不平等な世界に咲く花は

 朝霞さんとは少し気まずい状態で別れたけれど、元々学校でもあまり話さない相手だ。
 次の日の朝も特に話しをする機会もなく、普段通りに過ごす。
 なんとなくもの言いたげな視線は感じたけれど、気づかないふりをした。そうすれば、そのうち昨日のことなんて忘れてしまうだろうって、そう思っていたんだけど……。


「ぶえーっくしょん!」
「おい、大丈夫か?」

 五時限目が終わったころ、俺は盛大なくしゃみをした幸樹から避難しつつ声をかけた。

「ん、ああ……ダイジョーブ?」

 答えながらもどこかぼーっとしている幸樹は、どう見ても大丈夫じゃない。
 午後になってから様子がおかしいとは思っていたけれど、これは確実に熱があるだろう。

「とりあえず保健室行けよ。ってか、一人で行けるか?」

 座っている状態でもなんだかフラフラしている様子に、さすがに本気で心配になる。
 けれど幸樹は右手をひらひらさせて「一人で行けるって」と危なげに立ち上がった。
 そのまま不安定に体を揺らしながら歩こうとした幸樹は、なにかに気づいて「あ」と声を上げると俺に顔を向ける。

「そうだ、俺今日日直だからさ。なにか仕事あったら代わりに頼むわ」
「まあ、バイトに遅れない分にはいいけど……」

 日直は二人いるし、基本的にはもう一人が仕事をこなすだろうし。
 そう思って頷いて、そういえばもう一人って誰だっけ? と黒板に書かれている今日の日直の名前を見て軽く固まる。

 書かれていた名前は【藤原】。
 日直は基本的に男女ペアになるから、必然的に朝霞さんってことになる。
 あまり関わりたくないんだけどな……と思うけれど、日直の仕事は大体が黒板消したり日誌書いたりで、いつもは役割分担するだけで終わる。
 あとは六時限目とSHRだけだから、俺がなにかする必要はあまりないだろうって考えていた。
 なのに、帰りのSHRが終わるころ。最後の最後で手伝わなきゃならない事例が発生した。

 帰りの挨拶も終えて、みんなが部活や帰宅のため立ち上がる中、担任が「ああ、そうだ」と声を上げる。

「悪いが日直はこの提出物のノートやプリント、職員室まで運んでおいてくれ」

 言いながら、担任はチラッと教卓の上に積まれているノートやプリントの山を苦笑いで見つめていた。
 少し申し訳なさそうにしているけれど、そう思うなら提出期限ずらせばよかったのにと思わずにはいられない。
 でも、そんな苦言を今更言うわけにもいかないのか、日直である朝霞さんは「はい」と返事をして教卓の前に向かった。

 困った様子でノートなどを持ち上げようとしているけれど、ノートを持てばプリントが持てない。プリントをノートの上に置いて運ぼうとするけれど、プリントの量も結構あるからそれなりに重そうだし、下手すれば落として散らばる。
 どう考えても、一人だと二往復しなければならない量だった。

 朝霞さんと仲のいい女子は用事があるのか早々に帰ってしまったし、他に誰かが手伝う様子もない。
 俺も、幸樹に頼まれたとはいえ絶対に手伝わなきゃならないなんてことはない。

「この後、バイトもあるし……」

 つぶやくけれど、でもまだ時間はあるからな、と頭の中で否定の声がする。実際、職員室へ行って戻ってくるくらいは問題なかった。
 問題は、昨日のことで朝霞さんになにか言われるかもしれないっていう面倒さだけだ。
 面倒だから、で手伝わない選択もできる。

「でも、頼まれたしなぁ……」

 フラフラしながら保健室へ向かった幸樹も、別に絶対手伝って欲しいと思って言ったわけじゃないだろう。
 それでも根が真面目な俺は、頼まれたんだから手伝うべきだって心のどこかで思っている。
 はあ……と、俺は【面倒】って感情をため息で吐き出す。

 仕方ない、手伝うか。

 立ち上がって教卓の近くに行った俺は、朝霞さんの横から手を伸ばしノートの方を持った。

「え? あ、三ツ橋くん?」

 驚く朝霞さんに、俺は「幸樹に日直の仕事頼まれてたから」と少しぶっきらぼうに告げる。そしてさっさと教室を出た。
 そのまま別々で職員室に向かってもよかったんだけど、朝霞さんは「待って」と言いながら小走りで俺の後を追ってきた。
 横に並んだ彼女の手には、ちゃんとプリントの束がある。

 まあ、この状況で別々に行く方がおかしいよな。
 諦めに似たため息を朝霞さんに気づかれないように小さく吐きながら、俺は前を向いて無言で足を進めた。
 そんな俺に、朝霞さんは少しオドオドした様子で声をかけてくる。

「あの、手伝ってくれてありがとう」
「別に。さっきも言ったけど、幸樹に頼まれたからだし」

 昨日のことを聞かれたくないって気持ちから、ついそっけなく話してしまう。
 でも、そんな俺の考えなんて知るわけがない彼女は、一拍間を置いてからその話題を振ってきた。

「えっと、昨日のことなんだけど……ごめんね」
「……なにに謝ってんの?」

 昨日スーパーであったことの話題を出されただけでもうんざりだっていうのに、いきなり謝罪の言葉が聞こえてきてイラッとしてしまう。
 どちらかと言えば、謝るのは俺の方なんじゃないのか?
 人が何を買うかなんて他人が口を出すことじゃないし、もしかしたら昨日は何かの記念日で、いつもより奮発しただけだったのかもしれないし。
 それなのに勝手にイライラして、皮肉っぽく言って感じ悪い態度を取ったのは俺だし。

 ここで素直に『俺の方が感じ悪かっただろ。悪かった』って謝れれば良かったのかもしれないけれど……なぜかまたしてもイラついて謝罪の言葉を口にすることができなかった。

「えっと、三ツ橋くんの事情も知らないのに色々と突っ込んだ話しちゃったから……」
「それはそうだけど、実際知らないんだしある程度は仕方なくね?」

 気にする必要はないって意味で言ったけど、どこか突き放すような言い方をしてしまう。
 いつもだったらこれくらいの感情コントロールはできるはずなのに、なんで朝霞さんに対してはイライラを抑えられないんだろう。
 自分でも持て余している感情をどうすることもできなくて、これはもうさっさと職員室にノートを置いて帰るしかないなと少し足を速めた。

 俺がこれ以上昨日のことについて話す気はないってことはその行動だけでもわかりそうなものなのに、朝霞さんは俺にペースを合わせて早歩きし、話の続きを言葉にする。

「でも、昨日の私は節約してるっていう三ツ橋くんから見たら、腹立たしく思ってもおかしくない商品買ってたし」

 それでも俺が勝手にイライラしただけで、朝霞さんが悪いわけじゃない。
 あくまで自分に非があると言い募る彼女に、さすがに違うだろ、と呆れて口を開く。
 でも、声に出す前に朝霞さんの口から信じられない言葉が出てきた。

「うちの両親共働きで忙しくて、夜も遅いんだけど……毎晩夕食用にって、一万円置いていくから」
「は? 毎晩?」

 聞き間違いかと思った。
 きっと、一週間で一万円とかだろうって。それでも一人分の、しかも夕食だけの食費だとしたら多いど。
 でも、俺の耳がちゃんと聞き取れなかったわけじゃないという証拠に、朝霞さんはうつむきながらもコクンと頷いた。

「うん、毎晩」

 その答えがすぐには受け入れられず絶句していると、うつむいて俺の表情なんて見えていない朝霞さんは言葉を続ける。

「でも私はお金よりも、両親と一緒に夕飯を食べたいって思ってるんだ。一人の食事は寂しいから……」

 その言葉を聞いた瞬間、どうして朝霞さんにこんなにイラつくのかようやくわかった。
 何もかも、俺とは正反対なんだ。

 夕飯だけで毎日一万円?
 お金よりも両親と夕飯を食べたい?
 一人の食事は寂しい?
 ふざけんな!

 そのお金がなければ、食べることもまともにできないってのに。
 俺の母親は、病気を理由に食事の用意をしてくれたことなんてほとんどない。むしろ俺に料理や家事を押し付けてきていた。
 お金がないことを理由に、俺から色んなものを奪っていくのが俺の両親だ。
 あんな親と一緒に食事なんて、うんざりする!

 お金はあるけれど寂しい――幸せじゃないと主張する朝霞さんに、昨日の比ではない腹立たしさを覚える。
 ふつふつと、明確な怒りが湧いてきた。

 とはいえ、この怒りはただの八つ当たりで、ないものねだりでしかないってこともわかってる。
 だから怒りを押し殺して、それでも湧いてくる苛立ちを乾いた笑いで誤魔化した。

「それは、幸せな悩みってやつじゃねぇの?」

 ハハッと笑って、皮肉を込めた表情をつくる。
 八つ当たりはしないけど、もう俺に関わってこないようにと突き放すつもりで言葉を続けた。

「少なくとも、お腹空かないようにってお金置いてってくれてるんだろ? それすら無い家だってあるのに……寂しいって」

 俺の声音で皮肉を感じ取ったのか、朝霞さんはパッと顔を上げる。
 その顔には軽い驚きと困惑、そして焦りが表れていた。
 俺は前を向くことで、そんな朝霞さんから視線を外す。

「自分が恵まれてるなんて、考えもしないのな」
「ち、違うの! そんなつもりで言ったわけじゃ!」

 最後に言い捨てると、朝霞さんは長い髪を揺らすように首を振って明確な焦りを声に出す。
 でも俺は、この話は終わりとばかりにさっさと職員室へ向かった。

***

 その日以降、俺は朝霞さんを明確に避けるようになった。

「あの、三ツ橋くん、この間はごめ――」
「あー、次移動だっけ? めんどー」

 朝霞さんは俺に謝りたいのか、眉をハの字にして話しかけようとしてくるけれど、俺は聞こえないふりをして席を立つ。
 もう、わずかたりとも彼女と話したくなかった。
 朝霞さんとの会話は腹立たしいものばかりだし、この間の話で俺とは真逆の人間なんだとよくわかった。住む世界っていうか……今まで生きてきた環境が違いすぎて、彼女の言葉がすべて自慢しているようにしか聞こえない。
 さすがに被害妄想だってのはわかってるけど、どっちにしろ怒りしか湧いてこないんだから話す意味はないだろう。

 一緒に移動した友だちは「朝霞さんかわいそー」とか、「彼女お前になにしたんだよ?」と面白がるように聞いてくるけれど、それには「ちょっとな」と笑って誤魔化した。
 幸樹がいれば『女の子泣かすなよー?』くらいは返してきそうだったけれど、あいつは今登校していない。

 どうやらこの間の熱はインフルエンザだったらしく、今はまだ出席停止期間だから学校には来られない。
 一昨日やっと熱が下がった、とメッセージが来ていたから、きっと明日には来るだろう。

 まったく、俺にうつしてたら承知しねぇからな。
 ただの風邪ならともかく、インフルエンザになったらバイトも行けなくなるんだから。

 ……なんて思っていたその夜。
 最悪なことに熱が上がってきたのだった。