『百味堂』

1、雪の日
1、雪の日


 逃げろ。

 脳が警鐘を鳴らす。

 逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ!

 必死に足を回す。
 ヒューヒューという呼吸音が喉から漏れる。

「あっ!」

 竹の根に足がもつれ、そのまま派手に転倒した。
 細かな枝や葉が刺さるような痛みが走る。うぅ、と呻き声が漏れ、土の湿った香りが鼻をつく。拳と足をぎゅううと握り、再び立ち上がろうと藻掻くも、限界まで走った体には起き上がる力すら残っていなかった。
 
 葡萄茶色の着流しが体温で溶けた雪の水気を吸い込み、ずっしりと重みを増していくのがわかる。体温が奪われていく。

「おと、さま……おかあ、さま……」

 柔らかな家庭の面影を瞼の裏に浮かべ、少年の記憶は途切れた。

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 早朝。しんっと冷えた板張りの廊下を歩き、座敷の襖を開ける。吐き出す息が白い。あまりに不純物のない朝の凍えた空気が肌を直接に刺す。

 草履に履き替え、土間に降りる。霜が降りた足元の土は黒く染まっている。台所に立って湯を沸かし、いつものように味噌汁と卵焼きを手際よく作っていく。
 
 カッカッカッ。
 
 卵を混ぜる音が静まり返った広い一軒家に響く。続いてじゅう、という卵が熱い鉄に触れる小気味いい音がして、やかんから立ち昇る湯気が結露した窓を撫でた。

 静かなものだ。

 ここには、なんの生き物の気配もない。雅以外の、この薬屋の店主以外の気配は何一つなかった。

 さっさと食べ終え、外套を着て玄関を左に。廃れた神社への階段を上る。どうやら昨夜は雪が降ったらしい。竹林が白い化粧を纏っていた。手近な葉から朝焼けに溶けた露がぽたりと落ちた。

 階段を上り終えると、左手に樹齢五百年はくだらない大木の欅が聳える。葉の下は綺麗に雪が積もっていなかった。鬱蒼とした葉が傘になったらしい。

「せっかくならば、全面雪で覆えば美しいものを」

 ぽつり。誰に聞かせるでもなく、純白の世界に覗いた不純物のような土を、素面で引きずり出された乙女を憐れむような視線で撫で付け、神社に入ろうとした。

 烏たちが、何やら騒がしい。

 この辺一帯を束ねている烏が足元へ降り立ち、カァと一声鳴く。呼んでいる。

「こら、どうした」
「カァー!」

 烏は振り返ると、こちらだ、というように踵を返し、ちょんちょんと跳ねるように竹藪に駆けていく。雅は急ぐことなくゆっくりとした足取りでその後を追う。

 竹藪を掻き分け進んでも、烏は一向に止まらず、時折こちらを振り返る。もう追いかけるのをやめようかと飽き性な性が思い始める。

 ——カァ!
 
 その時、烏がひときわ高く一声鳴いた。

 外套の両方の裾に手をしまい込み、行儀の悪い歩き方をしながら烏の背を追って、彼が止まった場所を見た。

 そこには、うっすらと雪が積もった少年が倒れていた。

 雅は慌てて駆け寄った。

「ほら、ほら。君、しっかりしなさい」

 背中に手を回して抱き上げる。少年の身体は驚くほど熱く、浅い息ではっはっと白い煙を吐きながら、目は頑なに閉じられていた。

「すごい熱だ。おい烏、私の家まで医者を呼べ」

 胸元からメモ帳とペンを取り出し、急患有り、加えて住所を書き記して烏に咥えさせた。烏は分かったとでも言うように頷いて飛び去って行った。

「はぁ、これは骨が折れる」

 やれやれ、と肩を竦ませながら足の下にも腕を通し、少年を抱えあげた。まだ年端もいかない少年の体は、雅の腕には軽かった。

「階段は応えるだろうが、許しておくれ」

 身体を横に抱えて体温を分け与えながら、今しがた通った廃れた鳥居を潜り、からんころんと下駄を鳴らしながら階段を降りていく。

 少年は小さく、うぅ、と呻き声を上げながら、雅の胸もとに擦り寄った。