一方、次乃舎に着いた守泰は女房たちにすぐさま指示を出した。
「畳を敷いてくれ! あと、水がたっぷり入った瓶と茶碗、それから大きめの桶を! ああ、手ぬぐいもだ!」
次乃舎の女房たちが、ほうぼうに散っていく。水を取りに行く者、桶を準備する者、畳を敷く者──。守泰が畳の上に静かに千菊を寝かせた。その意識はすでにもうろうとしている。
「おいっ、こんなことで死ぬんじゃねえぞ! あんた、そんなタマじゃねえだろ!」
「宴が……私がいないと……」
「馬鹿野郎! 宴なんかどうでもいい!」
次乃舎の御簾が次々と降ろされる。采配をしているのは、守泰に対し最も当たりの厳しかった生駒だ。
「助かる。ついでに、全員部屋から追い出してくれるか。あんたは俺と一緒にここにいろよ」
「承知いたしました」
生駒が全ての者を下がらせる。そして、生駒以外誰もいなくなったところで、守泰は千菊の腰の帯に手をかけた。
さすがに生駒がぎょっとする。
「頼木さま、何を?!」
「服を脱がせるぞ。こんなに締め付けられていては苦しいからな。悪いが、苦言は全てが終わってからだ。なんのためにあんたを残したと思っている」
言いながら守泰が帯の結びを解いて、ためらうことなく表着から順に脱がしていく。
東宮でもない殿方が、妃候補の服を脱がせるなどありえない。しかし、今は非常の事態である。守泰が生駒を残したことは、苦肉の策とも言える。
最も信頼できそうな女房を一人だけ同席させることで何もなかったことの証とする──。この混乱の中で冷静な判断だと生駒も思う。
何枚もの袿を脱がせ、長ったらしい袴もはいでしまうと、千菊の華奢な小袖姿があらわとなった。折しも廊下で「水と桶、お持ちいたしました」と声がする。
「生駒、悪いが持ってきてくれるか」
「はい」
生駒はすばやく立ち上がると、それらを廊下から大急ぎで持ってきて守泰の前に置く。
「どうなさるので?」
「まずは水を飲ませる。菊姫、水だ」
守泰は椀に水を入れると、千菊の体を起こして口元へと近づけた。しかし、千菊は力なく首を横に振る。当然の反応と言えばそうである。今は水でさえ受けつけられないのだろう。
そんな千菊に対し、守泰は「ほんのひと口でいい」と茶碗を押しつけた。何度か呼吸を整えた後、ようやく千菊が茶碗に口をつけてくれた。しかし、ほんのわずか水をすすっただけですぐに吐き出してしまう。
生駒はそれを桶で受け止めながら、怪訝な顔を守泰に向ける。
「頼木さま、何を? このような状態で水を飲ませるなど無理にございます」
「俺は薬師じゃないから難しいことは分からない。ただ、下町では腹に悪いものを食べた時は、みんなこうしているんだ。申し訳ないが、失礼するぞ」
言って守泰は椀の水を自ら口に含むと、そのまま千菊に口移しで強引に飲ませる。千菊の口から水がこぼれ落ちるが守泰はかまわず二度、三度、それを繰り返した。
次の瞬間、千菊がうっとむせ返り飲んだ水とともに腹の中のものを吐き出した。守泰が生駒から素早く桶を奪い取り、それを受け止める。
「とにかく水をいっぱい飲ませて腹の中のものを出させる。あとは……神頼みだ。菊姫、苦しいだろうが耐えてくれ」
千菊の嘔吐が落ち着くと、守泰は再び同じことを繰り返した。生駒は複雑な思いでそれを黙って見るしかない。
ひととおり吐き終わると、千菊はぐったりした様子で守泰に寄りかかる。守泰の衣服を震えながら掴む白い指が痛々しい。
守泰は、そんな千菊の手をゆっくり解くと、ようやく畳の上に千菊を静かに寝かせた。
「やり過ぎも体に障る。これでひとまず休ませよう」
「ありがとうございます。あの……、毒をくらった菊姫さまへ口移しなど、頼木さまは大丈夫なのですか」
「俺は昔からろくなもんを口にしてないから体が慣れている。問題ない」
そう答え、守泰が袿の一つを千菊に掛けた。そして袖口でぐいっと口を拭ってから居ずまいを正すと、あらたまった表情で生駒に向き直る。
「状況が緊急だったとはいえ、もろもろ失礼を。このことは内密でお願いしたい」
「分かっております。お気になさらないでくださいませ。助けていただき、ありがとうございます」
「そう言ってくれると助かる」
畳に横になる千菊は苦しそうに浅い呼吸を繰り返し、虚ろな目をさ迷わせている。守泰が顔を覗き込めば、千菊は何かを求めるように震える手を差し出した。戸惑う守泰に生駒が声をかける。
「どうか握ってやってくださいませ。きっと不安なのです」
「……」
さすがにまずい。守泰は、ぐっと膝でこぶしを握る。やるべきことはした。ここから先は、状況を言い訳にすることはできない。
「……不安であれば、東宮をお呼びする」
「頼木さま、そういう意味ではありませぬ」
「そういう意味でないと困る」
そう言い返せば、業を煮やした生駒が守泰の手を強引に取って、無理やり千菊の手と重ね合わせた。そして、上から二人の手を力強く握り締め、千菊に笑ってみせる。
「菊姫さま、心配ございませぬ。頼木さまも、私もここにおりますよ」
虚ろな千菊の瞳が、ほんの少しだけ和んだ。
その時、慌ただしい複数の足音が聞こえ、廊下で声がした。
「薬師、到着いたしました!」
思わず守泰は手を引っ込める。そして素早く立ち上がると、御簾を上げて廊下に控える薬師たちを招き入れた。
「待っていた。すぐに見てくれ」
「はい」
ぞろぞろと白い狩衣姿の薬師が入ってきて千菊を取り囲み、自然と守泰は部屋の隅へと追いやられる形となる。彼は柱の一つにもたれかかってどかりと床に座り込んだ。
薬師の一人が枕元の桶に目をやり、振り返って守泰を見る。
「頼木さま、菊姫さまはいかほどお吐きなさったか?」
「二回は吐いたから、腹のものはほぼ吐ききったと思う」
「……それは良うございました。それにしても、菊姫さまがご自分で?」
「ああ、自分でだ。私は少し体を支えた程度だ」
そう答え、守泰はおもむろに立ち上がった。もう自分がここにいる必要はない。居続けることも不自然だ。
薬師たちは千菊の状態を確認しながらあれこれと話し合っている。その口調に緊張感はあるものの悲壮感はない。おそらく見立ては悪くないのだろう。
足音を立てないように気をつけながら守泰はそっと部屋を抜け出した。
その後ろ姿を、千菊はぼんやりと目で追う。胸が苦しいのは、果たして毒のせいだけか。
唇に残るわずかな余韻。彼の体温を間違いなく感じた。
だからと言って、どうというわけでもないのだが。
だってそうではないか。守泰にとって、自分は東宮の妃候補の一人でしかない。次に会う時だって、きっと彼は何もなかったかのように平然と笑うだけだ。もっとも、宴を失敗した役立たずと今後も関わり合う気があればの話だが。
千菊は静かに目を閉じる。一筋の涙がぽろりと流れ落ちた。
「畳を敷いてくれ! あと、水がたっぷり入った瓶と茶碗、それから大きめの桶を! ああ、手ぬぐいもだ!」
次乃舎の女房たちが、ほうぼうに散っていく。水を取りに行く者、桶を準備する者、畳を敷く者──。守泰が畳の上に静かに千菊を寝かせた。その意識はすでにもうろうとしている。
「おいっ、こんなことで死ぬんじゃねえぞ! あんた、そんなタマじゃねえだろ!」
「宴が……私がいないと……」
「馬鹿野郎! 宴なんかどうでもいい!」
次乃舎の御簾が次々と降ろされる。采配をしているのは、守泰に対し最も当たりの厳しかった生駒だ。
「助かる。ついでに、全員部屋から追い出してくれるか。あんたは俺と一緒にここにいろよ」
「承知いたしました」
生駒が全ての者を下がらせる。そして、生駒以外誰もいなくなったところで、守泰は千菊の腰の帯に手をかけた。
さすがに生駒がぎょっとする。
「頼木さま、何を?!」
「服を脱がせるぞ。こんなに締め付けられていては苦しいからな。悪いが、苦言は全てが終わってからだ。なんのためにあんたを残したと思っている」
言いながら守泰が帯の結びを解いて、ためらうことなく表着から順に脱がしていく。
東宮でもない殿方が、妃候補の服を脱がせるなどありえない。しかし、今は非常の事態である。守泰が生駒を残したことは、苦肉の策とも言える。
最も信頼できそうな女房を一人だけ同席させることで何もなかったことの証とする──。この混乱の中で冷静な判断だと生駒も思う。
何枚もの袿を脱がせ、長ったらしい袴もはいでしまうと、千菊の華奢な小袖姿があらわとなった。折しも廊下で「水と桶、お持ちいたしました」と声がする。
「生駒、悪いが持ってきてくれるか」
「はい」
生駒はすばやく立ち上がると、それらを廊下から大急ぎで持ってきて守泰の前に置く。
「どうなさるので?」
「まずは水を飲ませる。菊姫、水だ」
守泰は椀に水を入れると、千菊の体を起こして口元へと近づけた。しかし、千菊は力なく首を横に振る。当然の反応と言えばそうである。今は水でさえ受けつけられないのだろう。
そんな千菊に対し、守泰は「ほんのひと口でいい」と茶碗を押しつけた。何度か呼吸を整えた後、ようやく千菊が茶碗に口をつけてくれた。しかし、ほんのわずか水をすすっただけですぐに吐き出してしまう。
生駒はそれを桶で受け止めながら、怪訝な顔を守泰に向ける。
「頼木さま、何を? このような状態で水を飲ませるなど無理にございます」
「俺は薬師じゃないから難しいことは分からない。ただ、下町では腹に悪いものを食べた時は、みんなこうしているんだ。申し訳ないが、失礼するぞ」
言って守泰は椀の水を自ら口に含むと、そのまま千菊に口移しで強引に飲ませる。千菊の口から水がこぼれ落ちるが守泰はかまわず二度、三度、それを繰り返した。
次の瞬間、千菊がうっとむせ返り飲んだ水とともに腹の中のものを吐き出した。守泰が生駒から素早く桶を奪い取り、それを受け止める。
「とにかく水をいっぱい飲ませて腹の中のものを出させる。あとは……神頼みだ。菊姫、苦しいだろうが耐えてくれ」
千菊の嘔吐が落ち着くと、守泰は再び同じことを繰り返した。生駒は複雑な思いでそれを黙って見るしかない。
ひととおり吐き終わると、千菊はぐったりした様子で守泰に寄りかかる。守泰の衣服を震えながら掴む白い指が痛々しい。
守泰は、そんな千菊の手をゆっくり解くと、ようやく畳の上に千菊を静かに寝かせた。
「やり過ぎも体に障る。これでひとまず休ませよう」
「ありがとうございます。あの……、毒をくらった菊姫さまへ口移しなど、頼木さまは大丈夫なのですか」
「俺は昔からろくなもんを口にしてないから体が慣れている。問題ない」
そう答え、守泰が袿の一つを千菊に掛けた。そして袖口でぐいっと口を拭ってから居ずまいを正すと、あらたまった表情で生駒に向き直る。
「状況が緊急だったとはいえ、もろもろ失礼を。このことは内密でお願いしたい」
「分かっております。お気になさらないでくださいませ。助けていただき、ありがとうございます」
「そう言ってくれると助かる」
畳に横になる千菊は苦しそうに浅い呼吸を繰り返し、虚ろな目をさ迷わせている。守泰が顔を覗き込めば、千菊は何かを求めるように震える手を差し出した。戸惑う守泰に生駒が声をかける。
「どうか握ってやってくださいませ。きっと不安なのです」
「……」
さすがにまずい。守泰は、ぐっと膝でこぶしを握る。やるべきことはした。ここから先は、状況を言い訳にすることはできない。
「……不安であれば、東宮をお呼びする」
「頼木さま、そういう意味ではありませぬ」
「そういう意味でないと困る」
そう言い返せば、業を煮やした生駒が守泰の手を強引に取って、無理やり千菊の手と重ね合わせた。そして、上から二人の手を力強く握り締め、千菊に笑ってみせる。
「菊姫さま、心配ございませぬ。頼木さまも、私もここにおりますよ」
虚ろな千菊の瞳が、ほんの少しだけ和んだ。
その時、慌ただしい複数の足音が聞こえ、廊下で声がした。
「薬師、到着いたしました!」
思わず守泰は手を引っ込める。そして素早く立ち上がると、御簾を上げて廊下に控える薬師たちを招き入れた。
「待っていた。すぐに見てくれ」
「はい」
ぞろぞろと白い狩衣姿の薬師が入ってきて千菊を取り囲み、自然と守泰は部屋の隅へと追いやられる形となる。彼は柱の一つにもたれかかってどかりと床に座り込んだ。
薬師の一人が枕元の桶に目をやり、振り返って守泰を見る。
「頼木さま、菊姫さまはいかほどお吐きなさったか?」
「二回は吐いたから、腹のものはほぼ吐ききったと思う」
「……それは良うございました。それにしても、菊姫さまがご自分で?」
「ああ、自分でだ。私は少し体を支えた程度だ」
そう答え、守泰はおもむろに立ち上がった。もう自分がここにいる必要はない。居続けることも不自然だ。
薬師たちは千菊の状態を確認しながらあれこれと話し合っている。その口調に緊張感はあるものの悲壮感はない。おそらく見立ては悪くないのだろう。
足音を立てないように気をつけながら守泰はそっと部屋を抜け出した。
その後ろ姿を、千菊はぼんやりと目で追う。胸が苦しいのは、果たして毒のせいだけか。
唇に残るわずかな余韻。彼の体温を間違いなく感じた。
だからと言って、どうというわけでもないのだが。
だってそうではないか。守泰にとって、自分は東宮の妃候補の一人でしかない。次に会う時だって、きっと彼は何もなかったかのように平然と笑うだけだ。もっとも、宴を失敗した役立たずと今後も関わり合う気があればの話だが。
千菊は静かに目を閉じる。一筋の涙がぽろりと流れ落ちた。

