一方、紀伊は織衣を引き連れて東宮御所から一番近い門を通って外へ出た。そこから続く御門大路を東へ進み、小路を北に数本入る。すると、荒れ果てた邸宅の土塀が見えてきて、紀伊が足を止めた。御所からの距離はそこまで遠くない。
(ここは……)
ごくりと喉を鳴らし、ところどころ朽ち落ちた土塀を織衣は眺める。人が住んでいるようには見えない。
ここに来る途中、歩きにくいことを訴え、紀伊の短刀で緋袴の裾も短く切った織衣である。切り取った袴の裾は、目印になるだろうと道の途中に捨ててきた。御所にほど近い御門大路は、一般人があまり通る道ではない。なんらかの痕跡を残すことで、追手に自分の行き先を伝えることができると思ったからだ。
慌てふためく紀伊は、ここまで来ると織衣のことなどほぼお構いなしに先へと進んでいく。自分が逃げることで精一杯といった様子である。柱が立っているだけの小さい門を通り抜けて邸宅の中に入ると、生い茂る雑草に囲まれた対屋の廊下と出入り口が現れた。
紀伊が大声で遠慮することなく叫ぶ。
「親王はおられるか! 礼人親王!!」
やっぱり首謀者は礼人かと織衣が納得していると、随身らしき男が奥から出てきた。そして、紀伊と織衣の姿を見て戸惑った表情を見せる。
「紀伊どの、何事にございます? ──ええと? そ、そちらの姫君は?」
「そんなことはどうでもいいっ。 親王を呼んでくれ!」
紀伊は、出てきた随身に対しわめき散らした。
ややして廊下の向こうから、どたどたと慌ただしい足音が聞こえ、あばら屋には似つかわしくない光沢のある白の直衣を着た男が現れる。その見覚えのある顔に、織衣は「おや」とわざとらしい声を上げた。
「お久しぶりにございます。礼人親王さま」
「おまえは……! これは──どうしたことだ。紀伊、こやつは時国の娘ではないか!」
礼人が目を白黒させて動揺すれば、対する紀伊は蒼白になって必死に弁明する。
「宴にまぎれ込ませた女房が、しっ、ししししくじりまして──。私まで捕らえられそうになり五つの姫を人質にして逃げてきた次第です」
「馬鹿な……。私は知らぬぞ! おまえがしくじったのだから、おまえが責任を取れ!」
「そんな! 私は礼人親王の命で動いたのですぞ!」
まるで子どものような二人のやり取り。それを見て織衣は呆れるばかりだ。
失敗した時のことを何も考えなかったのか。なんとも無計画な企てである。
「……まるで子どもの喧嘩のようね」
思わず織衣がそうこぼせば、礼人と紀伊が一斉に織衣をにらんだ。
「人質の分際で、黙れ!」
「そうだ。女のくせに生意気な。この方を誰だと心得ておる!」
「ようく存じております。東宮さまの妃候補である菊姫さまにお触れになった方であらっしゃいますから」
しらじらしいほど畏まった口調で「おまえのことは忘れていないぞ」と言い返せば、礼人がうっと言葉に詰まって怯む様子を見せた。
しかしすぐ、礼人は怒りで体を震わせながら扇子で織衣を指した。
「紀伊、この女を懲らしめろ! 生意気なこと、この上ない! いつぞやの惟人の側仕えを思い出すわ!!」
「……東宮さまの側仕え?」
「ああ、女嫌いの惟人に主上が無理やりつけた女房だ。あれこれと私にもうるさく注意してくるから、刃を向けて脅したら腰を抜かしおったわ」
礼人がからからと笑いながら勝ち誇ったように話す。織衣は信じられないと顔をしかめた。
「気に入らないからと、いきなり下々の者に刃をお向けになったと──?」
「うるさいっ。無礼な振る舞いをしたのだから当然だ! 惟人のしつけが悪いから私が奴に代わって分からせてやったのだ。つまり、これは惟人の責任だ!」
あまりに自分勝手な言い分に織衣は言葉を失う。同時に、そういうことかと全てを理解する。
ずっと心に引っかかっていた。
惟人の第一印象は最悪、噂通りの横暴な東宮。しかし、ひととなりを知るにつれ、女房に刃を向けたという事件そのものに疑問を持つようになった。
なぜなら、 惟人はやっぱり東宮になるべき人で、そこまで軽率な振る舞いをするほど思慮に欠けているとは思えなかったからだ。
「なるほど、これで合点がいきました。この件に関して、東宮さまが珍しく言葉を濁されたのは礼人親王さまが関わっていらっしゃったからですね。兄であるあなたさまをかばって……いいえ、皇族の愚行を東宮の名のもとに誤魔化されようとした」
「ぐ、愚行だと!? ええいっ、いちいち偉そうに! 紀伊、黙らせよ!」
「は、はいっ」
紀伊が慌てて織衣に飛びかかる。しかし織衣はさらりと身をかわすと、勢い余って体勢を崩した紀伊の尻をどかりと蹴った。
紀伊がみっともなく顔から地面に突っ込んで、ぐえっと声を上げる。織衣は、ぱんぱんと袴の裾を払った。
「そんなヘッピリ腰で私を捕らえようなどと百年は早うございます。衣を脱ぎ捨てて身軽になった甲斐がありました」
「ぐぬぬ。そこのおまえ、何をしても構わない! あの娘を捕らえよ!」
礼人が今度は随身の男に命令し、随身が階段を降りてきて織衣と対峙する。がっちりとした体格の強そうな男は、織衣相手にさすがに腰の刀は抜こうとしない。とは言え、紀伊に蹴りを食らわした織衣のことを警戒しているのか、こちらの挙動をうかがっているようである。
いきなり飛びかかってこないのは、織衣にとって好都合だ。織衣は距離を取りつつ、随身に声をかけた。
「おまえはどこの者じゃ? このまま浅慮な親王の言いなりになるつもりか。私は東宮さまの妃候補として御所に上がり、今日の宴では左席を務めておる。その私に手を上げたとあれば、おまえもただではすむまい」
この非常時、にわか仕込みの肩書であったとしても使えるものは全て使う。織衣は、自分が妃候補の最有力者であることを強調し、随身に脅しをかける。
織衣の思惑通り、随身がためらう素振りを見せた。
それはそうだ。どう考えても悪事に加担しているのは明らかで、追い詰められた時に背後でわめき散らかしている親王が助けてくれるとは思えない。
この男の迷いは間違っていない。
「おまえは、ただ黙ってそこに控えるだけでいい。私の邪魔をしないのであれば、東宮さまにそなたのことを取りなそう」
織衣は手応えを感じつつ、こちら側に取り込むべく、今度は誘いの言葉を投げかけた。
礼人がわなわなと顔を震わせて織衣をにらむ。
「きさまっ、私の従者を取り込むつもりか!」
「違います。世の正義を説いているだけにございます」
ぴしゃりと言ってのけ、織衣は「どうする?」と目で随身に迫る。随身は、しばし苦渋の表情を浮かべたのち、そろそろと階段の登り口まで身を引くと、片膝をついて頭を下げた。
「私めには判断しかねることにございますれば……。後は、お二人にお任せいたします。どうかご容赦を」
「ここここ、このっ! 不甲斐ない奴め!」
礼人が階段を降りてきて随身に向かって扇子を振り上げる。随身はぐっと歯を食いしばり目を伏せたまま微動だにしない。主の怒りを甘んじて受ける覚悟だ。
とっさに織衣が二人の間に割って入り、礼人の腕を掴んだ。
(ここは……)
ごくりと喉を鳴らし、ところどころ朽ち落ちた土塀を織衣は眺める。人が住んでいるようには見えない。
ここに来る途中、歩きにくいことを訴え、紀伊の短刀で緋袴の裾も短く切った織衣である。切り取った袴の裾は、目印になるだろうと道の途中に捨ててきた。御所にほど近い御門大路は、一般人があまり通る道ではない。なんらかの痕跡を残すことで、追手に自分の行き先を伝えることができると思ったからだ。
慌てふためく紀伊は、ここまで来ると織衣のことなどほぼお構いなしに先へと進んでいく。自分が逃げることで精一杯といった様子である。柱が立っているだけの小さい門を通り抜けて邸宅の中に入ると、生い茂る雑草に囲まれた対屋の廊下と出入り口が現れた。
紀伊が大声で遠慮することなく叫ぶ。
「親王はおられるか! 礼人親王!!」
やっぱり首謀者は礼人かと織衣が納得していると、随身らしき男が奥から出てきた。そして、紀伊と織衣の姿を見て戸惑った表情を見せる。
「紀伊どの、何事にございます? ──ええと? そ、そちらの姫君は?」
「そんなことはどうでもいいっ。 親王を呼んでくれ!」
紀伊は、出てきた随身に対しわめき散らした。
ややして廊下の向こうから、どたどたと慌ただしい足音が聞こえ、あばら屋には似つかわしくない光沢のある白の直衣を着た男が現れる。その見覚えのある顔に、織衣は「おや」とわざとらしい声を上げた。
「お久しぶりにございます。礼人親王さま」
「おまえは……! これは──どうしたことだ。紀伊、こやつは時国の娘ではないか!」
礼人が目を白黒させて動揺すれば、対する紀伊は蒼白になって必死に弁明する。
「宴にまぎれ込ませた女房が、しっ、ししししくじりまして──。私まで捕らえられそうになり五つの姫を人質にして逃げてきた次第です」
「馬鹿な……。私は知らぬぞ! おまえがしくじったのだから、おまえが責任を取れ!」
「そんな! 私は礼人親王の命で動いたのですぞ!」
まるで子どものような二人のやり取り。それを見て織衣は呆れるばかりだ。
失敗した時のことを何も考えなかったのか。なんとも無計画な企てである。
「……まるで子どもの喧嘩のようね」
思わず織衣がそうこぼせば、礼人と紀伊が一斉に織衣をにらんだ。
「人質の分際で、黙れ!」
「そうだ。女のくせに生意気な。この方を誰だと心得ておる!」
「ようく存じております。東宮さまの妃候補である菊姫さまにお触れになった方であらっしゃいますから」
しらじらしいほど畏まった口調で「おまえのことは忘れていないぞ」と言い返せば、礼人がうっと言葉に詰まって怯む様子を見せた。
しかしすぐ、礼人は怒りで体を震わせながら扇子で織衣を指した。
「紀伊、この女を懲らしめろ! 生意気なこと、この上ない! いつぞやの惟人の側仕えを思い出すわ!!」
「……東宮さまの側仕え?」
「ああ、女嫌いの惟人に主上が無理やりつけた女房だ。あれこれと私にもうるさく注意してくるから、刃を向けて脅したら腰を抜かしおったわ」
礼人がからからと笑いながら勝ち誇ったように話す。織衣は信じられないと顔をしかめた。
「気に入らないからと、いきなり下々の者に刃をお向けになったと──?」
「うるさいっ。無礼な振る舞いをしたのだから当然だ! 惟人のしつけが悪いから私が奴に代わって分からせてやったのだ。つまり、これは惟人の責任だ!」
あまりに自分勝手な言い分に織衣は言葉を失う。同時に、そういうことかと全てを理解する。
ずっと心に引っかかっていた。
惟人の第一印象は最悪、噂通りの横暴な東宮。しかし、ひととなりを知るにつれ、女房に刃を向けたという事件そのものに疑問を持つようになった。
なぜなら、 惟人はやっぱり東宮になるべき人で、そこまで軽率な振る舞いをするほど思慮に欠けているとは思えなかったからだ。
「なるほど、これで合点がいきました。この件に関して、東宮さまが珍しく言葉を濁されたのは礼人親王さまが関わっていらっしゃったからですね。兄であるあなたさまをかばって……いいえ、皇族の愚行を東宮の名のもとに誤魔化されようとした」
「ぐ、愚行だと!? ええいっ、いちいち偉そうに! 紀伊、黙らせよ!」
「は、はいっ」
紀伊が慌てて織衣に飛びかかる。しかし織衣はさらりと身をかわすと、勢い余って体勢を崩した紀伊の尻をどかりと蹴った。
紀伊がみっともなく顔から地面に突っ込んで、ぐえっと声を上げる。織衣は、ぱんぱんと袴の裾を払った。
「そんなヘッピリ腰で私を捕らえようなどと百年は早うございます。衣を脱ぎ捨てて身軽になった甲斐がありました」
「ぐぬぬ。そこのおまえ、何をしても構わない! あの娘を捕らえよ!」
礼人が今度は随身の男に命令し、随身が階段を降りてきて織衣と対峙する。がっちりとした体格の強そうな男は、織衣相手にさすがに腰の刀は抜こうとしない。とは言え、紀伊に蹴りを食らわした織衣のことを警戒しているのか、こちらの挙動をうかがっているようである。
いきなり飛びかかってこないのは、織衣にとって好都合だ。織衣は距離を取りつつ、随身に声をかけた。
「おまえはどこの者じゃ? このまま浅慮な親王の言いなりになるつもりか。私は東宮さまの妃候補として御所に上がり、今日の宴では左席を務めておる。その私に手を上げたとあれば、おまえもただではすむまい」
この非常時、にわか仕込みの肩書であったとしても使えるものは全て使う。織衣は、自分が妃候補の最有力者であることを強調し、随身に脅しをかける。
織衣の思惑通り、随身がためらう素振りを見せた。
それはそうだ。どう考えても悪事に加担しているのは明らかで、追い詰められた時に背後でわめき散らかしている親王が助けてくれるとは思えない。
この男の迷いは間違っていない。
「おまえは、ただ黙ってそこに控えるだけでいい。私の邪魔をしないのであれば、東宮さまにそなたのことを取りなそう」
織衣は手応えを感じつつ、こちら側に取り込むべく、今度は誘いの言葉を投げかけた。
礼人がわなわなと顔を震わせて織衣をにらむ。
「きさまっ、私の従者を取り込むつもりか!」
「違います。世の正義を説いているだけにございます」
ぴしゃりと言ってのけ、織衣は「どうする?」と目で随身に迫る。随身は、しばし苦渋の表情を浮かべたのち、そろそろと階段の登り口まで身を引くと、片膝をついて頭を下げた。
「私めには判断しかねることにございますれば……。後は、お二人にお任せいたします。どうかご容赦を」
「ここここ、このっ! 不甲斐ない奴め!」
礼人が階段を降りてきて随身に向かって扇子を振り上げる。随身はぐっと歯を食いしばり目を伏せたまま微動だにしない。主の怒りを甘んじて受ける覚悟だ。
とっさに織衣が二人の間に割って入り、礼人の腕を掴んだ。

