「失礼します……」
恐る恐る発せられたその声は、ドアに付いたベルの軽やかな音でかき消された。一歩中に入った瞬間、あちこちから『いらっしゃいませ!』と声が飛んでくる。
「何名様ですか?」
「……えっと、一人です」
「一名様ですね。奥のお席へどうぞ」
明るい店員のお姉さんに席まで案内されると、店員さんはおすすめの料理を紹介してくれた。
「ご注文がお決まりの際はそちらのベルでお呼びください。ごゆっくりどうぞ」
去っていくのを見てから、メニューを開く前にずっとうつむいたままだった顔を上げた。
「……すごい」
天井から吊るされたペンダントライトから発せられる暖かいオレンジ色のライト。
木の温もりがそのまま伝わってくるようなテーブル。
壁際にところどころ鉢植えが置かれていて、床に大きな影を落としている観葉植物。
低い音で心地よく流れている大人の音楽。
Instagramで見ていた通り、洗練された空間。ずっと憧れだった。
……それに、初めて来たのに落ち着くなぁ……。
お店の空気を目一杯堪能してから、メニューを開いた。
いろんな洋食の写真が一面に広がる。Instagramで見たことがあるもの、見たことがないもの、どれもすべて美味しそうで、食べてみたくなる。
でも、ここに来たら最初はこれを食べよう、と決めていたのだ。
「……よし」
和花は深呼吸を一つすると、テーブルにのっていたベルを鳴らした。
「ご注文はお決まりですか?」
さっきの店員さんがやってくる。
「えっ、と……オムライス一つ、お願いします」
「……恐れ入りますが、もう一度お聞きしてもよろしいですか?」
「おむ、オムライス一つ、お願いします……」
「以上でよろしいですか?」
「はい。……よろしい、です」
「かしこまりました」
か、噛んだ……。
店員さんの姿が見えなくなってから、ため息をついた。本当に、緊張したし……!
メニューをたたんで元の場所に戻して、自己嫌悪とオムライスへの期待を抱えながら来るのを待つ。
両手を膝の上に揃えてぎゅっと握って、テーブルの角の方を見つめて。
それでも近くにいるほかのお客さんからの視線を感じる。
うぅ、帰りたい。来なければよかった……。
それからどれくらい経ったのかは分からなかった。長かったような短かったような。
視界の中に黒いパンプスが入ってきて、弾かれたように顔を上げた。視線の先には、大きくて美味しそうなオムライス。
「おまたせしました、オムライス一つです。熱いのでお気を付けてお召し上がりください」
店員さんはオムライスと伝票を置いて戻っていった。
和花はオムライスを覗き込んで、
「……わぁ」
立ち上るバターの香りと、甘酸っぱいケチャップの匂いが食欲をそそる。
きれいな黄色をした卵の上に描かれた赤色が、目にも鮮やかで美しい。
家でもオムライスは作ったことがあった。
でも、香りはともかく、見た目から違う。こんなにうまく包めたことはないし、こんなに美味しそうに作れたこともない。
スマホの画面の中で、Instagramでしか見ていなかったものが、今、目の前にある。
そうだ、写真撮ろう。食べる前、崩れていないうちに。
スマホを取り出して写真を撮る。そのあとも長いことオムライスと見つめ合っていたが、……やっぱり冷めないうちに食べないと。
「いただきます」
スプーンでチキンライスと卵、ケチャップをバランスよくすくって、そっと口に入れた。その瞬間。
――あったかい。
普段、作り置きをレンジで温めて食べるのとは違う。ちゃんと今作ってもらった料理なんだ。
家で食べる料理も好きだし、姉が届けてくれた食材を使った料理も美味しいと思う。でもこれはここでしか食べられない、ここでしか味わえないものだ。
「美味しい……」
スプーンを入れると卵が優しくほどけ、卵のまろやかなコクと少し酸味のきいたチキンライスが絶妙に混ざりあう。
鶏肉の旨味と玉ねぎの甘味が染み込んだご飯が口の中でほろりと広がって、心まで温めてくれるような感じ。
あっという間だった。スプーンが止まらなくて、夢中で食べ進め、気がつけば――
「ごちそうさまでした」
胸の前で手を揃えて、小さく言う。
だいぶ混んできていたみたいで和花は足早に席を立つ。普段よりもスムーズにお会計を済ませ、『ありがとうございました』の声に送られながら、お店から出た。
振り返って入口を見る。来たときは緊張していて見ていなかった。
――楽しかったな。
和花は誰にともなく微笑むと、軽い足取りで駅へと歩き出した。



