あの橋の下の暗がりに、『今』へ続く君を思う

 直巳が膝に頬杖をついて、いたずらっ子のような顔で尋ねてくる。しんみりするのは終わり。いつも通りでいろ、ということか。

「今日はサボってないよ。午前中行ってた」

 仁愛は横に置いたカバンを開き、塾で使った化学の問題集を取り出した。なぜかすごく勉強をしたい気分。

(行きたい大学も、就きたい職業も、今はない。でも、勉強しとけば、見つかった時に選べる道が増える。……あたしも、ちゃんと選ぶ)

 問題集を開き、シャーペンを持つ。直巳が「こんなとこで勉強するのか?」と怪訝そうに問題集を覗き込み、

「……なんだこれ。英語……の、図?」

 仁愛が「ボルタ電池だよ」と答えると、直巳は「ほう……?」と言って首を傾げた。

     *

「なあ、この四角はなんだ?」
「電極。こっちが亜鉛で、こっちが銅」
「この線のとこに書いてあるeは?」
「電子。亜鉛と銅だと亜鉛の方がイオン化傾向が高いから、マイナス電荷の電子がこう流れて、電流はその逆」
「へえ。この線は、水に浸してるってことか?」
「水じゃなくて硫酸。電離した水素が、銅の方に流れた電子を受け取るの」
「じゃあ、亜鉛の電子がなくなったらこの電池はどうなるんだ?」
「使えなくなる」

 指先で問題集を指していた直巳が、感心した様子で「ほう」と言って腕組みをした。勉強を始めてみたものの、なぜか直巳があれこれ質問をしてきて、仁愛はそれに答えることになっている。

「お前は化学の大学に行くのか?」
「ううん。進学先はまだ決めてない」
「じゃあなんでこれやってんだ?」
「? なんでって……高校生はみんなやるよ」
「こんな難しいもんみんなやるのか!?」

 直巳が「すごい時代になったもんだな……」と独りごち、「俺には無理だ」と橋の裏を見上げた。

 ——しかし、

「なあ仁愛。このAはなんだ?」
「アンペア。電流の単位だよ」
「ふうん。じゃあ、このFは?」
「ファラデー定数」
「なんだそれ」
「電子一モル当たりの電気量」
「『モル』ってなんだ?」
「粒子がアボガドロ定数個集まったのが一モル。『ダース』みたいな感じ」
「アボ、バ……定数?」

 直巳はずっとこの調子。仁愛の問題集を覗き込んで質問する様はどこか楽しげ。

(本当は勉強が好き、とかかな。そういえば、日本史の教科書、太平洋戦争のところだけじゃなくて全部読んでたみたいだし)

「あんた、化学に興味あるの?」

 尋ねると、直巳は「いや?」と言って問題集から顔を上げた。

「特にこれに興味があるってわけじゃないが、知らないことを知るのは楽しい」

 そう言って笑う彼の頬を、赤く色づき出した夕日が照らす。仁愛はふと、今日明日と両親がいないことを思い出し、

「じゃあ、うち来る? 化学だけじゃなくて、いろんな科目のテキストあるよ。図鑑とか、小説も」

 直巳が「へ?」と疑問符を浮かべる。仁愛は問題集をカバンにしまって立ち上がり、「行こう」と言って歩き出した。