ヒメの出張ひとり酒



 * * *


 二店舗目、三店舗目でも同じようにテキパキと的確なチェックと指示を行い、今回の函館ラウンドの目的は無事に達成された。これにて、今日の業務はすべて終了。計画通り、時刻は夕方の四時を過ぎる手前だった。

(あぁ……立ちっぱなしで喋り倒したから、喉がカラカラだ。一刻も早く、キンキンに冷えたやつでこの喉を潤したい……!)

 もちろん、最初の一杯はビール一択だ。お腹の準備も万全で、とっくに心地よい空腹状態を迎えている。
 危なかった……もし朝のうちにあの『やきとり弁当』を食べていなかったら、今頃は空腹を通り越して倒れていたかもしれない。
 やっぱり、私の判断は間違っていなかった……。

 自分に見事な正当化をして頷くと、私はすぐに行動を開始した。

(まずはホテルにチェックインしないと……)

 駅前のレンタカー屋へ向かって車を返却。そこから歩いて三分ほどの場所にあるビジネスホテルへチェックインし、部屋にキャリーケースを放り込んだ。一息つく暇すら惜しむように、私はすぐさま部屋を飛び出す。

(よーし……ついに、私の時間がやってきたぞ)

 実は三店舗目のカメラ屋を出る直前、会社に提出すべき日報はすべてスマホで送信した。つまり、ここからは完全に仕事の呪縛から解放された自由な時間。
 私の本当の函館出張が、今スタートするのだ。

(この時間から開いているお店は……どこかにないかなぁ)

 駅前のお店や、大門横丁という、駅の近くにある函館市内でも有名な屋台村まで歩きながらチェックする。さすがに午後四時台はまだ、準備中の札を掲げているお店がほとんどだった。
 暖簾が出ている数軒も、どこか観光客向けの小綺麗な雰囲気が漂っている。

(こういうのじゃないんだよなぁ。もう少し小道に入ったら、案外やっているお店があったりして……)

 駅前の大きな車通りには、ガタゴトと音を立てて路面電車が走っている。東京では滅多に見られないノスタルジックな風景を横目に見送りながら、私はあえて人通りの途絶えた細い小道へと折れ曲がった。
 観光客が行き交う華やかなエリアとは対極にある、少し寂れた昭和の香りが残る路地裏。

(あ! やっぱり!)

 思わず声が出そうになった。自分の直感を信じて曲がり角を曲がったすぐそこに、まさに私が探し求めていた理想の光景が広がっていたのだ。
 風にそよぐ、使い込まれた朱色の赤ちょうちん。その奥には、営業中の文字が書かれた渋い暖簾がかかっている。
 木造の建物は長年の年月を感じさせ、店構え全体からあふれ出るような、渋い味を醸し出していた。

 お世辞にも二十代の女性がふらりとひとりで入るようなスタイリッシュなお店ではない。普通の同年代の女子なら、このような雰囲気の居酒屋は眼中にないのだろう。
 だけど、私にはこの佇まいが心から愛おしい。地元に長年根差し、地元の酒好きたちに愛され続けてきたお店にしか出せないこの独特の空気感こそが、私の大好物なのだ。

(よし、今日はここで決まりだ……)

 今日の目当ては海鮮だ。風に揺れる暖簾には、力強い文字で『浜の屋』と印字されていた。名前からして、私の欲望を叶えてくれる予感しかしない。
 意を決して、少し建付けの悪い木製の引き戸をガラガラと引く。視界に飛び込んできたのは、右手に五席ほどの小さなカウンターとコンパクトな厨房。左手にはこぢんまりとした小上がりの座敷が二席。
 長年の油と煙でほんのり黄ばんだ壁紙が、このお店が重ねてきた歴史と居心地のよさを物語っていた。

「あら、いらっしゃい!」

 パリッと糊のきいた割烹着を身にまとった女将さんが、花が咲くような笑顔で出迎えてくれた。奥の厨房には、短く切り揃えた白髪と一筋縄ではいかなそうな表情を浮かべた、いかにも頑固そうな大将が立っている。
 このお店にはおよそ似つかわしくない若い女性客が入ってきたからか、大将は一瞬だけピクッと眉を吊り上げた。
 女将さんが「こちらへどうぞ」とカウンターの一番奥の席へ案内してくれると、大将は何も言わずにすっと視線を外し、再び手元の作業へと集中し始めた。

「こんなに若くて可愛い子が来てくれるなんて……ちょっと驚いちゃったわ」
「私、赤ちょうちん系の居酒屋が大好きで。ついつい、入ってしまいました」
「あら、だいぶ物好きね。あなた、こっちの人じゃないでしょ?」
「ええ、仕事で東京から来ました」

 女将さんは「あらっ」と可愛らしく両手を頬に当てて驚いてくれた。一方の大将は、相変わらず表情一つ変えずに黙々と包丁を握っている。

「飲み物は? 何にする?」
「とりあえず、生で」

 店内の黄ばんだ壁に並ぶ古びたメニュー短冊と、手元に置かれた品書きに目を走らせながら、頭の中でオーダー票を組み立てていく。

(まずは何といっても絶対に外せないイカ刺し……あ、やっぱり北海道に来たらザンギも外せないな。それから、それから……)

「はい、生お待ち。これ、お通しね」

 注文する前に運ばれてきたのは、表面が白く凍りつくほどキンキンに冷えたジョッキ。黄金色の液体と白い泡が美しい黄金比を描いている。お通しのつぶ貝は、照りのある甘辛いタレでじっくり煮込まれたものだった。
 口をつける前に、スマホを取り出し一枚パシャリ。

「よし、それじゃあいただきます」

 まずはこの渇いた喉を潤さなければ、何も始まらない。女将さんのにこやかな視線を心地よく受け止めながら、ゴクゴクと喉を鳴らして冷えたビールを胃袋へ流し込んだ。

(これこれ……この瞬間のために、生きてるんだよなぁ)

「ふふ、いい呑みっぷりねぇ。ご注文は決まった?」
「あ、はい! とりあえず、イカ刺しとザンギをお願いします。それと、何かおすすめはありますか?」
「そうねぇ……今日のホッケは脂が乗ってて美味しいよ」
「おお、じゃあそれいただきます!」
「ちょっと量が多いから、ハーフにしておくね」

(うわぁ……女将さんの気遣い、完璧だ。本当にいいお店を引き当てたな……)

 女将さんの温かい接客に胸を打たれつつも、私の手は吸い寄せられるように目の前のお通しへ伸びていた。出汁に浸った浅めの鉢に並ぶつぶ貝。その一つ一つに、爪楊枝が丁寧に刺さっている。身の端に爪楊枝を引っ掛け、クルリと身の形に沿って捻り出すと、艶やかなつぶ貝の身が途切れることなくツルンと顔を出した。
 思わず口元をほころばせながら、豪快に口の中へ放り込む。

(コリッコリだぁ……味付けも優しくて、今正式に函館の街から、『ようこそ』って歓迎された気がする)

「はい、イカ刺しお待ちどうさま」

 お皿の柄が透けて見えるほど透明に澄み切ったイカの身。一目見ただけで、その異次元の新鮮さが伝わってくる。そして脇には、これでもかと言わんばかりに生姜がどっさりと添えられていた。

(待ってました、本日の主役! 函館の人は、生姜醤油で食べるのが定番なんだっけ……)

 この神々しい姿をサッとスマホで写真に収めると、小皿の醤油へ生姜をたっぷりと溶かし込む。もう指先が「早く食べさせろ!」と歓喜の悲鳴を上げていた。
 細切りにされた透明なイカを贅沢にガバッと掴み上げる。何本掴んでいるのかもわからないまま、一気に口の中へ運んだ。

(……やば! 粘り気とか臭みなんて皆無。歯ごたえと、この繊細で上品な旨味……今まで生きていて食べたことない……)

「どう? 美味いっしょ?」

 女将さんがカウンターに手をつきながら、自慢げに微笑みながら問いかけてくる。
 私は言葉にならない感動を全身で表現するように、目を限界まで見開いて何度も大きく首を縦に振った。

「こんなに新鮮なイカ刺し……食べたことないです!」
「こっちじゃこれくらい普通なんだけど、やっぱり内地の人はみんな驚くわね」
「ないち……ですか?」
「ああ、内地じゃ伝わらないのよね。北海道以外の地域のことよ。本州から来たお客さんのことを、私たちはよく『内地の人』って言うの」

(へぇ……やっぱりこういうお店に来ると、その土地ならではの文化や言葉が知れて面白いなぁ)

 感動の余韻とともに、残り半分になったビールを一気に飲み干そうとした……その瞬間、ガラガラとお店の引き戸が威勢よく開いた。

「あら、いらっしゃい! 今日は早いのね」
「ちょっと小腹が空いちゃってさ。生ちょうだい」
「はいよ」

 入ってきたのは、すでに定年を迎えているであろう小柄なおじさんだった。分厚いレンズのメガネの奥から、優しそうな目を覗かせている。おじさんは迷いのない足取りで、カウンターの一番反対側の端席へ腰掛けた。これで五席ほどのカウンターの両端が埋まったことになる。
 ふとおじさんは私のほうに視線を向けると、「あれま、こんな若いお嬢さんがいるなんて珍しいねぇ」と、愛嬌たっぷりの笑顔で話しかけてくれた。

「そうなのよ。東京からお仕事で来られたんだって。はい、生お待たせ」
「へぇ、そうかいそうかい。綺麗なお店なんていくらでもあるのに、わざわざこんな渋い店に来てくれるなんて嬉しいねぇ。ねぇ、大将?」

 おじさんがキッチンで黙々と作業をしている大将に話しかけると、相変わらず無表情のまま一度だけ小さく頷いた。
 まだ私自身はおじさんに言葉を返せていないというのに、お店全体に漂う温かさに胸がいっぱいになる。手にしていたジョッキの残りは、夢中でゴクゴクと飲み干してしまった。

「次は何にする? おかわりでいいかい?」
「あ……えっと……次は、焼酎にしようかなと……」

 私の言葉を聞いた瞬間、常連のおじさんが「お嬢さん、吞兵衛なのかい?」とお腹を揺らして笑った。私も思わず吹き出すように笑い、恥ずかしがることもなく「はい!」と元気よく答えた。

「よし、お嬢さん。僕が奢るから、ぜひ『喜多里』を呑んでみてよ」
「きたさと?」

 おじさんがおすすめしてくれた『喜多里』とは、北海道産大麦を百パーセント使用した本格焼酎だった。お酒のメニュー表に、小さな文字で軽い詳細が書いてある。
 私は「えっ、本当にいいんですか!?」と両手を叩いてパッと表情を輝かせた。するとおじさんは、まるで可愛い孫の喜ぶ姿を見ているかのように、目尻を下げて優しく目を細めた。

「もちろんいいよ。こんな可愛らしいお嬢さんに一杯奢れるなんてさ、僕の人生でもう二度とないかもしれないんだから」

 女将さんは「何言ってんのよ」とすかさずおじさんにツッコミを入れ、私に向き直って微笑んだ。

「で、喜多里だけど、麦と芋、どっちにする?」

(へぇ……麦も芋も両方作ってるブランドなんだ……)

 北海道の地場焼酎の奥深さに感心しつつ、私は迷わず大好きな芋焼酎を選択した。

「喜多里の芋ね。飲み方は?」
「炭酸割りで!」

 ひとりでこういうディープなお店に入ると、時折こうして地元の常連さんに気持ちよく奢ってもらえる幸運に恵まれることがある。私の名前同様、まさにお姫様扱いだ。ちゃっかりあざといかな……とは思いつつも、こうして地元の温かい人たちとゆるやかに繋がれることこそが、私が赤ちょうちん居酒屋を愛してやまない最大の理由だった。

「はい、喜多里の芋ソーダ割りと、これ、ザンギね。ホッケももうすぐ焼き上がるからね」

 背の高い円形タンブラーの底から、シュワシュワと小さな気泡が立ち上っている。グラスを持ち上げて鼻を近づけると、上品で柔らかな芋の芳醇な香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
 箸をつける前に、この魅惑的なセットをスマホでパシャリと写真に収める。

(ザンギのいい香り……)

 しっかりとした醤油ベースのタレが中までじんわり染み込んでいるのがわかる、ツヤツヤと輝く大ぶりのザンギ。北海道では、鶏の唐揚げのことをザンギと呼ぶらしい。付け合わせのレタスの脇にはマヨネーズが佇み、備え付けのレモンを全体に絞りかけた。
 まずは芋ソーダから口にする。

(あ! すごい飲みやすい! 芋の甘みはしっかりあるのに、後味が驚くほどスッキリと爽やかだ)

 間髪入れずにザンギを口へ運ぶ。噛んだ瞬間、サクッという音とともに熱々の肉汁がジュワッとあふれ出した。一見濃い目の味付けに見えたけれど、レモンの爽やかな酸味が効いていて驚くほど軽やかだ。重たくないのに、旨味はガツンと力強い。

(食感も最高だし、お肉の旨味もしっかり感じられる……ああ、最高)

「はいお待たせしました。ホッケの開きのハーフサイズね」
「え、これでハーフですか?」
「うふふ、大きいでしょ? こっちじゃこれくらいが普通なのよ」

 写真を撮りながら驚いている私を横目に、常連さんのおじさんも「ハハハ」と笑った。お通しと枝豆をつまみながら、ビールを片手にゆったりとした贅沢な時間を楽しんでいるようだ。

(大根おろしに醤油を垂らして……あ、ホッケにもレモンが添えてある)

 まずは醤油を染み込ませた大根おろしと一緒にいただくことにする。端から慎重に大きな背骨をはずすと、プリッと身の締まった身にスッと箸が入った。一口分持ち上げただけで、ずっしりとした重厚感が指先に伝わってくる。
 あふれんばかりの脂が表面でジュワジュワと弾けていて、口に入れる前に思わず口中に唾液が広がった。

(え……何これっ! 北海道のホッケって、こんなに身の奥まで脂が乗ってるの? しかも全然くどくない……こんなの、お酒が進まないわけないじゃない……)

 たった一口食べただけで、あまりの美味しさに芋ソーダ割りを半分以上も一気に飲み進めてしまった。こんなにも充実したテーブルがこの世に存在するのかってくらい、全部美味しい……。

(イカ刺しと芋焼酎の相性も抜群だし、箸休めのつぶ貝まで贅沢すぎる……)

 その後も、すっかり喜多里の芋ソーダに魅了されてしまって、二杯ほどおかわりをした。頼んだ料理は数品のはずなのに、胃袋も心もこれ以上ないほど満たされていく。
 自分の世界に浸りながら、海の幸とザンギをゆっくりと堪能していると……女将さんと話していたおじさんが急に私のほうを向いた。

「ねぇねぇお嬢さん。さっきから料理もお酒もすごく丁寧に写真撮ってたでしょ? あれって、何かに使ったりするのかい?」
「……ああ、写真ですか」

 おじさんが思わず尋ねたくなるほど、真剣な眼差しで角度や光を気にして写真を撮っていたのだろう。それもそのはず。私はブログに掲載するための素材として、丁寧にカメラを向けていたのだから。

(いい気分だし、教えてもいいか)

「実は私……」

 ……少し気恥ずかしさを感じながら、私は女将さんとおじさんに聞こえるよう、自分の過去をゆっくりと語り始めた。

 私には、三年間付き合っていた同い年の彼氏がいた。名前は真司郎。これといって目立つ特徴のない、ごく普通のサラリーマンだったけれど、私は真司郎のことが心から大好きだった。
 とにかく優しくて、何より食の好みがぴったりと合った。お互いに大のお酒好きで、週末になれば二人で仲良く新しい居酒屋を開拓して回っていた。
 そんなある日、「せっかくだから二人の呑み歩きの記録を残そうよ」と真司郎が言い出して始めたのが、ブログ『呑み処・ヒメと真のうまいもん記』だった。

 一度やり始めたら、フォロワーが増えていくのが楽しくなって……真司郎は「目標はフォロワー十万人だ!」なんて口にするようになった。
 一万、二万と着実に読者は増え続け、気づけば三万人を誇るちょっとした人気ブログへと成長していた。真司郎にとっての生きがいは、私と一緒に美味しいお酒を呑むこと、そしてあのブログを育てることだったのだ。

 だけど……そんな幸せな日々に、ある日突然、思いもよらない悲劇が訪れた。

「……彼から、プロポーズを受けたんです。プロポーズの言葉は噛み噛みで格好つかなかったけど……本当に、涙が出るほど嬉しかった。でも……そのほんの数日後でした」

 ……真司郎は、この世を去った。
 結婚前、最後の独身旅行だからと男友達数人で出かけた川辺のグランピング施設でのことだった。
 そこで思わぬ事故が起きた。川で遊んでいた見知らぬ小学生が、激流に飲み込まれて流されてしまったのだ。たまたま近くに居合わせた真司郎は、きっと迷う暇もなく体が勝手に動いたのだろう。
 猛烈な流れの中へ躊躇なく飛び込み、最後の力を振り絞って小学生を川岸の岩場へと押し上げた。けれど……引き換えに真司郎自身は力尽き、そのまま流されてしまったのだ。

「あらまぁ……そんな辛いことが……」

 女将さんは胸を痛めた険しい表情を浮かべ、私の背中をそっと優しく擦ってくれた。もう一年も前の出来事で、自分の中ではとっくに心の整理がついたはずだったのに……女将さんの温もりに触れて、目頭がじわっと熱くなってしまう。

「独りになって、生きる意味なんてない。そう思いながら、死んだように生きてました。でも……夢に彼が出てきたんです」

 夢の中の真司郎はただ一言、「ヒメ、『うまいもん記』の更新を待ってくれている人がたくさんいるぞ」とだけ笑顔で告げて、そのまま姿を消した。夢に出てきてまで私にお酒を呑ませたいのか、美味しいものを食べてほしいのかと思ったら、哀しみの中に少しだけ可笑しさが込み上げてきた。

(だから、フォロワー十万人という、真司郎の夢を叶えるため……)

「全国出張が増えた今の仕事を生かして、こうして各地の居酒屋さんに飛び込んでは記事を書いているんです。だから……あんなに夢中で写真を撮っていたんですよ」

 語り終えて常連のおじさんに視線を向けると、おじさんは分厚いメガネの奥にうっすらと涙を浮かべていた。

「そんな辛い思いを背負ってたなんて知らずに、野暮なこと聞いちゃったな……」
「い、いえいえ! すいません、しんみりさせてしまいました!」
「いいや。お嬢さんは立派だ! 女将さん、この子の分は全部こっちにつけて! 芋焼酎だけなんて、そんなケチなこと言わなきゃよかったよ」

(え……さすがにそれは)

「ダメですよ。私、そんなつもりで言ったわけでは……」
「いいや、これは僕がしてあげたいんだ。実は僕も妻に先立たれてさ……こうやって吞んで食ってしてるときが、一番寂しさを忘れられる時間なんだよ。同じ仲間として、これは僕からのほんの気持ちさ」

 女将さんも目尻を下げながら、「受け取っときな」と微笑んだ。お店を包み込むあまりの温かさに、今度こそ本当に目頭が熱くなって涙がこぼれそうになる。
 いけない……お酒を呑んで泣くなんて、まさに酔っぱらいのそれだ。お皿とグラス、どれもが空になっているのを確認して、私はそっと席を立った。

「すいません、湿っぽくさせちゃって。またいつか、絶対に来ます!」
「はいよ。函館に来ることがあったら、寄ってけれ。それまでは死ねないね、お父さん?」

 女将さんが奥で黙々と片付けをしている大将に悪戯っぽく振ると、常連のおじさんも「まったくその通りだ!」と言って笑った。それまで一度も作業の手を止めなかった頑固そうな大将がふっと動きを止め、外に出ようとする私を「おい」と呼び止めた。

(……え、何?)

「これ、持ってけ」

 差し出された大将のゴツゴツとした手のひらには、一口サイズのチョココーティングされたアソートアイスが一つ乗っていた。コンビニやスーパーでよく見かける、大人気のアイスだ。

「え、いいんですか?」
「おう。ブログっていうのか? 頑張れよ」

 大将、ちゃっかり聞いてたのか……。
 不器用で無口な大将が見せたふいの優しさに、私の我慢していた涙腺はついに崩壊した。ポロポロと涙をこぼす私を見て、女将さんが楽しそうに笑う。

「ちょっとお父さん、泣かせないでよ。こういうところあるのよね……いい男でしょ?」
「……はい。すいません、本当にごちそうさまでした」

 外へ出ると、女将さんと大将、そして常連のおじさんまでもが暖簾をくぐって外まで見送りに来てくれ、私が曲がり角を曲がるまで手を振り続けてくれた。
 大通りへ出る直前、涙を拭って大将からもらったチョコアイスをポイッと口に放り込む。噛んだ瞬間、冷たさで頭がキーンとした。
 でも……。

「温かいな……」

(口の中はこんなに冷たいのに、口から出たのは真逆の言葉だなんて……)

 すっかり日が落ちた函館の空を見上げ、火照った顔と感情的になった頭を鎮めるように冷たい夜風を全身に受けた。

(真司郎。私、頑張るからね)

 しんみりとした余韻に浸っていたのも束の間、まだ二割ほどの余裕を残した自分の胃袋の存在に気づくと、呑兵衛の頭はすぐさま次の行動へと切り替わった。

(よし! 〆の塩ラーメンにレッツゴー!)