本舎に到着すると、女房たちに出迎えられ、まずは惟人の部屋に通される。畳の上で脇息に寄りかかりくつろいでいた惟人は、織衣の姿を見て嬉しそうに目を和ませた。
「今日は華やかだな。いつも以上に愛らしさで溢れているぞ」
歯の浮くような台詞を茶化しながら惟人が言う。織衣は苦笑いを返すしかない。
「……無理に褒めようとしなくても、愛らしさが足りぬ身であることは承知しております」
「私は感じたままを素直に述べただけだが?」
言って惟人は片手を上げて織衣を招く。織衣が遠慮がちに向かい側に座ると、惟人は苦笑した。そして隅に控える女房たちを全員下がらせる。
二人きりになったところで、ようやく惟人が脇息にもたれていた体を起こした。
「もう少し近くに来い。それでは触れることもできぬ」
「いえ、ここで。もう座ってしまいましたので」
我ながら可愛くない。苦し紛れにそう答えると、惟人が畳から降りて織衣の真ん前に詰め寄った。そして、首を傾げて機嫌をうかがう。
「私の側に来るのは嫌か」
「そうではなく、畏れ多いだけにございます」
「それを嫌というのではないのか」
穏やかではあるが、鋭く突っ込まれて答えに困る。織衣は、あれこれと思案してからためらいがちに惟人を見返した。
「東宮さまが望まれるのであれば、今後もお仕えいたします。しかし、正妃となると話は別。私では力不足にございます。私などよりもっと適任の方がおりましょう」
「だから? 織衣は、他にも妻を選べと私に申すか。そなた以外の女を正妃に据え、そなた以上に愛情を注げと?」
「……」
耐えきれなくなって、思わず織衣は目をそらした。面と向かって自分の言い分を繰り返されると正直辛い。
分かっている。自分がめちゃくちゃ都合のいいことを言っていることは。
惟人が織衣の背中に両腕を回し、彼女を優しく抱きしめた。耳元に響くのは、低く艶のある声。
「咲子から妃指南を受けていると聞いた。力不足というのであれば、これからもじっくり学べばよい。千菊を補佐として内侍《ないし》につける話も内々に元親にしている。私はもうそなたを時国の元へ帰したくない。だがそなたの意思は尊重したい。だから──、嫌なら嫌と言ってくれ」
惟人の言葉が胸にじんわりと染みる。彼の思いに即座に応えられない自分が歯がゆく、胸がきゅっと締めつけられて苦しい。けれど、こんな風に求められ、ふわふわとした心地がする。
もぞもぞと顔を上げると、そこにあるのは見目麗しの無精ひげ。何も定まらない状態で、それでも触れたいと思う。
「嫌では……ございませぬ」
辛うじてそう答えると、そのまま惟人に唇を奪われる。ひとしきり口づけを交わし合えば、甘美な感覚に溺れそうになる。それで不安な気持ちが和らぐのだから、なんとも単純極まりない。
その時、廊下で小さな咳払いがした。
「東宮、そろそろお願いいたします」
いつの間にそこにいたのか、頼木守泰が膝をついて待っている。思わず織衣は惟人を押し返してしまったが、惟人はまったく気にする様子もない。それどころか、織衣の慌てる様子を見ておかしそうに笑った。
「さあ織衣、行こう。あまり皆を待たせるわけにもいくまい」
「はい」
いよいよである。織衣は、惟人とともに立ち上がった。
守泰と惟人はほぼ並ぶ形で廊下を歩いて行く。どうやら二人で話をしながら進むのが日常らしい。
「欠席した者は?」
「当然と言いますか、礼人親王はご欠席です。代わりに六位蔵人の紀伊が出席をしております。東宮におかれては、宴を始めるにあたり挨拶を簡単にお願いします。その後、食膳が配され宴の開始となります。幸姫の巫女舞の奉納は、頃合いを見計らい菊姫が合図を」
「分かった」
「ああ、それから──酒も供されますが巫女舞が終わるまではほどほどに。主上に代わり南の大社への赴任を言い渡す宣旨が控えておりますので。織姫、あなたもですよ」
「え? 私?」
いきなり話を振られ、織衣はすっとんきょうな声を上げた。守泰がやや険のある眼差しを向ける。
「東宮に最も近い席へ座るあなたの振る舞いが、宴の成功の可否を握ります。何があっても動揺を見せることなく、冷静に対応願いします。今日、最も注目されると心得ておいてください」
「!」
いや、分かっていたことだけれど。はっきりと言われると身がすくむ。
すかさず惟人が織衣をかばった。
「織衣が不安がっているではないか。そう目くじらを立てずとも、最低限の礼節ぐらい織衣もわきまえておる」
「……花合わせでは、あなたを殴ろうと立ち上がりましたけどね」
守泰が皮肉げな笑みを口の端に浮かべた。普段からの素行を完全に疑われている。
さらに怯む織衣に、守泰が釘を刺す。
「織姫に対する評価が、そのまま東宮の評価となります。東宮の評価が下がれば、補佐役の私の責任になります。さらに宴を任された菊姫にも迷惑がかかることにもなる。我をお通しなさるのは勝手ですが、巻き込まれるこちらの身にもなってください」
「守泰、織衣をあまり虐めるな」
「この程度の小言で虐めと言われるようであれば、この先やっていけないという話です。忠告と言っていただきたいですね」
淡々と言って守泰は肩をすくめる。
思った以上にずけずけと物を言う。今まで表面的な会話以外したことがなかったが、こちらが本当の姿のようだ。遠慮のない物言いは父親の時国と似ているものの、時国よりも言い方に容赦がなく胸にぶっ刺さる。
織衣はただただ頷くしかない。
「わ、分かりました。心に強く留めておきます」
「助かります」
守泰がにこりと笑った。人好きする顔であるが油断のならない笑顔である。ちらりと惟人をうかがえば、「すまない」と目で返された。最も信頼する臣下には、惟人も頭が上がらないらしい。
「では東宮、お願いします」
うまい具合に広間が見えてきて、守泰が頭を下げて惟人に道を譲る。惟人の顔がすっと引き締まり前を見据えた。慌てて織衣も口元を引き結ぶ。
広間には華やかな衣装をまとった女房や貴人らが座して東宮の登場を待っており、彼らは惟人の姿を認めると一斉に頭を下げた。
まず織衣の目に入ってきたのは、廊下に並んで座る各殿舎の女房と東宮御所の官人たち。惟人から招待を受けた貴清をはじめとする公達たちは、広間の入り口付近を陣取っている。
惟人の席は舞台が最も良く見えるよう広間の中ほどに用意されていた。漆黒の浜床に畳が敷かれ、背後には野山の風景が描かれた屏風。そして、そこを中心に左右それぞれに妃候補──千菊と咲子が座っている。
(え……?)
織衣は二人の座っている位置を見て驚いた。
「今日は華やかだな。いつも以上に愛らしさで溢れているぞ」
歯の浮くような台詞を茶化しながら惟人が言う。織衣は苦笑いを返すしかない。
「……無理に褒めようとしなくても、愛らしさが足りぬ身であることは承知しております」
「私は感じたままを素直に述べただけだが?」
言って惟人は片手を上げて織衣を招く。織衣が遠慮がちに向かい側に座ると、惟人は苦笑した。そして隅に控える女房たちを全員下がらせる。
二人きりになったところで、ようやく惟人が脇息にもたれていた体を起こした。
「もう少し近くに来い。それでは触れることもできぬ」
「いえ、ここで。もう座ってしまいましたので」
我ながら可愛くない。苦し紛れにそう答えると、惟人が畳から降りて織衣の真ん前に詰め寄った。そして、首を傾げて機嫌をうかがう。
「私の側に来るのは嫌か」
「そうではなく、畏れ多いだけにございます」
「それを嫌というのではないのか」
穏やかではあるが、鋭く突っ込まれて答えに困る。織衣は、あれこれと思案してからためらいがちに惟人を見返した。
「東宮さまが望まれるのであれば、今後もお仕えいたします。しかし、正妃となると話は別。私では力不足にございます。私などよりもっと適任の方がおりましょう」
「だから? 織衣は、他にも妻を選べと私に申すか。そなた以外の女を正妃に据え、そなた以上に愛情を注げと?」
「……」
耐えきれなくなって、思わず織衣は目をそらした。面と向かって自分の言い分を繰り返されると正直辛い。
分かっている。自分がめちゃくちゃ都合のいいことを言っていることは。
惟人が織衣の背中に両腕を回し、彼女を優しく抱きしめた。耳元に響くのは、低く艶のある声。
「咲子から妃指南を受けていると聞いた。力不足というのであれば、これからもじっくり学べばよい。千菊を補佐として内侍《ないし》につける話も内々に元親にしている。私はもうそなたを時国の元へ帰したくない。だがそなたの意思は尊重したい。だから──、嫌なら嫌と言ってくれ」
惟人の言葉が胸にじんわりと染みる。彼の思いに即座に応えられない自分が歯がゆく、胸がきゅっと締めつけられて苦しい。けれど、こんな風に求められ、ふわふわとした心地がする。
もぞもぞと顔を上げると、そこにあるのは見目麗しの無精ひげ。何も定まらない状態で、それでも触れたいと思う。
「嫌では……ございませぬ」
辛うじてそう答えると、そのまま惟人に唇を奪われる。ひとしきり口づけを交わし合えば、甘美な感覚に溺れそうになる。それで不安な気持ちが和らぐのだから、なんとも単純極まりない。
その時、廊下で小さな咳払いがした。
「東宮、そろそろお願いいたします」
いつの間にそこにいたのか、頼木守泰が膝をついて待っている。思わず織衣は惟人を押し返してしまったが、惟人はまったく気にする様子もない。それどころか、織衣の慌てる様子を見ておかしそうに笑った。
「さあ織衣、行こう。あまり皆を待たせるわけにもいくまい」
「はい」
いよいよである。織衣は、惟人とともに立ち上がった。
守泰と惟人はほぼ並ぶ形で廊下を歩いて行く。どうやら二人で話をしながら進むのが日常らしい。
「欠席した者は?」
「当然と言いますか、礼人親王はご欠席です。代わりに六位蔵人の紀伊が出席をしております。東宮におかれては、宴を始めるにあたり挨拶を簡単にお願いします。その後、食膳が配され宴の開始となります。幸姫の巫女舞の奉納は、頃合いを見計らい菊姫が合図を」
「分かった」
「ああ、それから──酒も供されますが巫女舞が終わるまではほどほどに。主上に代わり南の大社への赴任を言い渡す宣旨が控えておりますので。織姫、あなたもですよ」
「え? 私?」
いきなり話を振られ、織衣はすっとんきょうな声を上げた。守泰がやや険のある眼差しを向ける。
「東宮に最も近い席へ座るあなたの振る舞いが、宴の成功の可否を握ります。何があっても動揺を見せることなく、冷静に対応願いします。今日、最も注目されると心得ておいてください」
「!」
いや、分かっていたことだけれど。はっきりと言われると身がすくむ。
すかさず惟人が織衣をかばった。
「織衣が不安がっているではないか。そう目くじらを立てずとも、最低限の礼節ぐらい織衣もわきまえておる」
「……花合わせでは、あなたを殴ろうと立ち上がりましたけどね」
守泰が皮肉げな笑みを口の端に浮かべた。普段からの素行を完全に疑われている。
さらに怯む織衣に、守泰が釘を刺す。
「織姫に対する評価が、そのまま東宮の評価となります。東宮の評価が下がれば、補佐役の私の責任になります。さらに宴を任された菊姫にも迷惑がかかることにもなる。我をお通しなさるのは勝手ですが、巻き込まれるこちらの身にもなってください」
「守泰、織衣をあまり虐めるな」
「この程度の小言で虐めと言われるようであれば、この先やっていけないという話です。忠告と言っていただきたいですね」
淡々と言って守泰は肩をすくめる。
思った以上にずけずけと物を言う。今まで表面的な会話以外したことがなかったが、こちらが本当の姿のようだ。遠慮のない物言いは父親の時国と似ているものの、時国よりも言い方に容赦がなく胸にぶっ刺さる。
織衣はただただ頷くしかない。
「わ、分かりました。心に強く留めておきます」
「助かります」
守泰がにこりと笑った。人好きする顔であるが油断のならない笑顔である。ちらりと惟人をうかがえば、「すまない」と目で返された。最も信頼する臣下には、惟人も頭が上がらないらしい。
「では東宮、お願いします」
うまい具合に広間が見えてきて、守泰が頭を下げて惟人に道を譲る。惟人の顔がすっと引き締まり前を見据えた。慌てて織衣も口元を引き結ぶ。
広間には華やかな衣装をまとった女房や貴人らが座して東宮の登場を待っており、彼らは惟人の姿を認めると一斉に頭を下げた。
まず織衣の目に入ってきたのは、廊下に並んで座る各殿舎の女房と東宮御所の官人たち。惟人から招待を受けた貴清をはじめとする公達たちは、広間の入り口付近を陣取っている。
惟人の席は舞台が最も良く見えるよう広間の中ほどに用意されていた。漆黒の浜床に畳が敷かれ、背後には野山の風景が描かれた屏風。そして、そこを中心に左右それぞれに妃候補──千菊と咲子が座っている。
(え……?)
織衣は二人の座っている位置を見て驚いた。

