「……お疲れ」
「お疲れ様です、先輩。お時間作ってもらってすみません」
「いや、全然、寧ろ今までごめん」
西宮の予定を聞いて、無理を言って、夜遅くになってしまったけれど、俺の家まで来てもらった。
最後ならちゃんと顔を見て話したかったから。
これまでの感謝と、俺の気持ちをちゃんと、顔を見て伝えたかった。
けれど、失敗だったかもしれないと、西宮の顔を見て早々に後悔する。
久々に見た西宮は日に焼けていて、眩しくて、声を聞くと、その存在を傍に感じると、やっぱりどうしても好きで。
別れるなんて嫌だと、綺麗に終わりたい気持ちに反して、今すぐここで崩れ落ちて、泣き出しそうな気持ちだった。
「先輩、痩せましたね」
「……そうか?お前は日に焼けたな」
「へへ」
どうやって会話してたっけ、と思っていたら、西宮が話しかけてくれて、だからほんの少しだけ、いつも通りで。
大好きな西宮がここに居て、大好きな西宮の声がして、大好きな西宮の笑顔を見せてくれていて、それなのに、その左手の薬指に、指輪が無いことに気が付いて、だから、もう、だめだった。
「……別れたくない」
「……へ」
「ごめん、俺、別れたくない」
絞り出した声は、思っていたよりも静かだった。
西宮の姿を目に焼き付けておきたいのに、視界が滲んで、涙が溢れて。
情けなくて、恥ずかしくて、雑に拭うのに止まらなくて、結局頬を次々と濡らす。
「先輩」
「ごめん、本当にごめん。全然会えてなくて、ごめん。連絡も全然で、ごめん。でも、わか……いや、ごめん。全部ごめん、なし。あの……好き、になってくれて、ありがとう」
「……な、」
「好きになって、大切にしてくれてありがとう。俺、本当に幸せだった。人を好きになるって、こういうことなんだって初めて知った。不甲斐なくて、俺がお前を幸せにするって言ったのに、全然できてなくてごめん。でも、本当に、本当に愛してた。それだけは信じて、お願い」
頭を下げて、最後のお願いをする。
こんなお願いが一番情けないと思いながらも、でも西宮を忘れていたから放置していたのではないということを、ちゃんと伝えておきたかった。
ずっとお前を愛してた。
これからも多分、ずっと忘れられないと思う。
それ程大切な日々だった。
俺の一番幸せな日々だった。
頭を上げると、襟元を広げて、その奥でずっと大切にしていた物に触れる。
インターン中もずっと、ずっとそこにあった物。
西宮が作ってくれた、俺用の、大切な指輪。
ネックレスにしてずっと身に付けていたそれを、強く引くとチェーンが切れて、離れていく。
急に首元が寒くなったように感じて、ほんの少しだけ笑うと、その指輪を西宮に差し出した。
「持っとかれてもキモいだろうし、渡す。後は……カメラのデータとかも、ちゃんと消すし安心して」
「な、何言ってるんですか……?」
「何って」
「何言ってるんですか!?」
「っ」
西宮の声の圧で、空気がビリビリと振動する。
殴られてなんていないのに、殴られたくらいの衝撃があって、キツく目を閉じた。
「全っ然、意味が……分からないです、何言ってるんですか……?愛してた、って、なん、で、なんで、過去形、なんですか」
震えた西宮の声がして、目を開ければ、西宮が泣いていて。
差し出していた手を引いて、その中にある指輪を見た。
どうしても肌身離さず持っていたくて、チェーンまで買って、ずっと身に付けていた指輪。
それが西宮の指にはもう無くて、だから終わらせるつもりで来たのだと、確信していた。
だから、過去形で何故怒るのか分からない。
今でも愛していると縋り付く俺を、思い切り振りたかったのだろうか。
いや、西宮はそんな奴じゃない。
なら、何故。
「……西宮」
「俺……俺、今日、会えるの楽しみに……なんで。インターンで、好きな人でも、できましたか」
「……は」
「別れたくないとか、ありがとうとか、なんですか。おん、なの人が、やっぱりいいんですか……」
「……は?」
西宮の発言に、俺の涙が引いて、西宮の涙が更に溢れている。
好きな人ってなんだよそれ。
女の人って、なんだよそれ。
歩み寄れば同じだけ引かれて、胸に痛みが突き刺さる。
そうやって逃げられる程に、俺は、お前は。
「俺、先輩が教えてくれたこと、いろいろ調べてみようとして。インターン先のことも調べたら、最新の画像が出てきました。女の人と、楽しそうに話してる先輩が、写ってました」
「は……?」
「後ろ姿だった、けど。あれは先輩だって、直ぐに分かりました。それからずっと、その画像が頭から離れなくて……先輩、別れたくないは、こ、こっちのセリフです」
「は……お前……今日、別れ話しにきたんじゃないのか」
「……へ?」
ボロボロ泣いている西宮と、ようやく目が合う。
西宮は今、別れたくないと言った。
それなら俺は、もうブレる理由がない。
「西宮」
「……はい」
ソファに座って、お茶を飲む西宮の隣で、俺も気を落ち着けて座る。
西宮はもう逃げなかったけれど、その目は不安そうにずっと揺れていた。
「ちゃんと順番に話す」
「……はい」
西宮は目が合わないまま、頷いて。
それでもいいからと、俺は口を開く。
「俺はインターンで忙しくて、全然西宮と会えてなかったから、もう愛想を尽かされて、別れ話をされにきたんだと思った」
「……違います。嬉しいことがあって、どうしても伝えたくて」
「……ごめん」
西宮は泣き疲れたのか、少しぼーっとした様子でもあった。
だから覗き込むように顔を見れば、目が合う。
「……西宮、指輪は?」
「……へ……あっ」
そこでようやく、はっきりと目が合う。
西宮の目が覚めた、の方が近いかもしれない。
慌てた様子で西宮がカバンを探ると、その中から巾着を出してきて、更にその中からケースが出てきて。
「失くさないように、外を出歩く時は外していて。今日は先輩に会えるからカバンに入れてきたのに……忘れてました」
「……別れるため、じゃないのか」
「……怒りますよ。って、もう怒ってますけど。違います。でも誤解させてごめんなさい」
西宮は左手の薬指に指輪を嵌めて、頭を下げる。
謝るのはお前じゃない、と頭を上げさせると、また目が合わなくなった。
「西宮の言う女の人、が誰か分からないけど、分からないくらいには、誰のことも記憶にないよ」
「……でも」
「ありえないんだよ、西宮。俺……も、男だから、西宮と会えない間、その。一人で処理、もしたけど」
「……」
「女の人じゃ抜けなかった、って言えば分かるか。俺、本当に……反応しなくなってた」
「……へ」
若干戸惑って、焦りもしたこと。
さっさと処理して寝たいのに、何を見ても全然反応しなくて、本気で病院を考えた。
けれどその前に、一応、念の為、その。
「でも西宮に似てる人なら……って、ごめん」
そんな報告キモいよな、と引き下がると、西宮は耳を赤くさせているから、何を言おうとしたのかは伝わったようで。
それからもう一つ、伝えておきたいことがある。
伝えておかなくちゃいけない。
会えなかったこの期間のことを。
「ずっと寂しかった。会いたかった。声が聞きたかった。触れたかった。抱き締めたかった。でも、俺のせいで会えてないのに、俺が言うのはおかしいだろと思って、全然連絡できてなかった、ごめん」
「……」
「会う日ドタキャンしたのも、本当にごめん。俺のせいなのに、俺、ずっと西宮が足りなかった」
「……」
眉を寄せて、堪えている様子で、けれど涙が溢れている西宮。
こんな顔を、させてしまうなんて。
西宮の左手に触れると、そこにある指輪を撫でる。
「寂しい思いさせてごめん。会えなくてごめん。話せなくてごめん。傍に居なくて、ごめん。今日、別れ話なんだと思って言った言葉で、傷付けてごめん。愛してたって過去形で言ったのは、西宮の負担になりたくなくて、なるべく西宮が望む形で、綺麗に別れてやるつもりだったから。全然できてなかった、けど」
「……」
西宮は、変わらず泣いている。
傍に居なくてごめんと言った時、西宮が痛そうな顔をしていた。
西宮も俺が居なくて寂しいと思ってくれていたのだと、自惚れても、良いのだろうか。
「今も愛してる。ずっと会いたかった。本当にごめん」
「……俺も、会いたかったです。先輩がインターンに集中できるように、メッセージも控えてたけど、送ればよかった……です」
「西宮のは、ちゃんと気遣いだって分かってた。俺が勝手にブレただけ。ごめん」
頭を下げると、西宮がソファから立ち上がって、どこかへ行く。
このタイミングで一体どこへ、と頭を上げれば、西宮は俺がテーブルに置いた、俺の指輪を取ってきて。
「指輪、ずっと身に付けていてくれたんですね」
「……うん」
「……俺、受け取らなくていいですよね?」
「……うん。本当にごめん」
頷けば、西宮が俺の足元に跪いて、俺の左手を取って、その薬指に、指輪を嵌めてくれる。
ようやく二人共、揃いの指輪が、揃いの指に嵌って、静かに息を吐いた。
「俺、まだ先輩の恋人でいてもいいですか」
「……うん、西宮がいい」
「……俺も、先輩じゃなきゃ嫌です」
「うん。ごめん」
立ち上がった西宮が寄ってくるから、抱き寄せる。
西宮の香りがして、また泣きそうになった。
西宮はもう、泣き止んでいるというのに。
「なあ、俺、全然上手くできなくてごめん。覚悟してたのに、本当に忙しくて、余裕なくて」
「……もう謝らないでください、先輩。本当に大変だってこと、痩せた先輩と、あのゴミを見れば分かります。俺も、予定を詰め込んでたから。会えなかったのは俺のせいでもあります。俺の方こそすみません」
痩せた自覚は、なかったけれど。
ゴミが溜まっている自覚は、ある。
西宮が来てくれることになって、これでも片付けた方だけれど、カップ麺や弁当のゴミは隠しようがなかった。
「……ごめん」
「もう」
少し笑った西宮が、抱き締め返してくれる。
温かくて、目が潤む。
「りく、まだ俺で反応する?」
「……したい時だけ、下の名前で呼ぶのずるいです」
「ご、めん」
「怒ってないです。でも、怒ってます」
どっちだよ、って言おうとして、西宮が離れていくから心臓が痛む。
「あ、」
「そんな顔しないで。大丈夫です、離れないです」
思わず出た、縋るような声に、西宮はほんの少しだけ微笑んで、俺を引き上げて、立たせる。
こうして無事西宮と話せているけれど、まだどうしてもある心の距離が、少し怖くて。
もう本当にだめなんだと感じた不安がまだすぐ傍にあって、また直ぐに泣きそうになる。
もう大丈夫だと分かっているはずなのに、本当に失うと思って、恐ろしかったから。
「俺の気持ちを勝手に無いことにしたから、怒ってます」
「……ごめん」
「でも俺も、先輩はやっぱり女の人と、って疑ったから、ごめんなさい」
「……いや、うん」
「先輩、明日朝何時起きですか?」
「え?っと、六時」
「分かりました」
「っおい」
突然歩き始めた西宮に引かれて俺も歩く。
西宮が向かった先は、寝室で。
少し強引に引っ張られて、ベッドへ倒れ込むと、振り返る間もなく俺に乗り上げた西宮は、雑にTシャツを脱ぐと、見たことのない顔で笑った。
「五時まで、付き合ってくださいね」
「……は」
「一時間は寝かせてあげます」
「……は、ちょ」
「我慢なんて……しなきゃよかった」
「んっ!?っあ」
静かにキレていた西宮は、その後本当に、朝日が差すまで俺を寝かせなかった。
ヘトヘトのクタクタで、もう絶対動けないと思っていたのに、僅かに眠って目が覚めると、身も心もスッキリとしていて。
「今日、荷物を取ってきます。真っ直ぐ帰ってきてくださいね」
「……え」
「ご飯作って待ってます。その後、またしましょう」
「……へ」
「俺に抱かれることを想像して、頑張ってきて、先輩」
「は……!?」
「もう逃がさない、って言ってるんです」
「……ちょっ、う、そっ」
嘘だろ、って言葉は、言葉にならなかった。
朝からさくっと襲われて、手際よく全身洗われたかと思えば、寝ずに炊いたという米でできたおにぎりを食わされて、あっという間に着替えさせられ、送り出される。
「愛してます、先輩。俺は怒るとねちっこいタイプなので、よろしくお願いします」
「……は?」
「行ってらっしゃい、先輩」
「っおい!」
ガチャン、と容赦なく閉められた扉に、少しの間立ち尽くす。
愛されながら怒られるってなんだよそれ、と思いながら、駅まで歩いて、電車に乗って、揺られて。
そうして、ふと気付く。
愛されているから、怒られているんだ。
「っ」
急に暑くなる顔と体に、ぎゅっと目を閉じる。
いつも眠くて仕方なかった電車時間は、今日は不思議と、全く眠くならなかった。
「お疲れ様です、先輩。お時間作ってもらってすみません」
「いや、全然、寧ろ今までごめん」
西宮の予定を聞いて、無理を言って、夜遅くになってしまったけれど、俺の家まで来てもらった。
最後ならちゃんと顔を見て話したかったから。
これまでの感謝と、俺の気持ちをちゃんと、顔を見て伝えたかった。
けれど、失敗だったかもしれないと、西宮の顔を見て早々に後悔する。
久々に見た西宮は日に焼けていて、眩しくて、声を聞くと、その存在を傍に感じると、やっぱりどうしても好きで。
別れるなんて嫌だと、綺麗に終わりたい気持ちに反して、今すぐここで崩れ落ちて、泣き出しそうな気持ちだった。
「先輩、痩せましたね」
「……そうか?お前は日に焼けたな」
「へへ」
どうやって会話してたっけ、と思っていたら、西宮が話しかけてくれて、だからほんの少しだけ、いつも通りで。
大好きな西宮がここに居て、大好きな西宮の声がして、大好きな西宮の笑顔を見せてくれていて、それなのに、その左手の薬指に、指輪が無いことに気が付いて、だから、もう、だめだった。
「……別れたくない」
「……へ」
「ごめん、俺、別れたくない」
絞り出した声は、思っていたよりも静かだった。
西宮の姿を目に焼き付けておきたいのに、視界が滲んで、涙が溢れて。
情けなくて、恥ずかしくて、雑に拭うのに止まらなくて、結局頬を次々と濡らす。
「先輩」
「ごめん、本当にごめん。全然会えてなくて、ごめん。連絡も全然で、ごめん。でも、わか……いや、ごめん。全部ごめん、なし。あの……好き、になってくれて、ありがとう」
「……な、」
「好きになって、大切にしてくれてありがとう。俺、本当に幸せだった。人を好きになるって、こういうことなんだって初めて知った。不甲斐なくて、俺がお前を幸せにするって言ったのに、全然できてなくてごめん。でも、本当に、本当に愛してた。それだけは信じて、お願い」
頭を下げて、最後のお願いをする。
こんなお願いが一番情けないと思いながらも、でも西宮を忘れていたから放置していたのではないということを、ちゃんと伝えておきたかった。
ずっとお前を愛してた。
これからも多分、ずっと忘れられないと思う。
それ程大切な日々だった。
俺の一番幸せな日々だった。
頭を上げると、襟元を広げて、その奥でずっと大切にしていた物に触れる。
インターン中もずっと、ずっとそこにあった物。
西宮が作ってくれた、俺用の、大切な指輪。
ネックレスにしてずっと身に付けていたそれを、強く引くとチェーンが切れて、離れていく。
急に首元が寒くなったように感じて、ほんの少しだけ笑うと、その指輪を西宮に差し出した。
「持っとかれてもキモいだろうし、渡す。後は……カメラのデータとかも、ちゃんと消すし安心して」
「な、何言ってるんですか……?」
「何って」
「何言ってるんですか!?」
「っ」
西宮の声の圧で、空気がビリビリと振動する。
殴られてなんていないのに、殴られたくらいの衝撃があって、キツく目を閉じた。
「全っ然、意味が……分からないです、何言ってるんですか……?愛してた、って、なん、で、なんで、過去形、なんですか」
震えた西宮の声がして、目を開ければ、西宮が泣いていて。
差し出していた手を引いて、その中にある指輪を見た。
どうしても肌身離さず持っていたくて、チェーンまで買って、ずっと身に付けていた指輪。
それが西宮の指にはもう無くて、だから終わらせるつもりで来たのだと、確信していた。
だから、過去形で何故怒るのか分からない。
今でも愛していると縋り付く俺を、思い切り振りたかったのだろうか。
いや、西宮はそんな奴じゃない。
なら、何故。
「……西宮」
「俺……俺、今日、会えるの楽しみに……なんで。インターンで、好きな人でも、できましたか」
「……は」
「別れたくないとか、ありがとうとか、なんですか。おん、なの人が、やっぱりいいんですか……」
「……は?」
西宮の発言に、俺の涙が引いて、西宮の涙が更に溢れている。
好きな人ってなんだよそれ。
女の人って、なんだよそれ。
歩み寄れば同じだけ引かれて、胸に痛みが突き刺さる。
そうやって逃げられる程に、俺は、お前は。
「俺、先輩が教えてくれたこと、いろいろ調べてみようとして。インターン先のことも調べたら、最新の画像が出てきました。女の人と、楽しそうに話してる先輩が、写ってました」
「は……?」
「後ろ姿だった、けど。あれは先輩だって、直ぐに分かりました。それからずっと、その画像が頭から離れなくて……先輩、別れたくないは、こ、こっちのセリフです」
「は……お前……今日、別れ話しにきたんじゃないのか」
「……へ?」
ボロボロ泣いている西宮と、ようやく目が合う。
西宮は今、別れたくないと言った。
それなら俺は、もうブレる理由がない。
「西宮」
「……はい」
ソファに座って、お茶を飲む西宮の隣で、俺も気を落ち着けて座る。
西宮はもう逃げなかったけれど、その目は不安そうにずっと揺れていた。
「ちゃんと順番に話す」
「……はい」
西宮は目が合わないまま、頷いて。
それでもいいからと、俺は口を開く。
「俺はインターンで忙しくて、全然西宮と会えてなかったから、もう愛想を尽かされて、別れ話をされにきたんだと思った」
「……違います。嬉しいことがあって、どうしても伝えたくて」
「……ごめん」
西宮は泣き疲れたのか、少しぼーっとした様子でもあった。
だから覗き込むように顔を見れば、目が合う。
「……西宮、指輪は?」
「……へ……あっ」
そこでようやく、はっきりと目が合う。
西宮の目が覚めた、の方が近いかもしれない。
慌てた様子で西宮がカバンを探ると、その中から巾着を出してきて、更にその中からケースが出てきて。
「失くさないように、外を出歩く時は外していて。今日は先輩に会えるからカバンに入れてきたのに……忘れてました」
「……別れるため、じゃないのか」
「……怒りますよ。って、もう怒ってますけど。違います。でも誤解させてごめんなさい」
西宮は左手の薬指に指輪を嵌めて、頭を下げる。
謝るのはお前じゃない、と頭を上げさせると、また目が合わなくなった。
「西宮の言う女の人、が誰か分からないけど、分からないくらいには、誰のことも記憶にないよ」
「……でも」
「ありえないんだよ、西宮。俺……も、男だから、西宮と会えない間、その。一人で処理、もしたけど」
「……」
「女の人じゃ抜けなかった、って言えば分かるか。俺、本当に……反応しなくなってた」
「……へ」
若干戸惑って、焦りもしたこと。
さっさと処理して寝たいのに、何を見ても全然反応しなくて、本気で病院を考えた。
けれどその前に、一応、念の為、その。
「でも西宮に似てる人なら……って、ごめん」
そんな報告キモいよな、と引き下がると、西宮は耳を赤くさせているから、何を言おうとしたのかは伝わったようで。
それからもう一つ、伝えておきたいことがある。
伝えておかなくちゃいけない。
会えなかったこの期間のことを。
「ずっと寂しかった。会いたかった。声が聞きたかった。触れたかった。抱き締めたかった。でも、俺のせいで会えてないのに、俺が言うのはおかしいだろと思って、全然連絡できてなかった、ごめん」
「……」
「会う日ドタキャンしたのも、本当にごめん。俺のせいなのに、俺、ずっと西宮が足りなかった」
「……」
眉を寄せて、堪えている様子で、けれど涙が溢れている西宮。
こんな顔を、させてしまうなんて。
西宮の左手に触れると、そこにある指輪を撫でる。
「寂しい思いさせてごめん。会えなくてごめん。話せなくてごめん。傍に居なくて、ごめん。今日、別れ話なんだと思って言った言葉で、傷付けてごめん。愛してたって過去形で言ったのは、西宮の負担になりたくなくて、なるべく西宮が望む形で、綺麗に別れてやるつもりだったから。全然できてなかった、けど」
「……」
西宮は、変わらず泣いている。
傍に居なくてごめんと言った時、西宮が痛そうな顔をしていた。
西宮も俺が居なくて寂しいと思ってくれていたのだと、自惚れても、良いのだろうか。
「今も愛してる。ずっと会いたかった。本当にごめん」
「……俺も、会いたかったです。先輩がインターンに集中できるように、メッセージも控えてたけど、送ればよかった……です」
「西宮のは、ちゃんと気遣いだって分かってた。俺が勝手にブレただけ。ごめん」
頭を下げると、西宮がソファから立ち上がって、どこかへ行く。
このタイミングで一体どこへ、と頭を上げれば、西宮は俺がテーブルに置いた、俺の指輪を取ってきて。
「指輪、ずっと身に付けていてくれたんですね」
「……うん」
「……俺、受け取らなくていいですよね?」
「……うん。本当にごめん」
頷けば、西宮が俺の足元に跪いて、俺の左手を取って、その薬指に、指輪を嵌めてくれる。
ようやく二人共、揃いの指輪が、揃いの指に嵌って、静かに息を吐いた。
「俺、まだ先輩の恋人でいてもいいですか」
「……うん、西宮がいい」
「……俺も、先輩じゃなきゃ嫌です」
「うん。ごめん」
立ち上がった西宮が寄ってくるから、抱き寄せる。
西宮の香りがして、また泣きそうになった。
西宮はもう、泣き止んでいるというのに。
「なあ、俺、全然上手くできなくてごめん。覚悟してたのに、本当に忙しくて、余裕なくて」
「……もう謝らないでください、先輩。本当に大変だってこと、痩せた先輩と、あのゴミを見れば分かります。俺も、予定を詰め込んでたから。会えなかったのは俺のせいでもあります。俺の方こそすみません」
痩せた自覚は、なかったけれど。
ゴミが溜まっている自覚は、ある。
西宮が来てくれることになって、これでも片付けた方だけれど、カップ麺や弁当のゴミは隠しようがなかった。
「……ごめん」
「もう」
少し笑った西宮が、抱き締め返してくれる。
温かくて、目が潤む。
「りく、まだ俺で反応する?」
「……したい時だけ、下の名前で呼ぶのずるいです」
「ご、めん」
「怒ってないです。でも、怒ってます」
どっちだよ、って言おうとして、西宮が離れていくから心臓が痛む。
「あ、」
「そんな顔しないで。大丈夫です、離れないです」
思わず出た、縋るような声に、西宮はほんの少しだけ微笑んで、俺を引き上げて、立たせる。
こうして無事西宮と話せているけれど、まだどうしてもある心の距離が、少し怖くて。
もう本当にだめなんだと感じた不安がまだすぐ傍にあって、また直ぐに泣きそうになる。
もう大丈夫だと分かっているはずなのに、本当に失うと思って、恐ろしかったから。
「俺の気持ちを勝手に無いことにしたから、怒ってます」
「……ごめん」
「でも俺も、先輩はやっぱり女の人と、って疑ったから、ごめんなさい」
「……いや、うん」
「先輩、明日朝何時起きですか?」
「え?っと、六時」
「分かりました」
「っおい」
突然歩き始めた西宮に引かれて俺も歩く。
西宮が向かった先は、寝室で。
少し強引に引っ張られて、ベッドへ倒れ込むと、振り返る間もなく俺に乗り上げた西宮は、雑にTシャツを脱ぐと、見たことのない顔で笑った。
「五時まで、付き合ってくださいね」
「……は」
「一時間は寝かせてあげます」
「……は、ちょ」
「我慢なんて……しなきゃよかった」
「んっ!?っあ」
静かにキレていた西宮は、その後本当に、朝日が差すまで俺を寝かせなかった。
ヘトヘトのクタクタで、もう絶対動けないと思っていたのに、僅かに眠って目が覚めると、身も心もスッキリとしていて。
「今日、荷物を取ってきます。真っ直ぐ帰ってきてくださいね」
「……え」
「ご飯作って待ってます。その後、またしましょう」
「……へ」
「俺に抱かれることを想像して、頑張ってきて、先輩」
「は……!?」
「もう逃がさない、って言ってるんです」
「……ちょっ、う、そっ」
嘘だろ、って言葉は、言葉にならなかった。
朝からさくっと襲われて、手際よく全身洗われたかと思えば、寝ずに炊いたという米でできたおにぎりを食わされて、あっという間に着替えさせられ、送り出される。
「愛してます、先輩。俺は怒るとねちっこいタイプなので、よろしくお願いします」
「……は?」
「行ってらっしゃい、先輩」
「っおい!」
ガチャン、と容赦なく閉められた扉に、少しの間立ち尽くす。
愛されながら怒られるってなんだよそれ、と思いながら、駅まで歩いて、電車に乗って、揺られて。
そうして、ふと気付く。
愛されているから、怒られているんだ。
「っ」
急に暑くなる顔と体に、ぎゅっと目を閉じる。
いつも眠くて仕方なかった電車時間は、今日は不思議と、全く眠くならなかった。



