あの橋の下の暗がりに、『今』へ続く君を思う

「それで、お父さんを殴ったのかい?」

 いつもの橋の下。釣竿を持った泉が、驚いた様子で振り向いた。隣に座る仁愛が「はい」と答えると、「意外だなぁ」と呟いて釣竿に向き直る。

「君は、そういう選択肢を持たない子だと思っていたよ」

 今日は橋の下に直巳の姿がなく、代わりとばかりに泉が釣りをしていた。直巳は仕事に行っているが、急遽手が足りなくなった部分の穴埋めのため、じきに帰って来るとのこと。

 それを聞いた仁愛が隣に座ると、泉が「昨日なんかあったのかい?」と尋ね、

「藤野くんってば、帰って来るなりキレまくっていてねぇ。『あのクソ親父』とか『娘に手を上げるとは何事だ』とか怒鳴って。瀬川くんなんか怖がっちゃって、ずっと小屋にこもっていたよ」

 そんなことを言われては話さないわけにいかず、仁愛は昨夜の出来事を語り、現在に至る。

「あたしだって、怒るときは怒ります」

 仁愛がブスッとして答えると、泉は「『怒るとき』があったんだね」と微笑んだ。

「そのあとは大丈夫だったのかい? お父さんがもっと怒ったりしなかった?」
「あたしもそれ警戒してたんですけど、なんかボケッとして、黙って荷物持って出て行きました」
「あー……相手が反撃して来ないと踏んで、大きく出ていたタイプかな」
「だと思います。いつも偉そうにしてるくせに、年上とか目上の人が相手だといつもペコペコしてるんで」
「なんだか……こう言っちゃ悪いけど、かっこ悪いねぇ」
「泉さんは昔、そういう時はなかったんですか?」
「僕はもう、若い頃からブイブイいわせてたから。敬うに値しない相手と思ったら、上司相手でもブイブイって感じ」

 仁愛が「ブイブイ……」と呟くと、泉は「ふふっ」と笑ってリールを巻く。

「君はブイブイしない子だと思っていたんだけど、あれかな。藤野くんのがうつったかな」

 どこか茶化すような泉の問いに、仁愛は「そうかもしれません」と返す。泉が意外そうにこちらを見た。

「てっきり、『違う』って言うと思ったよ」
「正直、あいつに影響されてるとかちょっと微妙ですけど……事実として、影響されてると思うんです。いい方向に」
「ふふっ。お父さんを殴ることが『いい方向』なのかい?」
「それは、まあ……暴力は良くないんですけど……」

 仁愛はなんとなく後ろ頭を掻き、

「なんかこう、世界のコントラストがついてきたというか……全部がどうでもいいくだらないものに見えてたのが、大切なものとそうじゃないものの区別がつくようになった感じです」