その日の夜はこれ以上熱は上がらず、翌朝も怠さはあるものの平熱にまで下がった。
少なくとも熱は完全に下がったと判断して、朝のうちに担任へ電話で伝える。
『ちゃんと回復したようでよかった! 発症したのが三日前だから……出席できるのは三日後だな。ゆっくり休めよ!』
朝から元気のいい声に少々うんざりしながら電話を切ると、次はバイト先に連絡した。
バイトも三日後から出られることを伝えると、店長から『しっかり休んでおけよ』と念を押すように言われる。
それほど念を押さないと休まない人間だと思われているんだろうか? と不思議に思った後で、思われているかもしれないと考えなおす。
金を稼ぐために必死になっていたから少しでも時間を惜しんでいたし、バイトもできる限りシフトを入れてくれと頼んでいたから。バイト先の店長から見たら、働きすぎじゃないかと思われても仕方ないかもしれない。
実際にはちゃんと睡眠時間は取っていたし、休んでいないわけじゃないんだけれど……。
「あー、でも寝ているとき以外は金を増やすために必要なことばかりしてたかも?」
思い返しながら呟いてちょっと自嘲する。
考えてみれば、高校生になってからは金のことばかり考えていたかもしれない。
クズな両親から離れたい一心だったし、こうして別々に暮らすようになってからも文句を言われないよう仕送りの金額を稼がなきゃと必死だったし。
幸樹たちと遊びに行くことはあるけれど、遊んでいる合間に株のチェックをするのが普通だったし。
熱を出して、強制的に休まざるを得なくなって、やっと金のことを一時忘れることができた状態だ。
もしかしたら、周りから見たら俺はかなり心配になるような生活をしていたのかもしれないと、この状態になって初めて気づいた。
「……株やニュースのチェックは、ほどほどにして休むか」
丸二日くらいチェックしていないので、まったく見ないのはさすがに怖い。でも、皆から『休め』と言われているのに無理をするのもよくないだろう。
インフルは幸樹にうつされたからだ! って思っていたけれど、もしかするとまともなごはんも食べず、バイトに株にと忙しくしていたから免疫力が弱っていたのも理由かもしれないし。
そう考えた俺は、午前中に株やニュースのチェックをして、昼食におかゆのレトルトを食べると横になり、軽く目を閉じる。
体力が戻ってなくて本調子じゃなかったんだろう。
そのままスーッと意識が沈んでいくのを感じた。
目を覚ましたのは部屋の中が薄暗くなったころだ。
窓の外を見てみると、太陽はかなり傾いていて空の色を変え始めていた。
スマホで時間を確認すると、午後四時を過ぎたところ。
結構寝たな、とぼーっとしながら考えていたけれど、そういえば朝霞さんが夕飯を届けに来るんだったと思い出して顔を洗いに洗面台へ向かった。
熱でそれどころじゃなかった一昨日はともかく、熱もない状態で寝ぐせも直さず人前に出たくない。
まして、月下美人のように綺麗な笑顔を浮かべた朝霞さんの前になんて出られるわけがない。
なんとなくそわそわした気分を落ち着けるように、顔を洗って寝ぐせがないか鏡でチェックしていると、玄関ドアの前がなにやら騒がしいことに気づいた。
誰かが言い争っているような……でもそこまで大きくはない声。
まさか朝霞さん? 誰かと一緒に来たのか?
でも一体誰と?
疑問に思いながら玄関ドアに近づくと、とても聞き覚えのある声がドア越しに聞こえてきた。
「だから、あなた真宙の彼女なんでしょう?」
気だるそうな、ため息も一緒に出てきているような話し方。
疲労感を常に纏わせたようなその声を、俺が間違えることはないだろう。
「……母、さん」
認識すると同時に、警戒心が体中を支配する。
俺にとって、母は庇護者ではなく搾取する者だ。
小さなころから、俺の時間や物、慕う心すら奪っていくだけの人。
産んで、生かしてくれていたのだから与えてくれたものもあったはずだけれど、積み重なった搾取された記憶はあの二年前の修学旅行の件ではじけた。
そして、期待すること、望むことを諦めたんだ。
だから離れることを決めて、まだ完全にではないけれど家を出ることで物理的には離れられた。
父も母も手間のかかることは嫌いだから、わざわざアパートへ様子を見に来ることもないだろうと思っていたのに。
どうして、来たんだよ。
苛立ちと、心のどこかでまだかすかに残っている期待がうっとおしくて、唇を噛む。
そのままドアの前で動けないでいると、母さんとは別の声も聞こえた。
「え!? いえ、彼女では……」
いつものように控えめな声が、戸惑いも露わに揺れている。
丁度訪ねてくると言っていた時間なのでいてもおかしくはないけれど、母と遭遇してしまうなんてタイミングが悪すぎる!
母さん、朝霞さんに何を言ってるんだ?
頭を抱えたくなるような状況に出ていけないでいると、母さんの暴走は加速していった。
「でも、真宙に夕飯届けに来たってさっき言っていたじゃない。彼女でもないのにそんなことしないでしょう?」
「それは……」
「もう、真宙もこんな彼女がいるなら早く知らせてくれればよかったのに。そうすればわざわざ様子を見に来る必要なかったじゃない」
「え? それはどういう……」
母さんの言葉に、朝霞さんが戸惑う様子が声だけで伺える。そんな彼女に申し訳ないと思うと同時に、何度も味わった諦めの感情でまた身体が重くなった。
「真宙が病気で学校を休んでるって、近所の同級生の子から聞いたから……聞いちゃったらさすがにほっとくわけにもいかないでしょう? でも、あなたみたいに真宙の世話をしてくれる彼女がいるなら、私がわざわざ世話をしてあげる必要もないじゃない」
ああ……やっぱり、母さんが俺のことを心配するなんてことはないんだな。
幾度も経験して諦めたはずなのに、また少し傷ついてしまっている自分にも嫌気がさす。
期待しないって決めたはずなのに、【家族】というものへの憧れが残っているせいか、もしかしたらと欠片にすらならないほどの小さな希望を探してしまう。
結局は傷ついて諦めることになるだけだっていうのに。
懲りずに期待して打ちのめされた俺の耳に、追い打ちをかけるような母さんの声が届く。
「まったくもう、来て損したわ」
ひゅっと、自分の喉が鳴った気がした。
心底無駄なことをしたとでもいうような声に、まともに息が吸えなくなる。
こういう親だってわかってた。わかっていたんだ!
言い聞かせるように心の中で唱えていると、震える小さな声がドアごしでもはっきり聞こえてきた。
「……損って、なんですか?」
朝霞さんのその声がいつもより低く感じたのは、ドア越しだったからか、それとも……
「心配じゃないんですか? 三ツ橋くん、一昨日は本当に辛そうだったんですよ?」
続いた言葉は、明らかに母さんを責めるもの。震える声には、怒りが滲んでいた。
そのことに、俺はとても驚く。
だって、俺は母さんに怒りを覚えることすら諦めてしまっていたから。
何を言っても無駄だってわかっているから、怒るより先に諦めることを選ぶようになっていた。
だから、俺のために怒ってくれる朝霞さんが不思議でならなかった。
大体、無視したような相手のことをどうしてこんなに思ってくれるのか。それ自体も疑問だった。
朝霞さんへの申し訳なさと有難さにまた困り果てていると、母さんの不思議そうな声が聞こえる。
「でも、今は大丈夫なんでしょう? ごはんもあなたが用意してくれたみたいだし。なによ、なんで怒っているの?」
朝霞さんがなにに対して怒っているのかをまるで理解していない言葉。
そうだ、母さんはこういう人だ。
他人がどんなふうに思うかなんて想像しようとすらせず、自分の思ったことは他の人も同じように考えていると信じて疑わない。
こんな母さんには、なにを言っても届かないんだ。
「私のことは関係ないです! あなたは、三ツ橋くんの母親でしょう? なのにどうして――」
ガチャッ
声を荒くし始める朝霞さんの言葉を遮るように、俺はやっと玄関のドアを開けた。
これ以上、朝霞さんに話の通じない母さんの相手をさせるわけにはいかない。
話の様子では、どんな理由だとしても母さんの目的は俺の様子を見ることだ。俺が元気そうであれば、問題ないと判断してすぐに帰ってくれるだろう。
「あら? 真宙、元気そうじゃない」
案の定、母さんは朝霞さんのことなんて気にも留めず、俺の姿を見た途端大丈夫そうだと判断したようだ。
ある程度身なりを整えたとはいえ、マスクはしているし身体は怠いため動きは重い。ちゃんと見ればそこまで『元気そう』じゃないことくらいわかるはずだけど、母さんにとっては自力で動けてさえいるなら大丈夫らしい。
俺の様子を見てひとつ頷いた母さんは、笑顔になって体の向きを少し変える。
俺の部屋に背を向けようとしている様子なので、早々に帰るつもりなんだろう。
「よかった、彼女もいるみたいだし大丈夫ね。もう、こんな素敵な彼女ができたなら早く言いなさいよ。わざわざ私が様子を見に来る必要なかったじゃない」
最後の言葉は言わなきゃいいのに、と苦く思う。
相変わらず、自分の言動が相手を不快にさせるものなんだとこの人は理解できないのか。
俺の気持ちも察することができない母さんは、「じゃあね」と言い残し迷いなく去って行ってしまった。
後に残された朝霞さんとの間に微妙な気まずさを覚えた俺は、「なんか、母さんがごめん」と呟くように謝る。
でも「ううん」と軽く頭を振った彼女は、逆に俺へ謝罪してきた。
「むしろ私の方がごめんなさい。その、三ツ橋くんの家の事情はこの間少し先生から聞いていたから……ちょっと出しゃばっちゃった」
俺の事情を朝霞さんが知っていたことに少し驚いたけれど、別に秘密にしていたわけじゃないから「そう」とだけ返す。
実家が学校の近くにあるのに一人暮らしで、親を頼っていないってなったら当然疑問に思うだろうし、先生も説明せざるを得なかったのかもしれない。
「……」
「……」
なんとなく沈黙が下りて、俺はなにを話せばいいのかわからなくてそのまま無言になってしまう。
とはいえ暗くなってきているし、朝霞さんも早く帰った方がいいだろう。
夕飯を受け取って早く帰るように言おうかと思ったとき、彼女の方が先に口を開いた。
「幸せな悩みって……本当にその通りだね」
「え?」
「前に私のこと話したとき、三ツ橋くん『それは、幸せな悩みってやつじゃねぇの?』って言ったじゃない?」
「あ、それは……あのときは、ごめん」
朝霞さんの言葉に、そのまま無視してきたことまで思い出してしまい罪悪感が湧いてくる。
申し訳なさから謝ったけれど、朝霞さんは「いいの」とゆっくり頭を横に振った。
「言われた直後も、もっと苦労している人はいるんだからその通りだって思ったし。……それに三ツ橋くんには申し訳ないけれど、あのお母さんを見てすごく実感した」
「まあ、普通の母親とはちょっと違うからな」
俺は笑って、あえてそこまで酷くないように振舞った。
クズな母親だとは思っているけれど、他人からそれを突きつけられるのは苦しくて痛い。
朝霞さんは何かを言いかけたけれど、結局なにも言わずそれ以上母さんのことは言わないでくれた。
優しい子なんだな、って思う。
そんな優しい子に育った環境をうらやましく思うと同時に、その優しさが自分に向けられていることへの温かさが少しむずがゆい。
朝霞さんはその温かさを表すような優しい笑みを浮かべて、俺に向き直る。
昨日の月下美人を思わせる笑顔にドキッとしてしまう俺に、彼女は持ってきていたビニール袋を差し出した。
「これ、よければ今日の夕飯に食べて。長居したら三ツ橋くんの体調にもよくないし、私帰るね」
「あ、ああ」
変にドキドキしながらタッパーの入ったビニール袋を受け取った俺は、慌てて部屋に戻って昨日返しそびれていた分のタッパーを返し彼女を見送った。
***
朝霞さんは次の日も、その次の日も夕飯を持ってきてくれた。
このまま毎日でも夕飯を作って持ってきてくれそうな彼女の様子に、俺は出席停止解除となる前日の夕方にハッキリと告げる。
「今日までありがとな。明日から学校も行けるし、もう夕飯を持ってこなくても大丈夫だから」
「え?」
俺の言葉に、意外なことを言われたように驚く朝霞さん。まさかとは思っていたけれど、やっぱり今後も持ってくるつもりだったみたいだ。
「バイトもあるし、夜遅い日もあるから。あまり遅いと危ないだろ?」
無理な理由も伝えると、朝霞さんはグッと言葉を呑み込み眉を寄せる。
不満はありそうだけど、理解はしてくれたみたいだ。
そのことにホッとした俺は、最後にずっと疑問だったことを聞いてみることにした。
「にしても、朝霞さんはなんで俺の世話をしてくれたんだ? そこまで仲よかったわけじゃないし、直近だと逆に俺朝霞さんのこと無視しちゃってたっていうのに」
「あ、あれは私も悪かったし。人の事情も知らず自分は寂しくて辛いみたいに被害者ぶっちゃって……あー、思い出すと恥ずかしいよ」
羞恥心からか耳を赤くする朝霞さん。反省しているって状態なんだろうけど、ちょっとかわいいとか思ってしまった。
「それでえっと……なんで三ツ橋くんの世話をするかってことだけど……お礼、かな?」
「お礼?」
思ってもいなかった返答に目を何度も瞬く。
俺、なにかお礼を言われるようなこと朝霞さんにしたっけ?
思い返してみるけれど、まるで記憶にない。
首をひねっていると、朝霞さんは幸せそうに微笑んで話してくれた。
「うん、お礼。三ツ橋くんにとっては何でもないことだったと思うけれど、私にとっては日常を変える切っ掛けになったことなの」
それは去年の秋、学校での調理実習の授業のときのことらしい。
朝霞さんが味付けをした煮魚を俺が美味しいと言ったっていう、ただそれだけのこと。
言われて思い返せば、美味しい煮魚を食べたっていう記憶だけは残ってた。
「あれ、朝霞さんが味付けしたんだ……」
「うん。三ツ橋くんが美味しいって言って、喜んで食べる姿がなんだかうれしくて……もっと美味しいものを作ってみたいって思ったの」
そうして家でも作るようになって、両親に食べてもらったらとても喜んでくれたのだそうだ。
すると今度は元気でいて欲しいという思いから栄養面も考えるようになって、将来は栄養士になりたいという夢も見つけたんだと朝霞さんは目を輝かせて語る。
キラキラした朝霞さんが眩しくて、かわいくて……うらやましい。
俺は自分の人生を生きることに必死で、金を稼ぐことしか考えてこなかったから。
やっぱり、朝霞さんと俺は住む世界が違うと思った。
……でも、前に彼女から離れようとしたときとは少し違う心持ちになる。
住む世界は違うけれど、離れたいというわけじゃなくて、近くで見ていたいような……憧れに近い気持ちになっていた。
だから、かもしれない。
俺は自分から朝霞さんに近づくためのお願いをした。
「朝霞さんの料理、美味しかったよ。だからその……毎日じゃなくても、これからも食べさせてくれると嬉しい、かな」
もういらないと言った直後だから、少し気まずくて目を逸らす。
でもすぐには返事がなかったからチラッと様子を伺うと、彼女は驚きと喜びが合わさった表情をしていた。
「う、うん! もちろんだよ!」
快くお願いを聞いてもらえて安堵する俺に、朝霞さんは眩しい笑顔で続ける。
「三ツ橋くんに美味しいって言ってもらえる料理、頑張って作るね! そして、いつか三ツ橋くんの胃袋つかんでみせるから!」
いつもの大人しい雰囲気はどこへやら。興奮した様子で話す朝霞さんの最後の言葉にドキッとする。
胃袋をつかむって、それって……。
意図して口にした言葉かはわからないから、深掘りしないでおこう。
でも、少なくとも俺は……。
「もう、つかまれてるっての」
高揚している朝霞さんに聞こえるかどうかってくらいの声量で、俺は困り笑顔を浮かべながら呟いた。
END
少なくとも熱は完全に下がったと判断して、朝のうちに担任へ電話で伝える。
『ちゃんと回復したようでよかった! 発症したのが三日前だから……出席できるのは三日後だな。ゆっくり休めよ!』
朝から元気のいい声に少々うんざりしながら電話を切ると、次はバイト先に連絡した。
バイトも三日後から出られることを伝えると、店長から『しっかり休んでおけよ』と念を押すように言われる。
それほど念を押さないと休まない人間だと思われているんだろうか? と不思議に思った後で、思われているかもしれないと考えなおす。
金を稼ぐために必死になっていたから少しでも時間を惜しんでいたし、バイトもできる限りシフトを入れてくれと頼んでいたから。バイト先の店長から見たら、働きすぎじゃないかと思われても仕方ないかもしれない。
実際にはちゃんと睡眠時間は取っていたし、休んでいないわけじゃないんだけれど……。
「あー、でも寝ているとき以外は金を増やすために必要なことばかりしてたかも?」
思い返しながら呟いてちょっと自嘲する。
考えてみれば、高校生になってからは金のことばかり考えていたかもしれない。
クズな両親から離れたい一心だったし、こうして別々に暮らすようになってからも文句を言われないよう仕送りの金額を稼がなきゃと必死だったし。
幸樹たちと遊びに行くことはあるけれど、遊んでいる合間に株のチェックをするのが普通だったし。
熱を出して、強制的に休まざるを得なくなって、やっと金のことを一時忘れることができた状態だ。
もしかしたら、周りから見たら俺はかなり心配になるような生活をしていたのかもしれないと、この状態になって初めて気づいた。
「……株やニュースのチェックは、ほどほどにして休むか」
丸二日くらいチェックしていないので、まったく見ないのはさすがに怖い。でも、皆から『休め』と言われているのに無理をするのもよくないだろう。
インフルは幸樹にうつされたからだ! って思っていたけれど、もしかするとまともなごはんも食べず、バイトに株にと忙しくしていたから免疫力が弱っていたのも理由かもしれないし。
そう考えた俺は、午前中に株やニュースのチェックをして、昼食におかゆのレトルトを食べると横になり、軽く目を閉じる。
体力が戻ってなくて本調子じゃなかったんだろう。
そのままスーッと意識が沈んでいくのを感じた。
目を覚ましたのは部屋の中が薄暗くなったころだ。
窓の外を見てみると、太陽はかなり傾いていて空の色を変え始めていた。
スマホで時間を確認すると、午後四時を過ぎたところ。
結構寝たな、とぼーっとしながら考えていたけれど、そういえば朝霞さんが夕飯を届けに来るんだったと思い出して顔を洗いに洗面台へ向かった。
熱でそれどころじゃなかった一昨日はともかく、熱もない状態で寝ぐせも直さず人前に出たくない。
まして、月下美人のように綺麗な笑顔を浮かべた朝霞さんの前になんて出られるわけがない。
なんとなくそわそわした気分を落ち着けるように、顔を洗って寝ぐせがないか鏡でチェックしていると、玄関ドアの前がなにやら騒がしいことに気づいた。
誰かが言い争っているような……でもそこまで大きくはない声。
まさか朝霞さん? 誰かと一緒に来たのか?
でも一体誰と?
疑問に思いながら玄関ドアに近づくと、とても聞き覚えのある声がドア越しに聞こえてきた。
「だから、あなた真宙の彼女なんでしょう?」
気だるそうな、ため息も一緒に出てきているような話し方。
疲労感を常に纏わせたようなその声を、俺が間違えることはないだろう。
「……母、さん」
認識すると同時に、警戒心が体中を支配する。
俺にとって、母は庇護者ではなく搾取する者だ。
小さなころから、俺の時間や物、慕う心すら奪っていくだけの人。
産んで、生かしてくれていたのだから与えてくれたものもあったはずだけれど、積み重なった搾取された記憶はあの二年前の修学旅行の件ではじけた。
そして、期待すること、望むことを諦めたんだ。
だから離れることを決めて、まだ完全にではないけれど家を出ることで物理的には離れられた。
父も母も手間のかかることは嫌いだから、わざわざアパートへ様子を見に来ることもないだろうと思っていたのに。
どうして、来たんだよ。
苛立ちと、心のどこかでまだかすかに残っている期待がうっとおしくて、唇を噛む。
そのままドアの前で動けないでいると、母さんとは別の声も聞こえた。
「え!? いえ、彼女では……」
いつものように控えめな声が、戸惑いも露わに揺れている。
丁度訪ねてくると言っていた時間なのでいてもおかしくはないけれど、母と遭遇してしまうなんてタイミングが悪すぎる!
母さん、朝霞さんに何を言ってるんだ?
頭を抱えたくなるような状況に出ていけないでいると、母さんの暴走は加速していった。
「でも、真宙に夕飯届けに来たってさっき言っていたじゃない。彼女でもないのにそんなことしないでしょう?」
「それは……」
「もう、真宙もこんな彼女がいるなら早く知らせてくれればよかったのに。そうすればわざわざ様子を見に来る必要なかったじゃない」
「え? それはどういう……」
母さんの言葉に、朝霞さんが戸惑う様子が声だけで伺える。そんな彼女に申し訳ないと思うと同時に、何度も味わった諦めの感情でまた身体が重くなった。
「真宙が病気で学校を休んでるって、近所の同級生の子から聞いたから……聞いちゃったらさすがにほっとくわけにもいかないでしょう? でも、あなたみたいに真宙の世話をしてくれる彼女がいるなら、私がわざわざ世話をしてあげる必要もないじゃない」
ああ……やっぱり、母さんが俺のことを心配するなんてことはないんだな。
幾度も経験して諦めたはずなのに、また少し傷ついてしまっている自分にも嫌気がさす。
期待しないって決めたはずなのに、【家族】というものへの憧れが残っているせいか、もしかしたらと欠片にすらならないほどの小さな希望を探してしまう。
結局は傷ついて諦めることになるだけだっていうのに。
懲りずに期待して打ちのめされた俺の耳に、追い打ちをかけるような母さんの声が届く。
「まったくもう、来て損したわ」
ひゅっと、自分の喉が鳴った気がした。
心底無駄なことをしたとでもいうような声に、まともに息が吸えなくなる。
こういう親だってわかってた。わかっていたんだ!
言い聞かせるように心の中で唱えていると、震える小さな声がドアごしでもはっきり聞こえてきた。
「……損って、なんですか?」
朝霞さんのその声がいつもより低く感じたのは、ドア越しだったからか、それとも……
「心配じゃないんですか? 三ツ橋くん、一昨日は本当に辛そうだったんですよ?」
続いた言葉は、明らかに母さんを責めるもの。震える声には、怒りが滲んでいた。
そのことに、俺はとても驚く。
だって、俺は母さんに怒りを覚えることすら諦めてしまっていたから。
何を言っても無駄だってわかっているから、怒るより先に諦めることを選ぶようになっていた。
だから、俺のために怒ってくれる朝霞さんが不思議でならなかった。
大体、無視したような相手のことをどうしてこんなに思ってくれるのか。それ自体も疑問だった。
朝霞さんへの申し訳なさと有難さにまた困り果てていると、母さんの不思議そうな声が聞こえる。
「でも、今は大丈夫なんでしょう? ごはんもあなたが用意してくれたみたいだし。なによ、なんで怒っているの?」
朝霞さんがなにに対して怒っているのかをまるで理解していない言葉。
そうだ、母さんはこういう人だ。
他人がどんなふうに思うかなんて想像しようとすらせず、自分の思ったことは他の人も同じように考えていると信じて疑わない。
こんな母さんには、なにを言っても届かないんだ。
「私のことは関係ないです! あなたは、三ツ橋くんの母親でしょう? なのにどうして――」
ガチャッ
声を荒くし始める朝霞さんの言葉を遮るように、俺はやっと玄関のドアを開けた。
これ以上、朝霞さんに話の通じない母さんの相手をさせるわけにはいかない。
話の様子では、どんな理由だとしても母さんの目的は俺の様子を見ることだ。俺が元気そうであれば、問題ないと判断してすぐに帰ってくれるだろう。
「あら? 真宙、元気そうじゃない」
案の定、母さんは朝霞さんのことなんて気にも留めず、俺の姿を見た途端大丈夫そうだと判断したようだ。
ある程度身なりを整えたとはいえ、マスクはしているし身体は怠いため動きは重い。ちゃんと見ればそこまで『元気そう』じゃないことくらいわかるはずだけど、母さんにとっては自力で動けてさえいるなら大丈夫らしい。
俺の様子を見てひとつ頷いた母さんは、笑顔になって体の向きを少し変える。
俺の部屋に背を向けようとしている様子なので、早々に帰るつもりなんだろう。
「よかった、彼女もいるみたいだし大丈夫ね。もう、こんな素敵な彼女ができたなら早く言いなさいよ。わざわざ私が様子を見に来る必要なかったじゃない」
最後の言葉は言わなきゃいいのに、と苦く思う。
相変わらず、自分の言動が相手を不快にさせるものなんだとこの人は理解できないのか。
俺の気持ちも察することができない母さんは、「じゃあね」と言い残し迷いなく去って行ってしまった。
後に残された朝霞さんとの間に微妙な気まずさを覚えた俺は、「なんか、母さんがごめん」と呟くように謝る。
でも「ううん」と軽く頭を振った彼女は、逆に俺へ謝罪してきた。
「むしろ私の方がごめんなさい。その、三ツ橋くんの家の事情はこの間少し先生から聞いていたから……ちょっと出しゃばっちゃった」
俺の事情を朝霞さんが知っていたことに少し驚いたけれど、別に秘密にしていたわけじゃないから「そう」とだけ返す。
実家が学校の近くにあるのに一人暮らしで、親を頼っていないってなったら当然疑問に思うだろうし、先生も説明せざるを得なかったのかもしれない。
「……」
「……」
なんとなく沈黙が下りて、俺はなにを話せばいいのかわからなくてそのまま無言になってしまう。
とはいえ暗くなってきているし、朝霞さんも早く帰った方がいいだろう。
夕飯を受け取って早く帰るように言おうかと思ったとき、彼女の方が先に口を開いた。
「幸せな悩みって……本当にその通りだね」
「え?」
「前に私のこと話したとき、三ツ橋くん『それは、幸せな悩みってやつじゃねぇの?』って言ったじゃない?」
「あ、それは……あのときは、ごめん」
朝霞さんの言葉に、そのまま無視してきたことまで思い出してしまい罪悪感が湧いてくる。
申し訳なさから謝ったけれど、朝霞さんは「いいの」とゆっくり頭を横に振った。
「言われた直後も、もっと苦労している人はいるんだからその通りだって思ったし。……それに三ツ橋くんには申し訳ないけれど、あのお母さんを見てすごく実感した」
「まあ、普通の母親とはちょっと違うからな」
俺は笑って、あえてそこまで酷くないように振舞った。
クズな母親だとは思っているけれど、他人からそれを突きつけられるのは苦しくて痛い。
朝霞さんは何かを言いかけたけれど、結局なにも言わずそれ以上母さんのことは言わないでくれた。
優しい子なんだな、って思う。
そんな優しい子に育った環境をうらやましく思うと同時に、その優しさが自分に向けられていることへの温かさが少しむずがゆい。
朝霞さんはその温かさを表すような優しい笑みを浮かべて、俺に向き直る。
昨日の月下美人を思わせる笑顔にドキッとしてしまう俺に、彼女は持ってきていたビニール袋を差し出した。
「これ、よければ今日の夕飯に食べて。長居したら三ツ橋くんの体調にもよくないし、私帰るね」
「あ、ああ」
変にドキドキしながらタッパーの入ったビニール袋を受け取った俺は、慌てて部屋に戻って昨日返しそびれていた分のタッパーを返し彼女を見送った。
***
朝霞さんは次の日も、その次の日も夕飯を持ってきてくれた。
このまま毎日でも夕飯を作って持ってきてくれそうな彼女の様子に、俺は出席停止解除となる前日の夕方にハッキリと告げる。
「今日までありがとな。明日から学校も行けるし、もう夕飯を持ってこなくても大丈夫だから」
「え?」
俺の言葉に、意外なことを言われたように驚く朝霞さん。まさかとは思っていたけれど、やっぱり今後も持ってくるつもりだったみたいだ。
「バイトもあるし、夜遅い日もあるから。あまり遅いと危ないだろ?」
無理な理由も伝えると、朝霞さんはグッと言葉を呑み込み眉を寄せる。
不満はありそうだけど、理解はしてくれたみたいだ。
そのことにホッとした俺は、最後にずっと疑問だったことを聞いてみることにした。
「にしても、朝霞さんはなんで俺の世話をしてくれたんだ? そこまで仲よかったわけじゃないし、直近だと逆に俺朝霞さんのこと無視しちゃってたっていうのに」
「あ、あれは私も悪かったし。人の事情も知らず自分は寂しくて辛いみたいに被害者ぶっちゃって……あー、思い出すと恥ずかしいよ」
羞恥心からか耳を赤くする朝霞さん。反省しているって状態なんだろうけど、ちょっとかわいいとか思ってしまった。
「それでえっと……なんで三ツ橋くんの世話をするかってことだけど……お礼、かな?」
「お礼?」
思ってもいなかった返答に目を何度も瞬く。
俺、なにかお礼を言われるようなこと朝霞さんにしたっけ?
思い返してみるけれど、まるで記憶にない。
首をひねっていると、朝霞さんは幸せそうに微笑んで話してくれた。
「うん、お礼。三ツ橋くんにとっては何でもないことだったと思うけれど、私にとっては日常を変える切っ掛けになったことなの」
それは去年の秋、学校での調理実習の授業のときのことらしい。
朝霞さんが味付けをした煮魚を俺が美味しいと言ったっていう、ただそれだけのこと。
言われて思い返せば、美味しい煮魚を食べたっていう記憶だけは残ってた。
「あれ、朝霞さんが味付けしたんだ……」
「うん。三ツ橋くんが美味しいって言って、喜んで食べる姿がなんだかうれしくて……もっと美味しいものを作ってみたいって思ったの」
そうして家でも作るようになって、両親に食べてもらったらとても喜んでくれたのだそうだ。
すると今度は元気でいて欲しいという思いから栄養面も考えるようになって、将来は栄養士になりたいという夢も見つけたんだと朝霞さんは目を輝かせて語る。
キラキラした朝霞さんが眩しくて、かわいくて……うらやましい。
俺は自分の人生を生きることに必死で、金を稼ぐことしか考えてこなかったから。
やっぱり、朝霞さんと俺は住む世界が違うと思った。
……でも、前に彼女から離れようとしたときとは少し違う心持ちになる。
住む世界は違うけれど、離れたいというわけじゃなくて、近くで見ていたいような……憧れに近い気持ちになっていた。
だから、かもしれない。
俺は自分から朝霞さんに近づくためのお願いをした。
「朝霞さんの料理、美味しかったよ。だからその……毎日じゃなくても、これからも食べさせてくれると嬉しい、かな」
もういらないと言った直後だから、少し気まずくて目を逸らす。
でもすぐには返事がなかったからチラッと様子を伺うと、彼女は驚きと喜びが合わさった表情をしていた。
「う、うん! もちろんだよ!」
快くお願いを聞いてもらえて安堵する俺に、朝霞さんは眩しい笑顔で続ける。
「三ツ橋くんに美味しいって言ってもらえる料理、頑張って作るね! そして、いつか三ツ橋くんの胃袋つかんでみせるから!」
いつもの大人しい雰囲気はどこへやら。興奮した様子で話す朝霞さんの最後の言葉にドキッとする。
胃袋をつかむって、それって……。
意図して口にした言葉かはわからないから、深掘りしないでおこう。
でも、少なくとも俺は……。
「もう、つかまれてるっての」
高揚している朝霞さんに聞こえるかどうかってくらいの声量で、俺は困り笑顔を浮かべながら呟いた。
END



