東宮さまは、決して妃を選ばない。~平安巻き込まれ恋愛絵巻~【完結済】

 織衣はきっと厳しい目で礼人をにらむ。

「いい加減になさいませ。この随身は、その気になればあなたさまを打ちつけることも可能です。それをこうして身を引いたのです。この者の賢明な判断をお分かりにならないのでございますか?」
「うるさい! 随身ごときが私を打ちつけるなど出来るものか!」
「なんと分別のない御方なのです。ならば、仕方がありませぬ」

 言って織衣は、礼人の腕をひねりそのまま彼をねじ伏せる。礼人が、「痛いっ」と悲鳴を上げた。

「放せ! 私は一の親王なるぞ! 私にこのような乱暴な振る舞い──やはり柏の叔父上の言うとおりだ! 元親や時国のような臣下が主上(おかみ)の周りにはびこっては、由緒正しき血統と伝統はこの世から排除されようぞ!」
「愚かなことを──。あなたさまの仰せになる由緒正しい血統と伝統というのは、人となりを見ず出自のみを重んじ、誰かの犠牲の上に成り立っている悪しき因習を尊ぶことにございますか? そのような国に明日はない」
「たかだか近衛大将の娘の分際でこの国のあり方を否定するか! 時国もろとも処罰してくれる! 私が東宮になっていればこのようなことはなかった!」
「東宮は惟人さまにございます。 あなたさまではございません、目を覚まされなさいませ!」

 その時、

「織衣!」

 にわかに門口が騒がしくなった。織衣がはっと目をやると、近衛府の衛士たちを引き連れて、直衣姿の惟人と五衣姿の咲子が慌てた様子で庭に入ってきた。

「織衣、無事か──って、いや、兄上が……無事か?」

 惟人が、織衣にねじ伏せられている礼人の姿を見て顔を引きつらせた。あっという間に衛士たちに取り囲まれる中、織衣は不本意だといわんばかりの顔を惟人に返す。

「これでも手加減しております。菊姫さまになされたことを考えれば、横っ面を引っ叩いても足りませぬ」
「いや、織衣……それはちょっと」
「何か問題でも?」

 惟人と織衣の会話を聞いて、礼人が地面に押しつけられた顔を真っ赤にさせた。

「私をねじ伏せるだけでは飽き足らず、引っ叩くつもりだったのか!? なんと凶暴な女か! 私を叩いてみろ、大伴家はただではすまぬ!」
「お黙りなさいませ。悪い子にお灸をすえるのは当然のことにございます」
「織姫、もう少し口を慎みなされ。そなたはもう、ただの妃候補ではない」

 咲子がすっと歩み出てきて、織衣をたしなめる。その表情は硬い。そして咲子は、落ち着いた口調で「放してさしあげてほしい」と頭を下げた。
 そんな思い詰めた顔をされては、さすがの織衣も怒りを収めるしかない。それで礼人をしぶしぶ解放すると、礼人は咲子に助けを求めてすがりついた。

「おお、咲子。よくやった。私の味方はおまえだけだ」

 ほっとした礼人の顔は本当に子どものようだ。
 しかし次の瞬間、そんな彼の頬を咲子がぺちんと叩いた。
 一瞬、誰もが目を疑う。叩かれた礼人自身も目をぱちくりさせている。
 それは、叩いたと言うにはあまりに弱々しいもの。しかし、紛れもなく咲子の平手打ちだった。
 咲子が再び手を上げて、か弱い平手を礼人に食らわせる。同時に、咲子の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

「なんて、なんて馬鹿なことを──!」
「咲子……」
「あなたさまが東宮になることはありませぬ。私の父があなたさまにどんなに甘い言葉を囁(ささや)こうとも──、その可能性はもうないのです。それがどうしてお分かりにならないのです」

 ぺちん、ぺちん、と咲子は幾度となく礼人の頬を叩く。それは怒りというより、むしろ懇願に見えた。呆ける礼人に、正常さをまとった表情が戻り始める。

「誰かと比べる必要などありませぬ。あなたさまは、あなたさまで良いのです。くだらぬ見栄など……捨ててしまえば良いのです。こんなことになるくらいなら、もっと早く、二人で全てを捨ててどこぞへと逃げれば良かった。もっと早く、織姫のように真っ直ぐにあなたさまと向き合っていれば──!」
「咲子、」

 泣き崩れる咲子とともに礼人もまた膝をつき、おろおろと咲子を抱きかかえた。途方に暮れる礼人を見て、こんな弱々しい顔もするのかと織衣は思う。
 そこへ惟人が淡々とした口調で礼人に声をかけた。

「兄上、今回のことは子どものいたずらでは済まされぬ。いつかの時のように私の名で誤魔化すこともできぬ。それ相応の対処をさせていただく」

 惟人の言葉に礼人は表情を変えない。咲子を抱え、その背中を労わるようにさすっている。それを見て、咲子と礼人には二人にしか分からない絆があるのだと織衣は感じた。本当なら、もう少し時間を与えるところだろう。しかし、今は情をかける場面ではなく、惟人の非情な声が響く。

「ひとまず殿舎へ戻り、そのまま大人しく主上(おかみ)の命を待て。近衛の衛士を数人付けさせてもらう。外出はもちろん、誰かと会うことも禁止だ」

 言って惟人は近衛府の衛士に目配せした。衛士たちが礼人を確保するために近づくと、礼人はばっと立ち上がり毅然とした態度で衛士をにらみ返した。

「さわるな。私は一の親王なるぞ。一人で戻る」

 尊大な態度は最後の誇りか。ただ、先ほどとは打って変わって、憑き物が落ちたようなすっきりとした顔になっていた。惟人に真っ直ぐ向けられた眼差しに怒りの色はもうない。

「今回のことは、私が一人で企てたことだ。後悔はしておらぬ。私がせねば、他の誰かが似たようなことをしていただけだ。柏の叔父上も関係ない。間違っても咲子の立場が危うくなるような真似はするな」
「分かっている。兄上の言だけで、叔父上をどうにかできるとは思っていない。柏宮家に影響はない」
「ならいい」

 咲子の平手を受けて赤みを帯びた頬が、ほんの少しだけ笑みでほころぶ。それから礼人は泣いている咲子を一瞥し、さっと視線を前に向けた。

「飽(あ)いた。私は殿舎に戻るとしよう」

 そう言って、彼は二度と振り返ることも止まることもなく行ってしまった。