突然、織衣が衣を脱ぎ始め、背後で紀伊がたじろいだ。
「な、ななな何を!? 動くなと言っているだろう!」
「……私を盾にして逃げるのでは? このままでは唐衣や表着が重く、身軽に歩けませぬ」
ごくり、と息を飲む音が聞こえ、織衣は内心ほくそ笑む。
(そう、私を連れて逃げればいい。そうして首謀者の元へ連れて行け)
皆が見守る中、織衣は着ているものを一つずつ脱いでいく。ずるずる引きずる裳も邪魔だし、なんなら五衣も単衣も動きづらい。
とは言え、さすがに織衣が五衣に手をかけた時には、咲子が目をそらし、女房たちから悲鳴が上がった。
「織衣、やめよ!!」
「動いてはなりませぬ。東宮さま」
飛び出しかかる惟人を目で制し、織衣は単衣さえ脱ぎ捨てる。
小袖に緋袴だけという、あられもない姿。足元はまだもたつくが、それでもずいぶん身が軽い。織衣は満足げに笑いつつ惟人たちに言った。
「私たちの姿が見えなくなってから百を百回数えてくださいませ。それまで動いてはなりませぬ。動けば──、私の命がありませぬ。そうでございますね、紀伊さま?」
「お、おおおおう、そうじゃ! 五乃舎の姫の言う通りにせよ!」
紀伊が慌てて織衣の言葉に同意する。切羽詰まった中、捕らえているはずの姫君に主導権を奪われていることに本人は気づいていない。そして彼は、周囲を威嚇しつつ織衣の腕を乱暴に引っ張りながら南庭に下りると、そのまま織衣とともに姿を消した。
呆然自失となって静まり返る広間。ややあって、はっと我に返った咲子が鋭い声を上げた。
「に、逃がすでない! 近衛の者たちを呼べ! 二人を追うのじゃ!!」
「……いや、いい。慌てるな」
「東宮さま!」
「誰も追わないとは言っていない。咲子、落ち着け。確実に首謀者を取り押さえるために、織衣は自ら行ったのだ」
目を釣り上げて迫る咲子を惟人がなだめる。そして大きなため息一つ、惟人は毒セリを粥に盛った女房に再び声をかけた。
「さあ、頼みにしていた紀伊はおまえを置いて逃げたぞ。この企てをおまえに持ちかけたのは紀伊だけか? そんなことあるまい。紀伊に内裏務めの女房を決める権限はないし、口添えするにしても奴の立場では一人で無理だ。紀伊以外におるであろう?」
「……」
「よく考えよ。このまま何も話さなければ、おまえもおまえの一族も命はない。なにせ私の宴の食事に毒を盛ったのだからな。が、今ここで知っていることを話すというのであれば──地方への追放で済ませることも考えてもいい」
惟人は、女房を取り押さえている官人に手を緩めるよう目で合図を送る。ようやく解放されて座り直した女房は、おろおろと視線をさ迷わせながら、両手をついて惟人に深く頭を下げた。
「ど、どうかお命だけは……小さな弟がおります。ご勘弁くださいませ」
「ならば知っていることを洗いざらい話せ。紀伊の背後におる者は誰だ?」
「き、紀伊さまが……イチノカタとお呼びでございました。どこのどなたかは、私めには分かりませぬ」
「……それで十分だ」
惟人が確信に満ちた顔で頷く。そして、近くの官人にやおら指示を出した。
「至急、近衛大将の時国に連絡を。事の次第を説明し、衛士たちとともに礼人親王の殿舎へ向かうよう伝えよ。私も今から行く」
惟人が迷うことなく礼人の名を上げれば、官人は戸惑った表情を見せた。
「は。礼人親王の殿舎に、ですか?」
「そうだ。一の方、つまり一の皇子のことだ。殿舎に兄上がいなければ、御門大路の東の外れに今は誰も住んでいない邸宅があるので、そこへ行く。兄上ゆかりの者の屋敷で、何かある時、兄上は決まってあそこに身を隠すからな」
「し、しかし女房の言葉のみで首謀者を礼人親王と判断なさるのは……」
「ぐずぐずしていては機を逃す。早く行け」
惟人の態度は揺るがない。強い口調で急かされて、官人は身をひるがえして広間を走り去っていく。そして、広間に残った者たちが無言で目を交わし合う中、惟人は咲子に告げた。
「咲子、おまえは紀伊の処分だけで済ませたかったかもしれぬが、まがいなりにも織衣がさらわれた形となった。悪いが、厳正に対処する」
「……分かっております」
悔しそうに咲子は頷きながら、しかしすぐ、非難めいた眼差しを惟人に向ける。
「だから言ったのです。いらぬ軋轢を生むだけだと……。本当に抑えるべき相手が礼人さまではないことぐらい分かっておいででしょう? 礼人さまがこんな大胆なことを紀伊と二人だけでなさるとは思えませぬ。そそのかしたのは──」
そこまで言って咲子は残りの言葉を飲み込んだ。しばらく逡巡してから、最後にぽつりと付け加える。
「おそらく父は出てきませぬ。きっと何も知らないとおっしゃるに決まっています」
「であろうな。が、少なくとも兄上との対立には決着をつけることができる」
「……」
咲子が複雑な顔で目を伏せる。皇族とそれに群がる人間たち。権力と思惑の間に挟まれて悩む皇女の姿がそこにあった。
しかしややして、咲子は意を決したように顔を上げた。
「これ以上、父上──いいえ、柏親王の謀略に付き合う気はありませぬ。礼人親王さまにしても……頃合いにございましょう。この先、遅かれ早かれ問題を起こしておりました」
「そう言ってくれると助かる」
「ただ──」
「なんだ?」
「願わくば、恩情を賜りとうございます。私に説得の機会を与えてくださいませ」
言って咲子までが唐衣を脱ぎ始める。惟人が驚いて目をぱちくりさせた。
「咲子──!?」
「東宮さまは、ここの片付けを私に押しつけて織姫を追うつもりでございましょう? そうはさせませぬ。私も一緒に参ります」
咲子はためらうことなく織衣と同じように表着を脱いで裳《も》を外す。五衣《いつつぎぬ》に手をかけたところで惟人がそれを止めた。
「そこまでだ。まさか織衣のように最後まで脱ぐつもりか。連れていくから、それぐらいにしてくれ」
「まあ、ありがとうございます」
咲子が満足げに笑えば、惟人がやれやれと息をつく。
「そなたにまでそのように羽目を外されては、私は本当に叔父上に殺される」
「いいえ、東宮さまのせいではございませぬ。私は私のために、衣を脱いだのです。昨日までの咲子は、ここに捨てていこうかと思います」
どこか吹っ切れた感じの咲子の顔が清々しい。折しも、千菊の介抱を終えた守泰が広間に戻って来た。
「東宮、遅くなりました」
「おお守泰、ちょうどいいところに。千菊はどうだ?」
「薬師が参りましたので、後は任せて来ました。腹の中のものを大方吐いてくれたので、油断はできませんが大丈夫かと思います」
「そうか。それは良かった。では、私と咲子はこれより織衣の後を追う」
「織姫の後? ええと、今はどういう状況で?」
守泰が戸惑った顔をした。惟人たちは、織衣がさらわれたことを簡単に伝えると、宴の始末を有能な五位蔵人に押しつけることにして、自分たちは織衣を追いかけるべく広間を後にした。
「な、ななな何を!? 動くなと言っているだろう!」
「……私を盾にして逃げるのでは? このままでは唐衣や表着が重く、身軽に歩けませぬ」
ごくり、と息を飲む音が聞こえ、織衣は内心ほくそ笑む。
(そう、私を連れて逃げればいい。そうして首謀者の元へ連れて行け)
皆が見守る中、織衣は着ているものを一つずつ脱いでいく。ずるずる引きずる裳も邪魔だし、なんなら五衣も単衣も動きづらい。
とは言え、さすがに織衣が五衣に手をかけた時には、咲子が目をそらし、女房たちから悲鳴が上がった。
「織衣、やめよ!!」
「動いてはなりませぬ。東宮さま」
飛び出しかかる惟人を目で制し、織衣は単衣さえ脱ぎ捨てる。
小袖に緋袴だけという、あられもない姿。足元はまだもたつくが、それでもずいぶん身が軽い。織衣は満足げに笑いつつ惟人たちに言った。
「私たちの姿が見えなくなってから百を百回数えてくださいませ。それまで動いてはなりませぬ。動けば──、私の命がありませぬ。そうでございますね、紀伊さま?」
「お、おおおおう、そうじゃ! 五乃舎の姫の言う通りにせよ!」
紀伊が慌てて織衣の言葉に同意する。切羽詰まった中、捕らえているはずの姫君に主導権を奪われていることに本人は気づいていない。そして彼は、周囲を威嚇しつつ織衣の腕を乱暴に引っ張りながら南庭に下りると、そのまま織衣とともに姿を消した。
呆然自失となって静まり返る広間。ややあって、はっと我に返った咲子が鋭い声を上げた。
「に、逃がすでない! 近衛の者たちを呼べ! 二人を追うのじゃ!!」
「……いや、いい。慌てるな」
「東宮さま!」
「誰も追わないとは言っていない。咲子、落ち着け。確実に首謀者を取り押さえるために、織衣は自ら行ったのだ」
目を釣り上げて迫る咲子を惟人がなだめる。そして大きなため息一つ、惟人は毒セリを粥に盛った女房に再び声をかけた。
「さあ、頼みにしていた紀伊はおまえを置いて逃げたぞ。この企てをおまえに持ちかけたのは紀伊だけか? そんなことあるまい。紀伊に内裏務めの女房を決める権限はないし、口添えするにしても奴の立場では一人で無理だ。紀伊以外におるであろう?」
「……」
「よく考えよ。このまま何も話さなければ、おまえもおまえの一族も命はない。なにせ私の宴の食事に毒を盛ったのだからな。が、今ここで知っていることを話すというのであれば──地方への追放で済ませることも考えてもいい」
惟人は、女房を取り押さえている官人に手を緩めるよう目で合図を送る。ようやく解放されて座り直した女房は、おろおろと視線をさ迷わせながら、両手をついて惟人に深く頭を下げた。
「ど、どうかお命だけは……小さな弟がおります。ご勘弁くださいませ」
「ならば知っていることを洗いざらい話せ。紀伊の背後におる者は誰だ?」
「き、紀伊さまが……イチノカタとお呼びでございました。どこのどなたかは、私めには分かりませぬ」
「……それで十分だ」
惟人が確信に満ちた顔で頷く。そして、近くの官人にやおら指示を出した。
「至急、近衛大将の時国に連絡を。事の次第を説明し、衛士たちとともに礼人親王の殿舎へ向かうよう伝えよ。私も今から行く」
惟人が迷うことなく礼人の名を上げれば、官人は戸惑った表情を見せた。
「は。礼人親王の殿舎に、ですか?」
「そうだ。一の方、つまり一の皇子のことだ。殿舎に兄上がいなければ、御門大路の東の外れに今は誰も住んでいない邸宅があるので、そこへ行く。兄上ゆかりの者の屋敷で、何かある時、兄上は決まってあそこに身を隠すからな」
「し、しかし女房の言葉のみで首謀者を礼人親王と判断なさるのは……」
「ぐずぐずしていては機を逃す。早く行け」
惟人の態度は揺るがない。強い口調で急かされて、官人は身をひるがえして広間を走り去っていく。そして、広間に残った者たちが無言で目を交わし合う中、惟人は咲子に告げた。
「咲子、おまえは紀伊の処分だけで済ませたかったかもしれぬが、まがいなりにも織衣がさらわれた形となった。悪いが、厳正に対処する」
「……分かっております」
悔しそうに咲子は頷きながら、しかしすぐ、非難めいた眼差しを惟人に向ける。
「だから言ったのです。いらぬ軋轢を生むだけだと……。本当に抑えるべき相手が礼人さまではないことぐらい分かっておいででしょう? 礼人さまがこんな大胆なことを紀伊と二人だけでなさるとは思えませぬ。そそのかしたのは──」
そこまで言って咲子は残りの言葉を飲み込んだ。しばらく逡巡してから、最後にぽつりと付け加える。
「おそらく父は出てきませぬ。きっと何も知らないとおっしゃるに決まっています」
「であろうな。が、少なくとも兄上との対立には決着をつけることができる」
「……」
咲子が複雑な顔で目を伏せる。皇族とそれに群がる人間たち。権力と思惑の間に挟まれて悩む皇女の姿がそこにあった。
しかしややして、咲子は意を決したように顔を上げた。
「これ以上、父上──いいえ、柏親王の謀略に付き合う気はありませぬ。礼人親王さまにしても……頃合いにございましょう。この先、遅かれ早かれ問題を起こしておりました」
「そう言ってくれると助かる」
「ただ──」
「なんだ?」
「願わくば、恩情を賜りとうございます。私に説得の機会を与えてくださいませ」
言って咲子までが唐衣を脱ぎ始める。惟人が驚いて目をぱちくりさせた。
「咲子──!?」
「東宮さまは、ここの片付けを私に押しつけて織姫を追うつもりでございましょう? そうはさせませぬ。私も一緒に参ります」
咲子はためらうことなく織衣と同じように表着を脱いで裳《も》を外す。五衣《いつつぎぬ》に手をかけたところで惟人がそれを止めた。
「そこまでだ。まさか織衣のように最後まで脱ぐつもりか。連れていくから、それぐらいにしてくれ」
「まあ、ありがとうございます」
咲子が満足げに笑えば、惟人がやれやれと息をつく。
「そなたにまでそのように羽目を外されては、私は本当に叔父上に殺される」
「いいえ、東宮さまのせいではございませぬ。私は私のために、衣を脱いだのです。昨日までの咲子は、ここに捨てていこうかと思います」
どこか吹っ切れた感じの咲子の顔が清々しい。折しも、千菊の介抱を終えた守泰が広間に戻って来た。
「東宮、遅くなりました」
「おお守泰、ちょうどいいところに。千菊はどうだ?」
「薬師が参りましたので、後は任せて来ました。腹の中のものを大方吐いてくれたので、油断はできませんが大丈夫かと思います」
「そうか。それは良かった。では、私と咲子はこれより織衣の後を追う」
「織姫の後? ええと、今はどういう状況で?」
守泰が戸惑った顔をした。惟人たちは、織衣がさらわれたことを簡単に伝えると、宴の始末を有能な五位蔵人に押しつけることにして、自分たちは織衣を追いかけるべく広間を後にした。

