ヒメの出張ひとり酒



 * * *


 教えてもらった『麺処・きたの』は、駅前にあった。店の前には二、三人ほどの先客が並んでおり、ガラス越しに見える店内はカウンター席のみのこぢんまりとした造りだった。
 最後尾に並びながらスマホのメモアプリを開き、さっきのお店で味わった感動や料理の特徴を忘れないうちに書き留めておく。

「おひとり様ですか?」

 その声の主は、大学生くらいのみずみずしく溌剌とした笑顔の女の子だった。

「あ、はい!」
「少々お待ちくださいね……あ、ちょうどお席空きましたので、どうぞ中へお進みください!」

(あ、もう私の順番だ……! メモに夢中で全然待った気がしなかったな)

 店内へ足を踏み入れると、目の前の厨房から立ち上る湯気と熱気がダイレクトに頬を包み込んだ。わざわざ目の前のメニュー表を開くまでもなく、頼むものは最初から決まっていた。

「塩ラーメンをお願いします」

 お冷を持ってきてくれた女の子へ、迷いなく流れるように注文を告げる。彼女が「塩一丁!」と弾けた声で厨房へ通すと、中でチャキチャキと手際よく麺を茹で上げていたイケオジ店長が、「ありがとうございまーす!」と渋く威勢のいい声を響かせた。

(狭い店内に満ちるこの活気……さすが人気店なだけあるなぁ)

 両隣から聞こえる麺を啜る音が、こちらの食欲を容赦なく刺激してくる。あれだけ居酒屋で美味しいものを堪能したというのに、私の舌と胃袋は早くも〆の塩分を欲してウズウズしていた。

(あ……きっとさっき大将にもらったチョコのアイスを食べたから、甘さの後に塩っ気が恋しくなってるんだな)

 大将の不器用な優しさに包まれた温かい余韻に浸りながら、湯気が立ち上る厨房の手際よい動きをぼんやりと眺める。ほどよく回ったアルコールの心地よさも手伝って、胸の高鳴りは最高潮だ。
 そういえば、真司郎も〆のラーメンが大好きだった。太るからほどほどにって、よく言っていたけど……アルコールが入ったら毎回そんなの関係なくなる。
 いつも真司郎と……次の日に反省してたっけ……。

(……またしんみりしちゃったよ。まあ、いい思い出を振り返るのも、悪くないけど……)

「はい、塩ラーメンお待たせしました!」

 イケオジ店長が、職人らしいキリッとした笑顔とともにカウンター越しに丼を差し出してくれた。器の底から伝わる熱さを感じながら、両手で大切に自分の手元へと受け寄せる。

(透明なスープに、細めのちぢれ麵。半分に割られた半熟卵と、凛と鎮座する一枚のチャーシュー。あとはネギとメンマか……見た目は美しいけど……肝心な味のほうは……)

 期待を胸にレンゲを握り、鶏油がキラッと光るクリアなスープを掬い上げた。熱を冷ますように息を吹きかけてから、一口口に含んだ。

(やっぱり……味わい深いなぁ。この染みる感じ最高だ……)

 ガツンとくる塩気ではなく、鶏と昆布の奥深い旨味が口の中に広がる。塩分と旨味のバランスが信じられないほど完璧で、これだけでも永遠に飲めてしまいそうな極上のスープだった。

(ここでスープに夢中になりすぎてはいけない……いよいよ次は、主役である麺の番だ)

 割り箸をパチンと割り、ちぢれ麺を勢いよく持ち上げた。一気に口へ滑り込ませ、ズズッと豪快に啜り上げる。

(……はい、文句なしの優勝。スープが麺のちぢれにしっかり絡んで、噛むたびに小麦の香りと旨味が爆発する。函館といえば塩ラーメンっていう言葉の意味が、この一杯で完全に理解できた……)

 一度動き出した箸はもう誰にも止められない。勢いよく麺を啜り上げ、絶妙なタイミングで旨味の染み込んだメンマやホロホロのチャーシュー、シャキシャキのネギを口の中へ放り込んでいく。
 あっさりとしているのに、胃袋と心がこれ以上ないほど満たされていくようだ……。

(そしてラストは……大好きな半熟玉子で締めくくる)

 好きなものは、最後まで取っておくタイプだ。麺もスープも、惜しみつつあっという間になくなっていく。
 今日という最高の一日の締めくくりとして、黄身がトロリと溶け出す半熟玉子を大切に噛みしめた。

(私にこのお店を教えてくれたヤガワ電機のおじさん、本当にありがとう。おかげで、間違いなく最高の函館出張になりました……)

「ごちそうさまでした!」

 丼をカウンターのつけ台に乗せ、元気よく声をかけて店を出る。海鮮にザンギ、美味しい北海道のお酒と、〆の塩ラーメン……これ以上ないほど函館の夜を満喫し尽くした。一泊だけでは惜しいくらい、この街は最高だ。

(明日の朝は、浮腫むの確定だな……)

 ホテルへ続く夜道をひとり歩きながら、思わず口元がほころぶ。夕方の四時という早い時間から繰り出していたおかげで、これだけ大満足したというのに時計の針はまだ夜の七時を少し過ぎたところだった。
 部屋へ戻ったら、今日撮り溜めた写真と一緒にさっそくブログの記事を書こうと頭の中で計画を練る。

(いやいや……明日も朝早いんだから、今夜はちゃんと体を休めないと)

 明日の早朝、特急に乗って札幌へと向かう予定だ。実は今回の北海道出張は、函館だけでは終わらない。明日もう一泊のスケジュールが残っているのだ。
 次の目的地は、北海道の中心地・札幌。
 札幌には会社の支店があるため、家電量販店の店舗ラウンドはほどほどに、支店にいる社員との面談がメイン業務となる。

 つまり、明日も私は仕事の終わりに、北海道の食に全力で興じることができるのだ

(あぁ……本当に素敵な出会いばかりの夜だったなぁ)

 ホテルに入る前に、もう一度大将の「頑張れよ」という渋い声を思い出した。背中を優しく押してくれるようなその声に重なるように、夢の中に出てきた真司郎の柔らかい笑顔が頭に浮かぶ。

(よし! もっともっと全国の美味しい料理とお酒で、私の人生と『うまいもん記』を満たしていくぞー!)

 フォロワーが十万人に到達するまで……どれだけの月日がかかるかわからないし、達成できないかもしれない。
 それでも私は、真司郎と一緒に追いかけたあの愛おしい夢を叶えるために……この出張ひとり酒に、生きる価値を見出していくのだ。