あの橋の下の暗がりに、『今』へ続く君を思う

「今日は帰らない。泉と瀬川に何も言ってないし、泉に仕事の話もしなきゃならないから」

 だから安心して家に帰れ、ということだろう。仁愛は俯き、

「まだ、帰りたくない。一緒にいたい」

 視界の端にある、直巳の右手の小指をつまんだ。直巳の指がぴくっと揺れて、

「もう遅い。いい子は帰る時間だ」

『いい子』——仁愛はその言葉を、『子供を管理する側にとって都合のいい子供のこと』と解釈している。

 物心がついた頃からずっと、いい子であろうと努力してきた。両親や学校の先生が言う『いい子』を、自分を思っての『いい』だと思っていたから。

 それが間違いだったと気づいてから、『いい子』という言葉は、仁愛にとって酷く苛立たしいものになった。

 何がいい子だ。それは言う側にとっての『いい』だろう。それをさも『お前のため』のように、と。

 今、直巳は仁愛にとっての『いい』を言っている。深夜に出歩くのは危ないから。お前の安全のために『いい子』でいろ、と。

「……わかった」

 仁愛は直巳の小指から手を離し、顔を上げた。

「いい子にするから、黙って帰ったりしないでよ」

 言うと、直巳は少し拍子抜けしたような顔をして、それからふっと、柔く微笑み、

「そんなことするわけないだろ。……そんなこと、俺にはできない」

 きっと、今、自分たちは同じ気持ちでいる。仁愛はそう確信しているが、そのことは絶対、口に出さない。直巳も言わない。何を選ぶか、もう決まっているから。

「じゃあ、また明日ね!」

 仁愛は踵を返して駆け出した。改札の右手、自分の家がある方へ。

「気ぃつけて帰れよ」

 背中にかかった直巳の言葉は、彼の名前を知った日と同じ。仁愛は振り返らずに、後ろへ手を振って応えた。

 振り返ったらきっと泣いてしまう。泣いたら立ち止まって、二度と歩き出せなくなってしまうから。

     *

 翌日——夏休み最終日。八月三十一日。

 仁愛は早朝に目覚め、昨夜遅くまでかけて完成させたお守りをカバンに入れて家を出る。