織衣は思わず息を呑む。
惟人に最も近い左側の席が空席なのは分かる。今から自分が座る席なのだから。
そして、咲子が右側なのも予想通りだ。しかし、通常であれば咲子の右隣に座るはずの千菊は、織衣の左隣に席を作って座っている。
席順としては咲子の場所が上かもしれない。が、咲子だけを右側に追いやったようにも見え、まるで彼女を締め出したかのようだ。
(菊姫さま──!)
思わず織衣は戸惑いの眼差しを千菊に向けた。いくらなんでもやり過ぎである。しかし低頭している状態の千菊に織衣の視線は届かない。
ちらりと守泰に目をやれば、守泰が上目遣いでこちらを見ていた。その意味するところは、「止まるな」だ。
先を行く惟人が織衣に向かって手を差し出す。同時に、惟人の声が広間に響く。
「織衣、そなたは私の左の席へ」
あくまでも自然にさりげなく。しかし、広間にいる者全てに聞こえるようにはっきりと。広間を包む空気が揺れたのを織衣は感じた。ためらい一つ、ぐっと奥歯を噛みしめて惟人の手を取り、促されるまま左の席に座る。
惟人は満足げにそれを見届け、自身は中央の御座に腰を下ろした。
「今日はよく集まってくれた。面を上げよ」
全員が一斉に顔を上げ、全ての者の視線が惟人と織衣に注がれる。
これが、正妃の席──。なんとも言えない圧を感じ、織衣の顔が自然と強張った。
不安にかられ遠野の姿を探せば、遠野が離れた廊下の隅から力強い笑みを返してくれた。しかし、中には苦虫を噛み潰したような顔をしている者たちもいる。
当然である。初乃舎と次乃舎の姫君を差し置いて、この場所を陣取っているのだから。
惟人の挨拶が始まる。ふと、隣の千菊に目をやると、彼女は鷹揚な笑みを見せつつも、あちらこちらに目を配っている。初めて宴の進行を任され、彼女もまた緊張しているのだろう。一方、右側に一人で座る咲子は、気丈に顔を上げて瞬き一つせずじっと宙を見つめている。
出会って二月近く。初顔合わせで千菊と喧嘩をし、咲子に仲裁された時のことが懐かしい。あれから二人にはいろいろと助けられた。織衣にとっては、どちらも尊敬に値する存在だ。
今、その二人がこうして相対して座っている。咲子と千菊の立場を考えれば、当然の結果なのかもしれない。しかし、それがどうにも織衣には悔しい。
なぜなら、二人が仲違えをする理由など一つもないのだから。
惟人の言葉が終わって、食膳が一斉に配された。惟人が酒杯に口をつけ、皆が笑顔で食べ始める中、織衣は緊張で何も食べる気になれない。
咲子も食膳を静かに眺め、なかなか手をつけようとしない。逆に千菊は料理の味が気になるのか、全ての器から少しずつ味見をしている。
そして、皆の緊張がほぐれた頃、千菊が廊下に控える官人に目配せしつつ惟人と織衣に話しかけた。
「東宮さま、織姫さま。今から幸姫さまの巫女舞にございます」
その刹那、演舞台の裾から雅な調べが流れ始め、白と朱の巫女装束をまとった幸が舞台に現れた。幸は惟人と織衣に向かって一礼してから、優雅な調べにのって静かに舞い始める。
響き渡る神楽鈴の音、南庭を包む清廉な空気。時折吹き抜ける風が幸の装束をふわりと巻き上げ、幸はさながら舞い降りた天女のよう。
広間から「おお」という声が上がり、千菊が満足げな笑みを浮かべる。
完璧である。まさに非の打ち所のない宴──。
けれど。
喜ぶべきことのはずなのに、どうしてこんなに悲しいのか。
それぞれの姫君の思いを飲み込み宴は進む。織衣は遣る瀬ない気持ちを持て余し、助けを求めて惟人を見る。
織衣の視線に気づいた惟人が、「分かっている」という顔を返し、すぐさま視線を舞台に戻した。彼にとっても、この宴は楽しい催しなどではなく、政治的な行事の一つでしかないようだ。
なぜなら、これで宮内の勢力図が変わるから。
大伴時国の存在は大きくなるであろうし、一条元親はその地位をさらに確固たるものにするだろう。
一方で、柏親王とその一派はどうなるか。咲子がお役御免となれば、劣勢を強いられるのは必定である。
たかだか惟人の左側に自分が座っただけで──、その影響の大きさをあらためて感じ、織衣は身が引き締まる思いがする。
(この席は、私だけのものじゃない)
こうなると分かっていて、千菊が望み、咲子が後押ししてくれた。二人の思いを踏みにじるような真似はできない。
その時、不意に織衣の隣で「うっ」という鈍いうめき声が聞こえた。なんだと思って目をやると、口を抑えた千菊が前のめりに倒れかかっている。
「菊姫さま!?」
そのまま食膳に突っ伏しそうになる千菊を、とっさに織衣が支える。しかし千菊は織衣をどんと突き飛ばし、くるりと後ろを向いた。次の瞬間、彼女の口からごふっと吐物があふれ、側に控えていた給仕の女房が「ひっ」と小さな叫び声を上げた。
織衣は慌てて千菊に這い寄る。
「菊姫さま!」
にわかにざわつき始める人々。どこからか「毒じゃ!」と声が上がり、ざわめきが叫び声に変わった。守泰が廊下の列から飛び出し、咲子が織衣たちの元へと駆け寄る。
中断する演奏、浮足立つ出席者たち──。舞台上では幸が踊りを止めて驚いた表情を見せている。
「誰か薬師を呼べ! 他の者は動くな!」
惟人が立ち上がって指示を出せば、官人らしき一人が身をひるがえしてどこかへと走っていく。床に横たわる千菊が苦しそうに喉と胸をかきむしり、うめき声を上げる。
「菊姫さま、しっかりなさってください! 東宮さま!」
「分かっておる。織衣、そなたは下がれ!」
「あんたもだ! 東宮!」
荒々しい足音とともに守泰が惟人さえも押しのけて千菊の前に割って入った。
守泰が吐物で汚れた衣服ごと苦しむ千菊を抱き上げる。
「このまま次乃舎へ運びます。薬師が来たら、すぐに案内してください。後は任せます」
最後はほぼ言い捨てて、守泰が踵を返して広間を出ていく。その後に次乃舎の女房数人が慌ただしく続けば、どさくさに紛れ、関係のない者まで逃げる素振りを見せる。織衣は、それを見逃さなかった。
「動かないで!!」
鋭い織衣の声が響き、広間の人間の動きがぴたりと止まる。
射抜くような目で広間をにらむ織衣の傍らに咲子が寄り添うように立つ。
「織姫の言う通りにせよ。これ以上は誰も勝手に動いてはならぬ。皆、こちらの指示に従ってもらう」
言って咲子は、「大丈夫」というように織衣の肩に手を乗せた。
惟人に最も近い左側の席が空席なのは分かる。今から自分が座る席なのだから。
そして、咲子が右側なのも予想通りだ。しかし、通常であれば咲子の右隣に座るはずの千菊は、織衣の左隣に席を作って座っている。
席順としては咲子の場所が上かもしれない。が、咲子だけを右側に追いやったようにも見え、まるで彼女を締め出したかのようだ。
(菊姫さま──!)
思わず織衣は戸惑いの眼差しを千菊に向けた。いくらなんでもやり過ぎである。しかし低頭している状態の千菊に織衣の視線は届かない。
ちらりと守泰に目をやれば、守泰が上目遣いでこちらを見ていた。その意味するところは、「止まるな」だ。
先を行く惟人が織衣に向かって手を差し出す。同時に、惟人の声が広間に響く。
「織衣、そなたは私の左の席へ」
あくまでも自然にさりげなく。しかし、広間にいる者全てに聞こえるようにはっきりと。広間を包む空気が揺れたのを織衣は感じた。ためらい一つ、ぐっと奥歯を噛みしめて惟人の手を取り、促されるまま左の席に座る。
惟人は満足げにそれを見届け、自身は中央の御座に腰を下ろした。
「今日はよく集まってくれた。面を上げよ」
全員が一斉に顔を上げ、全ての者の視線が惟人と織衣に注がれる。
これが、正妃の席──。なんとも言えない圧を感じ、織衣の顔が自然と強張った。
不安にかられ遠野の姿を探せば、遠野が離れた廊下の隅から力強い笑みを返してくれた。しかし、中には苦虫を噛み潰したような顔をしている者たちもいる。
当然である。初乃舎と次乃舎の姫君を差し置いて、この場所を陣取っているのだから。
惟人の挨拶が始まる。ふと、隣の千菊に目をやると、彼女は鷹揚な笑みを見せつつも、あちらこちらに目を配っている。初めて宴の進行を任され、彼女もまた緊張しているのだろう。一方、右側に一人で座る咲子は、気丈に顔を上げて瞬き一つせずじっと宙を見つめている。
出会って二月近く。初顔合わせで千菊と喧嘩をし、咲子に仲裁された時のことが懐かしい。あれから二人にはいろいろと助けられた。織衣にとっては、どちらも尊敬に値する存在だ。
今、その二人がこうして相対して座っている。咲子と千菊の立場を考えれば、当然の結果なのかもしれない。しかし、それがどうにも織衣には悔しい。
なぜなら、二人が仲違えをする理由など一つもないのだから。
惟人の言葉が終わって、食膳が一斉に配された。惟人が酒杯に口をつけ、皆が笑顔で食べ始める中、織衣は緊張で何も食べる気になれない。
咲子も食膳を静かに眺め、なかなか手をつけようとしない。逆に千菊は料理の味が気になるのか、全ての器から少しずつ味見をしている。
そして、皆の緊張がほぐれた頃、千菊が廊下に控える官人に目配せしつつ惟人と織衣に話しかけた。
「東宮さま、織姫さま。今から幸姫さまの巫女舞にございます」
その刹那、演舞台の裾から雅な調べが流れ始め、白と朱の巫女装束をまとった幸が舞台に現れた。幸は惟人と織衣に向かって一礼してから、優雅な調べにのって静かに舞い始める。
響き渡る神楽鈴の音、南庭を包む清廉な空気。時折吹き抜ける風が幸の装束をふわりと巻き上げ、幸はさながら舞い降りた天女のよう。
広間から「おお」という声が上がり、千菊が満足げな笑みを浮かべる。
完璧である。まさに非の打ち所のない宴──。
けれど。
喜ぶべきことのはずなのに、どうしてこんなに悲しいのか。
それぞれの姫君の思いを飲み込み宴は進む。織衣は遣る瀬ない気持ちを持て余し、助けを求めて惟人を見る。
織衣の視線に気づいた惟人が、「分かっている」という顔を返し、すぐさま視線を舞台に戻した。彼にとっても、この宴は楽しい催しなどではなく、政治的な行事の一つでしかないようだ。
なぜなら、これで宮内の勢力図が変わるから。
大伴時国の存在は大きくなるであろうし、一条元親はその地位をさらに確固たるものにするだろう。
一方で、柏親王とその一派はどうなるか。咲子がお役御免となれば、劣勢を強いられるのは必定である。
たかだか惟人の左側に自分が座っただけで──、その影響の大きさをあらためて感じ、織衣は身が引き締まる思いがする。
(この席は、私だけのものじゃない)
こうなると分かっていて、千菊が望み、咲子が後押ししてくれた。二人の思いを踏みにじるような真似はできない。
その時、不意に織衣の隣で「うっ」という鈍いうめき声が聞こえた。なんだと思って目をやると、口を抑えた千菊が前のめりに倒れかかっている。
「菊姫さま!?」
そのまま食膳に突っ伏しそうになる千菊を、とっさに織衣が支える。しかし千菊は織衣をどんと突き飛ばし、くるりと後ろを向いた。次の瞬間、彼女の口からごふっと吐物があふれ、側に控えていた給仕の女房が「ひっ」と小さな叫び声を上げた。
織衣は慌てて千菊に這い寄る。
「菊姫さま!」
にわかにざわつき始める人々。どこからか「毒じゃ!」と声が上がり、ざわめきが叫び声に変わった。守泰が廊下の列から飛び出し、咲子が織衣たちの元へと駆け寄る。
中断する演奏、浮足立つ出席者たち──。舞台上では幸が踊りを止めて驚いた表情を見せている。
「誰か薬師を呼べ! 他の者は動くな!」
惟人が立ち上がって指示を出せば、官人らしき一人が身をひるがえしてどこかへと走っていく。床に横たわる千菊が苦しそうに喉と胸をかきむしり、うめき声を上げる。
「菊姫さま、しっかりなさってください! 東宮さま!」
「分かっておる。織衣、そなたは下がれ!」
「あんたもだ! 東宮!」
荒々しい足音とともに守泰が惟人さえも押しのけて千菊の前に割って入った。
守泰が吐物で汚れた衣服ごと苦しむ千菊を抱き上げる。
「このまま次乃舎へ運びます。薬師が来たら、すぐに案内してください。後は任せます」
最後はほぼ言い捨てて、守泰が踵を返して広間を出ていく。その後に次乃舎の女房数人が慌ただしく続けば、どさくさに紛れ、関係のない者まで逃げる素振りを見せる。織衣は、それを見逃さなかった。
「動かないで!!」
鋭い織衣の声が響き、広間の人間の動きがぴたりと止まる。
射抜くような目で広間をにらむ織衣の傍らに咲子が寄り添うように立つ。
「織姫の言う通りにせよ。これ以上は誰も勝手に動いてはならぬ。皆、こちらの指示に従ってもらう」
言って咲子は、「大丈夫」というように織衣の肩に手を乗せた。

