午後になり、東宮と織衣は千菊の見舞いに次乃舎を訪れた。二人の先を歩くのは、五位蔵人の頼木守泰。
「今まで次乃舎には二人でお出向きなさっていたでしょう? どうして今さら私が一緒に行かないといけないのです? あなた方と違って、こっちはあれこれと忙しいのですよ」
守泰は容赦がない。ぶつぶつと文句を言って遠慮なく不機嫌な顔でこちらをにらんでくる。人好きする下がり目の男は相も変わらず横柄だ。
織衣がちらりと惟人を見ると、惟人に「すまない」と目で返された。しかし、その顔はどこか楽しそうである。
千菊の守泰に対する秘めた思いを聞かされたのがついさっき。突然の生駒の告白に、最初はとにかく驚いた。二人の間にやましいことはないとは言え、仮にも東宮の妃候補がその補佐役に恋心を抱くなどあり得ない。まるで作り物語のような話に、「菊姫だって幸姫のことを言えないではないか」と、織衣がわくわく……いや、はらはらしたのは言うまでもない。
当然ながら惟人は怒り出すかと思われたが、意外にも生駒の告白に目を輝かせて食いついた。
いわく、「初めて守泰の弱みを握った。これで奴の慌てふためく顔を見ることができる!」である。なんだかよく分からないが、有能かつ横柄な補佐役に惟人も普段から頭が上がらないらしい。
次乃舎に到着すると、生駒がいそいそと守泰──ではなく、惟人と織衣を千菊が休んでいる部屋に案内する。惟人と織衣が並んで枕元に座ると、千菊は虚ろな目をほんの少しなごませた。
「見苦しい姿で申し訳ございませぬ」
頬がこけ、唇は色あせ、手は胸のあたりで力なく重ねられている。生駒の言う通り、本当にこのまま露となって消えてしまいそうだ。
惟人が静かに千菊へ声をかけた。
「千菊、粥が怖くて食べられぬと聞いた」
「……東宮さまにも織姫さまにも、ご心配をおかけしております。不甲斐ないばかりにございます」
言って千菊はちらりと部屋の隅に控える守泰に目を向けた。それを織衣は見逃さない。思わず肘でつついて惟人を急かすと、惟人は咳払いを一つしてから、あらたまった口調で言葉を続けた。
「早くそなたには元気になって欲しいと私も織衣も思っておる。そこで今日は、そなたのために守泰を連れてきた。まずは、粥を食べさせてもらえ」
「は……」
千菊が虚ろな目を瞬かせる。にわかに惟人の言葉が理解できないようだった。直後、部屋の隅から「お待ち下さい!」と守泰の声が上がった。
「突然何を言い出すのです? 粥を食べさせるなんて──東宮がなさればいいでしょう? 菊姫は東宮の妃候補ですよ」
「ああ、それなんだが。千菊は、今ここでお役御免とする」
「は?」
さらりと惟人が答えれば、守泰が困惑と動揺をごちゃ混ぜにしたような顔をする。
なるほど、こういう守泰の顔は初めてである。なぜか織衣までしてやったりな気分になる。
「いやいや、お役御免って──いきなり何を言ってんだ。っていうか、織姫、あんたも笑ってないで東宮を止めろ」
「口を慎め、守泰。これは主命である。今日から千菊は私と織衣の大切な客人、心をこめて体調が回復するまで世話をせよ。生駒、ひとまずこれで良いか?」
「はいっ、十分でございます! ありがとうございます!」
生駒がくしゃりと顔を崩してひれ伏し、惟人は織衣とともに立ち上がった。守泰は事態を飲み込みきれていないようで、「ちょっと待ってくれ」と追いすがる。しかし惟人は、そんな守泰に意地悪な笑みを返した。
「たまには女で慌てる者の気持ちを味わえ。今日はなんとも愉快だ」
「と、東宮!」
「ああ、御簾は下げて良いぞ。何かと障りがあるだろうからな」
東宮が笑いながら千菊の部屋を後にする。織衣もにこりと笑って惟人に続いた。去り際、ちらりと部屋の様子をうかがえば──、珍しくおろおろになる守泰と、それを戸惑う様子で見つめる千菊の姿が見えた。
五乃舎に戻り、部屋に腰を下ろした途端、織衣と惟人は吹き出す。まさか、千菊と守泰の仲を取り持つことになろうとは思わなかったからだ。しかし、織衣はふと心配になって惟人に尋ねる。
「東宮さま、左大臣さまはお怒りにならないでしょうか。一条家は、宮家の流れをくむ名家です。こういうことはあまり言いたくありませんが、頼木家とは家柄が……」
「元親は徹底した実力主義者だ。そこはあまり心配しておらん。ただ……娘に勝手に手を出されたとなると、親は普通に怒るだろうから、いつも以上に厳しく品定めされることは間違いないな。あの元親に品定めされるなど、私なら御免だ」
「あー……」
この先、千菊が守泰と結ばれるには、それなりに乗り越えるべき壁があるようだ。しかし、二人であればなんとかなる気もする。すると、惟人が感慨深く目を細めた。
「織衣、覚えておるか。初めてそなたらが東宮御所に来た時、私が誰も選ぶことはないと言ったことを」
「はい。なんと横暴な御方かと思いました。しかし、今となっては、そもそもの人選に問題があったように思います」
「それは言えているな。みんな自分の収まりたい場所を見つけていなくなって──、選んでいたのは私ではなく、そなたたちだった」
惟人がそう答えれば、またおかしさが込み上げてきて二人は笑った。不思議なのは、そんなめちゃくちゃな御妻《みめ》合わせの中で、惟人と心を通わせ合えたことだ。
「織衣、」
惟人の大きな手が織衣の頬をふわりと包む。
急に真面目な顔で惟人に見つめられ、織衣の胸はそわそわと波打つ。その瞳は迷いなく情熱的で、それでいて心くすぐられるほどに甘く優しい。
「そなたはどうだ? 自分を収める場所として、ここは不服か」
不服だなんて言わせる気はないくせに。強引なのに律儀に聞いてくるところが惟人らしい。
織衣は惟人の手に自分の手を重ねた。本来なら、甘える仕草の一つでもするのが可愛い姫君のありようかもしれない。
でも──、
「そろそろ私も選ばなければならないようですね」
織衣は意思の強そうな瞳に笑みを浮かべ、真っ直ぐに惟人を見つめ返した。
「東宮さま、いえ、惟人さま。あなたさまと出会えたこと、他の姫君さまと知り合えたこと、私にとって最高の出来事でございました。ですが、できれば仕切り直しをお願いしとうございます。姫君を並べて品定めをする御妻合わせ、そもそも女として納得いたしかねます。私がこのまま東宮御所に残れば、そんな御妻合わせを認めたも同然。そこは真っ向から否定しとうございます」
「どこまでも負けず嫌いだな。……ここを去ると申すか」
「はい。次は御妻合わせなど関係なく、私の意思で惟人さまに会いに来たく存じます」
「そうか」
惟人が残念そうに目を伏せて小さく頷く。そして、頬に重ねた手を解くと、優しく織衣を抱きしめた。
「まあ、そういうところが好きなのだから仕方がないな」
低い艷やかな声が耳元で響く。惟人のひげがごわごわと当たってこそばゆい。織衣が体を預ければ、さらに力強く抱きしめられ、そのまま唇を奪われた。まるで自身の存在を刻み込むような甘美な口づけ。なのにそれは、まるでチクリと痛いトゲのよう。
「必ず呼び戻す。その時は全力で口説き落とすとしよう」
「はい。望むところでございます」
その後、体調が回復した次乃舎の千菊が東宮御所を去り、それを見届けるようにして五乃舎の織衣も大伴家に下がった。全ての姫君がいなくなり、御妻合わせは事実上の不調に終わる。前代未聞の事態に、宮内であれこれと噂が飛び交ったのは言うまでもない。
織衣が再び東宮御所へ上がり、惟人と相まみえるのは、もう少し先の話である。
『東宮さまは、決して妃を選ばない』
初掲載:カクヨム 2025年7月6日 了(2026年1月20日 改稿)
「今まで次乃舎には二人でお出向きなさっていたでしょう? どうして今さら私が一緒に行かないといけないのです? あなた方と違って、こっちはあれこれと忙しいのですよ」
守泰は容赦がない。ぶつぶつと文句を言って遠慮なく不機嫌な顔でこちらをにらんでくる。人好きする下がり目の男は相も変わらず横柄だ。
織衣がちらりと惟人を見ると、惟人に「すまない」と目で返された。しかし、その顔はどこか楽しそうである。
千菊の守泰に対する秘めた思いを聞かされたのがついさっき。突然の生駒の告白に、最初はとにかく驚いた。二人の間にやましいことはないとは言え、仮にも東宮の妃候補がその補佐役に恋心を抱くなどあり得ない。まるで作り物語のような話に、「菊姫だって幸姫のことを言えないではないか」と、織衣がわくわく……いや、はらはらしたのは言うまでもない。
当然ながら惟人は怒り出すかと思われたが、意外にも生駒の告白に目を輝かせて食いついた。
いわく、「初めて守泰の弱みを握った。これで奴の慌てふためく顔を見ることができる!」である。なんだかよく分からないが、有能かつ横柄な補佐役に惟人も普段から頭が上がらないらしい。
次乃舎に到着すると、生駒がいそいそと守泰──ではなく、惟人と織衣を千菊が休んでいる部屋に案内する。惟人と織衣が並んで枕元に座ると、千菊は虚ろな目をほんの少しなごませた。
「見苦しい姿で申し訳ございませぬ」
頬がこけ、唇は色あせ、手は胸のあたりで力なく重ねられている。生駒の言う通り、本当にこのまま露となって消えてしまいそうだ。
惟人が静かに千菊へ声をかけた。
「千菊、粥が怖くて食べられぬと聞いた」
「……東宮さまにも織姫さまにも、ご心配をおかけしております。不甲斐ないばかりにございます」
言って千菊はちらりと部屋の隅に控える守泰に目を向けた。それを織衣は見逃さない。思わず肘でつついて惟人を急かすと、惟人は咳払いを一つしてから、あらたまった口調で言葉を続けた。
「早くそなたには元気になって欲しいと私も織衣も思っておる。そこで今日は、そなたのために守泰を連れてきた。まずは、粥を食べさせてもらえ」
「は……」
千菊が虚ろな目を瞬かせる。にわかに惟人の言葉が理解できないようだった。直後、部屋の隅から「お待ち下さい!」と守泰の声が上がった。
「突然何を言い出すのです? 粥を食べさせるなんて──東宮がなさればいいでしょう? 菊姫は東宮の妃候補ですよ」
「ああ、それなんだが。千菊は、今ここでお役御免とする」
「は?」
さらりと惟人が答えれば、守泰が困惑と動揺をごちゃ混ぜにしたような顔をする。
なるほど、こういう守泰の顔は初めてである。なぜか織衣までしてやったりな気分になる。
「いやいや、お役御免って──いきなり何を言ってんだ。っていうか、織姫、あんたも笑ってないで東宮を止めろ」
「口を慎め、守泰。これは主命である。今日から千菊は私と織衣の大切な客人、心をこめて体調が回復するまで世話をせよ。生駒、ひとまずこれで良いか?」
「はいっ、十分でございます! ありがとうございます!」
生駒がくしゃりと顔を崩してひれ伏し、惟人は織衣とともに立ち上がった。守泰は事態を飲み込みきれていないようで、「ちょっと待ってくれ」と追いすがる。しかし惟人は、そんな守泰に意地悪な笑みを返した。
「たまには女で慌てる者の気持ちを味わえ。今日はなんとも愉快だ」
「と、東宮!」
「ああ、御簾は下げて良いぞ。何かと障りがあるだろうからな」
東宮が笑いながら千菊の部屋を後にする。織衣もにこりと笑って惟人に続いた。去り際、ちらりと部屋の様子をうかがえば──、珍しくおろおろになる守泰と、それを戸惑う様子で見つめる千菊の姿が見えた。
五乃舎に戻り、部屋に腰を下ろした途端、織衣と惟人は吹き出す。まさか、千菊と守泰の仲を取り持つことになろうとは思わなかったからだ。しかし、織衣はふと心配になって惟人に尋ねる。
「東宮さま、左大臣さまはお怒りにならないでしょうか。一条家は、宮家の流れをくむ名家です。こういうことはあまり言いたくありませんが、頼木家とは家柄が……」
「元親は徹底した実力主義者だ。そこはあまり心配しておらん。ただ……娘に勝手に手を出されたとなると、親は普通に怒るだろうから、いつも以上に厳しく品定めされることは間違いないな。あの元親に品定めされるなど、私なら御免だ」
「あー……」
この先、千菊が守泰と結ばれるには、それなりに乗り越えるべき壁があるようだ。しかし、二人であればなんとかなる気もする。すると、惟人が感慨深く目を細めた。
「織衣、覚えておるか。初めてそなたらが東宮御所に来た時、私が誰も選ぶことはないと言ったことを」
「はい。なんと横暴な御方かと思いました。しかし、今となっては、そもそもの人選に問題があったように思います」
「それは言えているな。みんな自分の収まりたい場所を見つけていなくなって──、選んでいたのは私ではなく、そなたたちだった」
惟人がそう答えれば、またおかしさが込み上げてきて二人は笑った。不思議なのは、そんなめちゃくちゃな御妻《みめ》合わせの中で、惟人と心を通わせ合えたことだ。
「織衣、」
惟人の大きな手が織衣の頬をふわりと包む。
急に真面目な顔で惟人に見つめられ、織衣の胸はそわそわと波打つ。その瞳は迷いなく情熱的で、それでいて心くすぐられるほどに甘く優しい。
「そなたはどうだ? 自分を収める場所として、ここは不服か」
不服だなんて言わせる気はないくせに。強引なのに律儀に聞いてくるところが惟人らしい。
織衣は惟人の手に自分の手を重ねた。本来なら、甘える仕草の一つでもするのが可愛い姫君のありようかもしれない。
でも──、
「そろそろ私も選ばなければならないようですね」
織衣は意思の強そうな瞳に笑みを浮かべ、真っ直ぐに惟人を見つめ返した。
「東宮さま、いえ、惟人さま。あなたさまと出会えたこと、他の姫君さまと知り合えたこと、私にとって最高の出来事でございました。ですが、できれば仕切り直しをお願いしとうございます。姫君を並べて品定めをする御妻合わせ、そもそも女として納得いたしかねます。私がこのまま東宮御所に残れば、そんな御妻合わせを認めたも同然。そこは真っ向から否定しとうございます」
「どこまでも負けず嫌いだな。……ここを去ると申すか」
「はい。次は御妻合わせなど関係なく、私の意思で惟人さまに会いに来たく存じます」
「そうか」
惟人が残念そうに目を伏せて小さく頷く。そして、頬に重ねた手を解くと、優しく織衣を抱きしめた。
「まあ、そういうところが好きなのだから仕方がないな」
低い艷やかな声が耳元で響く。惟人のひげがごわごわと当たってこそばゆい。織衣が体を預ければ、さらに力強く抱きしめられ、そのまま唇を奪われた。まるで自身の存在を刻み込むような甘美な口づけ。なのにそれは、まるでチクリと痛いトゲのよう。
「必ず呼び戻す。その時は全力で口説き落とすとしよう」
「はい。望むところでございます」
その後、体調が回復した次乃舎の千菊が東宮御所を去り、それを見届けるようにして五乃舎の織衣も大伴家に下がった。全ての姫君がいなくなり、御妻合わせは事実上の不調に終わる。前代未聞の事態に、宮内であれこれと噂が飛び交ったのは言うまでもない。
織衣が再び東宮御所へ上がり、惟人と相まみえるのは、もう少し先の話である。
『東宮さまは、決して妃を選ばない』
初掲載:カクヨム 2025年7月6日 了(2026年1月20日 改稿)

