3、砂糖菓子
乳鉢では砕けない、硬い感情を薬研で細かく砕こうと前腕に体重をかける。バキバキ、ともパキパキ、ともいかない脆い音を立てながら、握りこぶしより一回り小さい、ルビーのような赤い宝石が細かくなっていく。
「おい、代わってくれ」
雅は百萌にアイコンタクトを送る。もうそろそろ夕餉の用意をしなければならなかった。百萌は下働きのような役割を担ってくれるもののまだ十歳だ。料理などほとほと危うくて頼めたものではない。
「はぁい」
薬研から手を離した雅の代わりに薬研車に手を回し、全体重をかけて前腕に体重を傾け宝石を砕く。
パリ、リ、パキ。
時折大きな欠片に引っかかるような不器用なリズムで薬研車を回していた。
雅は立ち上がり、スっと襖を開ける。暖房の効いていない廊下には、傾き出した日のほんのりと暖かい西日が届いていた。想像より冷たくは無い。
草履を履いて土間へと降りる。今日は、あの少年の様子を見て、普通の食事が厳しそうなら粥を作ってやらねばならない。
冷蔵庫を開ければ、先日七草粥を食べた時のせりとナズナが残っていた。他には豚バラ、白菜、大根、玉ねぎ、なんでもできそうな材料が揃っている。生姜焼きか豚バラ大根かを迷って、古くなりそうだった大根に手を伸ばした。
大根の皮を剥き、いちょう切りにしていく。豚バラは二から三センチ程の大きさに切って下準備を済ませる。白菜を刻んで味噌汁の準備も並行して行う。
明日の朝の分も作ってしまおうかと頭をよぎって、出汁の香りが半減するのを嫌がってやめた。
少年の意識が戻る気配がした。
「おい、一寸此方へ」
呼べば百萌が書斎から足早に台所へと姿を現す。
「なぁに、雅さん」
「あの少年が起きた。水差しを持っていけ」
「うん」
百萌は蛇口から、温度を奪うほどに冷えた水を水差しに汲んで、適当な茶菓子と共に盆に並べた。こういう無意識のような気遣いは、知らぬうちに身についた処世術なのだろうか。彼女が"向こう"で送る生活を想像し、眉をひそめた。
「じゃ、行ってくるね」
ごま油で豚バラが炒まって、香ばしい香りが台所を満たす。大根に火が通れば、豚バラ大根も味噌汁と共に出来上がりだ。出汁を取った煮干しのかすを少し齧ってみる。せっかく味がするのに勿体ない、乾燥させてふりかけにでもしようか。
百萌が少年の介抱を終えて、菓子の空の包装紙を載せた盆を持って戻ってきた。
「雅、僕呼ばれたから"帰らなきゃ"」
「そうか、ではまた夜に」
「薬は作り終わったよ」
「助かった」
百萌は笑うとその場からパッと消えた。台所には鍋から立ち上る白い湯気だけが残っている。
鍋には二人前の豚バラ大根。初めから彼女の分は換算されていなかった。寝室へと向かう。
日も暮れて、夕刻と比べすっかり寒くなった廊下を進む。だいぶ古くなった建物の板張りは一箇所だけきぃと鳴るところがある。これ以上箇所が増えれば修理でも呼ぶべきか。
襖を開け、後ろ手に閉める。中には、紺色の美しい髪を持った、悪魔の魂すら凌駕しそうなほど混じり気のない漆黒を湛えた目の少年がいた。
「目が覚めたか」
「助けていただき、ありがとうございます」
少年は布団から起き上がり、床に額を擦り付けそうなほど頭を下げて雅に礼を言う。葡萄茶色の着流しはもう汚れてはいない。この屋敷に汚れたものは存在できない。
「帰る宛てはあるのか」
「……いえ」
少年は苦い顔をした。
「両親が、目の前で殺されました」
寂しげに目を潤ませ、礼を言った頭の角度を変えないまま、小さく縮こまった。丸出しになったつむじがあどけなさを増幅している。
「食べられないものはあるか」
少年は驚いた顔で首を振った。
「いいえ、ございません」
「夕餉の時間だ、来るといい」
少年に背を向けると、雅は中庭のある廊下へと出て、さっさと台所へと戻った。
豚バラ大根と味噌汁を盛り付ける。おずおずといった様子で部屋から出てきた少年に向けて、一つ手前の部屋をちょいと指さす。食卓のある居間だった。少年は律儀に礼をすると、中へ入っていった。
盆に二人分の食事と箸を乗せ、居間に向かった。
二人の食卓は静かなものだったが、少年は警戒する様子もなく飯に手をつけ、あっという間に米粒一つも余さずに茶碗を空にした。拾ってくれた男に毒を盛られるとは思わないのだろう。
「少年、名は」
茶碗に白米のおかわりをよそい、手渡す。少年は少し戸惑いながらそれを受け取り、困ったように側頭部を摩った。転んで怪我を負った場所。
「名は、言わぬようにと両親から」
政府のお偉方なのか、裏社会の人間なのか、そんな可能性が雅の脳内に浮かび上がる。少なくとも両親は殺されており、名を言うと自身の身が危ないのだろう。
そんな少年を、雅が見捨てられるはずがなかった。気を紛らわそうと窓の外に目をやって、何かを考え込んでいる眼差しで暗い冬の庭を眺めた。
「お前の名は、雪。この薬屋は人が足りていない。働くなら、暫く匿ってやる」
少年は注意深く表情を隠そうとしているものの、目が柔らかく輝き、溢れ出ていた。
淡い、虹のような極彩色。
雅は初めて見る感情に生唾を飲み込んだ。
「よろしく、お願いいたします」
雪は深々と、指を三本ずつついて土下座の体勢で頭を下げた。雅は、雪の頭を下げるところばかり見ているなと、指を手の中に丸め込んだ。もう片方の手で裾を握る。
「そういう畏まったのは無しだ。得意じゃない」
「はい、わかりました」
雪はその仕草を真似るように自身の裾を握って笑った。
極彩色をルーツに持つ人間。最も人間らしい、整った形をした魂にのみ現れる色。繊細で今にも壊れそうなこの少年を、守ろうと心に誓った。
手の上に、繊細な砂糖菓子を置いたような感覚だった。
乳鉢では砕けない、硬い感情を薬研で細かく砕こうと前腕に体重をかける。バキバキ、ともパキパキ、ともいかない脆い音を立てながら、握りこぶしより一回り小さい、ルビーのような赤い宝石が細かくなっていく。
「おい、代わってくれ」
雅は百萌にアイコンタクトを送る。もうそろそろ夕餉の用意をしなければならなかった。百萌は下働きのような役割を担ってくれるもののまだ十歳だ。料理などほとほと危うくて頼めたものではない。
「はぁい」
薬研から手を離した雅の代わりに薬研車に手を回し、全体重をかけて前腕に体重を傾け宝石を砕く。
パリ、リ、パキ。
時折大きな欠片に引っかかるような不器用なリズムで薬研車を回していた。
雅は立ち上がり、スっと襖を開ける。暖房の効いていない廊下には、傾き出した日のほんのりと暖かい西日が届いていた。想像より冷たくは無い。
草履を履いて土間へと降りる。今日は、あの少年の様子を見て、普通の食事が厳しそうなら粥を作ってやらねばならない。
冷蔵庫を開ければ、先日七草粥を食べた時のせりとナズナが残っていた。他には豚バラ、白菜、大根、玉ねぎ、なんでもできそうな材料が揃っている。生姜焼きか豚バラ大根かを迷って、古くなりそうだった大根に手を伸ばした。
大根の皮を剥き、いちょう切りにしていく。豚バラは二から三センチ程の大きさに切って下準備を済ませる。白菜を刻んで味噌汁の準備も並行して行う。
明日の朝の分も作ってしまおうかと頭をよぎって、出汁の香りが半減するのを嫌がってやめた。
少年の意識が戻る気配がした。
「おい、一寸此方へ」
呼べば百萌が書斎から足早に台所へと姿を現す。
「なぁに、雅さん」
「あの少年が起きた。水差しを持っていけ」
「うん」
百萌は蛇口から、温度を奪うほどに冷えた水を水差しに汲んで、適当な茶菓子と共に盆に並べた。こういう無意識のような気遣いは、知らぬうちに身についた処世術なのだろうか。彼女が"向こう"で送る生活を想像し、眉をひそめた。
「じゃ、行ってくるね」
ごま油で豚バラが炒まって、香ばしい香りが台所を満たす。大根に火が通れば、豚バラ大根も味噌汁と共に出来上がりだ。出汁を取った煮干しのかすを少し齧ってみる。せっかく味がするのに勿体ない、乾燥させてふりかけにでもしようか。
百萌が少年の介抱を終えて、菓子の空の包装紙を載せた盆を持って戻ってきた。
「雅、僕呼ばれたから"帰らなきゃ"」
「そうか、ではまた夜に」
「薬は作り終わったよ」
「助かった」
百萌は笑うとその場からパッと消えた。台所には鍋から立ち上る白い湯気だけが残っている。
鍋には二人前の豚バラ大根。初めから彼女の分は換算されていなかった。寝室へと向かう。
日も暮れて、夕刻と比べすっかり寒くなった廊下を進む。だいぶ古くなった建物の板張りは一箇所だけきぃと鳴るところがある。これ以上箇所が増えれば修理でも呼ぶべきか。
襖を開け、後ろ手に閉める。中には、紺色の美しい髪を持った、悪魔の魂すら凌駕しそうなほど混じり気のない漆黒を湛えた目の少年がいた。
「目が覚めたか」
「助けていただき、ありがとうございます」
少年は布団から起き上がり、床に額を擦り付けそうなほど頭を下げて雅に礼を言う。葡萄茶色の着流しはもう汚れてはいない。この屋敷に汚れたものは存在できない。
「帰る宛てはあるのか」
「……いえ」
少年は苦い顔をした。
「両親が、目の前で殺されました」
寂しげに目を潤ませ、礼を言った頭の角度を変えないまま、小さく縮こまった。丸出しになったつむじがあどけなさを増幅している。
「食べられないものはあるか」
少年は驚いた顔で首を振った。
「いいえ、ございません」
「夕餉の時間だ、来るといい」
少年に背を向けると、雅は中庭のある廊下へと出て、さっさと台所へと戻った。
豚バラ大根と味噌汁を盛り付ける。おずおずといった様子で部屋から出てきた少年に向けて、一つ手前の部屋をちょいと指さす。食卓のある居間だった。少年は律儀に礼をすると、中へ入っていった。
盆に二人分の食事と箸を乗せ、居間に向かった。
二人の食卓は静かなものだったが、少年は警戒する様子もなく飯に手をつけ、あっという間に米粒一つも余さずに茶碗を空にした。拾ってくれた男に毒を盛られるとは思わないのだろう。
「少年、名は」
茶碗に白米のおかわりをよそい、手渡す。少年は少し戸惑いながらそれを受け取り、困ったように側頭部を摩った。転んで怪我を負った場所。
「名は、言わぬようにと両親から」
政府のお偉方なのか、裏社会の人間なのか、そんな可能性が雅の脳内に浮かび上がる。少なくとも両親は殺されており、名を言うと自身の身が危ないのだろう。
そんな少年を、雅が見捨てられるはずがなかった。気を紛らわそうと窓の外に目をやって、何かを考え込んでいる眼差しで暗い冬の庭を眺めた。
「お前の名は、雪。この薬屋は人が足りていない。働くなら、暫く匿ってやる」
少年は注意深く表情を隠そうとしているものの、目が柔らかく輝き、溢れ出ていた。
淡い、虹のような極彩色。
雅は初めて見る感情に生唾を飲み込んだ。
「よろしく、お願いいたします」
雪は深々と、指を三本ずつついて土下座の体勢で頭を下げた。雅は、雪の頭を下げるところばかり見ているなと、指を手の中に丸め込んだ。もう片方の手で裾を握る。
「そういう畏まったのは無しだ。得意じゃない」
「はい、わかりました」
雪はその仕草を真似るように自身の裾を握って笑った。
極彩色をルーツに持つ人間。最も人間らしい、整った形をした魂にのみ現れる色。繊細で今にも壊れそうなこの少年を、守ろうと心に誓った。
手の上に、繊細な砂糖菓子を置いたような感覚だった。
