さして千菊の役に立つことなく帰ることになった織衣は、初乃舎へ寄ることにした。幸のお役御免が言い渡された日以来、咲子とは会っていないので、宴の前に一度話をしておきたいと思ったからだ。
初乃舎に着いて取り次ぎ役の女房に来訪を告げる。女房は織衣の顔を見るなりあからさまに顔をしかめた。
「宮さまに何用で?」
「直接会って話がしたい。先触れもなく申し訳ないけれど、取り次ぎをお願いできるかしら」
女房がふんっと鼻を鳴らして織衣をにらむ。
「よくもまあ恥じることなく顔を見せに来られるもの」
「お怒りは……重々承知です」
「であれば、お帰りくださいませ。宮さまのお心尽くしをお忘れなさった方をお通しするつもりはございませぬ」
すると、織衣をかばうように遠野が前に進み出た。
「幸姫さまのお役御免も宴の準備役も、全て東宮さまがお決めになったもの。不満があるなら、東宮さまに訴えなさるが筋」
「その東宮さまをそそのかしたのが、そなたたちであろう!」
その時、
「やめよ。このような場所で言い争いなどみっともない」
穏やかではあるが凛とした声が響いた。その方に目をやれば、咲子が困った様子でこちらを見ている。
「女柏宮さま!」
「すまぬ。取り次ぎ役が失礼をした」
言って咲子が厳しい目を女房に向けた。
「私への客を勝手に選別するとはいかなることじゃ?」
「申し訳ございませぬ。悔しさのあまり、つい……」
「私は何も悔しくない。むしろ、このように他の姫君たちと遠ざけられる方が不本意じゃ。織姫、会いたいと思っていた。よう来てくれた」
言って織衣を部屋へと促す。織衣は、取り次ぎ役の女房に遠慮がちに目礼しつつ、咲子に続いて初乃舎へと入った。
「あの、宮さま。今ほどの女房は悪くありませぬゆえ、どうかお咎めは……」
「心配するな。後から言って聞かせるが、怒るつもりはない。さあ、そこへ座れ」
咲子が上座に設えられた畳に座り、向かいの席を織衣にすすめる。言われるままに着席し、織衣はあらためて頭を下げた。
「この度は、宮さまを出し抜くような真似をしてしまい、申し訳ございませぬ」
すると咲子が、申し訳なさそうに視線を床板に落とした。
「謝るべきは私の方じゃ。礼人親王さまのこと本当に申し訳なかった。挙げ句、叱責を恐れるあまり東宮さまへの報告を怠り……。このような結果となったのも当然じゃ」
「そんなことありませぬ」
織衣はずいっと咲子に詰め寄る。
「……菊姫さまが、御妻合わせの引き伸ばしは宮さまの心労が増すだけだとおっしゃっておりました。菊姫さまとて、あの件については微塵も怒っておらず、悪意をもって宮さまを排斥したわけではありませぬ」
「分かっておる」
咲子が自嘲的な笑みをこぼした。
「菊姫が憂慮しているのは、私の立場のややこしさであろう。その判断は賢明かつもっともなもの。願わくば、もう少しそなたらの邪魔をしたかったが、それも叶わぬな」
最後は冗談混じりに咲子が言う。織衣はどうしようもなく悔しくなって唇をきゅっと噛んだ。
「私は宮さまも菊姫さまも大好きなのです。だから二人が仲違いをしてしまったかのような状況は、ただただ辛うございます。御妻合わせなど、所詮は男の都合。それなのに、女ばかりが振り回されるのは、腹が立って仕方がありませぬ」
宮内の権力争いのために、なぜ姫君同士が争わなければならないのか。おかしいと思うのに、何もできない自分が情けない。
咲子が上座の畳から降りて、そっと織衣に寄り添う。
「そなたはいつも誰かのために怒っておるの。頼もしい限りじゃ」
「でも、怒ってばかりで何もできませぬ」
「そんなことはない。そなたの声が東宮さまを変えた」
言って咲子は優しく微笑んだ。
「誰も選ぶことはないと宣言した東宮さまが、どんな形であれ姫君たちとお関わりになり、そなたの進言で大社の巫女の決まりも変えた。真っ直ぐな声は力じゃ。皆、それができなくて諦めながら日々を過ごす。いや、自分が諦めていることにさえ気づいておらぬ」
「……宮さまも諦めていらっしゃるのですか?」
思わずそう問えば、咲子は苦笑しながら視線を床に落とした。その全てを受け入れてしまっている様子に織衣は胸が締めつけられる。
宴が終われば、惟人はきっと咲子にお役御免を言い渡す。例えそれで、政治的な波乱が起きようとだ。
(宮さまとこのまま離ればなれになるなんて……)
織衣は、咲子に対し両手をついて訴えた。
「宮さま、宴の準備が難航しております。今からでも、宮さまからご指南いただくことはできませぬか。菊姫さまも、きっと安心なさると思います」
「菊姫は真面目な姫ゆえ、少々気負い過ぎるところがあるからの。しかし、今の私の立場では口出しできぬ。菊姫の面目を潰す」
もっともな理由で断られ、織衣はがっかりと肩を落とす。すると咲子は、「困ったの」とため息混じりに笑った。
「宴の準備の指南はできぬが──。織姫、そなたに妃指南であればできる」
「本当でございますか」
「うむ。くだらぬことで足元をすくわれぬよう、妃となる心得をいくばくか伝えることはできよう。菊姫にも了承を得て、明日から宴の日まで毎日ここへ通うがいい」
咲子からの直々の妃指南──、織衣の心が一気に湧き立つ。自分の立ち振舞が宴の良し悪しを左右すると言われ、少なからず不安を感じていたのも事実だ。
織衣は満面の笑みを浮かべた。
「ぜひ、お願いしとうございます!」
こうして咲子による織衣の妃指南が決まった。
次の日、ことの次第を千菊に伝えると、「それはいい」と二つ返事で了承をしてくれた。千菊いわく、「織姫さまに妃指南ができるのは、女柏宮さまくらいだから」ということらしい。やはり千菊にとっても咲子は一目置く存在であるのだ。
織衣はさっそく勇んで初乃舎を訪れる。なんと言っても、憧れの咲子から直々の指南である。
「お頼み申します!」
部屋に案内されるなり、織衣は大きな声で咲子に挨拶をした。
しかし次の瞬間、
「……やり直しなされ。廊下の歩き方からなっておらぬ」
「え?」
冷ややかな声にたじろげば、咲子の厳しい眼差しが織衣を貫いた。
「武官ではあるまいし、もっと静かに歩きなさい。あと、そのように大声を出さずとも、たいがいのことは聞こえておる」
すでに指南は始まっているようである。その後、織衣は五回ほどやり直しをさせられることになる。
初乃舎に着いて取り次ぎ役の女房に来訪を告げる。女房は織衣の顔を見るなりあからさまに顔をしかめた。
「宮さまに何用で?」
「直接会って話がしたい。先触れもなく申し訳ないけれど、取り次ぎをお願いできるかしら」
女房がふんっと鼻を鳴らして織衣をにらむ。
「よくもまあ恥じることなく顔を見せに来られるもの」
「お怒りは……重々承知です」
「であれば、お帰りくださいませ。宮さまのお心尽くしをお忘れなさった方をお通しするつもりはございませぬ」
すると、織衣をかばうように遠野が前に進み出た。
「幸姫さまのお役御免も宴の準備役も、全て東宮さまがお決めになったもの。不満があるなら、東宮さまに訴えなさるが筋」
「その東宮さまをそそのかしたのが、そなたたちであろう!」
その時、
「やめよ。このような場所で言い争いなどみっともない」
穏やかではあるが凛とした声が響いた。その方に目をやれば、咲子が困った様子でこちらを見ている。
「女柏宮さま!」
「すまぬ。取り次ぎ役が失礼をした」
言って咲子が厳しい目を女房に向けた。
「私への客を勝手に選別するとはいかなることじゃ?」
「申し訳ございませぬ。悔しさのあまり、つい……」
「私は何も悔しくない。むしろ、このように他の姫君たちと遠ざけられる方が不本意じゃ。織姫、会いたいと思っていた。よう来てくれた」
言って織衣を部屋へと促す。織衣は、取り次ぎ役の女房に遠慮がちに目礼しつつ、咲子に続いて初乃舎へと入った。
「あの、宮さま。今ほどの女房は悪くありませぬゆえ、どうかお咎めは……」
「心配するな。後から言って聞かせるが、怒るつもりはない。さあ、そこへ座れ」
咲子が上座に設えられた畳に座り、向かいの席を織衣にすすめる。言われるままに着席し、織衣はあらためて頭を下げた。
「この度は、宮さまを出し抜くような真似をしてしまい、申し訳ございませぬ」
すると咲子が、申し訳なさそうに視線を床板に落とした。
「謝るべきは私の方じゃ。礼人親王さまのこと本当に申し訳なかった。挙げ句、叱責を恐れるあまり東宮さまへの報告を怠り……。このような結果となったのも当然じゃ」
「そんなことありませぬ」
織衣はずいっと咲子に詰め寄る。
「……菊姫さまが、御妻合わせの引き伸ばしは宮さまの心労が増すだけだとおっしゃっておりました。菊姫さまとて、あの件については微塵も怒っておらず、悪意をもって宮さまを排斥したわけではありませぬ」
「分かっておる」
咲子が自嘲的な笑みをこぼした。
「菊姫が憂慮しているのは、私の立場のややこしさであろう。その判断は賢明かつもっともなもの。願わくば、もう少しそなたらの邪魔をしたかったが、それも叶わぬな」
最後は冗談混じりに咲子が言う。織衣はどうしようもなく悔しくなって唇をきゅっと噛んだ。
「私は宮さまも菊姫さまも大好きなのです。だから二人が仲違いをしてしまったかのような状況は、ただただ辛うございます。御妻合わせなど、所詮は男の都合。それなのに、女ばかりが振り回されるのは、腹が立って仕方がありませぬ」
宮内の権力争いのために、なぜ姫君同士が争わなければならないのか。おかしいと思うのに、何もできない自分が情けない。
咲子が上座の畳から降りて、そっと織衣に寄り添う。
「そなたはいつも誰かのために怒っておるの。頼もしい限りじゃ」
「でも、怒ってばかりで何もできませぬ」
「そんなことはない。そなたの声が東宮さまを変えた」
言って咲子は優しく微笑んだ。
「誰も選ぶことはないと宣言した東宮さまが、どんな形であれ姫君たちとお関わりになり、そなたの進言で大社の巫女の決まりも変えた。真っ直ぐな声は力じゃ。皆、それができなくて諦めながら日々を過ごす。いや、自分が諦めていることにさえ気づいておらぬ」
「……宮さまも諦めていらっしゃるのですか?」
思わずそう問えば、咲子は苦笑しながら視線を床に落とした。その全てを受け入れてしまっている様子に織衣は胸が締めつけられる。
宴が終われば、惟人はきっと咲子にお役御免を言い渡す。例えそれで、政治的な波乱が起きようとだ。
(宮さまとこのまま離ればなれになるなんて……)
織衣は、咲子に対し両手をついて訴えた。
「宮さま、宴の準備が難航しております。今からでも、宮さまからご指南いただくことはできませぬか。菊姫さまも、きっと安心なさると思います」
「菊姫は真面目な姫ゆえ、少々気負い過ぎるところがあるからの。しかし、今の私の立場では口出しできぬ。菊姫の面目を潰す」
もっともな理由で断られ、織衣はがっかりと肩を落とす。すると咲子は、「困ったの」とため息混じりに笑った。
「宴の準備の指南はできぬが──。織姫、そなたに妃指南であればできる」
「本当でございますか」
「うむ。くだらぬことで足元をすくわれぬよう、妃となる心得をいくばくか伝えることはできよう。菊姫にも了承を得て、明日から宴の日まで毎日ここへ通うがいい」
咲子からの直々の妃指南──、織衣の心が一気に湧き立つ。自分の立ち振舞が宴の良し悪しを左右すると言われ、少なからず不安を感じていたのも事実だ。
織衣は満面の笑みを浮かべた。
「ぜひ、お願いしとうございます!」
こうして咲子による織衣の妃指南が決まった。
次の日、ことの次第を千菊に伝えると、「それはいい」と二つ返事で了承をしてくれた。千菊いわく、「織姫さまに妃指南ができるのは、女柏宮さまくらいだから」ということらしい。やはり千菊にとっても咲子は一目置く存在であるのだ。
織衣はさっそく勇んで初乃舎を訪れる。なんと言っても、憧れの咲子から直々の指南である。
「お頼み申します!」
部屋に案内されるなり、織衣は大きな声で咲子に挨拶をした。
しかし次の瞬間、
「……やり直しなされ。廊下の歩き方からなっておらぬ」
「え?」
冷ややかな声にたじろげば、咲子の厳しい眼差しが織衣を貫いた。
「武官ではあるまいし、もっと静かに歩きなさい。あと、そのように大声を出さずとも、たいがいのことは聞こえておる」
すでに指南は始まっているようである。その後、織衣は五回ほどやり直しをさせられることになる。

