咲子の指南は、歩き方、座り方、話し方、手の置き方まで細部に渡った。咲子は普段からこんなにも気をつけて振る舞っているのかと織衣は驚く。
(だから宮さまは、いつでも優雅なのだわ)
しかし、これは妃指南としてほんの序の口に過ぎないと言う。
「立ち振舞いなど、所詮は見た目の話。多少の雑さは、笑って誤魔化してもそんなものじゃ。が、人との関わりはそうはいかぬ」
「人との関わり、ですか?」
「織姫、そなたは人との縁を大切にするであろう? それは東宮さまをこれから支える者として最も必要な素質の一つで、それがそなたにはあると私は思うておる」
咲子に褒められ、織衣は少し嬉しくなる。しかし、そんな浮かれた気分も咲子の含みのある表情で消え失せた。
「あの、それで私は何を?」
「うむ。宴の日までに内裏務めの女房たち全員の顔を覚えてもらう。あと、今日は十人ほど客と会う約束がある。紹介するゆえ、同席せよ」
「女房全員って……。それに、じゅっ、十人も会うのですか?」
「これでも抑えた方じゃ。家、名前、人となりを全て覚えよ。次に会った時、忘れましたでは済まされぬ」
「あの……。ちなみに宮さまは、一度で覚えなさるので?」
「当然じゃ」
織衣はさあっと青ざめる。もともと人を覚えるのは得意な方だと思っている。しかし、仕事として人を覚えることは初めてだし、覚える人数が今までの生活とは比にならない。
折しも、廊下に取り次ぎ役の女房が現れる。
「梨壺の更衣さまの新しいご内侍、藤式部さまがご挨拶にお見えです」
「ふむ、通せ。新参者をわざわざこちらに寄越すなど、ご丁寧な梨壺さまらしい気遣いじゃ」
織衣に目配せしつつ、咲子が女房に答える。織衣は居住まいを正し、口を真一文字に結んだ。
あっという間に日は過ぎて、明日、宴の日を迎えることになった。咲子の指南による効果のほどは分からないが、とにかく教えられたことはなんとか覚えた織衣である。
一方、宴の準備は結果的に全て千菊任せとなってしまった。織衣がしたことと言えば、自身の衣装をこの日のために新調したことぐらいだ。
問題の席次は、中央に座る惟人の左下。千菊の頑張りの成果であるが、特に自分の存在を強調したいわけでもない織衣にとっては気が重いばかりだ。
宴は東宮御所春陽殿の南庭で行われる。毎日のように初乃舎に通っていたものの、準備の進み具合はさっぱり分からない。ちょうど幸が遊びに来てくれて、千菊の様子を教えてくれた。幸の話によれば、千菊が孤軍奮闘しているらしい。
「初めての準備であそこまで采配をなさるのはさすがです。ただ、少々強引すぎて内裏務めの女房たちからは反感を買っているようです。中には織姫さまを正妃に据え、好き勝手な振る舞いを企んでいると言う者も出てきて……」
「それは──心配ですね」
織衣は思案げに視線を巡らせる。宴の準備の良し悪しは、最終的に女房たちをどれだけ統率できるかに尽きる。各殿舎の品位が女房たちの振る舞いで決まるのと同じことだ。
ちょっと千菊らしくないなと、織衣は思う。冷静でないというか、意地になり過ぎているというか。守泰と何があったか知らないが、本来なら頼るべきところは彼にお願いしてしかるべきだ。
惟人からの直々の指名で宴の準備を任され、優位な立場にあることは確かだが、要となる人物抜きで話が強引に進んでいくことがそら恐ろしくも感じる。戦においても、「勢いに乗る」と「勢い任せ」とでは天と地ほど違うのだから。
「無事に終わるといいのですが……」
不安をこぼす織衣に、「そうですね」と幸がうなずく。
「とにもかくにも、この宴が終われば今回の御妻合わせも区切りがついて、それぞれの身の振りも定まりましょう。織姫さまにとっては、そこからが本番でございますよ」
「……自信がありませぬ」
幸に激励されて、織衣はぽつりと弱音を吐いた。
宴の当日、南庭には朱塗りの高欄で囲まれた演舞台が設えられた。そこで幸は東宮に巫女舞を奉納し、南の大社へと旅立つことになる。
同時に、惟人が織衣を選んだことが公となる。わざわざ惟人が宣言するわけではないが、左の下座に織衣を座らせることが意思表示となる。事実上の御妻合わせ終結宣言だ。
今日の装いは、正装となる唐衣裳《からぎぬも》。春を思わせる紅梅の色目の五衣に蝶文様の萌黄の表着、桜が雲のように立ち涌く柄の深紅の唐衣を重ね、最後に尾ひれのような長い裳を付ける。
身動きが取りづらく織衣はあまり好きではないが、遠野などは滅多と着せることのない正装に大喜びだ。
「織姫さま、お綺麗でございます」
「これだけ着飾れば、誰でもそれなりに見えるわ」
織衣は苦笑する。しかし華やかな衣装とは裏腹に気持ちは冴えない。
折しも、次乃舎の女房が迎えに来た。
「そろそろお出まし願います」
「分かったわ」
きゅっと表情を引き締めて織衣は立ち上がる。本来なら、とっくに席に着いているはずであるが、東宮と並んで最後の登場となる。妃候補として咲子や千菊がいる中で、これは異例中の異例だ。
惟人に対し特別な感情を抱き始めた自覚はある。しかし、だからどうしたいかと言われれば答えることができない。自分の気持ちが定まらないまま、状況だけが勝手に進んでいく。
先日、千菊の孤軍奮闘ぶりをらしくないと感じたが、らしくないのは自分も同じ。中途半端な振る舞いは、他を巻き込んで混乱を招くだけだと、常日頃から父親に言われているというのに。
本舎へと続く廊下はいつも以上に長く感じる。近づくたびに緊張が高まり、織衣は途中で何度か深呼吸をした。
(だから宮さまは、いつでも優雅なのだわ)
しかし、これは妃指南としてほんの序の口に過ぎないと言う。
「立ち振舞いなど、所詮は見た目の話。多少の雑さは、笑って誤魔化してもそんなものじゃ。が、人との関わりはそうはいかぬ」
「人との関わり、ですか?」
「織姫、そなたは人との縁を大切にするであろう? それは東宮さまをこれから支える者として最も必要な素質の一つで、それがそなたにはあると私は思うておる」
咲子に褒められ、織衣は少し嬉しくなる。しかし、そんな浮かれた気分も咲子の含みのある表情で消え失せた。
「あの、それで私は何を?」
「うむ。宴の日までに内裏務めの女房たち全員の顔を覚えてもらう。あと、今日は十人ほど客と会う約束がある。紹介するゆえ、同席せよ」
「女房全員って……。それに、じゅっ、十人も会うのですか?」
「これでも抑えた方じゃ。家、名前、人となりを全て覚えよ。次に会った時、忘れましたでは済まされぬ」
「あの……。ちなみに宮さまは、一度で覚えなさるので?」
「当然じゃ」
織衣はさあっと青ざめる。もともと人を覚えるのは得意な方だと思っている。しかし、仕事として人を覚えることは初めてだし、覚える人数が今までの生活とは比にならない。
折しも、廊下に取り次ぎ役の女房が現れる。
「梨壺の更衣さまの新しいご内侍、藤式部さまがご挨拶にお見えです」
「ふむ、通せ。新参者をわざわざこちらに寄越すなど、ご丁寧な梨壺さまらしい気遣いじゃ」
織衣に目配せしつつ、咲子が女房に答える。織衣は居住まいを正し、口を真一文字に結んだ。
あっという間に日は過ぎて、明日、宴の日を迎えることになった。咲子の指南による効果のほどは分からないが、とにかく教えられたことはなんとか覚えた織衣である。
一方、宴の準備は結果的に全て千菊任せとなってしまった。織衣がしたことと言えば、自身の衣装をこの日のために新調したことぐらいだ。
問題の席次は、中央に座る惟人の左下。千菊の頑張りの成果であるが、特に自分の存在を強調したいわけでもない織衣にとっては気が重いばかりだ。
宴は東宮御所春陽殿の南庭で行われる。毎日のように初乃舎に通っていたものの、準備の進み具合はさっぱり分からない。ちょうど幸が遊びに来てくれて、千菊の様子を教えてくれた。幸の話によれば、千菊が孤軍奮闘しているらしい。
「初めての準備であそこまで采配をなさるのはさすがです。ただ、少々強引すぎて内裏務めの女房たちからは反感を買っているようです。中には織姫さまを正妃に据え、好き勝手な振る舞いを企んでいると言う者も出てきて……」
「それは──心配ですね」
織衣は思案げに視線を巡らせる。宴の準備の良し悪しは、最終的に女房たちをどれだけ統率できるかに尽きる。各殿舎の品位が女房たちの振る舞いで決まるのと同じことだ。
ちょっと千菊らしくないなと、織衣は思う。冷静でないというか、意地になり過ぎているというか。守泰と何があったか知らないが、本来なら頼るべきところは彼にお願いしてしかるべきだ。
惟人からの直々の指名で宴の準備を任され、優位な立場にあることは確かだが、要となる人物抜きで話が強引に進んでいくことがそら恐ろしくも感じる。戦においても、「勢いに乗る」と「勢い任せ」とでは天と地ほど違うのだから。
「無事に終わるといいのですが……」
不安をこぼす織衣に、「そうですね」と幸がうなずく。
「とにもかくにも、この宴が終われば今回の御妻合わせも区切りがついて、それぞれの身の振りも定まりましょう。織姫さまにとっては、そこからが本番でございますよ」
「……自信がありませぬ」
幸に激励されて、織衣はぽつりと弱音を吐いた。
宴の当日、南庭には朱塗りの高欄で囲まれた演舞台が設えられた。そこで幸は東宮に巫女舞を奉納し、南の大社へと旅立つことになる。
同時に、惟人が織衣を選んだことが公となる。わざわざ惟人が宣言するわけではないが、左の下座に織衣を座らせることが意思表示となる。事実上の御妻合わせ終結宣言だ。
今日の装いは、正装となる唐衣裳《からぎぬも》。春を思わせる紅梅の色目の五衣に蝶文様の萌黄の表着、桜が雲のように立ち涌く柄の深紅の唐衣を重ね、最後に尾ひれのような長い裳を付ける。
身動きが取りづらく織衣はあまり好きではないが、遠野などは滅多と着せることのない正装に大喜びだ。
「織姫さま、お綺麗でございます」
「これだけ着飾れば、誰でもそれなりに見えるわ」
織衣は苦笑する。しかし華やかな衣装とは裏腹に気持ちは冴えない。
折しも、次乃舎の女房が迎えに来た。
「そろそろお出まし願います」
「分かったわ」
きゅっと表情を引き締めて織衣は立ち上がる。本来なら、とっくに席に着いているはずであるが、東宮と並んで最後の登場となる。妃候補として咲子や千菊がいる中で、これは異例中の異例だ。
惟人に対し特別な感情を抱き始めた自覚はある。しかし、だからどうしたいかと言われれば答えることができない。自分の気持ちが定まらないまま、状況だけが勝手に進んでいく。
先日、千菊の孤軍奮闘ぶりをらしくないと感じたが、らしくないのは自分も同じ。中途半端な振る舞いは、他を巻き込んで混乱を招くだけだと、常日頃から父親に言われているというのに。
本舎へと続く廊下はいつも以上に長く感じる。近づくたびに緊張が高まり、織衣は途中で何度か深呼吸をした。

