『百味堂』

4、愛の才

 湯浴みを済ませ、細いろうそくを焚きながら、中庭側の襖を開けて手水に映る月を眺めていた。紫煙を煙管で深くまで吸い込み、大気へと溶かす。

「どうして、あんなところに転がっていたんだ」

 雪は廊下から流れ込む冷気に耐えかねて、雅の布団の横に客用布団を敷きなおして潜り込んだ。

「両親を殺されたあと、商品として売るために荷車に乗せられました」

 屋根から伝った雪解け水が、ちゃぽん、と手水の表面に水紋を浮かべる。段々と波紋が広がって、水際に吸い込まれて消えていく。

「荷車からなんとか逃げ出して、必死に走った先があそこでした」

 長い煙管の先から弱いモヤが漂っている。煙臭さの中に甘ったるい桜の香りがする。この煙管は甘すぎる。試しにとタバコ屋から貰ったものだが、もう吸わない。

「私は、境界院に勤める悪魔だ」
「きょうかいいん?」

 雪は頭に疑問符を浮かべ、布団の中に半分伏せていた顔を冷たい空気に晒す。上気した頬が赤く覗く。
 
「そうか、知らないか。人間や、その他種族と悪魔の橋渡しをする仕事、と言ったらわかるか」

 風邪を引いた時の、熱に浮かされたような顔から視線を外し、手水へ戻す。雪の中で倒れていたのだから、風邪を引いていたってなんらおかしくはない。
 
「境界院という名は知りませんが、人間に理解ある悪魔が八人、という童話は聞いたことがあります」
「私たちは童話にもされているのか。まあ、間違ってはいない」

 人間社会で境界院がどのように扱われているかなど雅の知ったことではない。五人の兄は皆、力にものを言わせて生き残った、言わば最も残虐な悪魔たちで、ひっそりと山際のこの屋敷で隠居生活を送る雅とは似て非なる種族にすら見える。七番目の弟だけは、そうではないが。
 
「人間の感情しか食べぬ生活を始めてもう暫く経つ」

 風に揺れる手水の水。人の気持ちとは荒波のように高い波の時も、広大な湖のように凪いでいる時もある。雅がどれだけ欲しいと願っても手に入らなかった、肉体による生命反応の寄せては引く波。
 
「同族を食っていた時の、自らの食事の醜さに嫌悪感を覚える」
「なぜ、そんな話を俺に」

 雪は上体を起き上がらせて布団から半身だけ出る。まだ熱の残る布団の生ぬるさを感じながら布団を押した。雅が長い煙管を持ちながら、ちょうど横顔になる位置で振り返った。
 
「これからお前が私と共に暮らすことを望むのならば、この屋敷から滅多なことで出ることはできなくなるからだ」

 赤い瞳が不気味に月光を反射する。白い髪に赤い瞳。雅は色素を持たないアルビノの悪魔だった。
 
「力の弱まった今の私では、この屋敷の周辺までに同族を近づけないのが限界なんだ」

 和装の袖先から見える手首までの肌が異様に白い。生気が感じられない色気をしている。雪は肩に羽毛布団を引っ掛けたまま正座して畏まると、真っ直ぐこちらを見据えて言った。
 
「白状しますが、俺も人間に追われる身なのです。ですから、ここから出られないということは寧ろ望むところなのです」

 その真っ直ぐな申し出に、煙管を持つ手に力が籠った。そんな、綺麗な感情で言ったんじゃない。悪魔の本能として、才能を見破ってしまっただけ。百萌とは違う素直さ。気を遣うのではなく、本気でそうなのだと、不必要な情報なく伝える言動。
 
「雪、お前には愛情を根付かせる才能がある」

 白状するように言った。不思議と雪なら受け入れるだろうという予感があった。誤魔化すように煙管から煙を吸って、数拍、ゆったりと吐息を吐いた。
 
「私と共にあれば、その身に私からの愛を注がれる危険性が高い」

 煙の登る先を眺め、祈るようにして言った。

「耐え難いとは思わないか」

 雪は布団に縛り付けられたように動かなかった。
 ムカデが、玄関先から入り込んで撤退した。静まり返った廊下の板張りが段々と冷えていく外気に呼応し、その身を縮めるように鳴いた。
 
「拾っていただいたばかりでなく、生活から愛情まで、なんとお礼を申していいのか」

 雅の揺れる瞳を見て、雪の拘束が解けた。彼を布団に縛り付けていたものがぷつりと切れ、膝立ちのまま一歩進み、生気のない手を取ろうとした。
 それを迷いなく振り払う。雅の無意識の魅惑は、こんな子供相手でも効果が出てしまうのかと、恐ろしく嫌な寒気が背中を駆け回った。
 
「私に触れるな、子供に手を出す趣味はない」
 
 振り払われた手を呆然と見つめながら雪が言う。

「手を出す、とは?」

 目の前の子供がまだ十五歳にも満たない子供だったということを失念した会話内容だった。吸い終えた煙管を廊下と寝室の境に引っ掛けて置いた。

「私の能力に当てられすぎている。その反応は本心からではない」
「そう、ですか」

 雪は欠伸を噛み殺しながら布団に戻った。耐えきれなかった瞼が閉じられる。
 
 台所の方に、小さく人の気配がする。
 段々と寝室に近づいてくる。足取りには迷いがない。音を立てない歩き方が身に染み付いている。
 ほんの僅かに寝室の襖が開かれて、小さな隙間から栗色の瞳が覗き込んだ。

「あれ、まだ寝てなかったの」
「入りなさい、廊下は冷える」
「はぁい」

 襖を開けて、中の暖かな空気が漏れ出ないように最低限の動きだけで中へ入ってくる。足が冷えるのか、雅の布団を踏んで端へ座り込んだ。布団に入ってくる気はないらしい。
 百萌はいつもそうだ。甘えても拒絶されないとわかっていて、甘えられない。百萌は雅から漏れる、ほんの少しの色を見破ったようで、嫌な顔をして膝を抱えた。

「うわ、ずるい。僕には少しもくれないのに」
「お前は才能がないんだ、諦めろ」
「あはは、わかってても羨ましいの」

 雪を流し見るように目を滑らせている。百萌とはもう住み始めて一年が経とうとしていた。二人の共同生活に一度も衝突がないのは、限りなく百萌の努力のおかげだった。
 
「……ねぇ、僕も一緒に寝ていい?」
「布団を持ってきなさい」
「はぁい」
 
 暫くすると、百萌はほとんど使っていない自分の部屋から丸めた布団を抱えて部屋に戻ってきた。自室を与えているというのに、百萌は親を追いかけるカルガモのようにどこへ行くにも着いてきた。程よい距離を保って、共にいるべきでないと察すると足早にこの世界ごと出ていってしまう。
 
「その人となんの話してたの?」
「名前は雪になった。ここへ住むから部屋を譲ってやってくれ、どうせ使っていないだろう」
「あは……いいよぅ」

 布団を敷き終えると、廊下の冷気を吸った温度のない布団へ迷いなく潜り込んだ。鳥肌が立ったのか、ぶるっと震えていた。

「名前を与えるなんて、珍しいねえ」
「私の能力に当てられていたから、子供に手を出す趣味は無いと言ったんだ」
「子供?もうおっきいじゃん。雪くんはなんて?」
「手を出す、の意味を知らなかった」
「あはは、純情だね。十四かそこらの背丈なのに」

 じゃあなんでお前はわかっているんだ、と聞こうとしてやめた。異常なほど回る気遣いに、誘拐同然で連れてこられても恨み言ひとつ言わず薬屋を手伝う少女。彼女の周りには、何かを諦めたように黄色の喜びだけが浮かんでいる。
 
 人の痛みを理解できない雅には、一体何に苦しんでいるのか、どのくらいの度合いなのか、そんなことは分からない。あれは雅の能力にも耐性がある。本来ならば、人間のような貧弱な精神ならば雅の能力を感受しないはずがなかった。根深すぎる孤独の才能が、人と百萌とを大きな崖で隔てている。
 もし落ちそうになったら、頼られたら助ければいい。そう思って眠りについた。