次の日、織衣はわりと遅い時間まで寝ていた。なぜなら、一晩中目が覚めて全く眠れず、うつらうつらとし始めたのが明け方だったからだ。
それもひとえに、惟人が五乃舎を訪れたせいである。
そもそも、「東宮が訪れる」というだけでも大騒ぎなのに、時間帯も微妙にまずかったように思う。挙げ句、あれこれ話をしていたおかげで、滞在時間もそこそこあった。
いや、それよりも問題は──。これ見よがしに惟人に抱きつかれたことと、それを四乃舎の女房たちに見られたことだ。慌てて御簾を下ろしたのも良くなかった。あの後どうなったか(どうもなっていないのだが)、女房たちの妄想が膨らんだことは間違いなしだ。
噂好きの女房たちの情報網は恐ろしい。瞬く間に東宮御所に話が広がっている気がする。
(まず、宮さまに弁解に伺えばいいのかしら。遠野に相談しよう)
織衣は、寝床から抜け出すと遠野を呼ぶ。ほどなくして、遠野が姿を現した。
「織姫さま、おはようございます。お体の調子はいかがですか? なんせ昨夜は東宮さまがお渡りになられましたし」
「いや、だから。その誤解を招くような言い方はやめて。東宮さまとは何もないってば。それよりも、部屋が暗いから御簾を開けて」
「いいえ、今日はこのままで」
「?」
織衣が怪訝な顔をすると、遠野が真面目な顔で頷いた。
「昨日のできごとは、すでに各殿舎で噂になっております。今日は部屋で大人しゅうされるがよろしいかと存じます」
「でも、そんなことをしたら反って誤解されてしまいそうだわ」
「誤解されておけばよろしいかと」
遠野が平然と言った。その意図するところが分からず、織衣は眉根を寄せる。遠野は、手際よく織衣の着替えを手伝いつつ言葉を続けた。
「幸か不幸か、東宮さまがお渡りになられたのです。何もなかったではすまされませぬ」
「でも通常は、指名の姫君をご自身の寝所に召すものよ。自分から来るなんて、単に遊びに来ただけだとは思わない? 実際、本当に遊びに……いや、違うわね。嫌がらせに来ただけだし」
「だとしても。何かあったように振る舞うが得策かと」
「どうして?」
「それぞれの女房が慌ただしく動いております」
言って遠野が身を寄せて織衣にささやく。
「誰も選ばないとおっしゃったはずの東宮さまが五乃舎へお渡りあそばされたのです。しかも、日が暮れるのを待つことなく織衣さまと仲睦まじく交わりなさって」
「誰が仲睦まじくよっ。あれは、襲われていたって言うのよ!」
「あくまでも女房から見た昨夕のお二人でございます」
織衣の訴えを遠野はさらりと受け流す。
「つまり、東宮さまは姫君を寝所に召されずに自ら足を運ばれるのだと、他の女房たちは思ったに違いありません。そして、自分たちにも機会があると思ったはずです。次に東宮さまをお迎えするのは自分たちだと躍起になっております」
「くだらない。あんなのに毎日ずかずか殿舎に入ってこられたら、ゆっくり寝てもいられないわ。遠野、お腹が空いたわ。何か食べるものを用意して」
織衣は毒づきつつ遠野に言う。すると、遠野が困った顔をした。
「それが、朝から織姫さまの朝餉を頼んでいるのですが、まだ届いておりませぬ。今日はゆっくり寝ていらっしゃったので、まあいいかと思っていたのですが……。今一度、確認してまいります」
「ええ、お願い。急に五人の姫君が東宮御所に住むようになったものね。台盤所もきっと慌ただしいのよ」
しかし織衣が待つことしばし、遠野が神妙な顔で戻ってきた。
「織姫さま、困ったことになりました。朝餉がございませぬ」
「ないってどういうこと?」
「途中に捨てられておりました」
「はあ?!」
「分かりやすい嫌がらせにございます」
思わず織衣は立ち上がった。食べることは織衣にとって楽しみの一つである。ただでさえ、自由のきかない東宮御所での生活、食べる以外に楽しみなどないではないか。
「台盤所に行って、何かもらえないか直接お願いしてみるわ」
「織姫さま自らですか? そんなこと──」
「背に腹は代えられない!」
止める遠野を振り切り、織衣は殿舎を飛び出した。
織衣は台盤所に向かって廊下をずんずんと歩いて行く。惟人が言っていた「楽しみだ」とはこのことかと、ふつふつ怒りが湧いた。こうなると分かっていて、彼は自分の元を訪れたのだ。
と、四乃舎の脇を通り過ぎようとした時、庭に乱暴にぶちまけられた食事を発見する。織衣は思わず立ち止まった。
「……もったいないことをするものね」
土にまみれ、踏みつけられた食べ物は拾って食べることさえできそうにない。
こんなことで負ける自分ではないが気分は悪い。理不尽な仕打ちに心の奥がずんっと重くなった。
すると背後で頼りなげな声がした。
「織姫さま、いかがなされました? お付きの女房も連れずにお一人で」
誰かと思って振り返ると、そこに女房を従えた珠緒が立っていた。
織衣は黙って庭先に目をやる。珠緒は、そこでようやく庭に散乱した食べ物に気づいて顔を青くさせた。
「これは?」
「私の朝餉らしいのです。届かないので遠野に確認させたところ、この始末で」
「まあ、四乃舎への嫌がらせでしょうか?」
「はい?」
一瞬、珠緒が何を言っているのか分からなかった。しかし、珠緒はいたって本気で「だって──」と怒りで顔を歪めた。
「四乃舎の庭をこのように汚すなんて、私に対する嫌がらせとしか思えませぬ。しかも、織姫さまの食事を使うなど──。きっと、菊姫さまの仕業です!」
「ちょっ、ちょっとお待ちください、珠姫さま。証拠が何もないし、決めつけなさるのは早すぎます」
「いいえ、昨日の初乃舎でのやり取りが気に入らなかったのでございます。最後は織姫さまに問い詰められて、菊姫さまは答えに窮していたではないですか!」
まあ、多少はそうだったかもしれないが。しかし、最後にやり込められたのはこちらの方だし、あの千菊がわざわざこんな姑息な真似をするとは思えない。
(それに──)
と、織衣は珠緒の後ろに控える女房たちを一瞥する。おかしそうに口元を押さえている彼女たちこそ怪しいではないか。
主人のために内緒でやったのかなと織衣は思う。が、どちらにしろ証拠がない。そうこうしている内に、遠野が遅れてやって来た。
「ああ、ここにいた」
ほっとした顔で織衣に追いついた遠野は、さりげなく織衣と珠緒の間に割って入った。そして、珠緒の後ろに控える女房たちをじろりとにらんで牽制する。どうやら遠野も四乃舎の女房たちを疑っているらしい。
「さあ、織姫さま。台盤所へは私も一緒に参ります。珠姫さま、これにて失礼いたします」
すると、四乃舎の女房の一人がここぞとばかりに声を上げた。
「庭の食べ物をお片付けくださいませ。あれは、五乃舎の姫君の食事でありましょう?」
食事をぶちまけられた挙げ句に、それはおまえのだから片付けろと。
遠野が「なにを!」と言って目をつり上げ、そのまま四乃舎の女房たちに詰め寄ろうとする。しかし、それを織衣が止めた。
「遠野、やめよ」
子供じみた嫌がらせ。怒ったら負けである。しかし、やられっぱなしも気が済まない。
さあ、どうしたものか。
その時、
「織衣、いかがした?」
艶のある低い声が降ってきた。
それもひとえに、惟人が五乃舎を訪れたせいである。
そもそも、「東宮が訪れる」というだけでも大騒ぎなのに、時間帯も微妙にまずかったように思う。挙げ句、あれこれ話をしていたおかげで、滞在時間もそこそこあった。
いや、それよりも問題は──。これ見よがしに惟人に抱きつかれたことと、それを四乃舎の女房たちに見られたことだ。慌てて御簾を下ろしたのも良くなかった。あの後どうなったか(どうもなっていないのだが)、女房たちの妄想が膨らんだことは間違いなしだ。
噂好きの女房たちの情報網は恐ろしい。瞬く間に東宮御所に話が広がっている気がする。
(まず、宮さまに弁解に伺えばいいのかしら。遠野に相談しよう)
織衣は、寝床から抜け出すと遠野を呼ぶ。ほどなくして、遠野が姿を現した。
「織姫さま、おはようございます。お体の調子はいかがですか? なんせ昨夜は東宮さまがお渡りになられましたし」
「いや、だから。その誤解を招くような言い方はやめて。東宮さまとは何もないってば。それよりも、部屋が暗いから御簾を開けて」
「いいえ、今日はこのままで」
「?」
織衣が怪訝な顔をすると、遠野が真面目な顔で頷いた。
「昨日のできごとは、すでに各殿舎で噂になっております。今日は部屋で大人しゅうされるがよろしいかと存じます」
「でも、そんなことをしたら反って誤解されてしまいそうだわ」
「誤解されておけばよろしいかと」
遠野が平然と言った。その意図するところが分からず、織衣は眉根を寄せる。遠野は、手際よく織衣の着替えを手伝いつつ言葉を続けた。
「幸か不幸か、東宮さまがお渡りになられたのです。何もなかったではすまされませぬ」
「でも通常は、指名の姫君をご自身の寝所に召すものよ。自分から来るなんて、単に遊びに来ただけだとは思わない? 実際、本当に遊びに……いや、違うわね。嫌がらせに来ただけだし」
「だとしても。何かあったように振る舞うが得策かと」
「どうして?」
「それぞれの女房が慌ただしく動いております」
言って遠野が身を寄せて織衣にささやく。
「誰も選ばないとおっしゃったはずの東宮さまが五乃舎へお渡りあそばされたのです。しかも、日が暮れるのを待つことなく織衣さまと仲睦まじく交わりなさって」
「誰が仲睦まじくよっ。あれは、襲われていたって言うのよ!」
「あくまでも女房から見た昨夕のお二人でございます」
織衣の訴えを遠野はさらりと受け流す。
「つまり、東宮さまは姫君を寝所に召されずに自ら足を運ばれるのだと、他の女房たちは思ったに違いありません。そして、自分たちにも機会があると思ったはずです。次に東宮さまをお迎えするのは自分たちだと躍起になっております」
「くだらない。あんなのに毎日ずかずか殿舎に入ってこられたら、ゆっくり寝てもいられないわ。遠野、お腹が空いたわ。何か食べるものを用意して」
織衣は毒づきつつ遠野に言う。すると、遠野が困った顔をした。
「それが、朝から織姫さまの朝餉を頼んでいるのですが、まだ届いておりませぬ。今日はゆっくり寝ていらっしゃったので、まあいいかと思っていたのですが……。今一度、確認してまいります」
「ええ、お願い。急に五人の姫君が東宮御所に住むようになったものね。台盤所もきっと慌ただしいのよ」
しかし織衣が待つことしばし、遠野が神妙な顔で戻ってきた。
「織姫さま、困ったことになりました。朝餉がございませぬ」
「ないってどういうこと?」
「途中に捨てられておりました」
「はあ?!」
「分かりやすい嫌がらせにございます」
思わず織衣は立ち上がった。食べることは織衣にとって楽しみの一つである。ただでさえ、自由のきかない東宮御所での生活、食べる以外に楽しみなどないではないか。
「台盤所に行って、何かもらえないか直接お願いしてみるわ」
「織姫さま自らですか? そんなこと──」
「背に腹は代えられない!」
止める遠野を振り切り、織衣は殿舎を飛び出した。
織衣は台盤所に向かって廊下をずんずんと歩いて行く。惟人が言っていた「楽しみだ」とはこのことかと、ふつふつ怒りが湧いた。こうなると分かっていて、彼は自分の元を訪れたのだ。
と、四乃舎の脇を通り過ぎようとした時、庭に乱暴にぶちまけられた食事を発見する。織衣は思わず立ち止まった。
「……もったいないことをするものね」
土にまみれ、踏みつけられた食べ物は拾って食べることさえできそうにない。
こんなことで負ける自分ではないが気分は悪い。理不尽な仕打ちに心の奥がずんっと重くなった。
すると背後で頼りなげな声がした。
「織姫さま、いかがなされました? お付きの女房も連れずにお一人で」
誰かと思って振り返ると、そこに女房を従えた珠緒が立っていた。
織衣は黙って庭先に目をやる。珠緒は、そこでようやく庭に散乱した食べ物に気づいて顔を青くさせた。
「これは?」
「私の朝餉らしいのです。届かないので遠野に確認させたところ、この始末で」
「まあ、四乃舎への嫌がらせでしょうか?」
「はい?」
一瞬、珠緒が何を言っているのか分からなかった。しかし、珠緒はいたって本気で「だって──」と怒りで顔を歪めた。
「四乃舎の庭をこのように汚すなんて、私に対する嫌がらせとしか思えませぬ。しかも、織姫さまの食事を使うなど──。きっと、菊姫さまの仕業です!」
「ちょっ、ちょっとお待ちください、珠姫さま。証拠が何もないし、決めつけなさるのは早すぎます」
「いいえ、昨日の初乃舎でのやり取りが気に入らなかったのでございます。最後は織姫さまに問い詰められて、菊姫さまは答えに窮していたではないですか!」
まあ、多少はそうだったかもしれないが。しかし、最後にやり込められたのはこちらの方だし、あの千菊がわざわざこんな姑息な真似をするとは思えない。
(それに──)
と、織衣は珠緒の後ろに控える女房たちを一瞥する。おかしそうに口元を押さえている彼女たちこそ怪しいではないか。
主人のために内緒でやったのかなと織衣は思う。が、どちらにしろ証拠がない。そうこうしている内に、遠野が遅れてやって来た。
「ああ、ここにいた」
ほっとした顔で織衣に追いついた遠野は、さりげなく織衣と珠緒の間に割って入った。そして、珠緒の後ろに控える女房たちをじろりとにらんで牽制する。どうやら遠野も四乃舎の女房たちを疑っているらしい。
「さあ、織姫さま。台盤所へは私も一緒に参ります。珠姫さま、これにて失礼いたします」
すると、四乃舎の女房の一人がここぞとばかりに声を上げた。
「庭の食べ物をお片付けくださいませ。あれは、五乃舎の姫君の食事でありましょう?」
食事をぶちまけられた挙げ句に、それはおまえのだから片付けろと。
遠野が「なにを!」と言って目をつり上げ、そのまま四乃舎の女房たちに詰め寄ろうとする。しかし、それを織衣が止めた。
「遠野、やめよ」
子供じみた嫌がらせ。怒ったら負けである。しかし、やられっぱなしも気が済まない。
さあ、どうしたものか。
その時、
「織衣、いかがした?」
艶のある低い声が降ってきた。

