守泰は困っていた。
眼の前には、宴の毒セリ事件以来ずっと床に伏したままの千菊。御簾は降ろされ、背後に生駒が控えているだけで他の女房の姿もない。
(やられた……)
思えば今日は朝から予定外のことばかりが起こっていた。昇殿直後に上司である蔵人頭に急な仕事を押しつけられ、珍しく典侍に呼び止められたかと思えば、遠縁の姫君との縁談を持ちかけられた。それをなんとか断ったところに、狸の親子が殿舎に迷い込んで暴れているとの報告を受け、それを追い払うために大騒ぎとなった。
午後になってようやく一段落着いたかと思ったら、惟人と織衣が千菊の見舞いに同行して欲しいと言う。正直、守泰がいらっとしてしまったことは言うまでもない。
宮内には大勢の官吏がいるはずなのに、どいつもこいつも自分にばかり何でもかんでも言ってくる。
だいたい、子どもじゃあるまいし、見舞いなど二人で行ってくればいい。普段の横柄な守泰であれば、東宮相手と言えど「知るか」と一蹴するところである。しかし、千菊の回復が思いのほか良くないことは守泰の耳にも入っており、これを機会に見に行くのも悪くないと思い直した。
そして、一緒に来た結果が、今のこの状況である。
惟人はあろうことか、回復するまで世話をするよう守泰に申し付け、千菊にお役御免まで言い渡した。挙げ句、守泰に「たまには女で慌てる者の気持ちを味わえ」と言い捨てて行ってしまった。
後ろめたい行いをした覚えはないが、千菊との間には何かと誤解されてしまうようなことがあったのも事実だ。実際に、こうして嫌がらせを受けているのだから、何か勘付かれていると思って間違いない。
「嘘だろ……」
思わずそう呟けば、伏せたままの千菊が顔だけを動かし、弱々しい声を上げた。
「頼木さま、申し訳ありませぬ。私は大丈夫です。ご迷惑をかけたくありませぬゆえ、お引き取りくださいませ。こうしてお会いできただけで十分です。助けていただいた礼も言えず、気にかかっておりました」
「……」
何も知らされていなかったのは千菊も同じらしい。ちらりと生駒を見ると、懇願する目で見つめ返される。つまり、仕掛人は生駒だ。
時として女房は、仕える姫君のために突拍子も無いことをする。おそらく、千菊の見舞いに自分を指名したのだろう。
(これは、詰んだな)
ふうっと大きなため息を一つ、守泰はぶっきらぼうに生駒に言った。
「粥はあるか。菊姫に召し上がっていただくから持ってきてくれ」
「はいっ。ただいまお持ちします!」
ぱっと顔を輝かせ、生駒が足早に部屋を出ていく。
二人きりになってから、守泰は千菊に声をかけた。
「粥が怖いのか。回復が悪いとは聞いていたが……」
「申し訳ありませぬ。本当に、情けないことでございます」
「毒を盛られた粥を食べたんだ。まあ、当然だろう」
胸の上で重ねられた両手は痛々しいほど細い。粥さえ食べられなければ、ますます弱っていくばかりだ。
ほどなく生駒が粥を持って戻ってきた。そして守泰の傍らにそれを置いて、自らは部屋を下がる。
再び二人きりとなったところで、守泰はずいっと千菊に詰め寄ると、彼女の顔を覗き込んだ。
「起き上がることはできるか?」
「はい」
千菊が震えながら両手をついて半身を起こす。守泰は、そんな彼女を抱き寄せるとあぐらをかいて膝の上にぽすんと乗せた。
千菊が驚きながら守泰を仰ぎ見る。
「あ、あの──?!」
「もういい。腹を決めた」
「ですが……」
「つべこべ言わずに食うぞ。こっちは主命なんだ。俺の忙しさを知らんだろ?」
言葉きつめに言い聞かせ、千菊の体に片方の腕を回した。力なく身を寄せる彼女の腰は折れてしまいそうなほどか細い。
そして、もう片方の手で椀の乗った盆を引き寄せる。と、千菊がびくりと身を強張らせたのが分かった。
「この粥は大丈夫だ」
「分かっております。次乃舎の者が私のために作ってくれていることも」
千菊が涙ぐむ。こんな弱々しい彼女を見るのは初めてかもしれない。一条家の姫君として、いつでも気丈に振る舞っていた。しかし、思えば十代の娘である。
(相当参っているな⋯⋯)
守泰はいきなり粥を食べさせることをやめると、両腕で千菊を優しく包み込んだ。
「ひとまず気が済むまで泣け。粥を食うのはそれからだ」
その刹那、千菊の目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「私が不甲斐ないばかりに……。織姫さまにも東宮さまにも多大な迷惑を。一条家にも泥を塗りました。父上にも顔向けできません。私は害虫にございます」
「そんなことを言うな。あんたは頑張ったと思うぞ」
千菊が守泰の胸に顔をうずめ、泣き声を押し殺す。
華やかな見た目に反して真面目な姫だ。辛かった気持ちも、怖かった思いも、全部自分のせいにして一人で悩んでいたに違いない。
守泰は、そんな彼女を黙って抱き続ける。今はただ、静かに寄り添ってやりたかった。
どれほど時間が過ぎただろう。ようやく千菊が泣くのを止めて、袖口で泣き腫らした目元を押さえる。そして呼吸を落ち着かせてから、彼女はためらいがちに呟いた。
「……ありがとうございます。少し、すっきりしました」
「なら良かった。どうだ、少しは食べられそうか?」
「頑張ります」
「いい心がけだ」
軽く笑って、守泰は粥をさじですくう。千菊が再び身を固くした。
(いきなり食うのは無理か)
とにかく食べてもらわないといけないわけだが、その前に粥に対する恐怖心を取り除いてやらなければならない。
そう思った守泰は、千菊の前で粥をぱくりと食べてみせた。千菊が驚いて、目をぱちくりさせる。彼女の体を気遣って作られた粥は、粒もなくとろとろで、滑らかに守泰の喉を通り過ぎていく。それを二度ほど繰り返し、三度目は千菊の口へ。
「大丈夫、ただの粥だ。ゆっくりでいい、一緒に食おう」
「……」
千菊がおずおずと口を開け、さじに乗った粥をほんの少しすする。ほぼ、舐めた程度である。だが、口をつけた。
守泰は残った粥を自分の口に放り込み、ごくりと飲み込む。そして、また粥をすくって千菊の口へ持っていく。千菊が、さっきよりしっかりと粥をすすった。
確かな手応えを感じつつ、守泰は千菊に笑いかける。
「あんたは害虫なんかじゃない。でも……そうだな、今は少し弱虫になっているみたいだから、しばらく食事に付き合ってやる。早く元気になって、あの暴れ姫を御してくれ。今度は何を言い出すか分からない」
最後はため息混じりにぼやけば、千菊の口からようやく笑い声がもれた。
「織姫さまは、私たちの斜め上を行きますから」
「全くだ。あれは、大人しくしているということを知らない」
すると千菊があらたまった口調で守泰に言った。
「頼木さま、」
「なんだ?」
「私は一度、一条家に戻ります。そして、必ずここへ戻って参ります。頼木さまと一緒に、東宮さまと織姫さまをお支えせねばなりません」
そして千菊は守泰から差し出される粥にぱくりと食いつく。頑張って食べようとする姿がなんともいじらしい。
(まいったな)
こんな健気な姿を見せられては、ちょっと守ってやりたくなるではないか。
千菊を抱く手に力を込める。もう妃候補ではないし、惟人に世話をしろとも言われているわけだから、これぐらいは許されるだろう。
「頑張る女は嫌いじゃない。今のあんたも、わりと好きだな」
耳元でそう囁《ささや》けば、千菊が顔を真っ赤にさせた。
眼の前には、宴の毒セリ事件以来ずっと床に伏したままの千菊。御簾は降ろされ、背後に生駒が控えているだけで他の女房の姿もない。
(やられた……)
思えば今日は朝から予定外のことばかりが起こっていた。昇殿直後に上司である蔵人頭に急な仕事を押しつけられ、珍しく典侍に呼び止められたかと思えば、遠縁の姫君との縁談を持ちかけられた。それをなんとか断ったところに、狸の親子が殿舎に迷い込んで暴れているとの報告を受け、それを追い払うために大騒ぎとなった。
午後になってようやく一段落着いたかと思ったら、惟人と織衣が千菊の見舞いに同行して欲しいと言う。正直、守泰がいらっとしてしまったことは言うまでもない。
宮内には大勢の官吏がいるはずなのに、どいつもこいつも自分にばかり何でもかんでも言ってくる。
だいたい、子どもじゃあるまいし、見舞いなど二人で行ってくればいい。普段の横柄な守泰であれば、東宮相手と言えど「知るか」と一蹴するところである。しかし、千菊の回復が思いのほか良くないことは守泰の耳にも入っており、これを機会に見に行くのも悪くないと思い直した。
そして、一緒に来た結果が、今のこの状況である。
惟人はあろうことか、回復するまで世話をするよう守泰に申し付け、千菊にお役御免まで言い渡した。挙げ句、守泰に「たまには女で慌てる者の気持ちを味わえ」と言い捨てて行ってしまった。
後ろめたい行いをした覚えはないが、千菊との間には何かと誤解されてしまうようなことがあったのも事実だ。実際に、こうして嫌がらせを受けているのだから、何か勘付かれていると思って間違いない。
「嘘だろ……」
思わずそう呟けば、伏せたままの千菊が顔だけを動かし、弱々しい声を上げた。
「頼木さま、申し訳ありませぬ。私は大丈夫です。ご迷惑をかけたくありませぬゆえ、お引き取りくださいませ。こうしてお会いできただけで十分です。助けていただいた礼も言えず、気にかかっておりました」
「……」
何も知らされていなかったのは千菊も同じらしい。ちらりと生駒を見ると、懇願する目で見つめ返される。つまり、仕掛人は生駒だ。
時として女房は、仕える姫君のために突拍子も無いことをする。おそらく、千菊の見舞いに自分を指名したのだろう。
(これは、詰んだな)
ふうっと大きなため息を一つ、守泰はぶっきらぼうに生駒に言った。
「粥はあるか。菊姫に召し上がっていただくから持ってきてくれ」
「はいっ。ただいまお持ちします!」
ぱっと顔を輝かせ、生駒が足早に部屋を出ていく。
二人きりになってから、守泰は千菊に声をかけた。
「粥が怖いのか。回復が悪いとは聞いていたが……」
「申し訳ありませぬ。本当に、情けないことでございます」
「毒を盛られた粥を食べたんだ。まあ、当然だろう」
胸の上で重ねられた両手は痛々しいほど細い。粥さえ食べられなければ、ますます弱っていくばかりだ。
ほどなく生駒が粥を持って戻ってきた。そして守泰の傍らにそれを置いて、自らは部屋を下がる。
再び二人きりとなったところで、守泰はずいっと千菊に詰め寄ると、彼女の顔を覗き込んだ。
「起き上がることはできるか?」
「はい」
千菊が震えながら両手をついて半身を起こす。守泰は、そんな彼女を抱き寄せるとあぐらをかいて膝の上にぽすんと乗せた。
千菊が驚きながら守泰を仰ぎ見る。
「あ、あの──?!」
「もういい。腹を決めた」
「ですが……」
「つべこべ言わずに食うぞ。こっちは主命なんだ。俺の忙しさを知らんだろ?」
言葉きつめに言い聞かせ、千菊の体に片方の腕を回した。力なく身を寄せる彼女の腰は折れてしまいそうなほどか細い。
そして、もう片方の手で椀の乗った盆を引き寄せる。と、千菊がびくりと身を強張らせたのが分かった。
「この粥は大丈夫だ」
「分かっております。次乃舎の者が私のために作ってくれていることも」
千菊が涙ぐむ。こんな弱々しい彼女を見るのは初めてかもしれない。一条家の姫君として、いつでも気丈に振る舞っていた。しかし、思えば十代の娘である。
(相当参っているな⋯⋯)
守泰はいきなり粥を食べさせることをやめると、両腕で千菊を優しく包み込んだ。
「ひとまず気が済むまで泣け。粥を食うのはそれからだ」
その刹那、千菊の目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「私が不甲斐ないばかりに……。織姫さまにも東宮さまにも多大な迷惑を。一条家にも泥を塗りました。父上にも顔向けできません。私は害虫にございます」
「そんなことを言うな。あんたは頑張ったと思うぞ」
千菊が守泰の胸に顔をうずめ、泣き声を押し殺す。
華やかな見た目に反して真面目な姫だ。辛かった気持ちも、怖かった思いも、全部自分のせいにして一人で悩んでいたに違いない。
守泰は、そんな彼女を黙って抱き続ける。今はただ、静かに寄り添ってやりたかった。
どれほど時間が過ぎただろう。ようやく千菊が泣くのを止めて、袖口で泣き腫らした目元を押さえる。そして呼吸を落ち着かせてから、彼女はためらいがちに呟いた。
「……ありがとうございます。少し、すっきりしました」
「なら良かった。どうだ、少しは食べられそうか?」
「頑張ります」
「いい心がけだ」
軽く笑って、守泰は粥をさじですくう。千菊が再び身を固くした。
(いきなり食うのは無理か)
とにかく食べてもらわないといけないわけだが、その前に粥に対する恐怖心を取り除いてやらなければならない。
そう思った守泰は、千菊の前で粥をぱくりと食べてみせた。千菊が驚いて、目をぱちくりさせる。彼女の体を気遣って作られた粥は、粒もなくとろとろで、滑らかに守泰の喉を通り過ぎていく。それを二度ほど繰り返し、三度目は千菊の口へ。
「大丈夫、ただの粥だ。ゆっくりでいい、一緒に食おう」
「……」
千菊がおずおずと口を開け、さじに乗った粥をほんの少しすする。ほぼ、舐めた程度である。だが、口をつけた。
守泰は残った粥を自分の口に放り込み、ごくりと飲み込む。そして、また粥をすくって千菊の口へ持っていく。千菊が、さっきよりしっかりと粥をすすった。
確かな手応えを感じつつ、守泰は千菊に笑いかける。
「あんたは害虫なんかじゃない。でも……そうだな、今は少し弱虫になっているみたいだから、しばらく食事に付き合ってやる。早く元気になって、あの暴れ姫を御してくれ。今度は何を言い出すか分からない」
最後はため息混じりにぼやけば、千菊の口からようやく笑い声がもれた。
「織姫さまは、私たちの斜め上を行きますから」
「全くだ。あれは、大人しくしているということを知らない」
すると千菊があらたまった口調で守泰に言った。
「頼木さま、」
「なんだ?」
「私は一度、一条家に戻ります。そして、必ずここへ戻って参ります。頼木さまと一緒に、東宮さまと織姫さまをお支えせねばなりません」
そして千菊は守泰から差し出される粥にぱくりと食いつく。頑張って食べようとする姿がなんともいじらしい。
(まいったな)
こんな健気な姿を見せられては、ちょっと守ってやりたくなるではないか。
千菊を抱く手に力を込める。もう妃候補ではないし、惟人に世話をしろとも言われているわけだから、これぐらいは許されるだろう。
「頑張る女は嫌いじゃない。今のあんたも、わりと好きだな」
耳元でそう囁《ささや》けば、千菊が顔を真っ赤にさせた。

