あの橋の下の暗がりに、『今』へ続く君を思う

 清水は仁愛の部屋に入ると、「素敵なお部屋ね」と室内を一望した。仁愛がローテーブルの横に座布団を置くと、「ありがとう」と言って座り、カバンを開く。

「お茶、入れてきます」

 仁愛が慌てて部屋を出ると、「ご丁寧にありがとう」と清水の声が背中にかかった。

 それから仁愛がお茶を持って戻り、二人で一息ついたところで、

「うちには不思議な逸話があってね」

 清水が穏やかな声で話し出した。

 それは太平洋戦争の終わり頃。遠い戦地にいるはずの直巳が、ある日突然帰ってきた。彼は慌てた様子で玄関を入るや否や、

『さっさと田舎に引っ越せぇ!』

 ——何の脈絡もなく、唐突に叫んだという。さらに、近隣を駆け回って同じことをした。奇異の目を向けられたことは言うまでもない。

「戦地で何かあって、おかしくなってしまったのでは、なんて言う人もいたそうなの」
「へ、へえ……」
「でも、直巳さんは昔から喧嘩っ早いけど聡明で、野生動物のように勘が鋭かったから、藤野家はみんなで山間の知人の家に行くことにしたそうなの」

 その数日後にあったのが、東京大空襲。日本史の教科書では数行に収められているその日、一夜にして約十万人が焼死した。

(あれかな。『空襲がある』なんて言ったらアメリカ軍と繋がってるとか言われそうだから、『都会は危ない』って方向で伝えたのかな。……それにしても、もう少しこう、丁寧な説明とか……まあ、直巳には無理か)

 ともあれ、藤野家は空襲の難を逃れた。

 直巳はあちこちに『引っ越せ』と言って回った後、家に戻ってくると、ものすごい勢いで手紙を書き始めた。書き上げると、持っていた品と一緒に箱に詰めて家族に渡し、

『八十年後の九月一日、中の手紙をこの住所に届けろ。絶対に、この日きっかりだ。早くても遅くてもダメだ。絶対だぞ! あと開けたりすんなよ! 恥ずかしいから!』

 そう言い残して戦地へ戻って行った。

「もう何が何だかさっぱりで、家族はみんな半信半疑だったそうなのだけど、妹の梅子がその箱を受け継いだの。中の品は遺品として靖国神社に寄贈して——」

 清水はそこまで話し、カバンから取り出した封筒を仁愛に差し出した。

 とても古い、黄ばんだ封筒。表に『梛木仁愛様』と書かれている。靖国神社で見た直巳の日記の字に似ているが、あれより丁寧で、繋がっている箇所が少ないから読みやすい。

「昔の話だから、伝わる内に尾ひれがついたと思う。空襲を予見したような言動はおかしいし、八十年後に手紙をっていうのも不思議」

 仁愛は手紙を受け取り、中の便箋をそっと取り出した。

「でも、手紙は確かにここにある。藤野直巳は実在した。だから届けなきゃと思ってね、今日、ここに来た次第なの」

 年齢的に、清水は戦後の混乱が収まった後の生まれだ。戦争を知らない。仁愛ほどではないが、彼女にとっても、あの戦争は遠い昔のこと。

 それでも彼女はここへ来た。過去からの手紙を携えて。

「読んでも、いいですか?」

 仁愛が尋ねると、清水は「もちろんよ。あなた宛ての手紙だもの」と微笑んだ。仁愛は便箋を開く。