ヒメの出張ひとり酒



 * * *


(次の恋……か……)

 ユリナのあの言葉は、店舗ラウンド中もずっと私の胸の奥を突き刺すように渦巻いていた。次の恋なんてまだ考えられず、照れ隠しもあって思わず逃げるように支店を出てきてしまったけれど……。
 真司郎との日々が色褪せることはなく、むしろ鮮明に覚えている今、私なんかが次の恋をしてしまってもいいのだろうか。いや、少しずつ流れに身を任せてみるのも手なのかもしれない……なんて、そんなことばかりぐるぐると考えてしまう。
 中央区周辺の家電量販店をいくつか巡回しながらも、どうしても百パーセントは仕事に集中できない状態のまま足を動かしていた。

(まあでも……さすがに支店の近くの店舗は、私が触るところはなさそうだな……)

 幸いなことに、どの店舗も支店スタッフの手入れが隅々まで行き届いており、とても綺麗な売り場が保たれていた。そのおかげで、完全な仕事モードではない頭の中でも、何とか巡回を無事にこなすことができた。

(はぁ……もうこんな時間か……)

 いつまでもウダウダと考え込んでいる自分が、急に馬鹿らしくなってきた……。
 最後の店舗巡回を終えると、近くのカフェに飛び込んでサクサクッと本日の日報と報告データを送信した。気持ちはもう、ユリナが教えてくれたジンギスカン屋に向かっている。

(よし! 今夜も思う存分呑んで食べて……最高の形で北海道出張を締めくくるぞ!)

 駅のコインロッカーへ戻り、預けていたキャリーケースを回収。そのまま予約しておいた駅近くのビジネスホテルへチェックインを済ませ、荷物を部屋に投げ入れた。
 スマホの地図アプリを起動し、目的地にピンを立ててすすきのの街角を目指す。札幌の中心街は美しい碁盤の目状に道路が整備されているため、私のような方向音痴でも迷うことなく目的のお店まで向かうことができた。

(ここね……今日のお店は)

 ユリナに見せてもらった写真そのままの、年季が入った渋い店構え。近づいてよく見るとしっかりと手入れが行き届いており、レトロな雰囲気の中にも幅広い客層から愛されている丁寧な管理が伺えた。
 飲食ビルの一階に構えているお店の赤ちょうちんには、黒文字で『たまき』と書かれている。それがこのお店の名前だ。

「いらっしゃいませ! おひとり様?」

 中に入ると、ちゃきちゃきとした明るいおばちゃんがとびきりの笑顔で迎えてくれた。家庭的なエプロン姿が、少し緊張していた私の心をすっと和ませてくれる。

「はい、ひとりです」
「じゃあ、カウンターの奥へどうぞ」

 店内は厨房をぐるりと囲むコの字型のカウンターが中心で、奥には小上がりが数席。私はカウンターの一番奥の席へと腰を下ろした。

「お飲み物は何にする?」
「生ビールをください」
「はいよ。お姉ちゃん、このお店は初めて?」
「あ、はい。出張で東京から来てて」
「あらま、東京から? 遠いところから、ありがとうね」

 おばちゃんは目尻を下げて嬉しそうに微笑むと、奥のサーバーへ向かった。ほとんど待つ間もなく、黄金色に輝く生ビールジョッキを手に戻ってきた。

「はい、生どうぞ。注文はどうする? 初めてなら『満足セット』を頼んじゃうのが手っ取り早くておすすめだよ」
「満足セット?」
「そうそう。もも肉に肩ロース、それとウチの名物のラムチョップまで、人気のお肉と焼き野菜が一度に味わえるお得なセットね」

(あ……それ、わかりやすくていいかも)

「じゃあ、それをお願いします。あ、キムチ盛り合わせも」
「はいよ。今、鍋に火つけるね」

 それぞれの席の前に一台ずつセットされてある、中央が盛り上がったドーム型の鉄鍋に火がついた。本場で食べる最高のジンギスカンがこれから始まるのだと思うと、ワクワクが止まらない。

(どうやらまだ、先客はいなさそうだな……)

 ぐるりと店内を見渡しながら、まずはキンキンに冷えた生ビールを喉へと流し込む。ゴクゴクと喉を鳴らした瞬間、最高の快感が全身を突き抜けた。
 まだ外が明るいうちからアルコールを体に流し込んでいるという、この背徳感とちょっとした優越感。出張のときは定時なんてあってないようなものなので、ひとり酒好きにはこれ以上ないほど合っている職業だと、改めて感謝したくなる。

「はい、キムチ盛り合わせ。それから、お肉と野菜ね」

(う、うわぁ……豪華……)

 運ばれてきた大皿には、さっきおばちゃんが言っていた三種類のお肉が。あとはモヤシやピーマン、タマネギとニンジンが色鮮やかな野菜。キムチも白菜、カクテキ、オイキムチがツヤツヤと輝いている。
 手早く、写真をパシャリ。

「私が焼いちゃってもいい? 美味しく焼いてあげるわよ」
「本当ですか? ぜひお願いします!」
「お姉ちゃん可愛いからね。頑張っちゃうわ」

 ここでもまた、お店の人の温かいお姫様扱いに甘えさせていただけるなんて。早い時間にお店を訪れた自分の選択を、心から自画自賛した。
 しっかりと油が引かれた鍋に、おばちゃんは慣れた手つきでまず野菜を投入。鍋の縁をくるりと囲むように、モヤシを中心とした野菜たちが配置されていく。
 そして、煙がふわりと立ち上る鍋の一番高い中心部分に……いよいよメインのラム肉が乗せられた。

(見てるだけで最高……)

 まずはキレイなピンク色のもも肉と、程よく脂身のある肩ロースが三枚ずつ。計六枚のラム肉が、ドーム型の頂上でジューッという音を立てて並んだ。
 ほんの一分も経たないうちに、おばちゃんの熟練の手つきで素早くひっくり返される。絶妙なタイミングでついた香ばしい焦げ目と、フツフツと表面に浮き出る脂の輝き……それは間違いなく、絶対に美味しいことを約束する確定演出だった。
 おばちゃんはキムチの隣にセットされた特製タレの小鉢へ、焼き上がったお肉をテンポよく運んでくれる。

「はい、焼き上がったよ。野菜はもう少ししてからね」
「うわぁ、ありがとうございます!」

(待ってました、本日の主役。まずはもも肉から……)

 一口サイズにカットされたもも肉は、箸で持ち上げただけでもそのしなやかな柔らかさが伝わってくる。表面から肉汁と上品な脂がたらりとタレの中へ滴り落ちた。
 そのまま豪快にパクリと口に含むと、噛みしめた瞬間にラム肉特有の濃厚な甘みとコクのある旨味を感じることができた。

(え、全然臭みがない……見た目通りすごくさっぱりしていてヘルシーなのに、お肉としての満足感とパンチがしっかりある。なんて絶妙な美味しさなんだろう……)

「はい、お次は肩ロースが焼き上がったよ! 野菜も脂がしっかり染みていい感じだから、そろそろ取って食べていいわよ」

 おばちゃんの威勢のいい声に促され、特製タレの中にドボンと浸かった肩ロースと、肉の旨味をたっぷり吸い込んだモヤシや香ばしいタマネギを小皿に引き寄せる。
 まずは贅沢に、肩ロースだけを一口で口へと運んだ。

(うわぁ、さっきのもも肉と違って、こっちはジューシーな感じがするな。赤身の旨味と脂身の甘さのバランスが完璧で、全然重さを感じさせずに肉本来の美味しさが最大限に引き出されてる……)

 ラム肉の濃厚な旨味は、当然のように冷えた生ビールと相性抜群だった。ドームの頂上から滴り落ちる、ラム肉の極上な脂をたっぷり吸った野菜たちも絶品だ。シャキシャキの歯ごたえを残しながらも旨味がしっかり染み込んでいて、もはや主役の座を脅かすほどの美味しさを口の中で主張していた。

「はい、じゃんじゃん食べて」

 タレの中に、焼き上がったお肉がどんどん追加されていく。もも肉も肩ロースも、すべてが一番美味しい一瞬を捉えた完璧な焼き加減だ。
 この二種類のお肉は、どちらか一つなんて絶対に選べないくらい、それぞれ違った魅力がある。どっちもおかわりしてしまおうか本気で迷うくらい、美味しかった。
 焼かれているところも、忘れずに写真に収める。

(あ、キムチも食べないと……)

 ジンギスカンとビールの黄金コンボに夢中になりすぎていた自分をちょっと反省しつつ、白菜、カクテキ、オイキムチの順番で箸を伸ばしていく。

(ん、そこまで辛くない。今の口の中に、この酸味はちょうどいいな……)

 キムチの旨味で最後の一滴まで生ビールを飲み干すと、ジョッキが空いた瞬間を見逃さず、おばちゃんが「次は何にする?」と声をかけてくれた。実はさっきからメニュー表を眺めていて、ずっと気になっていたお酒があったのだ。

「この、コーン茶ハイというのをください」
「はいよ。北海道に来たら、やっぱりコーン茶ハイ飲まなきゃね!」

 おばちゃんは一旦トングを置き、嬉しそうにドリンク作りへと向かった。その間も、特製タレがたっぷりと絡んだお肉たちをパクパクと口へ運ぶ。噛みしめるたびにあふれる旨味に、どんどんジンギスカンの深い底なし沼へハマっていきそうだ。

(しかもまだ、ラムチョップが残ってるなんて……)

 この満足セット、結構ボリューミーだ。おかわりか、それか他のお肉を追加するのも魅力的だけど……よく考えたらこのセットを完食するだけでも、百パーセント満たされちゃいそう。

「はい、コーン茶ハイお待たせ! じゃあ、いよいよ真打のラムチョップ、焼いていこうかしらね!」
「ありがとうございます! 待ってました!」

 ジンギスカン鍋の中央に、貫禄ある厚切りのラムチョップが鎮座した。その焼き音だけで、自然とコーン茶ハイに手が伸びた。グラスを握りしめた瞬間、ブロガーとしての写真を撮らなきゃという使命感が脳内を駆け巡った。

(危ない危ない……いつも忘れそうになるのよね)

 出来立てのコーン茶ハイと、香ばしく焼かれていく真っ最中のラムチョップをしっかりフレームに収め、喉へゴクッと一口流し込む。グラスに口を近づけた瞬間から、香ばしいコーンの芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。

「うわ、美味しい……」
「でしょ? 北海道のトウモロコシってやっぱり美味しいのよ。そりゃあ流行るわよねぇ」
「このさっぱり感、絶対お肉と合いますね」
「そう思うでしょ? それじゃあ、ご賞味あれ」

 小皿の上に、ドカンと焼き色のついたラムチョップが運ばれた。少し半生なくらいがちょうどいいのか、多少の赤身が残っている。写真に収めながら疑問に思っていると、おばちゃんが察したように解説してくれた。

「ウチのラム肉は新鮮だから、これくらいの焼き加減がベストなの。特にラムチョップは焼きすぎ厳禁ね。タレを軽くつけて食べてごらん」
「わかりました……それでは、いただきます」

 骨の部分を豪快に手掴みして、海賊のようにお肉に噛みつく。一口噛んだ瞬間、お肉がホロリと解け、ラム特有のクセのない上質な甘みが弾けた。あふれ出す肉汁が舌全体を包み込み、噛むたびに圧倒的な多幸感が全身を駆け抜けていく。

(うわっ! 今日一出たよ……)

 飲み込んだ後、口の中に残る極上の余韻を追いかけるようにコーン茶ハイを一気に煽る。まさかラムチョップの一口だけで、ここまでお酒が進むなんて……自分でも驚きだった。

「おかわりでいい?」
「あ、お願いします!」

(今日はもう、コーン茶ハイオンリーでいいや)

 改めて自分の席の、全体を見渡してみる。お肉も野菜も、キムチだって……まだまだ楽しめる量は残っている。そろそろ他のお客さんも入ってくる頃だろうし……残りは自分で焼かないとな。
 おばちゃんがコーン茶ハイを持ってきたタイミングで、予想通り次のお客さんが店に入ってきた。

「ああ、あなた来たのね」
「おうおう。腹減っちまってな」

 コの字カウンターの、ちょうど真ん中に通されるおじちゃん。ハンチングとラフな長シャツで、目尻の下がった温和な表情を浮かべている。何よりおばちゃんと自然体に言葉を交わす空気感から、「あ、このお二人はご夫婦だな」と直感した。

「この人、私の旦那なの。いつも仕事帰りにこうやってフラッと寄っていくのよ」
「何、またお客さんと仲良くなったの? ごめんね、ひとりで楽しみたいだろうに」
「い、いいえ! むしろ焼き方から何からすごく親切にしていただいて! 本当に助かりました!」

 二人は顔を見合わせて、ふふふと楽しそうに笑い合った。その長年連れ添った夫婦ならではのやり取りだけで、お互いへの深い愛情と信頼が垣間見える。淡々と手際よく仕込みや準備を進めるおばちゃんと、その愛おしそうな様子を眺めながら幸せそうにビールを煽るおじちゃん。そしてそれを横目で見守りながら、ひとり酒を楽しむ私……。
 ゆったりとした時間が、小さなコの字カウンターを包んでいる。

(家に帰れば会えるのに……奥さんの職場にまで出向くなんて、素敵な旦那さんだな……)

 ……私も、いつかはそんな相手が見つかるのだろうか。真司郎以外にそんな相手、見つかるとは思えない。
 でも、ユリナに言われた通り、いつまでもこのままというのは……それはそれで寂しい……。

「お姉さん、彼氏はいるの?」

 考え込みながら箸を動かしていた私に、おじちゃんが屈託のない笑顔で話しかけてくれた。ちょうどお肉と野菜を運んできたおばちゃんが、すかさず「デリカシーないわね」と呆れ笑った。

「あ、い、いや……いないんです……」
「あれま、こんなに美人さんなのに? 世の男は何やってるんだか。俺が独身なら放っておかないのに」

 おばちゃんはトングで叩くフリをしながら「この年寄りが」とツッコんだ。茶目っ気たっぷりなおじちゃんに、笑みがこぼれる。
 おばちゃんは私に焼いてくれたときと同じように、手際よくおじちゃんの分のお肉と野菜を鍋へと並べていく。そしてトングを動かしたまま、私に向かってぽつりと優しく呟いた。

「ありのままでいいの。そのままでいれば、きっとなるようになるわ……」

 今までのちゃきちゃきとした賑やかな様子が嘘のように、私の背景や抱えている迷いまで見透かしたかのように言葉にする。その瞬間、肩の荷がふっと下りたような……急に視界が拓けて気持ちの整理がついたような、不思議な解放感に包まれた。

「そう……ですよね……」

 次の恋なんて、無理に自分から焦って追い求める必要はないんだ。誰かに言われたからと背伸びする必要も、急いで答えを決める必要もない。私はただ、自分のペースで、ありのままに生きていけばいい。まったく、おばちゃんの言う通りだった。
 何だか、すごく腑に落ちた。

「何だったら、俺が面倒見ようか?」
「この変態ジジイ。ビールお預けにするよ」
「冗談冗談。お前だけに決まってるだろぉ」

 漫才のような二人の温かい空気感は、今の私にはとても心地よかった。それからは残りのジューシーなお肉と脂の染みた野菜、そして旨辛なキムチをアテに、絶品のコーン茶ハイを二杯ほどおかわり。食べ終わる頃には、胃袋もいい感じに膨れ上がっていた。
 お店を出るその瞬間まで、ご夫婦は私を会話に交えて、終始笑わせてくれた。

「また札幌来るときはおいでね!」
「もちろんです! 出張のときは、また寄ります!」

(はぁー、胃袋も心も、またまた満たされちゃったぁ)