あの橋の下の暗がりで、『今』に続く君を思う

 朝、登校してすぐに、仁愛(にいな)は教室の後ろの自分のロッカーを開けた。

(やっぱり、ない)

 一時間目は日本史の授業。朝から部屋中を探しても教科書が見当たらず、一縷の望みに賭けてロッカーを開いたが、ここにもない。

(昨日使って、帰りにカバンに入れたのは覚えてる。バイトに行ってからはカバン開けてないから……)

 昨日の行動を振り返り、ため息を一つ。

 昨夜、家に帰ってからカバンが開いていることに気がついた。依茉との待ち合わせに向かう途中、汗を拭くハンカチを取り出した時にそのままにしたのだと思う。

 そのことを踏まえて、教科書を紛失したタイミングを考えると、

「やっぱり、橋の下に落として来たか……」

 ホームレスの男の形相に怯えてカバンを落とした時。その時に飛び出したのに気づかなかった以外、考え得る可能性はない。

「でも、流石にまたあそこに行くのは……」

 独りごち、がっくりと肩を落とす。一時間目の始業のチャイムが鳴った。

     *

 仁愛のクラスの日本史の担当は、クラス担任の佐藤だ。二十代半ば、品行方正な焦茶色の長髪の、穏やかで人の良さそうな顔つきの女性教諭。

梛木(なぎ)さん、教科書はどうしたの?」

 授業開始早々、佐藤は仁愛の机を見て尋ねた。

「……忘れました」
「ダメじゃない。二年生は中弛みの学年って言われるけど、あなたたちは弛んでる場合じゃないのよ。大学受験があるんだから」
「……すみません」
「人生で、今はとても大切な時期なんだから、気をつけてね」

 佐藤は言うと、「では、教科書の八十四ページを開いてください」と皆に言って黒板を向いた。

「今日は日露戦争の終わりから——」

 彼女の声に隠れて、周囲からクスクスと抑えた笑い声が響く。