その頃、広間では張り詰めた空気の中、織衣が食べかけの千菊の膳をじっと見つめていた。
ややあって、
「東宮さま、女柏宮さま、これを」
織衣がおもむろにセリ粥の椀を持ち上げ、惟人と咲子に見せる。
「これはセリではないかもしれませぬ。セリにしては葉が大きく、匂いも薄い。毒ゼリではないかと」
惟人が「馬鹿な!」と織衣から椀を奪い取り、咲子は思わず息を呑む。
「粥は全員に配され、皆が口にしております。おそらく、菊姫の膳にだけ入れられたのかと思います」
「織衣、そなたは粥を口にしたか?」
「いえ。緊張しておりましたもので、何も食べておりませぬ」
「……念のため織衣の膳もそのまま下げよ」
ぎりっと惟人が歯ぎしりをしながら近くの女房に命令する。そして、広間の入り口付近にいる貴清に声をかけた。
「貴清、三つの姫を部屋へ」
「分かりました」
貴清が一礼し、舞台に立ち尽くす幸に声をかけ、彼女と三乃舎の女房数人を連れて退出する。
一方、織衣は幸と貴清が退出したのを見届けてから、今度はおもむろに広間の中を歩き始めた。惟人が織衣に呼びかける。
「織衣、どうした?」
織衣は答えない。ただ黙って、広間に残る人間の顔を一人ひとり丁寧に確認していく。
(犯人がこの中にいるかもしれない)
咲子から東宮御所に関わる人間を全て覚えろと言われ、あらかた覚えた自負はある。特に、内裏務めの女房については、どこの配属かも覚えている。
反応はそれぞれだ。すくんで動けなくなる者、誰かの後ろに身を隠そうとする者、毅然と織衣を見返す者──。その一つ一つを、織衣は頭の中の記憶と照らし合わせる。まさか、こんな形で役に立つなんて織衣も思っていなかった。
と、織衣はぴたりと足を止め、一人の女房に目を向けた。
「そこのあなた。前に」
指名された女房は、戸惑った様子で前に進み出た。織衣がじっと彼女の顔を見つめる。
「見ない顔ね」
「あの、今日は配膳の手伝いを申し付けられこちらに参りましたので」
「どこの女房かしら」
「内裏務めの者です」
「そんなことは分かっているわ。誰に仕えているのかと聞いているの」
女房が言葉に詰まる。
すると、織衣の隣に咲子が歩み寄り、すっと目をすがめた。
「確かに見覚えがないの。そなた、主の名を答えられぬか」
「いえっ──、梨壺の更衣さまにお仕え申し上げております」
織衣と咲子は顔を見合わせる。
ぼろが、出た。
織衣は鋭い眼差しで女房を見据えた。
「嘘をつかないで。梨壺さまの女房の顔は全て覚えているわ」
「それは、その、最近こちらに上がったもので──」
「いよいよおかしいわね。梨壺さまはとてもご丁寧な御方で、新しい女房を召し上げた時は、必ず宮さまにご紹介をなさるもの。今は私もそこに同席している」
「……!」
女房がおろおろと目を泳がせる。そして次の瞬間、彼女は身をひるがえして逃げ出した。
惟人の鋭い声が上がる。
「その女を捕らえよ!」
近くにいる官人があっという間に女房を捉えて床に押さえつければ、女房は「お許しを」とがたがた震えてひれ伏した。咲子が汚いものでも見るかのように冷たい視線を女房へ向けた。
「人が足りていないことに乗じて、潜り込んだのでございましょう」
「……千菊に任せきりにしていたからな。落ち度は私にある」
咲子に答え、惟人が吟味のために女房の前に進み出る。
織衣は咲子と一緒に、少し後ろで成り行きを見守る。ちらりと咲子を見れば、彼女から「良くやった」とばかりの笑みを返された。
惟人が、嘘を許さない厳しい声で女房に尋ねる。
「なぜこのようなことをした?」
「わわわ、わた、私は、頼まれただけにございます。懲らしめたい姫君がいるので、嫌がらせに姫君が苦手な山菜を椀に入れて欲しいと。そうすれば内裏務めの女房に推挙すると言われたのでございます。ま、まさか毒だったとは──」
「誰がそのようなことを?」
「……」
「言えぬか?」
水を打ったように静まり返る広間。女房の次の言葉に、誰もが意識を傾けている。惟人も咲子もそうであったし、織衣自身もそうだった。そこに一瞬の隙ができた。
突然、広間を取り囲む人々の中から誰かがわっと飛び出し、織衣と咲子に飛びかかる。織衣は、はっとそちらに顔を向けた。
「宮さまっ、危ない!」
織衣はとっさに咲子を押しのけ、その人物の前に立つ。
殺気立つ男の顔が、織衣の目の中に飛び込んできた。見覚えのある顔──、以前、礼人とともに次乃舎に押し入ってきた彼の側近である。
織衣は瞬時に両手を上げて身構え、しかし、すぐに手を下ろした。
次の刹那、
「うっ、動くなっ!」
引きつれた声を発しながら男が織衣を羽交い絞めにし、懐に隠し持っていた短刀を織衣の喉元に突きつける。
「織衣!」
「織姫!」
惟人と咲子が声を上げ、蒼白となる。
「動くなと言っているだろう!」
男は喚き散らしながら、織衣にぐぐっと刃を押し当てた。惟人が、男をにらみながら唸る。
「おまえは、紀伊」
宴の前、「欠席の礼人の代わりに六位蔵人が出席する」と守泰が言っていた。なるほど、この男のことだったのかと織衣は納得する。
「何をしているか分かっておるのか、紀伊」
「東宮、目を覚まされよ。下賤の者ばかり側に置いては、この世は傾いてしまいます。女柏宮を排斥し、のうのうと東宮の左側に座るなど……次乃舎の姫も五乃舎の姫も主上にたかる虫だ! 私は東宮の愚行を諌め、身の程を知らぬ姫たちに裁きを下しているのです!」
紀伊は、身勝手な主張をまくし立てた。
確かに、咲子を差し置いて織衣を東宮妃に据えようとしていることは、旧来の伝統を重んじる人々から見れば愚行であるかもしれない。しかし、その考え方そのものが排他的で偏見に満ちている。
織衣は刃を突きつけらえた状態のまま強い口調で紀伊に言い返した。
「菊姫さまは、先を見通すことのできる聡明な姫。私に対する暴言はともかく、菊姫さまを侮辱するは聞き捨てなりませぬ。訂正してくださいませ」
「黙れっ! 殺されたいか!」
「できるものなら」
素っ気なく答え、織衣は鼻を鳴らす。小刻みに震える紀伊の手。刃を人に突きつけたことがないことは容易に想像できた。
この状況で紀伊に逃げ場はない。せいぜい自分に傷を負わせられれば上等というところか。後は取り押さえられておしまいだ。
しかし、それでは不十分だ──。あの瞬間、組み伏せることをやめ、わざと捕まったのには織衣なりの理由がある。
(この男が一人で考えてやったとは思えない……)
紀伊に命令を下した者がいる。当然ながら、それは一人しか思いつかなかった。ただし、はっきりとそうだと言い切るには証拠が必要だ。
とすれば、この男に本人の元へ案内させるだけだ。
織衣はふいに唐衣を脱ぎ捨て、表着にも手をかけた。
ややあって、
「東宮さま、女柏宮さま、これを」
織衣がおもむろにセリ粥の椀を持ち上げ、惟人と咲子に見せる。
「これはセリではないかもしれませぬ。セリにしては葉が大きく、匂いも薄い。毒ゼリではないかと」
惟人が「馬鹿な!」と織衣から椀を奪い取り、咲子は思わず息を呑む。
「粥は全員に配され、皆が口にしております。おそらく、菊姫の膳にだけ入れられたのかと思います」
「織衣、そなたは粥を口にしたか?」
「いえ。緊張しておりましたもので、何も食べておりませぬ」
「……念のため織衣の膳もそのまま下げよ」
ぎりっと惟人が歯ぎしりをしながら近くの女房に命令する。そして、広間の入り口付近にいる貴清に声をかけた。
「貴清、三つの姫を部屋へ」
「分かりました」
貴清が一礼し、舞台に立ち尽くす幸に声をかけ、彼女と三乃舎の女房数人を連れて退出する。
一方、織衣は幸と貴清が退出したのを見届けてから、今度はおもむろに広間の中を歩き始めた。惟人が織衣に呼びかける。
「織衣、どうした?」
織衣は答えない。ただ黙って、広間に残る人間の顔を一人ひとり丁寧に確認していく。
(犯人がこの中にいるかもしれない)
咲子から東宮御所に関わる人間を全て覚えろと言われ、あらかた覚えた自負はある。特に、内裏務めの女房については、どこの配属かも覚えている。
反応はそれぞれだ。すくんで動けなくなる者、誰かの後ろに身を隠そうとする者、毅然と織衣を見返す者──。その一つ一つを、織衣は頭の中の記憶と照らし合わせる。まさか、こんな形で役に立つなんて織衣も思っていなかった。
と、織衣はぴたりと足を止め、一人の女房に目を向けた。
「そこのあなた。前に」
指名された女房は、戸惑った様子で前に進み出た。織衣がじっと彼女の顔を見つめる。
「見ない顔ね」
「あの、今日は配膳の手伝いを申し付けられこちらに参りましたので」
「どこの女房かしら」
「内裏務めの者です」
「そんなことは分かっているわ。誰に仕えているのかと聞いているの」
女房が言葉に詰まる。
すると、織衣の隣に咲子が歩み寄り、すっと目をすがめた。
「確かに見覚えがないの。そなた、主の名を答えられぬか」
「いえっ──、梨壺の更衣さまにお仕え申し上げております」
織衣と咲子は顔を見合わせる。
ぼろが、出た。
織衣は鋭い眼差しで女房を見据えた。
「嘘をつかないで。梨壺さまの女房の顔は全て覚えているわ」
「それは、その、最近こちらに上がったもので──」
「いよいよおかしいわね。梨壺さまはとてもご丁寧な御方で、新しい女房を召し上げた時は、必ず宮さまにご紹介をなさるもの。今は私もそこに同席している」
「……!」
女房がおろおろと目を泳がせる。そして次の瞬間、彼女は身をひるがえして逃げ出した。
惟人の鋭い声が上がる。
「その女を捕らえよ!」
近くにいる官人があっという間に女房を捉えて床に押さえつければ、女房は「お許しを」とがたがた震えてひれ伏した。咲子が汚いものでも見るかのように冷たい視線を女房へ向けた。
「人が足りていないことに乗じて、潜り込んだのでございましょう」
「……千菊に任せきりにしていたからな。落ち度は私にある」
咲子に答え、惟人が吟味のために女房の前に進み出る。
織衣は咲子と一緒に、少し後ろで成り行きを見守る。ちらりと咲子を見れば、彼女から「良くやった」とばかりの笑みを返された。
惟人が、嘘を許さない厳しい声で女房に尋ねる。
「なぜこのようなことをした?」
「わわわ、わた、私は、頼まれただけにございます。懲らしめたい姫君がいるので、嫌がらせに姫君が苦手な山菜を椀に入れて欲しいと。そうすれば内裏務めの女房に推挙すると言われたのでございます。ま、まさか毒だったとは──」
「誰がそのようなことを?」
「……」
「言えぬか?」
水を打ったように静まり返る広間。女房の次の言葉に、誰もが意識を傾けている。惟人も咲子もそうであったし、織衣自身もそうだった。そこに一瞬の隙ができた。
突然、広間を取り囲む人々の中から誰かがわっと飛び出し、織衣と咲子に飛びかかる。織衣は、はっとそちらに顔を向けた。
「宮さまっ、危ない!」
織衣はとっさに咲子を押しのけ、その人物の前に立つ。
殺気立つ男の顔が、織衣の目の中に飛び込んできた。見覚えのある顔──、以前、礼人とともに次乃舎に押し入ってきた彼の側近である。
織衣は瞬時に両手を上げて身構え、しかし、すぐに手を下ろした。
次の刹那、
「うっ、動くなっ!」
引きつれた声を発しながら男が織衣を羽交い絞めにし、懐に隠し持っていた短刀を織衣の喉元に突きつける。
「織衣!」
「織姫!」
惟人と咲子が声を上げ、蒼白となる。
「動くなと言っているだろう!」
男は喚き散らしながら、織衣にぐぐっと刃を押し当てた。惟人が、男をにらみながら唸る。
「おまえは、紀伊」
宴の前、「欠席の礼人の代わりに六位蔵人が出席する」と守泰が言っていた。なるほど、この男のことだったのかと織衣は納得する。
「何をしているか分かっておるのか、紀伊」
「東宮、目を覚まされよ。下賤の者ばかり側に置いては、この世は傾いてしまいます。女柏宮を排斥し、のうのうと東宮の左側に座るなど……次乃舎の姫も五乃舎の姫も主上にたかる虫だ! 私は東宮の愚行を諌め、身の程を知らぬ姫たちに裁きを下しているのです!」
紀伊は、身勝手な主張をまくし立てた。
確かに、咲子を差し置いて織衣を東宮妃に据えようとしていることは、旧来の伝統を重んじる人々から見れば愚行であるかもしれない。しかし、その考え方そのものが排他的で偏見に満ちている。
織衣は刃を突きつけらえた状態のまま強い口調で紀伊に言い返した。
「菊姫さまは、先を見通すことのできる聡明な姫。私に対する暴言はともかく、菊姫さまを侮辱するは聞き捨てなりませぬ。訂正してくださいませ」
「黙れっ! 殺されたいか!」
「できるものなら」
素っ気なく答え、織衣は鼻を鳴らす。小刻みに震える紀伊の手。刃を人に突きつけたことがないことは容易に想像できた。
この状況で紀伊に逃げ場はない。せいぜい自分に傷を負わせられれば上等というところか。後は取り押さえられておしまいだ。
しかし、それでは不十分だ──。あの瞬間、組み伏せることをやめ、わざと捕まったのには織衣なりの理由がある。
(この男が一人で考えてやったとは思えない……)
紀伊に命令を下した者がいる。当然ながら、それは一人しか思いつかなかった。ただし、はっきりとそうだと言い切るには証拠が必要だ。
とすれば、この男に本人の元へ案内させるだけだ。
織衣はふいに唐衣を脱ぎ捨て、表着にも手をかけた。

