次乃舎では、南の大社への赴任が幸へ申し渡された日から惟人がぱったり来なくなり、女房たちが残念がっている。しかし、千菊はひと仕事を終えて、ようやく肩の荷が降りた気持ちである。
そして、次の仕事は宴の準備。初めての仕事となるが、千菊は咲子を頼るつもりはなかった。
咲子を締め出したのは自分であるし、彼女抜きでこの大仕事をやり切ることに意味がある。女柏宮という存在がなくても東宮御所は機能することを示すためだ。
最後の踏ん張り時である。千菊はすぐさま気持ちを切り替えた。
「菊姫、席次についてですが……」
惟人がぱったり来なくなった次乃舎であるが、その代わりに守泰が単身で来るようになった。
今日も朝から宴の段取りを千菊と話し合っている。とは言え、具体的な内容はすでに守泰が考えてくれているので、千菊はそこに自分の意見を述べるだけである。
視線を落として書簡を見ている守泰は、更に目尻が下がって人懐こく見える。男のくせにわりと長いまつ毛だな、などとどうでもいいことを千菊は考えていた。
(この懐こい顔にみな騙されるのだわ)
最初、守泰のことを油断ならないと警戒していた次乃舎の女房たちも、気がつけば守泰に懐柔されている。最近では彼に色目を使う女房も出てくる始末である。
この東宮を補佐する蔵人は、人懐こいと言うより、人たらしだと千菊は思う。その証拠に、よくよく見ると目が笑っているようで笑っていない。
以前、千菊に対して見せた横柄な態度の時の方が、よほど自然で目も笑っていた。
骨ばった守泰の指をじっと見つめる。あの指で髪をすくい上げられた。
だからと言って、どうというわけでもないのだが。
しかし、なんとなく彼の指先を見つめてしまう癖がついてしまった。
今は生駒が一人、部屋の隅に控えていて、守泰と千菊のやり取りに目を光らせている。彼女は今だに守泰を警戒している唯一の存在だ。もう少し守泰と近くで話したいと千菊は思うが、生駒の手前それもできない。
あまりに監視が厳しいので「同席は必要ない」と言ったら、生駒に「ならば私を罷免しろ」と脅された。この女房は主と言えども言うべきことははっきりと言う。結局、生駒の気迫に千菊は負けた。
「菊姫、聞いておりますか?」
ふいに守泰に話しかけられ、千菊はびくりとする。今ちょっと、指に見とれてぼーっとしていた。
「き、聞いております」
「ふーん。では、どちらがよろしいですか?」
「え?」
ごめん。それは聞いていない。
千菊が答えに窮すると、守泰はこれみよがしなため息をついた。
「もう少し熱心に話を聞いていただけると助かりますね。気を緩めすぎでは?」
「緩めてなどおりませぬ」
「ですが、聞いていなかったと?」
手厳しく指摘され、菊姫は気まずそうに目をそらした。守泰が、「少し休みましょう」と書簡を脇へ置いた。そして隅に控える生駒に声をかけた。
「先ほど手土産に渡した団子を用意してくれるか。菊姫に召し上がっていただこう」
「かしこまりました」
生駒がするすると下がり、部屋を出ていく。しかし、去る間際に千菊へ「じっとしていろ」と目配せすることも忘れない。千菊はうんざりとした面持ちでそっぽを向いた。
とは言え、これでしばらくは守泰と二人きりだ。千菊は生駒の気配が完全に消えると、守泰に声をかけた。
「土産の団子は市で買ってきたものと聞きました。市へはよくいらっしゃるので?」
「ええ、気晴らしに。あと、市井を見ておきたいというのもありますが。東宮がたまにお忍びで歩きなさるので、その下見のようなものです」
「まあ、お忍びで」
「内緒ですよ」
驚く千菊に守泰が笑う。うん、この目は笑っている。それだけで大満足の千菊だ。
そして守泰は、公卿の姫君が絶対に行かないであろう下町の裏側の様子を聞かせてくれた。守泰の話は、初めて聞くようなことばかりで、どれも新鮮でわくわくする。
しかしそれも束の間、ほどなくしてお盆を手にした生駒が戻ってきた。千菊は慌てて口をつぐんで、緩んだ頬を引き締める。
生駒が、千菊と守泰の前に団子とお茶を置く。
「何やら楽しそうでございますね。なんのお話を?」
「ええ、下町の話を。行ってみたいわ」
すると、守泰が千菊に声をかけた。
「なら、お出かけなされますか?」
思いがけない守泰の言葉。まさか連れて行ってくれるのかと、千菊の胸がにわかに弾む。ちらりと生駒の顔色を伺いつつ小さく頷き返すと、守泰はにこりと笑った。
「それでは、東宮にその旨をお伝えしておきます。二人でお出かけになる算段を整えましょう」
「はい?」
思わず千菊は眉根を寄せた。
「お待ちくださいませ。東宮さまと出かける?」
「そうです」
「そのようなこと、織姫さまに誤解されます」
「誤解も何も、菊姫も妃候補の一人です。菊姫は織姫より上位のお立場。なんの支障もありません」
「私の意向はお伝えしたはずです。私は──」
「あらゆる可能性を考慮して、選択肢は排除しません」
千菊の言葉を遮って、守泰が答えた。人懐こい瞳の奥に剣呑な光が宿る。
「あなたは織姫を正妃にとおっしゃいますが、それ相応に困難な道のりです」
「分かっております。しかし、織姫さまはそうした困難にも耐えうる方です」
「とは言え、もしもの替えは必要でしょう?」
「替え──。私を替えと申されますか」
「……なんのために五人も集めたと思っていらっしゃる」
ため息混じりに守泰が言ってのけた。彼のあんまりな言い方に千菊は目を釣り上げる。さっきまでの浮ついた気持ちも一気に冷めた。
一方、守泰はお茶をひと飲みしてから当然だといった表情で言葉を続けた。
「女柏宮を退かせるつもりでしょうが、あからさまな排斥は反発を招きます。仮に排斥できないとなれば、織姫の他にも一人残ってもらわねば、もしもの時に後がなくなる。こちらも遊びで姫君の相手をしているわけではないのですよ」
「そんなこと……」
言われなくても分かっている。でもなぜか、守泰に言われると気持ちがざわざわした。
「さあ、団子を食べたら打ち合わせの続きを」
「……」
こんな気持ちでどうやって?
千菊はすっと立ち上がった。
「気分が優れませぬゆえ、あとは好きに決めてくださいませ」
「菊姫、」
守泰が呼び止めるも千菊はふいっと顔をそらして部屋を出て行く。その姿は、いつも余裕たっぷりに振る舞う千菊らしくない。
後には守泰と生駒が取り残された。するとややして、
「頼木さま、ありがとうございます」
澄ました顔はそのままに、生駒が目礼した。守泰が小さく肩をすくめる。
「何やら怒らせてしまったようだ。悪いことをした」
「いいえ。ああ見えて、甘えん坊にございます。元親さまに誰よりも可愛がられて育っておりますれば。今ほどのように突き放していただければ、浮かれた気持ちも冷めて、ご自身の立場を思い出しましょう」
「別に。私は本当のことを言っただけだ」
守泰がそっけなく答える。そして彼は、少し申し訳ない面持ちで小さなため息を一つついた。
そして、次の仕事は宴の準備。初めての仕事となるが、千菊は咲子を頼るつもりはなかった。
咲子を締め出したのは自分であるし、彼女抜きでこの大仕事をやり切ることに意味がある。女柏宮という存在がなくても東宮御所は機能することを示すためだ。
最後の踏ん張り時である。千菊はすぐさま気持ちを切り替えた。
「菊姫、席次についてですが……」
惟人がぱったり来なくなった次乃舎であるが、その代わりに守泰が単身で来るようになった。
今日も朝から宴の段取りを千菊と話し合っている。とは言え、具体的な内容はすでに守泰が考えてくれているので、千菊はそこに自分の意見を述べるだけである。
視線を落として書簡を見ている守泰は、更に目尻が下がって人懐こく見える。男のくせにわりと長いまつ毛だな、などとどうでもいいことを千菊は考えていた。
(この懐こい顔にみな騙されるのだわ)
最初、守泰のことを油断ならないと警戒していた次乃舎の女房たちも、気がつけば守泰に懐柔されている。最近では彼に色目を使う女房も出てくる始末である。
この東宮を補佐する蔵人は、人懐こいと言うより、人たらしだと千菊は思う。その証拠に、よくよく見ると目が笑っているようで笑っていない。
以前、千菊に対して見せた横柄な態度の時の方が、よほど自然で目も笑っていた。
骨ばった守泰の指をじっと見つめる。あの指で髪をすくい上げられた。
だからと言って、どうというわけでもないのだが。
しかし、なんとなく彼の指先を見つめてしまう癖がついてしまった。
今は生駒が一人、部屋の隅に控えていて、守泰と千菊のやり取りに目を光らせている。彼女は今だに守泰を警戒している唯一の存在だ。もう少し守泰と近くで話したいと千菊は思うが、生駒の手前それもできない。
あまりに監視が厳しいので「同席は必要ない」と言ったら、生駒に「ならば私を罷免しろ」と脅された。この女房は主と言えども言うべきことははっきりと言う。結局、生駒の気迫に千菊は負けた。
「菊姫、聞いておりますか?」
ふいに守泰に話しかけられ、千菊はびくりとする。今ちょっと、指に見とれてぼーっとしていた。
「き、聞いております」
「ふーん。では、どちらがよろしいですか?」
「え?」
ごめん。それは聞いていない。
千菊が答えに窮すると、守泰はこれみよがしなため息をついた。
「もう少し熱心に話を聞いていただけると助かりますね。気を緩めすぎでは?」
「緩めてなどおりませぬ」
「ですが、聞いていなかったと?」
手厳しく指摘され、菊姫は気まずそうに目をそらした。守泰が、「少し休みましょう」と書簡を脇へ置いた。そして隅に控える生駒に声をかけた。
「先ほど手土産に渡した団子を用意してくれるか。菊姫に召し上がっていただこう」
「かしこまりました」
生駒がするすると下がり、部屋を出ていく。しかし、去る間際に千菊へ「じっとしていろ」と目配せすることも忘れない。千菊はうんざりとした面持ちでそっぽを向いた。
とは言え、これでしばらくは守泰と二人きりだ。千菊は生駒の気配が完全に消えると、守泰に声をかけた。
「土産の団子は市で買ってきたものと聞きました。市へはよくいらっしゃるので?」
「ええ、気晴らしに。あと、市井を見ておきたいというのもありますが。東宮がたまにお忍びで歩きなさるので、その下見のようなものです」
「まあ、お忍びで」
「内緒ですよ」
驚く千菊に守泰が笑う。うん、この目は笑っている。それだけで大満足の千菊だ。
そして守泰は、公卿の姫君が絶対に行かないであろう下町の裏側の様子を聞かせてくれた。守泰の話は、初めて聞くようなことばかりで、どれも新鮮でわくわくする。
しかしそれも束の間、ほどなくしてお盆を手にした生駒が戻ってきた。千菊は慌てて口をつぐんで、緩んだ頬を引き締める。
生駒が、千菊と守泰の前に団子とお茶を置く。
「何やら楽しそうでございますね。なんのお話を?」
「ええ、下町の話を。行ってみたいわ」
すると、守泰が千菊に声をかけた。
「なら、お出かけなされますか?」
思いがけない守泰の言葉。まさか連れて行ってくれるのかと、千菊の胸がにわかに弾む。ちらりと生駒の顔色を伺いつつ小さく頷き返すと、守泰はにこりと笑った。
「それでは、東宮にその旨をお伝えしておきます。二人でお出かけになる算段を整えましょう」
「はい?」
思わず千菊は眉根を寄せた。
「お待ちくださいませ。東宮さまと出かける?」
「そうです」
「そのようなこと、織姫さまに誤解されます」
「誤解も何も、菊姫も妃候補の一人です。菊姫は織姫より上位のお立場。なんの支障もありません」
「私の意向はお伝えしたはずです。私は──」
「あらゆる可能性を考慮して、選択肢は排除しません」
千菊の言葉を遮って、守泰が答えた。人懐こい瞳の奥に剣呑な光が宿る。
「あなたは織姫を正妃にとおっしゃいますが、それ相応に困難な道のりです」
「分かっております。しかし、織姫さまはそうした困難にも耐えうる方です」
「とは言え、もしもの替えは必要でしょう?」
「替え──。私を替えと申されますか」
「……なんのために五人も集めたと思っていらっしゃる」
ため息混じりに守泰が言ってのけた。彼のあんまりな言い方に千菊は目を釣り上げる。さっきまでの浮ついた気持ちも一気に冷めた。
一方、守泰はお茶をひと飲みしてから当然だといった表情で言葉を続けた。
「女柏宮を退かせるつもりでしょうが、あからさまな排斥は反発を招きます。仮に排斥できないとなれば、織姫の他にも一人残ってもらわねば、もしもの時に後がなくなる。こちらも遊びで姫君の相手をしているわけではないのですよ」
「そんなこと……」
言われなくても分かっている。でもなぜか、守泰に言われると気持ちがざわざわした。
「さあ、団子を食べたら打ち合わせの続きを」
「……」
こんな気持ちでどうやって?
千菊はすっと立ち上がった。
「気分が優れませぬゆえ、あとは好きに決めてくださいませ」
「菊姫、」
守泰が呼び止めるも千菊はふいっと顔をそらして部屋を出て行く。その姿は、いつも余裕たっぷりに振る舞う千菊らしくない。
後には守泰と生駒が取り残された。するとややして、
「頼木さま、ありがとうございます」
澄ました顔はそのままに、生駒が目礼した。守泰が小さく肩をすくめる。
「何やら怒らせてしまったようだ。悪いことをした」
「いいえ。ああ見えて、甘えん坊にございます。元親さまに誰よりも可愛がられて育っておりますれば。今ほどのように突き放していただければ、浮かれた気持ちも冷めて、ご自身の立場を思い出しましょう」
「別に。私は本当のことを言っただけだ」
守泰がそっけなく答える。そして彼は、少し申し訳ない面持ちで小さなため息を一つついた。

