あの橋の下の暗がりで、『今』に続く君を思う

 一昨日も彼はそうだった。蹴り付けられて、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる若者たちに囲まれながら、危機感皆無のボサっとした顔をしている。

(映画に出てくる旧日本軍の人は、ちょっとしたことで怒ったり、相手を殴ったりしてる。お父さんみたい。……自分はその時代の人って設定だから、あのリアクションなのかな)

 それにしては、母のような演技感がまるでない。本当に取るに足らないこと——慣れた日常の一ページがそこにあるかのように、大和を見上げている。

(演技を極めれば、自分まで騙せるってことかな。……あたしも優等生を演じ続けてたら、自分はいい大学に行っていい会社に就職することを強く望んでる、って自分を騙せたのかな)

 男がのそっと立ち上がった。

「また来たのか……一昨日相手してやったばっかだろ。お前ら暇なのか?」

 ボリボリと後ろ頭を掻く男へ、大和が右ストレートを放つ。男がそれをひょいと避けて、大和が顔を顰める。

「そのお礼参りに決まってんだろ、記憶力ゴミか!」
「なんだそれ……俺もだいぶ殴られたぞ。おあいこだ」
「ものの程度の差もわかんねえとか、さすが社会のゴミだな!」

 大和が拳を放ち、男が避ける。大和が蹴りを放ち、男が避けて、勢い余った大和が転びそうになる。慌てて踏み留まったところに周囲から失笑。

「なんだよ大和、俺たちの仇取ってくれるんじゃないのか?」

 傍観していた一人が茶化すように言って、大和が「うるせえ!」と叫んだ。ギリッと奥歯を噛み締める。

 ふと、彼が何かに気づいた様子でこちらを向いた。握り締めていた拳を開き、「おお、仁愛じゃん」と意地の悪い笑みを浮かべる。

「やっぱりいい子ちゃんができなかったから、戻って来たのか?」

 仁愛は彼らから少し離れたところで立ち止まり、男へ向けて手を出した。

「教科書、返して」

 男が怪訝そうに片眉を上げ、「お前はビビリなのか? 肝座ってんのか?」と尋ねる。大和の「おい、仁愛!」と苛立った声。

「一昨日さっさと逃げて、その上俺を無視とか、随分な態度だな」

 鋭い彼の声色に、仁愛は恐怖が背筋を這い上がるのを感じる。今すぐ謝って逃げ出したいのを堪え、「返して」と繰り返した。

 梛木(なぎ)仁愛はビビリなのか、肝が据わっているのか——その問いの答えは『イエス』で『ノー』だ。

 ずっと、体の中に相反する二つのものが居座っている。逃げたいけれど逃げたくない。全てを投げ捨てたいけれど縋り付いていたい。