワと部屋を浸食していく。この閉鎖的な場所から発せられた音が、今や学校中の廊下や教室を支配しているなんて、なんだか信じられない話だ。
機械に囲まれた放送室には、独特の空気が漂っている。防音のために窓が小さく分厚いせいで、お昼どきだというのに光が入りにくく、部屋全体は常に薄暗い。換気扇は回っているものの、長年染み付いた古い機械の匂いがして、空気が澱んでいるように感じられた。わずかに差し込む細い光の筋に、細かなチリがふわふわと舞っている。決して綺麗なものではないのに、ついつい目で追ってしまう。不規則に上下しながら白く揺らめくそれは、まるで季節外れの雪のようだった。
もっとも、この地域に雪はほとんど降らない。小さい頃に異例の寒波が到来した冬には、うっすらと雪が積もり、家の庭で大はしゃぎしながら手のひらサイズの雪だるまを作ったのを覚えている。どうしても溶かしたくなくて、お母さんにお願いしてしばらく冷凍庫に入れてもらっていたが、形を維持するのが難しく、泣く泣くあきらめたことがあったっけ。あのときの雪のように舞うチリを見つめながら、私は小さく息をつく。
何気なく、その小さな窓から外に目をやった。見えるのは、少し塗装の剥げた地元の商店街と、その奥に連なる青々とした山々くらいだ。毎日見ている、代わり映えのしない退屈な景色。決して居心地が良いとは言えない、この狭くて薄暗い空間と、この何もない街が、今の私の定位置だった。
石川が放置したCDを近くにあったケースに収め、スマホで写真を撮る。
『放送室にCDの忘れ物があったのですが、誰のものでしょうか。CDプレイヤーの上に置いておきます』
放送で流すCDは基本的に部員の私物だ。昨日の放送当番が忘れた物だろうから、持ち主の目星はついている。それなのに、私はあえてグループLINEに写真を晒した。
公立高校の弱小放送部に予算などあるはずもなく、「リクエスト曲」なんて名ばかり。実際は、自分たちの趣味の曲を垂れ流しているだけなのだ。放送部が担当する放送は、12時10分からの10分間と決められている。昼休みは12時から12時45分までの45分間あるのだが、放送がこれだけ短いのは部員の負担を減らすためだ。
CDの回収や戸締まりなどの作業まで含めると、昼ご飯を食べる時間がなくなってしまう。だから流す曲も2曲と決まっていて、いつも石川と私が、それぞれ自分の好きな曲を1曲ずつ持ち寄ることにしている。働き方改革の波は、高校生の部活動にまで影響を及ぼしているのかもしれない。それでも、なんだかんだで片付けには時間がかかるため、放送当番である毎週火曜日は、残り10分でお弁当をかき込むタイムアタックをする羽目になっている。
石川が残ってくれていれば、もうちょっと早く戸締まりが終わるのかなあ。いっそ放送室でお昼ご飯を食べられたら、どれほど効率が良いか。松田先生が入部説明会で言っていたが、過去にスープジャーをぶちまけた奴がいたせいで飲食禁止になったらしい。顔も知らない先輩を恨みつつ、職員室に鍵を返して教室へと急ぐ。
その途中、廊下の向こうから歩いてくる見覚えのある顔とすれ違った。ついさっきまで放送室にいた石川である。その隣には、やけに声の大きな男子がいた。
「だーかーら、言ったじゃん〜」
「いや、お前が悪いから」
石川はその男子と、私が放送室では見たこともないような自然な笑顔で言葉を交わしている。こちらには気づいていないのか、視線すら交わさずに通り過ぎていった。
石川の隣を歩く奴は、髪をやや明るい茶色に染め、ワイシャツを第2ボタンまで開けている。右手だけをスラックスのポケットに突っ込み、左手には3分の1ほど中身の入ったスポーツドリンクを持っていた。石川って、ああいう奴と仲いいんだ。少し意外だった。
それをわざわざ言葉にして伝える気はない。ただ、毎週狭い放送室で顔を合わせるだけの彼と、もうちょっと仲良くなれたらいいな、なんて。私は通り過ぎた彼らの背中を少しだけ目で追い、また自分の教室へと歩みを急いだ。
すると、スカートのポケットに入れたスマホがブブッと鳴った。画面をつけると、放送部LINEからの通知が表示されていた。
『それ私のです。1-3まで持ってきてもらうことはできますか?』
どうやら見つけた人間が届けるところまで含めて「落とし物」らしい。通知を見なかったことにして、スマホの画面を暗転させる。貴重なお昼ご飯の時間を、これ以上削られるわけにはいかない。
廊下に吊るされた時計は12時30分を指している。昼休みは残り15分だ。お、今日はちょっとだけ早い。優秀だ。
放送部に入部したばかりの頃はもっと時間がかかっていて、何度かお昼ご飯を抜いていた。それを踏まえると、かなりの成長である。こめかみを流れる汗を拭いながら、自分の教室まで急ぐ。1年の頃は4階だったが、進級して3階になったので、ずいぶんと放送室からの移動が楽になった。しかも昇降口に近い南館である。
教室ガチャ成功だ。しかし6月だというのに、連日の酷暑のせいで廊下はサウナ状態。蒸し焼きにされてしまう。廊下にもクーラーの設置を必須化しましょう、教育委員会さん。なんてうだうだと考えながら、階段を上がる。CDもろくに買えない公立高校には、贅沢すぎる望みだった。
階段を上がった先に、目指していた2-2のクラス札が見える。クーラーを効かせるために、扉も窓も閉め切られている。ガラガラッと建て付けの悪い扉を開くと、異世界のような涼空間が私を迎えてくれた。
教室の1番奥にある掃除用具入れの前で、1人で座っていた女子と目が合う。彼女は控えめに手を振ってくれる。雲1つない青空によく似合う、眩しい笑顔。放送当番の終着点が彼女の机の前だと錯覚してしまうほど、彼女の見た目は整っている。私が前に来ると、彼女は大きな目をさらに見開き、形の良い歯を見せながら口を開いた。
「みさき、お疲れさま!今日も放送聞いてたよ!」
お弁当箱を小花柄の包みにしまいながら、涼花は今日もお決まりの言葉をかけてくる。木下涼花——これが彼女の名前だ。4月に進級したとき、周囲に知り合いがおらず焦っていた私に声をかけてくれて以来、ずっと一緒に行動している。
彼女への第一印象は「綺麗な子」だった。しかし、年の離れた弟の影響で、日曜日の朝は男児向けヒーローアニメを見るのが習慣らしく、やたらと詳しい。意外と天然で面白い子だ。そんな飾らない部分がいいなと思い、一緒にいるのは苦じゃなかった。まあ、いかにも男子が好きそうな要素モリモリの子だとは思うけれど。
対して私は、原田みさき。高校2年生、17歳。もちろん涼花も同じ17歳なのだが、なんだか埋められない差があると感じる日々だ。名前も結構ありふれているし、漢字の名字にひらがなの名前の組み合わせはアンバランスな気がする。下の名前にも何か漢字が欲しかったなと、テストの解答用紙に名前を記入するたびにぼんやりと思ってしまう。
「ありがと。2曲目がオルタンシアだったからテンション上がってた」
「あの曲いいよね!6月にぴったりな曲だと思う!」
「雨っぽい曲だもんね。こっちの空は見事に快晴だけど」
「今日もいい天気だもんねー」なんて他愛ない会話をしながら、自分のお弁当を引っ張り出す。
私のお弁当は、小学生の頃から使っているキャラクター柄の巾着に入っている。容器自体は大人が使うような二段のものに変えたが、それを包む袋だけは昔のままだ。大人になりきれてないなあ、なんて苦笑する。今度新しいのを買おう。
オルタンシアというのは、ある女性アイドルグループの名前だ。紫陽花をフランス語にした「Hortensia」に由来している。アイドルグループの名付け親というものは、よく辞書から小洒落た名前を拾ってくるものだ。しかし、どういう頭の構造をしていたら「紫陽花をフランス語にした名前をつけよう!」となるのだろう。天才である。
彼女たちは、紫陽花が土壌によって花の色を変えるように、少女たちの「心の移り変わり」や「成長のグラデーション」を表現することをコンセプトに掲げている。明るく元気なだけでなく、思春期の悩みや雨の日の憂鬱に寄り添うような、文学的で繊細な世界観が魅力だ。また、上から見ると1つの巨大な紫陽花に見える、円形を活かしたフォーメーションダンスを特徴としている。
結成当時はわずか12人だったグループも、激しいメンバーの入れ替わりを経て、もはや原型を留めていない。現在は1期生5人、2期生8人、3期生10人の総勢23人という大所帯だ。私は結成当初からグループを追っていて、当時はメンバー全員が好きだった。まだ「1期生」なんて呼び方をしなかった頃だ。
まさか2期、3期と追加メンバーが来るなんて夢にも思わず、2期生加入と同時にすっかり熱は冷めてしまった。もっとも、楽曲や公式YouTubeのチェックだけは、いまだに欠かしていなかった。
そんな中、2ヶ月前の4月。3期生の主軸メンバーである「そらたん」こと池田そらちゃんの顔がアップで映ったライブ映像の切り抜きが、6万いいねを超えるバズを記録した。そこから徐々に地上波での露出が増えた。それまではたまに深夜番組に呼ばれる程度だったのに、今ではゴールデンタイムの音楽番組にも出演している。
初期メンバーを愛していた身としては少し複雑だが、オルタンシアの名曲たちが世間に注目されるのは悪い気分ではない。むしろ今では、そらちゃんの芯の強い性格とほんわかした歌声のギャップの虜になっている。それが大衆受けしたのか、つい最近、そらたんは朝の情報番組のマンスリーコメンテーターに抜擢された。そらたんが出ているおかげか、番組のハッシュタグが毎日のようにトレンド入りしており、私も朝起きることが苦痛ではなくなった。
ずっとマンスリーコメンテーターをやっていてほしい。それなら毎日起きられるのに。
「あの歌詞いいよね!ほら!そらちゃんの、『息を呑んで、世界は色づいた〜』の部分!」
オルタンシアの活躍ぶりを振り返っていた私の思考は、涼花の穏やかな声によって遮られた。
「えっと、そうだね。サビ終わりだもん。あそこでちゃんと決めてくるそらたんは、さすがだよね」
「衣装も好き〜。ミュージックビデオの薄紫色のワンピースかわいい〜。裾がひらひらしていて!」
「MV衣装いいよね。『れつ旅』の衣装とちょっと似ていて良い」
「れつたび?」
聞き慣れない単語に、涼花は首をひねった。
「4thシングルのカップリング曲。ほら、テレビとかでよく流れるメインの曲、いわゆる『A面』は『青の色』。CDにはもう1曲、おまけみたいな立ち位置で収録されている曲があって、それを『カップリング曲』……昔の言葉で『B面』って呼ぶの。メインの陰に隠れがちなんだけど、実はファンに愛される神曲があったりするんだよ。その4thのB面に入っていたのが『鈍行列車で旅をしよう』。略して『れつ旅』。オルタンシアらしい爽やかさと切なさが詰まった、隠れた名曲だと思う」
4thシングルは、1期生だけで歌う最後のシングルだった。2期生加入前、擦り切れるほどMVを見て勇気をもらった、私にとっても特別な思い入れのある曲だ。センターに立った「ひらりん」こと片山ひらりは、デビューから4作連続でセンターを務め上げた、1期生の絶対的エースだった。しかし2期生が加入すると、彼女のポジションは大きく後方へと下げられてしまう。運営による冷遇が原因だったかは分からない。けれど、それから間もなく、ひらりんはグループを去っていった。
「そうなんだ!知らなかったよ〜!今度聞いてみる!」
「うん。MVはないんだけど、公式がダンス動画出してるから見てみて。衣装もそこで見られるから」
涼花は、そらたんのSNSでの万バズがきっかけでオルタンシアを知ったらしい。オルタンシアのファンを「Drop」と呼ぶが、涼花は紛れもなく新規のDropだ。それでも、その素直さゆえに憎めない。オルタンシアがきっかけで友達になれたし、そこには感謝している。
「そっか、ありがとう〜!」なんて言いながら次の授業の準備をはじめる涼花を横目に、ご飯をかき込む。休み時間はあと8分。お弁当を食べきるだけなら余裕だけど、今日も5限は移動教室だ。そろそろ片付けないと。
「そんなにご飯を口に詰めたらリスみたいだよ〜。かわいい」
涼花の言葉に愛想笑いを浮かべつつ、「目の前のあなたのほうがずっとかわいいのに」と心の中で密かに毒づく。
私がこの冷え切った教室で1人にならずに済んでいるのは、涼花がいるから。涼花がいてよかった。
……はず。
カンカンカンカン。踏切が通行人を急かすように鳴っている。昼食後の怒涛の睡魔に打ち勝ち、手に入れた放課後。嫌でも通らされる学校名物の急坂を、今日も涼花と並んで下りていく。脇に咲く紫陽花は青から紫へのグラデーションが鮮やかで、初夏の陽気によく映えていた。その坂を下りきると、この踏切に行き当たる。
登下校ラッシュの時間帯にはよく電車が往来するため、ここで足止めを食らうのがお決まりだ。登校時間ギリギリの生徒にとっては、ここで引っかかるかどうかが遅刻を左右する運命の分かれ道。生徒たちの間では「踏切ガチャ」なんて言われている。引っかからなかった日は成功、引っかかったら失敗。開催時間は朝のみ。
つまり、下校中の私たちはガチャに失敗して足止めを食らっているわけではない。それに、涼花と一緒に帰る時間が少し長くなるのは悪くない。
ぐらぐらと揺れる警戒色の棒から隣の涼花へ視線を移す。目が合うと、待ってましたとばかりに彼女は目元を和らげた。
「ねえ、みさきは、今年の海広祭は行くの?」
何かと思えば、海広祭か。それはこの地域で最も規模が大きい夏祭りだった。開催日は毎年8月20日。花火大会のような大掛かりな催しはなく、海広神社の参道に出店が並ぶ程度だが、数少ない地元のイベントとあって毎年それなりの賑わいを見せる。
もっとも、子どもの頃から出し物も変わっていないため、すっかり忘れていた。去年はオルタンシアのライブ生配信とかぶっていたからスルーしたんだったか。今年は日程が重複していないとはいえ、行くことなんてはなから考えてもいなかった。
「その予定はないけど」
「じゃあ一緒に行こうよ!」
こぼれ落ちそうなほど見開かれた瞳と視線が合う。涼花は満足そうに目を細めた。彼女の額を伝う汗がキラキラと輝いている。青葉を伝う滴のようだ。自分の額から流れる汗とは、まるで別物のようにさえ思えてしまう。
「え、2人で?」
「うん、もちろん」
そっか、2人で、か。この透明感あふれる美少女の夏祭りの思い出が、私なんかとのものになるのも悪くないかもしれない。
「うん、いいよ」
「やった、決まりね!浴衣買おうかなあ〜」
白い歯をきらりと見せると、涼花はご機嫌に鼻歌を歌い始めた。テンションの上昇が分かりやすすぎる。
まだ踏切が開かないと踏んだのか、彼女はスクールバッグのポケットからスマホを取り出して画面を点灯させた。ロック画面に浮かんでいるのは、私と初めて出かけた水族館で撮った、あざらしの寝顔の写真だった。彼女は慣れた手つきで、通販ショップ「ふりリル」を開いた。女子高生御用達のファストファッションブランドだが、私にはまったく縁のないサイトだ。
「どの色がいいと思う?」
涼花が見せてきた画面には、浴衣がずらりと並んでいた。
「ふりリルなら、絶対誰かと浴衣かぶるんじゃない?みんな買ってるじゃん」というネガティブな言葉を、喉の奥に押しとどめる。
「そうだね、なんでもいいんじゃない?」
自称進学校の鬼ダサ制服さえ衣装のように着こなす涼花なら、何色を着ても似合うに決まっている。これは紛れもない本心だ。それに、この手の質問は聞く前から本人の気持ちが固まっているのが常だ。彼女の好みに同調し、背中を押してあげればいい。
「じゃあ、これにしようかな」
涼花が再びスマホの画面を見せてきた。指差した先には、上品な薄紫色の浴衣が映っている。
「あ、それって……」
「うん!オルタンシアの衣装みたいでかわいいでしょ!」
紫——それはオルタンシアを象徴する色。なぜか無性に、胸の奥がざわつく。彼女が紫色を纏うと、そのまま手の届かない遠くへ行ってしまうような、得体の知れない不安を覚えたのだ。
「……紫は、ちょっと大人っぽすぎない?」
私は無意識のうちに、涼花が選んだ色を否定していた。
「え、そうかな?」
予想外だった私の回答に、涼花は目を丸くする。
「うん。夜のお祭りだと暗く沈んで見えちゃうかも。涼花はもっと明るい色のほうが似合うよ。ほら、隣にある……こっちの水色とか」
私が適当な理由をつけて水色の浴衣を指差すと、涼花は少し画面を見つめたあと、パッと表情を明るくした。
「あ、ほんとだ!水色も爽やかでかわいいかも!」
膝上丈のスカートから覗く、まっすぐ伸びた白い足を眺めながら、私は密かに安堵の息をつく。
「うん、いいじゃん。水色、絶対似合うと思うよ」
畳みかけるように、彼女と同じトーンで言葉を重ねる。これで涼花の浴衣の色は決まりだ。
ただのクラスメイトで、等身大の普通の女の子でいてほしい。それが私の身勝手なエゴであり、やがて自分自身を残酷に抉ることになるなんて、このときの私はまだ知る由もなかった。
「うん、水色にする!決まりね、ありがとう〜!」
別に大層なことは言っていないのだが、これだけ眩しい笑顔を向けられると悪い気はしない。
さて、自分は何を着ていけばいいのだろう。彼女と肩を並べられるなんて思っちゃいないが、少しでもマシに見える服があったかどうか。鮮やかな水色の浴衣を纏った彼女の隣に立てば、私の惨めさが嫌でも引き立つ。「やっぱりお祭りなんて行くべきじゃない」という弱気が頭をよぎる。
……いや、同じ制服で並んで歩いている今の時点で、とっくに公開処刑状態か。
そんなことを考えながら、自分もスマホをスカートのポケットから出して、いつものSNSアプリを開く。オルタンシア結成当初から使っているアカウントにログインする。スクロールするだけで次から次へと情報が流れてくるため、暇つぶしにはちょうどいい。この狭い液晶の中に、世界のすべてが詰まっているような錯覚に陥る。ただ眺めているだけで、何もかも知った気分になる。
満面の笑みを浮かべるそらたんのサムネイルとともに、動画アプリへの投稿を知らせるリンクが流れてくる。誰かが作った、来たるライブへ向けてのコール講座動画もある。
今日もそらたんがかわいくて平和だ、って……え?スクロールで通り過ぎた公式アカウントの投稿に慌てて戻る。
どこにいった。見つけられないので、最初にフォローしたオルタンシア公式アカウントを開く。1番上にピン留めされた投稿を見て、息を呑んだ。
「どうしたのー」なんて能天気な声で私のスマホを覗き込んでくる涼花も、画面の文字を読んで声を上げた。
「池田そら卒業と新メンバー募集オーディションのお知らせ!?」
なんで、どういうこと?そらたん、卒業するの?どうして?なんのために?
その投稿に貼られたリンクを押すと、公式サイトのお知らせに飛ばされる。そこには、池田そらの卒業と新メンバーオーディションを知らせる、事務的な声明文。そして、池田そらの「卒業します〜」といった、本人の言葉かどうかも分からないような無機質な文章が並べられていた。『卒業コンサートの日程はまた後日お知らせいたします』という一文と、6月9日 池田そら——という署名が見えた瞬間、すぐに元の公式アカウントの投稿に戻った。
すでにリプライ欄には120件の投稿が寄せられている。チャットボットっぽいものに混じって、そらちゃんの卒業を嘆く投稿が見える。目に留まったアカウントをタップすると、そらたん加入直後から推していると思われる人のページが表示された。最新の投稿が1番上に表示される仕様のようで、2分前に投稿されたばかりの一文が目に飛び込んできた。
『そんなの耐えられないよ。アイドルとして輝くそらたんが大好きだったのに』
1、2分おきに、そんな短文をぽつぽつと投稿し続けているようだ。
そうだよな。こんなにも推してた人がアイドルを辞めるなんて、信じられないよな。いつか来るって分かっていても、いざそのときが来ると頭が真っ白になってしまう。アイドルには卒業という儚さがあるから、輝いて見えるのかもしれない。
「そらちゃんかわいいのにねー。アイドル姿見れなくなるの、残念だしショックだなあ」
涼花が隣で、新メンバーオーディションには触れず、そらたんの卒業を悲しんでいる。そういうところが良い子だと思う。
「うん。そらたん、お芝居やりたいとはずっと言ってたからね」
「でもお芝居って、アイドルやりながらでもできるよね?」
「そこ突っ込まないで」と言いたくなるのを飲み込み、「まあね」と平静を装う。今それ言うか。涼花の優しさに感動したのに、ちょっとテンションが下がった。
本当はかなり辛い。だって、朝早く起きるモチベーションになるくらいには、そらたんが好きだったし。追加メンバーとして加入したそらたんは、とても良いアイドルだった。私は1期生がオルタンシアの完全体だと思っていたけど、3期生のそらたんは間違いなくオルタンシアだった。
なのに、なぜ?しかも勢いのあるこのタイミングで。マンスリーコメンテーターの仕事が決まったから?個人仕事とグループ活動の両立ができていなかったから?
本人の名前が署名された公式声明には、卒業の旨とファンへの感謝の言葉がつづられるだけで、卒業理由は語られていない。タイムラインには、ネットニュースの公式アカウントなど、少し影響力のあるアカウントの投稿ばかりが流れてくる。その合間に、相互フォローしているアカウントの投稿がちょこちょこ挟まっている。
相互フォローの中には1期生推しが多い。池田そらの卒業そのものより、新メンバーオーディションを卒業と同時期に開催することへの文句が目についた。違う、違う、違う。私が見たいのは、そらたんなんだよ。
肝心の、池田そらの卒業について純粋に書かれた投稿がうまく探せない。
「みさき?踏切開いたよ、行こう!」
画面には、そらたんの顔写真と卒業発表が載った、エンタメ系ニュースメディアの記事が映っている。そこから顔を上げると、涼花と視線が合った。やっと聞き慣れてきた、少し高めのゆったりとした声に、私は自分が踏切を待っていたことを思い出した。
まだ、そらたんが卒業する衝撃と新メンバーオーディションのことで頭がいっぱいだ。足元がふわふわする。空に浮かぶ雲を足場にしたら、こんな感じなのかな。
そらたんを本格的に応援していなくてよかった。意外と冷静で、ショックを受けていない自分を自嘲する。アイドルって、そういうものだから。スマホをポケットにしまい、彼女の後を追う。今年の夏は、少し鬱屈としたものになる予感がした。
涼花と別れ、家にたどり着くと、すぐに2階の自室へ向かい、部屋のドアを閉めた。スマホの画面をつけ、SNSアプリの検索窓に「池田そら 卒業」と入力する。表示された投稿一覧は、想像通りお祭り騒ぎだった。
2期生の熱愛報道や、会場の手配に不備があってイベントが中止になったときでさえ、こんなことにはならなかった。私はDrop界隈が持つ、女性アイドル界隈としては比較的穏やかな雰囲気が気に入っていた節もある。だが今では、このありさまだ。
池田そらの卒業タイミングへの不満、グループへの貢献ではなく自分のことしか考えていないという決めつけ、運営は引き止めなかったのかという批判。ネガティブな言葉であふれかえっていた。明らかな暴言やアンチコメントは、開示請求を恐れてか、一時期より静まった気がする。
だが、批判と誹謗中傷の境界線に漂うグレーゾーンの言葉たちは、いまもタイムラインに溢れかえっていた。結局のところ、それらも「匿名」という安全な場所から石を投げつける行為に変わりない。相手が反論できない場所で一方的に殴りかかるなんて、ただのいじめと同じだ。
雑踏をかき分けるようにしてタイムラインを一通りあさり、お腹いっぱいになったところで画面を閉じた。アイドル、とりわけ女性アイドルの寿命は短い。だからこそ、あんなにも眩く光るのだと思い知らされる。
いつか終わると分かっているものに惹かれるのは、ひとときの至福と引き換えに、やがて訪れる喪失の痛みを予約するようなものだ。アイドルを応援するという行為は、いわば幸福の前借りで、最後には必ず虚無というツケを払わされる、残酷な等価交換なのだ。
本格的にのめり込んでいたわけではないと、頭では分かっていたはずなのに。それでも無意識に目を奪われていた鮮烈な光が、手のひらの小さなブラックアウトと共に、静かに消滅した。
暑い。
本当に6月だろうか。うだるような暑さの中、2-2の教室を目指して階段を1段ずつ上る。暑い日に上る階段は、いつも以上に重力が強いのではないかと思う。誰か論文を書いて発表してほしい。
そろそろ目をつぶってでも、この教室にたどり着けるようになった気がする。そらたんの卒業発表から一夜明けたが、世界は特に何も変わっていない。
家から駅に向かう途中、商店街の角にあるパン屋さんの匂いも、少し傾いた電柱の角度も、隣の人と肩が触れ合うくらい混んでいる電車も、いつも通りだった。そらたんの卒業は、ありふれた情報の中の1つにすぎないのかもしれない。
やっとたどり着いた教室の扉を開け、真っ先に奥へ視線を向ける。
「あ、みさき、おはよ〜!」
そこにはいつも通り、涼花の姿があった。私の顔を見るなり、小さく体を揺らして無邪気に笑う。そらたんの卒業に触れてこないのは、彼女なりの優しさなのだろう。
世界があまりにもいつも通り動いていることに、どこか傷ついていた私に、その気遣いが沁み渡った。そらたんの卒業発表という大事件があっても、私の日常はちゃんとここにあった。
朝のホームルームが始まるまでの少しの時間、自席につきスマホを開く。SNSのアプリを立ち上げ、タイムラインを眺めた。親指で画面を下に引っ張ると、1回転する矢印が出現し、また新しい情報が流れてくる。
なかには、卒業理由が明かされていないことから、「運営と揉めたのでは」などと推測する投稿も混ざっていた。少し変な見出しをつけた、名前も聞いたことのないようなニュースサイトの記事も散見された。いくら好きなもののことだからといって、そういう不確かな情報に踊らされてヒートアップしすぎるのはよくない。
私は中学のとき、情報の授業でネットの正しい使い方を学んだが、ああいうのを見るたびに、全世代が学ぶべきだと心底思う。すぐにチャイムが鳴り響き、そそくさとスマホを片付ける。今日も長い1日がスタートした。
4時間目の授業が終わると、待ちに待った昼休みだ。教室内が一瞬にして活気づき、あちこちで机をくっつけ合う乾いた音が響き始める。自分の椅子を引きずって、列の1番後ろにある涼花の席へと移動した。
「みさきの今日のお弁当のおかず当てゲーム!」
はじまった。涼花はお弁当を自分で作っているらしく、中身が分かっているからワクワク感がないそうだ。だから、私のお弁当の中身を2人で予想してから開けることで、そのワクワク感を楽しんでいるらしい。
「今日はね、水曜日だからシューマイが入っていると思う!昨日の夜ご飯は餃子でしょ?そのタネの残りで包んだシューマイが2個入っていると思う!緑の豆が乗ったやつ」
ぱかりとお弁当箱を開けると、涼花の言うとおりシューマイが入っていた。が、1個だけである。
「1個だけだね」
口をぐーっと横に伸ばし、少し不満そうな顔で涼花がつぶやく。
「やっとみさきママの思考回路が読めてきたと思ったのになあ。まだ個数まで読むには時間がかかりそうだなあ」
「そんなにご飯を口に詰めたらリスみたいだよ〜」と、昨日と同じことを言って笑う涼花につられて、私も少しだけ口元を緩める。
そんなとき、いつもやけに声の大きいグループの1人が言った。
「池田そらがアイドル卒業するらしーぜ!」
うちの教室のサイズを知らないのか、その声は一瞬で教室の隅々まで響き渡った。
さっきまで涼花と繰り広げていた会話なんて、どこかへ吹き飛んでしまった。頭がフリーズし、それと同時に手も止まる。箸で掴みかけていたシューマイがお弁当箱の中に落ちた。
「見た見た、そらそらかわいいーのに」
そらそら?アイドルの池田そらって、他にもいるっけ?
小さなお弁当箱の中で横に傾いたシューマイをじっと見つめる。教室の真ん中に陣取る男子たちのほうは見ずに、思わず考えてしまう。
「そらたん、な」
「お前詳しいな、実はガチオタか!」
「ちげーし」
ああ、やっぱり。なんだよ、そらそらって。ちゃんと公式の呼び名があるんですけど。そんな馴れ馴れしく呼ばないでくれる?シューマイの頂点からこぼれたグリンピースを元に戻し、口に運ぼうとした。
「でも胸でけーよな」
は?
「おいやめろって!」
うるさい。不快で吐き気がする。お前らのそんな汚い言葉で、彼女を語らないでほしい。そらたんが、ただただかわいそうでならなかった。
それでも、男子たちの低俗な会話にハッとさせられた。そらたんの卒業は、画面の向こうの話ではなく、目の前にある現実なのだと。
クラスの誰も、彼らを咎めようとはしない。どれほど不快に思っていても、わざわざ悪目立ちしたくないからだ。正義感に溢れたヒーローなんて、現実に存在するはずもない。
もし注意でもすれば、「空気読めないやつ」というレッテルを貼られ、クラスで孤立するだけでなく、最悪SNSで晒される可能性だってある。今すぐではなくとも、もし将来何かの拍子で有名になれば、10年後でも20年後でも掘り返される。
1度発信されたものは、服にこびりつく埃のようなものだ。払っても落ちず、じわじわとまとわり続ける。世間的に正しいとされる発言も、そうでないものも、画像を付けられたり、一部を脚色されたりしながら残り続ける。影響力の大きい芸能人に限らず、一般人にだってよくあることだ。人としゃべるのが恐ろしいと思うくらいには。
「みさき?」
聞き慣れた声に顔を上げると、卵焼きを頬張る涼花と目が合う。自分の世界に入り込んで、あれこれ考えを巡らせていたことに気がついた。
「あ、いや、なんでもない」
慌てて視線を逸らす。ちょっと手持ち無沙汰になり、お弁当箱の中で転がったシューマイの体勢を立て直す。孤立したグリンピースをシューマイに乗っけて箸で掴む。口に運ぼうとしたところで、グリンピースだけこぼれてしまった。
すると、珍しく涼花が声を張って言う。
「あんな言い方ないよね。そらちゃんを好きな子がクラスにいて、聞いてる可能性だってあるのに。そういうの考えられないのかな」
——今それ言うの、まずいんじゃ。
グリンピースから目を離して顔を上げ、先ほどそらたんをネタに茶化していた男子グループを探す。が、教室を見渡しても、その姿は見当たらなかった。思わずほっと胸を撫で下ろす。
涼花はたまに危なっかしいことを言うから、ヒヤヒヤさせられる。同じクラスにそらたんのファンがいるかもしれない。その考えが頭をよぎったあと、私は言葉を選んで口を開いた。
「あ、普通にセクハラ発言だよね。本人がいたら訴えられるレベル」
そのとき、彼女の綺麗に整えられたアーチ眉がぴくりと動いたのを、私は見逃さなかった。なんかまずかっただろうか。
アイドルの卒業は、そらたん推しにとって深刻なことだから、あえて触れないようにしたのだが。この子の「許せる・許せない」の感覚がまだ掴みきれていない。1つ理解したと思えば、また1つ疑問を残していく。グリンピースは、なんとかお弁当箱の中に着地していた。
その次の火曜日。
放送当番の役目を終えて教室に戻り、リュックの中に手を突っ込んだ。ガサガサとお弁当箱を探していると、すでにお昼を食べ終えた涼花が前に回り込んで話しかけてきた。
「ねえ、今度『五月雨まで』を流してよ!」
「五月雨まで、知ってるんだ」
手元を見ずにお弁当を探り当て、袋の片紐をぐいっと引っ張る。すると、目の前にいつものキャラクターの柄が現れた。それから顔を上げて、涼花と目を合わせる。
「うん、知ってるよ!ひらりんの歌い出しがいいよね。『窓ガラスを伝う水滴を、指先でなぞっては数えていた〜♪』」
ご機嫌そうに、『五月雨まで』の歌い出しを歌い始める涼花。その素人の鼻歌は、なぜかピッチが完璧に合っていた。少し高めで透明感のある声が、ざわつく教室の中でもすっと耳に届き、思わずハッとさせられる。
涼花が本物のアイドルオーディションを受けたら、普通に受かったりして。なんて、無責任な妄想が頭をよぎるほどだ。
ひらりん。もう、その域までたどり着いたんだ。涼花はすごいスピードでオルタンシアの歴史をなぞっている。
ひらりん、元気かな。オルタンシア卒業と同時に芸能界を引退した彼女は今、何をしているのだろう。週刊誌には、IT企業の社長と結婚して子どもがいるだの、いろいろ書かれていたが、本人のSNSアカウントなどもないため、本当のところは分からない。
顔は涼花に向けたまま、視線を奥の壁掛け時計に移す。昼休みはあと10分ある。急いでお弁当を食べなければ。
「今日はなにかな〜」
お弁当箱を開けようとする私を、涼花が覗き込んでくる。私は彼女のほうを見ずに、ぱかりと蓋を開けた。
いつもならシューマイが入っているはずの場所に、冷凍食品の唐揚げが1個、どっしりと鎮座していた。
「唐揚げかあ」
涼花はうーんとうなりながら唐揚げを見つめる。涼花の読みも外れたのだろうか。あまりにもじっと見つめるので、思わず「食べる?」なんて言ってしまう。そんなに熱い視線を送られるなら、唐揚げだって、注目してくれる人に食べられたほうが本望だろう。
涼花は大きな目をさらに見開いたあと、にいっと笑う。真顔のときから目立つ涙袋が、さらにぷくりと大きく膨らんだ。
「いいの?ありがとう」
あーんと口を開けるかと思いきや、彼女は人差し指と中指で唐揚げをつまみ上げ、そのままポイと口の中に放り込んだ。食べさせてあげようと伸ばしかけていた私の箸先は、すっかりお役御免になり、虚しく空を切る。
そういうところだよ、涼花。こちらの用意した手順や計算なんてお構いなしに、いつも斜め上の行動で飛び出していく。一歩間違えれば、ただの「空気が読めない子」になりそうなのに、彼女のフィルターを通すと不思議と嫌味がなく、エンターテインメントに変わってしまうからズルい。
突然の危なっかしい発言にヒヤヒヤしたり、ペースを乱されて少しイラッとしたりすることもあるけれど、不快感の一歩手前でピタリと止まるのだ。退屈だった私の日常を軽々とひっかき回してくれる、この絶妙な塩梅がたまらなく面白い。結局のところ、私は彼女の予測不能な行動から目が離せなくなっている。
いけない。今日の5限は移動教室だ。早く食べ終わらなきゃ。涼花の奥にある壁掛け時計の長針は8を指し、昼休みがあと5分であることを示していた。
「みなさん、こんにちは。お昼の校内放送の時間です。今日の連絡は、明日の全校朝会についてです。明日は朝8時30分までに登校し、着席を完了させてください。それでは、今日のリクエスト曲です。1曲目は北原武の『おとしもの』、2曲目はオルタンシアの『グラデーション』です。それでは、どうぞ」
マイクのボリュームを下げ、音量つまみを上げる。あらかじめセットしておいたCDプレイヤーの再生ボタンを、石川が押す。それを機に、ふっと緊張がほどけた。昨日の放送当番が、デッキからCDを取り出すのを忘れたのだろう。石川はそのCDを人差し指に引っかけ、クルクルと回しながら言う。
「お疲れぃ」
火曜日の放送当番でペアを組んでいる石川は、同じ学年の男子だ。クラスは別で、1年生の頃からコンビを組んでいるものの、接点はほとんどない。放送当番のときにだけ顔を合わせる、ただの「知り合い」だった。センター分けに眼鏡。一見するとモテそうなルックスなのに、独特のイントネーションのせいで、不意にオタク感が漏れ出している。横から覗き込むと、やたらと高い鼻が目についた。
ペアを組み始めた1年生の頃、「密室に2人……!青春ラブコメきた!?」なんて一瞬でも期待した過去の自分を、今すぐタコ殴りにしてやりたい。石川は絶対にマイクに声を入れない。「なんで放送部なんかに入ったんだよ」とツッコミを入れたくなるくらいには、好感度が降下している。出会った瞬間が好感度マックスだったなあ、なんて。
「原田は放送うまいね。松田っちも褒めてたし」
おおお、急に褒めてくるじゃん。びっくりした……。
「ありがと」と返しつつ、心なしか凝った体をほぐすように伸びをする。
松田っちというのは、うちの顧問だ。美術を受け持つ女性の先生で、いつもふんわりと広がる花柄のスカートをはいている。小さい子どもがいて、とにかく忙しい人だ。基本的には美術室か職員室にいて、放送前にひょっこり顔を出すのもたまにしかない。顧問とは名ばかりだ。それに、部員が集まるのは、新年度の顔合わせが1度あるきり。正直なところ、先輩の顔すらよく覚えておらず、LINEのアイコンくらいしか把握していない。しかも登録名はイニシャルやあだ名なので、本名さえ分からない人が大半である。
たまに全体への共有事項を知らせてくれるのは「Yu」というアカウントだ。おそらくこの人が部長なのだろうが、アカウント名は男女どちらでもあり得るし、アイコンも何かのキャラクターで、実態がまったく見えてこない。なんとなく文面の口調から女子ではないかと踏んでいるけれど、もし違っていたら猛烈に失礼なので、心の中にそっと留めている。あとは、よく「諸事情」を理由に当番の代打を頼んでくるのが「はると」だ。幽霊部員じゃないだけマシだが、頻繁にほかの人に当番を代わってもらっているので、もう少し責任をもって仕事に取り組んでほしいと思ったりする。顔は分からないが。
私は基本的に当番を休まないし、1度だけ体調を崩したときには、石川にやってもらうよう頼んだ。が、後日聞いた話によると、その日の放送は音楽だけが流れたらしい。さすがにそれはダメだろと思ったが、私は足を引っ張った側だったので責めることはできなかった。
逆に石川は、今のところ当番皆勤賞である。こういう奴は体調を崩したりしないのだろうか。これだけ当番を欠かさないのなら、もうちょっと向上心があってもいいのだが、それがないのが石川の謎生態だ。こういうのは、理解しようとすること自体がまず間違いなのかもしれない。
もうこの時点でお分かりだろうが、我が放送部は、放送コンテストを目指して発声練習に励むような熱心な部活ではない。普段の決め事は、全部LINEで完結する。もう組織として終わりだ。この状況を私がどうにかしようとは思わないが、もうちょっとどうにかならないものかとは、日々感じている。なにせこの部は、どの部活にも入る気がない生徒たちを収容する「受け皿」としてしか機能していないのだ。
グループLINEの表示を見る限り、部員は46人いるらしい。しかし大半はスタンプ1つ送ってこない幽霊部員で、まともに返答をくれるのは12人程度。当番を回すのすらギリギリなのが現実だった。
石川は指に引っかけていたCDを機材の上に置くと、「じゃあ、あとよろしく」と言って帰ろうとする。ふと彼の足元を見ると、ぐちゃぐちゃに絡まっていたはずのマイクのコードが、綺麗にほどかれていた。それだけでなく、音量つまみまで丁寧に初期位置へと戻されている。
……やるじゃないか。いやいやいや、先に帰る奴を褒めてどうする。「んー」と返事をして、今日も通常運転の私とあいつの会話に一区切りをつけた。
まあ、そうだよね。石川はいつも、CDを再生したら放送室を出ていく。本人としては仕事を全うしているつもりなんだろう。本当は、再生を終えたCDを回収して放送室を施錠し、職員室へ鍵を返却するまでが放送当番の役割のはずなんだけどな。部長がLINEのピン留めメッセージに手順を書いていたし、トーク履歴をさかのぼれば確認できるはずだ。石川はそれを知らないのかもしれないが、指摘するのも面倒くさくて、なあなあにしている。放送室に来ないわけじゃないし、悪いやつではない。
バタン、と重たい防音扉が閉まると、部屋にはスピーカーから流れる音楽と、私1人だけが残った。この密室は、昼休みの騒がしささえも見事に遮断する。お腹が空いたので早く放送当番を終わらせたい気持ちを抑え、たった1人でじっと曲の終わりを待つ。
防音された空間には似合わない爽やかな楽曲と、そこに命を吹き込むメンバーの声が、ジワジワと部屋を浸食していく。この閉鎖的な場所から発せられた音が、今や学校中の廊下や教室を支配しているなんて、なんだか信じられない話だ。
機械に囲まれた放送室には、独特の空気が漂っている。防音のために窓が小さく分厚いせいで、お昼どきだというのに光が入りにくく、部屋全体は常に薄暗い。換気扇は回っているものの、長年染み付いた古い機械の匂いがして、空気が澱んでいるように感じられた。わずかに差し込む細い光の筋に、細かなチリがふわふわと舞っている。決して綺麗なものではないのに、ついつい目で追ってしまう。不規則に上下しながら白く揺らめくそれは、まるで季節外れの雪のようだった。
もっとも、この地域に雪はほとんど降らない。小さい頃に異例の寒波が到来した冬には、うっすらと雪が積もり、家の庭で大はしゃぎしながら手のひらサイズの雪だるまを作ったのを覚えている。どうしても溶かしたくなくて、お母さんにお願いしてしばらく冷凍庫に入れてもらっていたが、形を維持するのが難しく、泣く泣くあきらめたことがあったっけ。あのときの雪のように舞うチリを見つめながら、私は小さく息をつく。
何気なく、その小さな窓から外に目をやった。見えるのは、少し塗装の剥げた地元の商店街と、その奥に連なる青々とした山々くらいだ。毎日見ている、代わり映えのしない退屈な景色。決して居心地が良いとは言えない、この狭くて薄暗い空間と、この何もない街が、今の私の定位置だった。
石川が放置したCDを近くにあったケースに収め、スマホで写真を撮る。
『放送室にCDの忘れ物があったのですが、誰のものでしょうか。CDプレイヤーの上に置いておきます』
放送で流すCDは基本的に部員の私物だ。昨日の放送当番が忘れた物だろうから、持ち主の目星はついている。それなのに、私はあえてグループLINEに写真を晒した。
公立高校の弱小放送部に予算などあるはずもなく、「リクエスト曲」なんて名ばかり。実際は、自分たちの趣味の曲を垂れ流しているだけなのだ。放送部が担当する放送は、12時10分からの10分間と決められている。昼休みは12時から12時45分までの45分間あるのだが、放送がこれだけ短いのは部員の負担を減らすためだ。
CDの回収や戸締まりなどの作業まで含めると、昼ご飯を食べる時間がなくなってしまう。だから流す曲も2曲と決まっていて、いつも石川と私が、それぞれ自分の好きな曲を1曲ずつ持ち寄ることにしている。働き方改革の波は、高校生の部活動にまで影響を及ぼしているのかもしれない。それでも、なんだかんだで片付けには時間がかかるため、放送当番である毎週火曜日は、残り10分でお弁当をかき込むタイムアタックをする羽目になっている。
石川が残ってくれていれば、もうちょっと早く戸締まりが終わるのかなあ。いっそ放送室でお昼ご飯を食べられたら、どれほど効率が良いか。松田先生が入部説明会で言っていたが、過去にスープジャーをぶちまけた奴がいたせいで飲食禁止になったらしい。顔も知らない先輩を恨みつつ、職員室に鍵を返して教室へと急ぐ。
その途中、廊下の向こうから歩いてくる見覚えのある顔とすれ違った。ついさっきまで放送室にいた石川である。その隣には、やけに声の大きな男子がいた。
「だーかーら、言ったじゃん〜」
「いや、お前が悪いから」
石川はその男子と、私が放送室では見たこともないような自然な笑顔で言葉を交わしている。こちらには気づいていないのか、視線すら交わさずに通り過ぎていった。
石川の隣を歩く奴は、髪をやや明るい茶色に染め、ワイシャツを第2ボタンまで開けている。右手だけをスラックスのポケットに突っ込み、左手には3分の1ほど中身の入ったスポーツドリンクを持っていた。石川って、ああいう奴と仲いいんだ。少し意外だった。
それをわざわざ言葉にして伝える気はない。ただ、毎週狭い放送室で顔を合わせるだけの彼と、もうちょっと仲良くなれたらいいな、なんて。私は通り過ぎた彼らの背中を少しだけ目で追い、また自分の教室へと歩みを急いだ。
すると、スカートのポケットに入れたスマホがブブッと鳴った。画面をつけると、放送部LINEからの通知が表示されていた。
『それ私のです。1-3まで持ってきてもらうことはできますか?』
どうやら見つけた人間が届けるところまで含めて「落とし物」らしい。通知を見なかったことにして、スマホの画面を暗転させる。貴重なお昼ご飯の時間を、これ以上削られるわけにはいかない。
廊下に吊るされた時計は12時30分を指している。昼休みは残り15分だ。お、今日はちょっとだけ早い。優秀だ。
放送部に入部したばかりの頃はもっと時間がかかっていて、何度かお昼ご飯を抜いていた。それを踏まえると、かなりの成長である。こめかみを流れる汗を拭いながら、自分の教室まで急ぐ。1年の頃は4階だったが、進級して3階になったので、ずいぶんと放送室からの移動が楽になった。しかも昇降口に近い南館である。
教室ガチャ成功だ。しかし6月だというのに、連日の酷暑のせいで廊下はサウナ状態。蒸し焼きにされてしまう。廊下にもクーラーの設置を必須化しましょう、教育委員会さん。なんてうだうだと考えながら、階段を上がる。CDもろくに買えない公立高校には、贅沢すぎる望みだった。
階段を上がった先に、目指していた2-2のクラス札が見える。クーラーを効かせるために、扉も窓も閉め切られている。ガラガラッと建て付けの悪い扉を開くと、異世界のような涼空間が私を迎えてくれた。
教室の1番奥にある掃除用具入れの前で、1人で座っていた女子と目が合う。彼女は控えめに手を振ってくれる。雲1つない青空によく似合う、眩しい笑顔。放送当番の終着点が彼女の机の前だと錯覚してしまうほど、彼女の見た目は整っている。私が前に来ると、彼女は大きな目をさらに見開き、形の良い歯を見せながら口を開いた。
「みさき、お疲れさま!今日も放送聞いてたよ!」
お弁当箱を小花柄の包みにしまいながら、涼花は今日もお決まりの言葉をかけてくる。木下涼花——これが彼女の名前だ。4月に進級したとき、周囲に知り合いがおらず焦っていた私に声をかけてくれて以来、ずっと一緒に行動している。
彼女への第一印象は「綺麗な子」だった。しかし、年の離れた弟の影響で、日曜日の朝は男児向けヒーローアニメを見るのが習慣らしく、やたらと詳しい。意外と天然で面白い子だ。そんな飾らない部分がいいなと思い、一緒にいるのは苦じゃなかった。まあ、いかにも男子が好きそうな要素モリモリの子だとは思うけれど。
対して私は、原田みさき。高校2年生、17歳。もちろん涼花も同じ17歳なのだが、なんだか埋められない差があると感じる日々だ。名前も結構ありふれているし、漢字の名字にひらがなの名前の組み合わせはアンバランスな気がする。下の名前にも何か漢字が欲しかったなと、テストの解答用紙に名前を記入するたびにぼんやりと思ってしまう。
「ありがと。2曲目がオルタンシアだったからテンション上がってた」
「あの曲いいよね!6月にぴったりな曲だと思う!」
「雨っぽい曲だもんね。こっちの空は見事に快晴だけど」
「今日もいい天気だもんねー」なんて他愛ない会話をしながら、自分のお弁当を引っ張り出す。
私のお弁当は、小学生の頃から使っているキャラクター柄の巾着に入っている。容器自体は大人が使うような二段のものに変えたが、それを包む袋だけは昔のままだ。大人になりきれてないなあ、なんて苦笑する。今度新しいのを買おう。
オルタンシアというのは、ある女性アイドルグループの名前だ。紫陽花をフランス語にした「Hortensia」に由来している。アイドルグループの名付け親というものは、よく辞書から小洒落た名前を拾ってくるものだ。しかし、どういう頭の構造をしていたら「紫陽花をフランス語にした名前をつけよう!」となるのだろう。天才である。
彼女たちは、紫陽花が土壌によって花の色を変えるように、少女たちの「心の移り変わり」や「成長のグラデーション」を表現することをコンセプトに掲げている。明るく元気なだけでなく、思春期の悩みや雨の日の憂鬱に寄り添うような、文学的で繊細な世界観が魅力だ。また、上から見ると1つの巨大な紫陽花に見える、円形を活かしたフォーメーションダンスを特徴としている。
結成当時はわずか12人だったグループも、激しいメンバーの入れ替わりを経て、もはや原型を留めていない。現在は1期生5人、2期生8人、3期生10人の総勢23人という大所帯だ。私は結成当初からグループを追っていて、当時はメンバー全員が好きだった。まだ「1期生」なんて呼び方をしなかった頃だ。
まさか2期、3期と追加メンバーが来るなんて夢にも思わず、2期生加入と同時にすっかり熱は冷めてしまった。もっとも、楽曲や公式YouTubeのチェックだけは、いまだに欠かしていなかった。
そんな中、2ヶ月前の4月。3期生の主軸メンバーである「そらたん」こと池田そらちゃんの顔がアップで映ったライブ映像の切り抜きが、6万いいねを超えるバズを記録した。そこから徐々に地上波での露出が増えた。それまではたまに深夜番組に呼ばれる程度だったのに、今ではゴールデンタイムの音楽番組にも出演している。
初期メンバーを愛していた身としては少し複雑だが、オルタンシアの名曲たちが世間に注目されるのは悪い気分ではない。むしろ今では、そらちゃんの芯の強い性格とほんわかした歌声のギャップの虜になっている。それが大衆受けしたのか、つい最近、そらたんは朝の情報番組のマンスリーコメンテーターに抜擢された。そらたんが出ているおかげか、番組のハッシュタグが毎日のようにトレンド入りしており、私も朝起きることが苦痛ではなくなった。
ずっとマンスリーコメンテーターをやっていてほしい。それなら毎日起きられるのに。
「あの歌詞いいよね!ほら!そらちゃんの、『息を呑んで、世界は色づいた〜』の部分!」
オルタンシアの活躍ぶりを振り返っていた私の思考は、涼花の穏やかな声によって遮られた。
「えっと、そうだね。サビ終わりだもん。あそこでちゃんと決めてくるそらたんは、さすがだよね」
「衣装も好き〜。ミュージックビデオの薄紫色のワンピースかわいい〜。裾がひらひらしていて!」
「MV衣装いいよね。『れつ旅』の衣装とちょっと似ていて良い」
「れつたび?」
聞き慣れない単語に、涼花は首をひねった。
「4thシングルのカップリング曲。ほら、テレビとかでよく流れるメインの曲、いわゆる『A面』は『青の色』。CDにはもう1曲、おまけみたいな立ち位置で収録されている曲があって、それを『カップリング曲』……昔の言葉で『B面』って呼ぶの。メインの陰に隠れがちなんだけど、実はファンに愛される神曲があったりするんだよ。その4thのB面に入っていたのが『鈍行列車で旅をしよう』。略して『れつ旅』。オルタンシアらしい爽やかさと切なさが詰まった、隠れた名曲だと思う」
4thシングルは、1期生だけで歌う最後のシングルだった。2期生加入前、擦り切れるほどMVを見て勇気をもらった、私にとっても特別な思い入れのある曲だ。センターに立った「ひらりん」こと片山ひらりは、デビューから4作連続でセンターを務め上げた、1期生の絶対的エースだった。しかし2期生が加入すると、彼女のポジションは大きく後方へと下げられてしまう。運営による冷遇が原因だったかは分からない。けれど、それから間もなく、ひらりんはグループを去っていった。
「そうなんだ!知らなかったよ〜!今度聞いてみる!」
「うん。MVはないんだけど、公式がダンス動画出してるから見てみて。衣装もそこで見られるから」
涼花は、そらたんのSNSでの万バズがきっかけでオルタンシアを知ったらしい。オルタンシアのファンを「Drop」と呼ぶが、涼花は紛れもなく新規のDropだ。それでも、その素直さゆえに憎めない。オルタンシアがきっかけで友達になれたし、そこには感謝している。
「そっか、ありがとう〜!」なんて言いながら次の授業の準備をはじめる涼花を横目に、ご飯をかき込む。休み時間はあと8分。お弁当を食べきるだけなら余裕だけど、今日も5限は移動教室だ。そろそろ片付けないと。
「そんなにご飯を口に詰めたらリスみたいだよ〜。かわいい」
涼花の言葉に愛想笑いを浮かべつつ、「目の前のあなたのほうがずっとかわいいのに」と心の中で密かに毒づく。
私がこの冷え切った教室で1人にならずに済んでいるのは、涼花がいるから。涼花がいてよかった。
……はず。
カンカンカンカン。踏切が通行人を急かすように鳴っている。昼食後の怒涛の睡魔に打ち勝ち、手に入れた放課後。嫌でも通らされる学校名物の急坂を、今日も涼花と並んで下りていく。脇に咲く紫陽花は青から紫へのグラデーションが鮮やかで、初夏の陽気によく映えていた。その坂を下りきると、この踏切に行き当たる。
登下校ラッシュの時間帯にはよく電車が往来するため、ここで足止めを食らうのがお決まりだ。登校時間ギリギリの生徒にとっては、ここで引っかかるかどうかが遅刻を左右する運命の分かれ道。生徒たちの間では「踏切ガチャ」なんて言われている。引っかからなかった日は成功、引っかかったら失敗。開催時間は朝のみ。
つまり、下校中の私たちはガチャに失敗して足止めを食らっているわけではない。それに、涼花と一緒に帰る時間が少し長くなるのは悪くない。
ぐらぐらと揺れる警戒色の棒から隣の涼花へ視線を移す。目が合うと、待ってましたとばかりに彼女は目元を和らげた。
「ねえ、みさきは、今年の海広祭は行くの?」
何かと思えば、海広祭か。それはこの地域で最も規模が大きい夏祭りだった。開催日は毎年8月20日。花火大会のような大掛かりな催しはなく、海広神社の参道に出店が並ぶ程度だが、数少ない地元のイベントとあって毎年それなりの賑わいを見せる。
もっとも、子どもの頃から出し物も変わっていないため、すっかり忘れていた。去年はオルタンシアのライブ生配信とかぶっていたからスルーしたんだったか。今年は日程が重複していないとはいえ、行くことなんてはなから考えてもいなかった。
「その予定はないけど」
「じゃあ一緒に行こうよ!」
こぼれ落ちそうなほど見開かれた瞳と視線が合う。涼花は満足そうに目を細めた。彼女の額を伝う汗がキラキラと輝いている。青葉を伝う滴のようだ。自分の額から流れる汗とは、まるで別物のようにさえ思えてしまう。
「え、2人で?」
「うん、もちろん」
そっか、2人で、か。この透明感あふれる美少女の夏祭りの思い出が、私なんかとのものになるのも悪くないかもしれない。
「うん、いいよ」
「やった、決まりね!浴衣買おうかなあ〜」
白い歯をきらりと見せると、涼花はご機嫌に鼻歌を歌い始めた。テンションの上昇が分かりやすすぎる。
まだ踏切が開かないと踏んだのか、彼女はスクールバッグのポケットからスマホを取り出して画面を点灯させた。ロック画面に浮かんでいるのは、私と初めて出かけた水族館で撮った、あざらしの寝顔の写真だった。彼女は慣れた手つきで、通販ショップ「ふりリル」を開いた。女子高生御用達のファストファッションブランドだが、私にはまったく縁のないサイトだ。
「どの色がいいと思う?」
涼花が見せてきた画面には、浴衣がずらりと並んでいた。
「ふりリルなら、絶対誰かと浴衣かぶるんじゃない?みんな買ってるじゃん」というネガティブな言葉を、喉の奥に押しとどめる。
「そうだね、なんでもいいんじゃない?」
自称進学校の鬼ダサ制服さえ衣装のように着こなす涼花なら、何色を着ても似合うに決まっている。これは紛れもない本心だ。それに、この手の質問は聞く前から本人の気持ちが固まっているのが常だ。彼女の好みに同調し、背中を押してあげればいい。
「じゃあ、これにしようかな」
涼花が再びスマホの画面を見せてきた。指差した先には、上品な薄紫色の浴衣が映っている。
「あ、それって……」
「うん!オルタンシアの衣装みたいでかわいいでしょ!」
紫——それはオルタンシアを象徴する色。なぜか無性に、胸の奥がざわつく。彼女が紫色を纏うと、そのまま手の届かない遠くへ行ってしまうような、得体の知れない不安を覚えたのだ。
「……紫は、ちょっと大人っぽすぎない?」
私は無意識のうちに、涼花が選んだ色を否定していた。
「え、そうかな?」
予想外だった私の回答に、涼花は目を丸くする。
「うん。夜のお祭りだと暗く沈んで見えちゃうかも。涼花はもっと明るい色のほうが似合うよ。ほら、隣にある……こっちの水色とか」
私が適当な理由をつけて水色の浴衣を指差すと、涼花は少し画面を見つめたあと、パッと表情を明るくした。
「あ、ほんとだ!水色も爽やかでかわいいかも!」
膝上丈のスカートから覗く、まっすぐ伸びた白い足を眺めながら、私は密かに安堵の息をつく。
「うん、いいじゃん。水色、絶対似合うと思うよ」
畳みかけるように、彼女と同じトーンで言葉を重ねる。これで涼花の浴衣の色は決まりだ。
ただのクラスメイトで、等身大の普通の女の子でいてほしい。それが私の身勝手なエゴであり、やがて自分自身を残酷に抉ることになるなんて、このときの私はまだ知る由もなかった。
「うん、水色にする!決まりね、ありがとう〜!」
別に大層なことは言っていないのだが、これだけ眩しい笑顔を向けられると悪い気はしない。
さて、自分は何を着ていけばいいのだろう。彼女と肩を並べられるなんて思っちゃいないが、少しでもマシに見える服があったかどうか。鮮やかな水色の浴衣を纏った彼女の隣に立てば、私の惨めさが嫌でも引き立つ。「やっぱりお祭りなんて行くべきじゃない」という弱気が頭をよぎる。
……いや、同じ制服で並んで歩いている今の時点で、とっくに公開処刑状態か。
そんなことを考えながら、自分もスマホをスカートのポケットから出して、いつものSNSアプリを開く。オルタンシア結成当初から使っているアカウントにログインする。スクロールするだけで次から次へと情報が流れてくるため、暇つぶしにはちょうどいい。この狭い液晶の中に、世界のすべてが詰まっているような錯覚に陥る。ただ眺めているだけで、何もかも知った気分になる。
満面の笑みを浮かべるそらたんのサムネイルとともに、動画アプリへの投稿を知らせるリンクが流れてくる。誰かが作った、来たるライブへ向けてのコール講座動画もある。
今日もそらたんがかわいくて平和だ、って……え?スクロールで通り過ぎた公式アカウントの投稿に慌てて戻る。
どこにいった。見つけられないので、最初にフォローしたオルタンシア公式アカウントを開く。1番上にピン留めされた投稿を見て、息を呑んだ。
「どうしたのー」なんて能天気な声で私のスマホを覗き込んでくる涼花も、画面の文字を読んで声を上げた。
「池田そら卒業と新メンバー募集オーディションのお知らせ!?」
なんで、どういうこと?そらたん、卒業するの?どうして?なんのために?
その投稿に貼られたリンクを押すと、公式サイトのお知らせに飛ばされる。そこには、池田そらの卒業と新メンバーオーディションを知らせる、事務的な声明文。そして、池田そらの「卒業します〜」といった、本人の言葉かどうかも分からないような無機質な文章が並べられていた。『卒業コンサートの日程はまた後日お知らせいたします』という一文と、6月9日 池田そら——という署名が見えた瞬間、すぐに元の公式アカウントの投稿に戻った。
すでにリプライ欄には120件の投稿が寄せられている。チャットボットっぽいものに混じって、そらちゃんの卒業を嘆く投稿が見える。目に留まったアカウントをタップすると、そらたん加入直後から推していると思われる人のページが表示された。最新の投稿が1番上に表示される仕様のようで、2分前に投稿されたばかりの一文が目に飛び込んできた。
『そんなの耐えられないよ。アイドルとして輝くそらたんが大好きだったのに』
1、2分おきに、そんな短文をぽつぽつと投稿し続けているようだ。
そうだよな。こんなにも推してた人がアイドルを辞めるなんて、信じられないよな。いつか来るって分かっていても、いざそのときが来ると頭が真っ白になってしまう。アイドルには卒業という儚さがあるから、輝いて見えるのかもしれない。
「そらちゃんかわいいのにねー。アイドル姿見れなくなるの、残念だしショックだなあ」
涼花が隣で、新メンバーオーディションには触れず、そらたんの卒業を悲しんでいる。そういうところが良い子だと思う。
「うん。そらたん、お芝居やりたいとはずっと言ってたからね」
「でもお芝居って、アイドルやりながらでもできるよね?」
「そこ突っ込まないで」と言いたくなるのを飲み込み、「まあね」と平静を装う。今それ言うか。涼花の優しさに感動したのに、ちょっとテンションが下がった。
本当はかなり辛い。だって、朝早く起きるモチベーションになるくらいには、そらたんが好きだったし。追加メンバーとして加入したそらたんは、とても良いアイドルだった。私は1期生がオルタンシアの完全体だと思っていたけど、3期生のそらたんは間違いなくオルタンシアだった。
なのに、なぜ?しかも勢いのあるこのタイミングで。マンスリーコメンテーターの仕事が決まったから?個人仕事とグループ活動の両立ができていなかったから?
本人の名前が署名された公式声明には、卒業の旨とファンへの感謝の言葉がつづられるだけで、卒業理由は語られていない。タイムラインには、ネットニュースの公式アカウントなど、少し影響力のあるアカウントの投稿ばかりが流れてくる。その合間に、相互フォローしているアカウントの投稿がちょこちょこ挟まっている。
相互フォローの中には1期生推しが多い。池田そらの卒業そのものより、新メンバーオーディションを卒業と同時期に開催することへの文句が目についた。違う、違う、違う。私が見たいのは、そらたんなんだよ。
肝心の、池田そらの卒業について純粋に書かれた投稿がうまく探せない。
「みさき?踏切開いたよ、行こう!」
画面には、そらたんの顔写真と卒業発表が載った、エンタメ系ニュースメディアの記事が映っている。そこから顔を上げると、涼花と視線が合った。やっと聞き慣れてきた、少し高めのゆったりとした声に、私は自分が踏切を待っていたことを思い出した。
まだ、そらたんが卒業する衝撃と新メンバーオーディションのことで頭がいっぱいだ。足元がふわふわする。空に浮かぶ雲を足場にしたら、こんな感じなのかな。
そらたんを本格的に応援していなくてよかった。意外と冷静で、ショックを受けていない自分を自嘲する。アイドルって、そういうものだから。スマホをポケットにしまい、彼女の後を追う。今年の夏は、少し鬱屈としたものになる予感がした。
涼花と別れ、家にたどり着くと、すぐに2階の自室へ向かい、部屋のドアを閉めた。スマホの画面をつけ、SNSアプリの検索窓に「池田そら 卒業」と入力する。表示された投稿一覧は、想像通りお祭り騒ぎだった。
2期生の熱愛報道や、会場の手配に不備があってイベントが中止になったときでさえ、こんなことにはならなかった。私はDrop界隈が持つ、女性アイドル界隈としては比較的穏やかな雰囲気が気に入っていた節もある。だが今では、このありさまだ。
池田そらの卒業タイミングへの不満、グループへの貢献ではなく自分のことしか考えていないという決めつけ、運営は引き止めなかったのかという批判。ネガティブな言葉であふれかえっていた。明らかな暴言やアンチコメントは、開示請求を恐れてか、一時期より静まった気がする。
だが、批判と誹謗中傷の境界線に漂うグレーゾーンの言葉たちは、いまもタイムラインに溢れかえっていた。結局のところ、それらも「匿名」という安全な場所から石を投げつける行為に変わりない。相手が反論できない場所で一方的に殴りかかるなんて、ただのいじめと同じだ。
雑踏をかき分けるようにしてタイムラインを一通りあさり、お腹いっぱいになったところで画面を閉じた。アイドル、とりわけ女性アイドルの寿命は短い。だからこそ、あんなにも眩く光るのだと思い知らされる。
いつか終わると分かっているものに惹かれるのは、ひとときの至福と引き換えに、やがて訪れる喪失の痛みを予約するようなものだ。アイドルを応援するという行為は、いわば幸福の前借りで、最後には必ず虚無というツケを払わされる、残酷な等価交換なのだ。
本格的にのめり込んでいたわけではないと、頭では分かっていたはずなのに。それでも無意識に目を奪われていた鮮烈な光が、手のひらの小さなブラックアウトと共に、静かに消滅した。
暑い。
本当に6月だろうか。うだるような暑さの中、2-2の教室を目指して階段を1段ずつ上る。暑い日に上る階段は、いつも以上に重力が強いのではないかと思う。誰か論文を書いて発表してほしい。
そろそろ目をつぶってでも、この教室にたどり着けるようになった気がする。そらたんの卒業発表から一夜明けたが、世界は特に何も変わっていない。
家から駅に向かう途中、商店街の角にあるパン屋さんの匂いも、少し傾いた電柱の角度も、隣の人と肩が触れ合うくらい混んでいる電車も、いつも通りだった。そらたんの卒業は、ありふれた情報の中の1つにすぎないのかもしれない。
やっとたどり着いた教室の扉を開け、真っ先に奥へ視線を向ける。
「あ、みさき、おはよ〜!」
そこにはいつも通り、涼花の姿があった。私の顔を見るなり、小さく体を揺らして無邪気に笑う。そらたんの卒業に触れてこないのは、彼女なりの優しさなのだろう。
世界があまりにもいつも通り動いていることに、どこか傷ついていた私に、その気遣いが沁み渡った。そらたんの卒業発表という大事件があっても、私の日常はちゃんとここにあった。
朝のホームルームが始まるまでの少しの時間、自席につきスマホを開く。SNSのアプリを立ち上げ、タイムラインを眺めた。親指で画面を下に引っ張ると、1回転する矢印が出現し、また新しい情報が流れてくる。
なかには、卒業理由が明かされていないことから、「運営と揉めたのでは」などと推測する投稿も混ざっていた。少し変な見出しをつけた、名前も聞いたことのないようなニュースサイトの記事も散見された。いくら好きなもののことだからといって、そういう不確かな情報に踊らされてヒートアップしすぎるのはよくない。
私は中学のとき、情報の授業でネットの正しい使い方を学んだが、ああいうのを見るたびに、全世代が学ぶべきだと心底思う。すぐにチャイムが鳴り響き、そそくさとスマホを片付ける。今日も長い1日がスタートした。
4時間目の授業が終わると、待ちに待った昼休みだ。教室内が一瞬にして活気づき、あちこちで机をくっつけ合う乾いた音が響き始める。自分の椅子を引きずって、列の1番後ろにある涼花の席へと移動した。
「みさきの今日のお弁当のおかず当てゲーム!」
はじまった。涼花はお弁当を自分で作っているらしく、中身が分かっているからワクワク感がないそうだ。だから、私のお弁当の中身を2人で予想してから開けることで、そのワクワク感を楽しんでいるらしい。
「今日はね、水曜日だからシューマイが入っていると思う!昨日の夜ご飯は餃子でしょ?そのタネの残りで包んだシューマイが2個入っていると思う!緑の豆が乗ったやつ」
ぱかりとお弁当箱を開けると、涼花の言うとおりシューマイが入っていた。が、1個だけである。
「1個だけだね」
口をぐーっと横に伸ばし、少し不満そうな顔で涼花がつぶやく。
「やっとみさきママの思考回路が読めてきたと思ったのになあ。まだ個数まで読むには時間がかかりそうだなあ」
「そんなにご飯を口に詰めたらリスみたいだよ〜」と、昨日と同じことを言って笑う涼花につられて、私も少しだけ口元を緩める。
そんなとき、いつもやけに声の大きいグループの1人が言った。
「池田そらがアイドル卒業するらしーぜ!」
うちの教室のサイズを知らないのか、その声は一瞬で教室の隅々まで響き渡った。
さっきまで涼花と繰り広げていた会話なんて、どこかへ吹き飛んでしまった。頭がフリーズし、それと同時に手も止まる。箸で掴みかけていたシューマイがお弁当箱の中に落ちた。
「見た見た、そらそらかわいいーのに」
そらそら?アイドルの池田そらって、他にもいるっけ?
小さなお弁当箱の中で横に傾いたシューマイをじっと見つめる。教室の真ん中に陣取る男子たちのほうは見ずに、思わず考えてしまう。
「そらたん、な」
「お前詳しいな、実はガチオタか!」
「ちげーし」
ああ、やっぱり。なんだよ、そらそらって。ちゃんと公式の呼び名があるんですけど。そんな馴れ馴れしく呼ばないでくれる?シューマイの頂点からこぼれたグリンピースを元に戻し、口に運ぼうとした。
「でも胸でけーよな」
は?
「おいやめろって!」
うるさい。不快で吐き気がする。お前らのそんな汚い言葉で、彼女を語らないでほしい。そらたんが、ただただかわいそうでならなかった。
それでも、男子たちの低俗な会話にハッとさせられた。そらたんの卒業は、画面の向こうの話ではなく、目の前にある現実なのだと。
クラスの誰も、彼らを咎めようとはしない。どれほど不快に思っていても、わざわざ悪目立ちしたくないからだ。正義感に溢れたヒーローなんて、現実に存在するはずもない。
もし注意でもすれば、「空気読めないやつ」というレッテルを貼られ、クラスで孤立するだけでなく、最悪SNSで晒される可能性だってある。今すぐではなくとも、もし将来何かの拍子で有名になれば、10年後でも20年後でも掘り返される。
1度発信されたものは、服にこびりつく埃のようなものだ。払っても落ちず、じわじわとまとわり続ける。世間的に正しいとされる発言も、そうでないものも、画像を付けられたり、一部を脚色されたりしながら残り続ける。影響力の大きい芸能人に限らず、一般人にだってよくあることだ。人としゃべるのが恐ろしいと思うくらいには。
「みさき?」
聞き慣れた声に顔を上げると、卵焼きを頬張る涼花と目が合う。自分の世界に入り込んで、あれこれ考えを巡らせていたことに気がついた。
「あ、いや、なんでもない」
慌てて視線を逸らす。ちょっと手持ち無沙汰になり、お弁当箱の中で転がったシューマイの体勢を立て直す。孤立したグリンピースをシューマイに乗っけて箸で掴む。口に運ぼうとしたところで、グリンピースだけこぼれてしまった。
すると、珍しく涼花が声を張って言う。
「あんな言い方ないよね。そらちゃんを好きな子がクラスにいて、聞いてる可能性だってあるのに。そういうの考えられないのかな」
——今それ言うの、まずいんじゃ。
グリンピースから目を離して顔を上げ、先ほどそらたんをネタに茶化していた男子グループを探す。が、教室を見渡しても、その姿は見当たらなかった。思わずほっと胸を撫で下ろす。
涼花はたまに危なっかしいことを言うから、ヒヤヒヤさせられる。同じクラスにそらたんのファンがいるかもしれない。その考えが頭をよぎったあと、私は言葉を選んで口を開いた。
「あ、普通にセクハラ発言だよね。本人がいたら訴えられるレベル」
そのとき、彼女の綺麗に整えられたアーチ眉がぴくりと動いたのを、私は見逃さなかった。なんかまずかっただろうか。
アイドルの卒業は、そらたん推しにとって深刻なことだから、あえて触れないようにしたのだが。この子の「許せる・許せない」の感覚がまだ掴みきれていない。1つ理解したと思えば、また1つ疑問を残していく。グリンピースは、なんとかお弁当箱の中に着地していた。
その次の火曜日。
放送当番の役目を終えて教室に戻り、リュックの中に手を突っ込んだ。ガサガサとお弁当箱を探していると、すでにお昼を食べ終えた涼花が前に回り込んで話しかけてきた。
「ねえ、今度『五月雨まで』を流してよ!」
「五月雨まで、知ってるんだ」
手元を見ずにお弁当を探り当て、袋の片紐をぐいっと引っ張る。すると、目の前にいつものキャラクターの柄が現れた。それから顔を上げて、涼花と目を合わせる。
「うん、知ってるよ!ひらりんの歌い出しがいいよね。『窓ガラスを伝う水滴を、指先でなぞっては数えていた〜♪』」
ご機嫌そうに、『五月雨まで』の歌い出しを歌い始める涼花。その素人の鼻歌は、なぜかピッチが完璧に合っていた。少し高めで透明感のある声が、ざわつく教室の中でもすっと耳に届き、思わずハッとさせられる。
涼花が本物のアイドルオーディションを受けたら、普通に受かったりして。なんて、無責任な妄想が頭をよぎるほどだ。
ひらりん。もう、その域までたどり着いたんだ。涼花はすごいスピードでオルタンシアの歴史をなぞっている。
ひらりん、元気かな。オルタンシア卒業と同時に芸能界を引退した彼女は今、何をしているのだろう。週刊誌には、IT企業の社長と結婚して子どもがいるだの、いろいろ書かれていたが、本人のSNSアカウントなどもないため、本当のところは分からない。
顔は涼花に向けたまま、視線を奥の壁掛け時計に移す。昼休みはあと10分ある。急いでお弁当を食べなければ。
「今日はなにかな〜」
お弁当箱を開けようとする私を、涼花が覗き込んでくる。私は彼女のほうを見ずに、ぱかりと蓋を開けた。
いつもならシューマイが入っているはずの場所に、冷凍食品の唐揚げが1個、どっしりと鎮座していた。
「唐揚げかあ」
涼花はうーんとうなりながら唐揚げを見つめる。涼花の読みも外れたのだろうか。あまりにもじっと見つめるので、思わず「食べる?」なんて言ってしまう。そんなに熱い視線を送られるなら、唐揚げだって、注目してくれる人に食べられたほうが本望だろう。
涼花は大きな目をさらに見開いたあと、にいっと笑う。真顔のときから目立つ涙袋が、さらにぷくりと大きく膨らんだ。
「いいの?ありがとう」
あーんと口を開けるかと思いきや、彼女は人差し指と中指で唐揚げをつまみ上げ、そのままポイと口の中に放り込んだ。食べさせてあげようと伸ばしかけていた私の箸先は、すっかりお役御免になり、虚しく空を切る。
そういうところだよ、涼花。こちらの用意した手順や計算なんてお構いなしに、いつも斜め上の行動で飛び出していく。一歩間違えれば、ただの「空気が読めない子」になりそうなのに、彼女のフィルターを通すと不思議と嫌味がなく、エンターテインメントに変わってしまうからズルい。
突然の危なっかしい発言にヒヤヒヤしたり、ペースを乱されて少しイラッとしたりすることもあるけれど、不快感の一歩手前でピタリと止まるのだ。退屈だった私の日常を軽々とひっかき回してくれる、この絶妙な塩梅がたまらなく面白い。結局のところ、私は彼女の予測不能な行動から目が離せなくなっている。
いけない。今日の5限は移動教室だ。早く食べ終わらなきゃ。涼花の奥にある壁掛け時計の長針は8を指し、昼休みがあと5分であることを示していた。



