仁愛が言いながら手を出すと、男はキョトンとした顔でこちらを向き、「これ、教科書なのか」と呟いてページをめくった。
「学生がこんな上等なもん使うとは、豊かな時代になったな」
意味のわからないことを言ったきり沈黙。教科書を読み始めてしまう。
「ねえ、返してよ」
「無理だ。今読んでる」
「あんたが読んでもわかんないでしょ?」
「どうして?」
「それ、進学校向けの難しいやつだもん」
小さい頃、この辺りを通った時に、河川敷に建つブルーシートの小屋を横目に父が言った。
『あれは負け組だ。勉強も出世もできなくて、自分の足でどこにも行けないような連中』
父の言葉を信じているわけではない。けれどその時のイメージが残っていて、仁愛はよく考えずに言い放った。そして自分が発した言葉を聞いてから思う。
(これ、ダメなやつだ)
後悔が胸に広がるが、もう遅い。謝ろうかと口を開きかけ、これでいいじゃないかと思って閉じた。侮辱されて激昂した男が殴りかかってくるのも、また一つの結末。
しかし、
「俺は海軍学校の出だ。それなりの教養はある」
男はなんでもないことのように言うと、こちらを一瞥してまた教科書に視線を落とした。
「海、軍……? 自衛隊で働いてたのをクビになって、ここにいるってこと?」
「自衛? いや、海軍航空隊所属だ。クビにはなってない」
「えっ……」
彼は一体何を言っているのか。困惑する仁愛はふと、男の横に置かれたカーキ色の上着を見た。履いているズボンとセットアップらしいそれには、手縫いの日の丸がついている。
(もしかしてこの人……自分を旧日本軍の人だとして喋ってる?)
言われてみると、男の服装は、特攻隊が題材の映画で見たパイロットのものに似ている。——ただの『なりきり』なのか、それとも本気なのか。
(思い込みが激しいヤバい人とか……いや、そうだとしても、どうでもいいこと)
ふと、ざらざらした恐怖が湧き上がる。仁愛は頭を振ってそれを止め、「とにかく返して」と男の方へ。しゃがんで教科書に手を伸ばすと、男がヒョイっと教科書を掲げた。
「返してってば!」
仁愛はそれを捕まえようとするが、触れる間際で男が動かしてしまう。やけに反射神経がいい。
「学生がこんな上等なもん使うとは、豊かな時代になったな」
意味のわからないことを言ったきり沈黙。教科書を読み始めてしまう。
「ねえ、返してよ」
「無理だ。今読んでる」
「あんたが読んでもわかんないでしょ?」
「どうして?」
「それ、進学校向けの難しいやつだもん」
小さい頃、この辺りを通った時に、河川敷に建つブルーシートの小屋を横目に父が言った。
『あれは負け組だ。勉強も出世もできなくて、自分の足でどこにも行けないような連中』
父の言葉を信じているわけではない。けれどその時のイメージが残っていて、仁愛はよく考えずに言い放った。そして自分が発した言葉を聞いてから思う。
(これ、ダメなやつだ)
後悔が胸に広がるが、もう遅い。謝ろうかと口を開きかけ、これでいいじゃないかと思って閉じた。侮辱されて激昂した男が殴りかかってくるのも、また一つの結末。
しかし、
「俺は海軍学校の出だ。それなりの教養はある」
男はなんでもないことのように言うと、こちらを一瞥してまた教科書に視線を落とした。
「海、軍……? 自衛隊で働いてたのをクビになって、ここにいるってこと?」
「自衛? いや、海軍航空隊所属だ。クビにはなってない」
「えっ……」
彼は一体何を言っているのか。困惑する仁愛はふと、男の横に置かれたカーキ色の上着を見た。履いているズボンとセットアップらしいそれには、手縫いの日の丸がついている。
(もしかしてこの人……自分を旧日本軍の人だとして喋ってる?)
言われてみると、男の服装は、特攻隊が題材の映画で見たパイロットのものに似ている。——ただの『なりきり』なのか、それとも本気なのか。
(思い込みが激しいヤバい人とか……いや、そうだとしても、どうでもいいこと)
ふと、ざらざらした恐怖が湧き上がる。仁愛は頭を振ってそれを止め、「とにかく返して」と男の方へ。しゃがんで教科書に手を伸ばすと、男がヒョイっと教科書を掲げた。
「返してってば!」
仁愛はそれを捕まえようとするが、触れる間際で男が動かしてしまう。やけに反射神経がいい。
