初乃舎から次乃舎へ繋がる渡殿《わたどの》へ来ると、そこに緋の衣をまとった男が待っていた。下がり目の人好きする顔は、さっき広間で見た顔である。彼は織姫の姿を認め、うやうやしく頭を下げた。
「蔵人の頼木守泰と申します。織姫、東宮が部屋でお待ちです」
「分かりました。すぐ戻ります」
守泰がさっときびすを返して歩き出す。その後を織衣、遠野と続く。少し歩調を早めて急いで帰ることしばし、ようやく五乃舎に到着した。
(ほんっとうに遠いわね。ここは)
自分が去った後、残った姫君たちでどんな話になっているだろうかと織衣は気になる。ちょっとした小競合いはあったものの、みんなとうまくやっていけそうな気がしたのだ。
それなのに、「東宮のお渡り」なんて予想もしていないことで、今後の御所生活が台無しになるかもしれない。そう思うと、戸惑いを通り越して怒りさえ感じる織衣である。
自室に着くと、緊張した顔の女房が背筋をぴんと伸ばして座っている。すでに漂う空気が違う。
呼吸を一つ、織衣は自分の部屋の前で膝をついて頭を下げた。
「ただいま戻りました。お待たせしてしまい申し訳ありません」
すると、艶のある低い声が頭上に落ちた。
「咲子の部屋で何をしていた?」
「はい、女柏宮さまに他の姫君と一緒にご挨拶申し上げ、それからお喋りをしておりました」
そう答えつつ織衣は顔を上げた。辺りはすでに薄暗く、気の利く女房が高燈台に明かりを灯してくれていた。
上座に座る惟人は、白の直衣姿で脇息にもたれかかり、膝を立ててくつろいでいる。端正な顔立ちに不釣り合いな無精ひげ──、やはりこの二つが混在している顔は奇跡だと織衣は思う。
「そこではゆっくり話もできぬ。こちらに来い」
惟人が織衣に向かって手招きする。
無駄な儀礼は必要ないと言われているので、ためらうことなく織衣は惟人の近くに進み寄り、ちょうど一人分ほど開いたあたりで向かい合う。しかし惟人が、「もっと近くに」とさらに手で招く。
もっとって、どこまで?
さすがの織衣も躊躇する。それで、織衣が戸惑いながら少しずつ距離を縮めると、惟人はまどろっこしそうに織衣の腕を掴んで自身の胸元に引き込んだ。
予想していなかった惟人の行動に、思わず織衣は「きゃあっ」と声を上げた。
「な、何を?」
「私とこうするために来たのだろう? 五つの姫」
「来たばかりですし、まだ夜ではございませぬ!」
「もう暮れではないか。すぐに夜になる」
「だったら、ご自身の寝所へ私を召すのが通例で──」
見上げると、夜の水面を思わせる静かな瞳が目の前にあった。その澄んだ黒に織衣は吸い込まれそうになる。そもそも、男の胸に抱かれるのは、子どもの頃に父親に抱き締められたとき以来だ。
(女嫌いじゃなかったの?)
にしては、慣れた手つきである。話が違うじゃないか、と織衣は心の中で父親に毒づいた。
「お戯れが過ぎまする。私は、自分の名前さえまともに呼んでもらえぬ方と縁を結ぶつもりはございませぬ」
「……織衣」
ふいに耳元で名前をささやかれ、織衣の胸が跳ね上がった。頬に惟人のひげがぞりっと触れて、ぶわっと全身から汗が吹き出る。
「これで良いか?」
「よっ、良くありませぬ!」
まずい。これは非常にまずい。一夜にしてお手つきになるなんて冗談ではない。
「放して!」
礼儀作法もかなぐり捨て、織衣はとっさに肘で惟人の胸を押し返した。
しかし、瞬時に腕を掴まれ止められる。
(この──!)
これで怯む織衣ではない。今度は、空いた方の手で惟人の腕を掴んで、そのまま体を捻って惟人を一瞬にして組み伏せる。東宮を組み伏せるなんて、不敬なことこの上ないが、自分の貞操を守るほうが重要である。
その時、
「およそ姫君の動きではないな、織衣」
惟人が笑いで喉の奥を鳴らしたのと、彼が織衣の足をぱんっと払い蹴ったのとが同時だった。
「やっ──?!」
織衣の体がふわっと浮いたかと思うと、そのままごろんとひっくり返される。
「形勢逆転だ」
今度は惟人に織衣が組み敷かれた形となってしまった。
なんとか逃れようともがいてみるが、強い力で押さえられ身動きができない。
(油断した。へなちょこ皇子じゃなかった!)
初めて広間に姿を見せた時の、惟人の力強い足運びを織衣は思い出した。
「どうする織衣、まだやるか? こうしてじゃれ合うのも悪くない」
「ふざけないで──」
ふと頭を巡らせて外の様子を伺えば、四乃舎の女房たちが廊下からこちらの様子を盗み見ている。
「遠野!」
とっさに女房の名を呼ぶ。すかさず部屋の御簾が下ろされ、外と遮断された。ひとまずほっとする織衣だったが、
(いや、ちょっと待って)
これはこれで、さらにまずくない?
外と遮断されたのはいいが、惟人と二人きりになってしまった。
織衣は思わず青ざめる。しかし、惟人が突然腕を放し、むくりと起き上がって織衣を解放した。
いきなり自由になり、織衣は何がなんだか分からない様子で上半身を起こす。すると惟人がおかしそうに笑った。
「たっぷり女房たちに見せつけたゆえ、これで良かろう」
「わざと──!」
女房に見せつけるためだったのかと、織衣は初めて気づく。惟人が上座に座り直すと、したり顔で口元に人差し指を立てた。
「静かにしろ。御簾もそのままだ。もし御簾を再び上げると言うのであれば──続きを最後までさせてもらうぞ。悪いが、それなりに鍛えておるつもりだ」
「脅しでございますか……!」
「そう取ってもらってかまわない。もう何もするつもりはないから、そこに座れ」
言って彼はあぐらを崩して立て膝になり、ひげが生えたあごで向かい側を指す。織衣はおろおろと立ち上がり、今度こそ惟人と相対する形で座った。
「なぜ、このようなことを? きっと要らぬ誤解を招いております。せっかく仲違いすることなく過ごせるかと思ったのに……」
「この程度で違える仲など、最初からないに等しい。そもそも私の妃の座を競いに来たのであろう。ならば、願ったり叶ったりではないか」
「つまり、私たちを争わせるためだと?」
「人聞きが悪いな。これで争いが起きるならそれまでだと言っている。とは言え、東宮御所での争いは、原因となる人間を含めて排除させてもらうがな」
やっぱり、争わせるためだ。
織衣はあからさまに顔をしかめた。
「蔵人の頼木守泰と申します。織姫、東宮が部屋でお待ちです」
「分かりました。すぐ戻ります」
守泰がさっときびすを返して歩き出す。その後を織衣、遠野と続く。少し歩調を早めて急いで帰ることしばし、ようやく五乃舎に到着した。
(ほんっとうに遠いわね。ここは)
自分が去った後、残った姫君たちでどんな話になっているだろうかと織衣は気になる。ちょっとした小競合いはあったものの、みんなとうまくやっていけそうな気がしたのだ。
それなのに、「東宮のお渡り」なんて予想もしていないことで、今後の御所生活が台無しになるかもしれない。そう思うと、戸惑いを通り越して怒りさえ感じる織衣である。
自室に着くと、緊張した顔の女房が背筋をぴんと伸ばして座っている。すでに漂う空気が違う。
呼吸を一つ、織衣は自分の部屋の前で膝をついて頭を下げた。
「ただいま戻りました。お待たせしてしまい申し訳ありません」
すると、艶のある低い声が頭上に落ちた。
「咲子の部屋で何をしていた?」
「はい、女柏宮さまに他の姫君と一緒にご挨拶申し上げ、それからお喋りをしておりました」
そう答えつつ織衣は顔を上げた。辺りはすでに薄暗く、気の利く女房が高燈台に明かりを灯してくれていた。
上座に座る惟人は、白の直衣姿で脇息にもたれかかり、膝を立ててくつろいでいる。端正な顔立ちに不釣り合いな無精ひげ──、やはりこの二つが混在している顔は奇跡だと織衣は思う。
「そこではゆっくり話もできぬ。こちらに来い」
惟人が織衣に向かって手招きする。
無駄な儀礼は必要ないと言われているので、ためらうことなく織衣は惟人の近くに進み寄り、ちょうど一人分ほど開いたあたりで向かい合う。しかし惟人が、「もっと近くに」とさらに手で招く。
もっとって、どこまで?
さすがの織衣も躊躇する。それで、織衣が戸惑いながら少しずつ距離を縮めると、惟人はまどろっこしそうに織衣の腕を掴んで自身の胸元に引き込んだ。
予想していなかった惟人の行動に、思わず織衣は「きゃあっ」と声を上げた。
「な、何を?」
「私とこうするために来たのだろう? 五つの姫」
「来たばかりですし、まだ夜ではございませぬ!」
「もう暮れではないか。すぐに夜になる」
「だったら、ご自身の寝所へ私を召すのが通例で──」
見上げると、夜の水面を思わせる静かな瞳が目の前にあった。その澄んだ黒に織衣は吸い込まれそうになる。そもそも、男の胸に抱かれるのは、子どもの頃に父親に抱き締められたとき以来だ。
(女嫌いじゃなかったの?)
にしては、慣れた手つきである。話が違うじゃないか、と織衣は心の中で父親に毒づいた。
「お戯れが過ぎまする。私は、自分の名前さえまともに呼んでもらえぬ方と縁を結ぶつもりはございませぬ」
「……織衣」
ふいに耳元で名前をささやかれ、織衣の胸が跳ね上がった。頬に惟人のひげがぞりっと触れて、ぶわっと全身から汗が吹き出る。
「これで良いか?」
「よっ、良くありませぬ!」
まずい。これは非常にまずい。一夜にしてお手つきになるなんて冗談ではない。
「放して!」
礼儀作法もかなぐり捨て、織衣はとっさに肘で惟人の胸を押し返した。
しかし、瞬時に腕を掴まれ止められる。
(この──!)
これで怯む織衣ではない。今度は、空いた方の手で惟人の腕を掴んで、そのまま体を捻って惟人を一瞬にして組み伏せる。東宮を組み伏せるなんて、不敬なことこの上ないが、自分の貞操を守るほうが重要である。
その時、
「およそ姫君の動きではないな、織衣」
惟人が笑いで喉の奥を鳴らしたのと、彼が織衣の足をぱんっと払い蹴ったのとが同時だった。
「やっ──?!」
織衣の体がふわっと浮いたかと思うと、そのままごろんとひっくり返される。
「形勢逆転だ」
今度は惟人に織衣が組み敷かれた形となってしまった。
なんとか逃れようともがいてみるが、強い力で押さえられ身動きができない。
(油断した。へなちょこ皇子じゃなかった!)
初めて広間に姿を見せた時の、惟人の力強い足運びを織衣は思い出した。
「どうする織衣、まだやるか? こうしてじゃれ合うのも悪くない」
「ふざけないで──」
ふと頭を巡らせて外の様子を伺えば、四乃舎の女房たちが廊下からこちらの様子を盗み見ている。
「遠野!」
とっさに女房の名を呼ぶ。すかさず部屋の御簾が下ろされ、外と遮断された。ひとまずほっとする織衣だったが、
(いや、ちょっと待って)
これはこれで、さらにまずくない?
外と遮断されたのはいいが、惟人と二人きりになってしまった。
織衣は思わず青ざめる。しかし、惟人が突然腕を放し、むくりと起き上がって織衣を解放した。
いきなり自由になり、織衣は何がなんだか分からない様子で上半身を起こす。すると惟人がおかしそうに笑った。
「たっぷり女房たちに見せつけたゆえ、これで良かろう」
「わざと──!」
女房に見せつけるためだったのかと、織衣は初めて気づく。惟人が上座に座り直すと、したり顔で口元に人差し指を立てた。
「静かにしろ。御簾もそのままだ。もし御簾を再び上げると言うのであれば──続きを最後までさせてもらうぞ。悪いが、それなりに鍛えておるつもりだ」
「脅しでございますか……!」
「そう取ってもらってかまわない。もう何もするつもりはないから、そこに座れ」
言って彼はあぐらを崩して立て膝になり、ひげが生えたあごで向かい側を指す。織衣はおろおろと立ち上がり、今度こそ惟人と相対する形で座った。
「なぜ、このようなことを? きっと要らぬ誤解を招いております。せっかく仲違いすることなく過ごせるかと思ったのに……」
「この程度で違える仲など、最初からないに等しい。そもそも私の妃の座を競いに来たのであろう。ならば、願ったり叶ったりではないか」
「つまり、私たちを争わせるためだと?」
「人聞きが悪いな。これで争いが起きるならそれまでだと言っている。とは言え、東宮御所での争いは、原因となる人間を含めて排除させてもらうがな」
やっぱり、争わせるためだ。
織衣はあからさまに顔をしかめた。

