あらら、と笑う泉は、『転んじゃったのかな』と言いながら、仁愛を『落ち着いている』とも言った。落ち着いていると思う相手が転んで顔に傷を作ると考えるのはおかしな話で、ではどちらの言葉が嘘なのかと言えば、おそらく前者。
「そうだ。私がどうしてここで暮らしているか、話していなかったね」
そう続ける彼は、仁愛が頬の湿布の説明を躊躇ったことを察して、話題を自分の方へ持っていこうとしているのか。
「遡ること、五年。私は勤めていた会社の出世競争で大敗北をしてね」
泉の真意はわからない。言葉にしていないから。しかし仁愛は、彼の言動の端々に確かな温かさを感じる。これまでかけられた「お前のため」と前置きをした言葉の、どれとも違う。
「もう、大変だったよ。同期に嵌められた形でね、会社の大損害を私の責任にされてしまった」
「えっ……それで、どうしたんですか?」
「降格と減給だよ。元々……まあ、大きい会社の上の方にいたから、それで生活に困るってことはなかったけれど、妻が愛想をつかせて出て行ってしまった」
「愛想って、それだけで? 実際は泉さん、悪くないんですよね?」
「まあ、そうなんだけど。私は昔から仕事ばかりしていて、家庭のことを省みることがなかったから……妻とも娘とも、こういう時に寄り添ってもらえるような人間関係を築けていなかった」
深刻な顔をする仁愛に、泉は「そんな大変な話ではないよ」と言ってヘラっと笑う。
「会社のことがなくても、いつか私たちは離れていたと思う。全部私自身が蒔いた種さ」
「でも……」
「それでまあ、全部どうでも良くなってしまって、会社を辞めてここで暮らし始めたってわけ」
仁愛は「へえ」と頷きかけ、「……え、いや、そこそんなダイレクトに繋がるんですか!?」ギョッとして隣を見ると、泉がいたずらっ子のような笑みを浮かべている。
「ふふっ、私は若い頃から行動力があるタイプでね」
「いや、でも……嵌められた時の何かで借金がーとか、そういう事情は、なく?」
「うん。会社に辞表を出して、家を妻名義にして、その足でここへ来た形」
あっけらかんとした顔で言う泉に、仁愛は思う。——彼は『悪いオオカミ』ではないが、『変わった人』ではあるらしい。
「えー……」
仁愛が反応に困っていると、泉はまた「ふふっ」と笑ってお茶を飲み、
「会社での色々には憤ったものだけどね、今はここに来て良かったと思っているよ。なんというか……自分が『人生』だと思っていたものがいかに小さな世界の常識だったのか、知ることができた」
ペットボトルの蓋を閉めながら、「そんな形で」と続ける。
「今の私は、あの世界の外側にいる。だからね、そんな丁寧語など使わなくていいよ。ここには年功序列も何もない。君が敬いたいと思う人だけ敬えばいい」
つまり彼は、ここに『自由』を見出しているのだろう。毎日同じ時間に目覚めて、同じ場所に行き、常識が「敬え」と言うものを敬い、「耐えろ」と言われたら耐え、また同じ時間に家に帰る。——そういうもののない世界。
「……でも、なんだかあたしが落ち着かないんで、このままで……」
仁愛が言うと、泉は「それもまた、君の『自由』だね」と微笑んだ。その言動に仁愛は「お父さんも年取ったらこうなるのかな」と思い、いや、無理だろうと内心で否定する。
ここで暮らす人は、一般的な社会の目で見れば『負け犬』なのかもしれない。しかし、少なくとも、泉と比べれば父の方こそ『負け犬』だ。
「そうだ。私がどうしてここで暮らしているか、話していなかったね」
そう続ける彼は、仁愛が頬の湿布の説明を躊躇ったことを察して、話題を自分の方へ持っていこうとしているのか。
「遡ること、五年。私は勤めていた会社の出世競争で大敗北をしてね」
泉の真意はわからない。言葉にしていないから。しかし仁愛は、彼の言動の端々に確かな温かさを感じる。これまでかけられた「お前のため」と前置きをした言葉の、どれとも違う。
「もう、大変だったよ。同期に嵌められた形でね、会社の大損害を私の責任にされてしまった」
「えっ……それで、どうしたんですか?」
「降格と減給だよ。元々……まあ、大きい会社の上の方にいたから、それで生活に困るってことはなかったけれど、妻が愛想をつかせて出て行ってしまった」
「愛想って、それだけで? 実際は泉さん、悪くないんですよね?」
「まあ、そうなんだけど。私は昔から仕事ばかりしていて、家庭のことを省みることがなかったから……妻とも娘とも、こういう時に寄り添ってもらえるような人間関係を築けていなかった」
深刻な顔をする仁愛に、泉は「そんな大変な話ではないよ」と言ってヘラっと笑う。
「会社のことがなくても、いつか私たちは離れていたと思う。全部私自身が蒔いた種さ」
「でも……」
「それでまあ、全部どうでも良くなってしまって、会社を辞めてここで暮らし始めたってわけ」
仁愛は「へえ」と頷きかけ、「……え、いや、そこそんなダイレクトに繋がるんですか!?」ギョッとして隣を見ると、泉がいたずらっ子のような笑みを浮かべている。
「ふふっ、私は若い頃から行動力があるタイプでね」
「いや、でも……嵌められた時の何かで借金がーとか、そういう事情は、なく?」
「うん。会社に辞表を出して、家を妻名義にして、その足でここへ来た形」
あっけらかんとした顔で言う泉に、仁愛は思う。——彼は『悪いオオカミ』ではないが、『変わった人』ではあるらしい。
「えー……」
仁愛が反応に困っていると、泉はまた「ふふっ」と笑ってお茶を飲み、
「会社での色々には憤ったものだけどね、今はここに来て良かったと思っているよ。なんというか……自分が『人生』だと思っていたものがいかに小さな世界の常識だったのか、知ることができた」
ペットボトルの蓋を閉めながら、「そんな形で」と続ける。
「今の私は、あの世界の外側にいる。だからね、そんな丁寧語など使わなくていいよ。ここには年功序列も何もない。君が敬いたいと思う人だけ敬えばいい」
つまり彼は、ここに『自由』を見出しているのだろう。毎日同じ時間に目覚めて、同じ場所に行き、常識が「敬え」と言うものを敬い、「耐えろ」と言われたら耐え、また同じ時間に家に帰る。——そういうもののない世界。
「……でも、なんだかあたしが落ち着かないんで、このままで……」
仁愛が言うと、泉は「それもまた、君の『自由』だね」と微笑んだ。その言動に仁愛は「お父さんも年取ったらこうなるのかな」と思い、いや、無理だろうと内心で否定する。
ここで暮らす人は、一般的な社会の目で見れば『負け犬』なのかもしれない。しかし、少なくとも、泉と比べれば父の方こそ『負け犬』だ。
