一方、初乃舎へ礼人を連れ帰った咲子は、眼の前で唐菓子を満足げに頬張る彼の姿を見つめていた。今日、この菓子があったのは幸いと言える。この親王は、気に入らないとすぐに癇癪を起こす。それをなだめるのは、咲子であっても一苦労なのだ。
「お口に合いましたでしょうか」
「うむ、うまい。咲子も食え」
「はい」
咲子が東宮御所に入ってから、礼人は初乃舎によく訪れるようになった。来るのは決まって東宮が執務で出かけている時。東宮という役職が与えられている惟人と違い、ただの一の皇子である礼人には決まった仕事がない。暇を持て余し、執務所から逃れるように咲子のところへやって来る。
日中に、それもわりと堂々と遊びに来るのだから始末に悪い。密会とどちらがましだろうかと咲子は思う。
(昔は、このような方ではなかった……)
惟人のような才はなくとも、優しい親王だった。むしろ優し過ぎて心配になるほどの。帝の期待に応えようと、懸命に勉学に励んでいた時期もある。
が、いつの頃からか礼人に良からぬことを吹き込む大人が彼を取り巻くようになった。彼らは、決まって礼人の血筋を褒めそやし、「東宮になるべきはあなただ」と礼人に言った。咲子には、それはただの呪いの言葉にしか聞こえなかった。
その後、惟人が東宮に指名され、礼人はぴたりと学ぶことをやめ、遊びに興じるようになる。そして、さらに東宮の反対派が群がり、いつしか優しかった子どもは、地位だけが高いだけの横暴な大人になってしまった。
「あの近衛大将の娘──、織衣とか言ったか。ろくな家柄でもないくせに。柏の叔父上に言ってなんとかさせよう」
「礼人さま」
咲子は、にこりと礼人に笑いかける。
「注意は私が五つの姫に直接いたします。近衛大将に物を申せば、何ごとかと問い詰められましょう。近衛大将は嘘や誤魔化しが大嫌いな方、それ相応に正直に話さねば納得されませぬ」
それとなく「近衛大将は怖いぞ」という含みを持たせつつ礼人に進言すると、彼は「うっ」と嫌な顔をした。
「確かにその通りだ。時国に問い詰められるのは面倒だ。では、咲子から厳しく注意をしておいてくれ」
「はい」
ほっと胸をなで下ろし咲子は笑みを作った。しかし、本当にしなければならないのは注意ではなく謝罪である。
とにかく急場はしのいだが、早かれ遅かれ今日のことは惟人の耳に入る。織衣と一悶着があったなど、惟人が黙っているとは思えない。
千菊の扱いもまずかった。織衣ほどではないにしても、千菊も惟人の目に止まっている。よりによって、あの二人に触れ、手を上げたのは問題だった。
内裏務めの女房たちはどうにか口止めできるかもしれないが、一条家から来ている女房たちは誤魔化しようがない。せめて惟人が聞き及ぶ前に報告するべきだと思ったが、惟人の怒る姿が容易に想像できて気が重くなるばかりである。
他の姫君たちと関わらせないため、礼人が訪れた時には初乃舎で止めるよう女房たちにも言い聞かせていたのに、ちょっとした隙に礼人は東宮御所の中にまで入り込んでしまった。
「咲子、惟人はどうだ? 選ばないと言いながらも、気に入った姫が出てきたのではないか?」
「さあ、どうでしょうか」
「どうとはなんだ。では、おまえの見立てでは誰が有望か」
東宮御所に来てから、礼人から何度も投げかけられる質問。そんなに知りたければ直接本人に聞けばいいと咲子は思う。しかし、それができないから彼は自分に聞く。
ふと織衣の顔が咲子の脳裏に浮かぶ。この窮屈な内裏で、真っ正直に「おかしい」と声を上げる姫。
咲子は、古来から受け継がれた儀礼と血統が何よりも大切であると教えられ今まで生きてきた。自分はそれを担う宮家の者であるという自負も誇りもある。
そんな咲子にとって、東宮にさえ臆せず物申す姫君の存在は衝撃であったが、それと同時に、胸をすくような新鮮さを感じた。
惟人もきっとそんな織衣に惹かれているに違いない。
「遠慮はいらぬ。分からないは、もう聞き飽きた。初乃舎の女房に聞いても口を揃えておまえが一番と言うだけだからな」
「まあ、」
咲子は苦笑した。初乃舎の女房は意識も高いが気位も高い。他の殿舎の姫君に東宮の寵を奪われているなど口が裂けても言いたくないのだろう。
咲子は、「そうですね」と答えた。
「一条家の菊姫は家柄も良く、立ち振舞いも素晴らしいものがありますが、少々気難しく感じます。阿部家の幸姫は静かな方で、これはこれで少し物足りませぬ。そして大伴家の織姫は先ほどの通り、東宮さまに対しても粗野で反抗的な態度です」
咲子は思ってもいないことを口にする。誰が選ばれても、それ相応に良い妃になるだろう。しかし、彼女はあえて厳しい評価を礼人に語って聞かせた。特に織姫については辛辣に断じた。
(私の役目は、波風立てず御妻合わせを邪魔すること──)
咲子は、惟人を牽制するために父親に言われて妃候補となった。宮家である自分が初乃舎にいる限り、仮に惟人が誰を選ぼうと「正妃」にはなれないからだ。
それでいい。惟人に誰も選ばせてはいけない。妃が決まれば、惟人の東宮としての地位はさらに不動のものとなる。
そうなれば、父親の柏親王が礼人をそそのかして良からぬことを企てるかもしれない。しかし、そんなことをやり通せるほど、礼人の心は強くない。
だからこそ、惟人の中で日に日に大きくなっている織衣の存在を、知られる訳にはいかなかった。花合わせの件で織衣を厳しく注意したのもそのせいだ。これ以上目立てば、父親がきっと動き出す。
咲子の厳しい言葉に、礼人が満足そうに笑う。どうやら御妻合わせがうまくいっていないことが気に入ったらしい。
「我が弟ながら狭量なやつだ。私が東宮であれば、全ての娘に情を与え、可愛がってやるものを。そう思わんか、咲子?」
「……はい」
叶うことのない地位を語る礼人の姿は滑稽にさえ映る。それでも咲子は礼人を捨てきれないでいる。
今は何かがうまくいっていないだけ。今の境遇を受け入れることさえできれば、きっとあの頃のように優しい礼人に戻ってくれる。
あの頃──礼人が東宮になると信じて疑わなかったあの頃、彼は柏の木の下で、可愛いどんぐりの首飾りを作ってくれた。
(礼人さまを私がお支えせねば)
諦めと嫌悪に押しつぶされそうになる気持ちを咲子は振るい立たせる。わずかな望みにすがる思いで礼人を見れば、彼はそんな咲子の気持ちをよそに子どものような顔で唐菓子を頬張っていた。
「お口に合いましたでしょうか」
「うむ、うまい。咲子も食え」
「はい」
咲子が東宮御所に入ってから、礼人は初乃舎によく訪れるようになった。来るのは決まって東宮が執務で出かけている時。東宮という役職が与えられている惟人と違い、ただの一の皇子である礼人には決まった仕事がない。暇を持て余し、執務所から逃れるように咲子のところへやって来る。
日中に、それもわりと堂々と遊びに来るのだから始末に悪い。密会とどちらがましだろうかと咲子は思う。
(昔は、このような方ではなかった……)
惟人のような才はなくとも、優しい親王だった。むしろ優し過ぎて心配になるほどの。帝の期待に応えようと、懸命に勉学に励んでいた時期もある。
が、いつの頃からか礼人に良からぬことを吹き込む大人が彼を取り巻くようになった。彼らは、決まって礼人の血筋を褒めそやし、「東宮になるべきはあなただ」と礼人に言った。咲子には、それはただの呪いの言葉にしか聞こえなかった。
その後、惟人が東宮に指名され、礼人はぴたりと学ぶことをやめ、遊びに興じるようになる。そして、さらに東宮の反対派が群がり、いつしか優しかった子どもは、地位だけが高いだけの横暴な大人になってしまった。
「あの近衛大将の娘──、織衣とか言ったか。ろくな家柄でもないくせに。柏の叔父上に言ってなんとかさせよう」
「礼人さま」
咲子は、にこりと礼人に笑いかける。
「注意は私が五つの姫に直接いたします。近衛大将に物を申せば、何ごとかと問い詰められましょう。近衛大将は嘘や誤魔化しが大嫌いな方、それ相応に正直に話さねば納得されませぬ」
それとなく「近衛大将は怖いぞ」という含みを持たせつつ礼人に進言すると、彼は「うっ」と嫌な顔をした。
「確かにその通りだ。時国に問い詰められるのは面倒だ。では、咲子から厳しく注意をしておいてくれ」
「はい」
ほっと胸をなで下ろし咲子は笑みを作った。しかし、本当にしなければならないのは注意ではなく謝罪である。
とにかく急場はしのいだが、早かれ遅かれ今日のことは惟人の耳に入る。織衣と一悶着があったなど、惟人が黙っているとは思えない。
千菊の扱いもまずかった。織衣ほどではないにしても、千菊も惟人の目に止まっている。よりによって、あの二人に触れ、手を上げたのは問題だった。
内裏務めの女房たちはどうにか口止めできるかもしれないが、一条家から来ている女房たちは誤魔化しようがない。せめて惟人が聞き及ぶ前に報告するべきだと思ったが、惟人の怒る姿が容易に想像できて気が重くなるばかりである。
他の姫君たちと関わらせないため、礼人が訪れた時には初乃舎で止めるよう女房たちにも言い聞かせていたのに、ちょっとした隙に礼人は東宮御所の中にまで入り込んでしまった。
「咲子、惟人はどうだ? 選ばないと言いながらも、気に入った姫が出てきたのではないか?」
「さあ、どうでしょうか」
「どうとはなんだ。では、おまえの見立てでは誰が有望か」
東宮御所に来てから、礼人から何度も投げかけられる質問。そんなに知りたければ直接本人に聞けばいいと咲子は思う。しかし、それができないから彼は自分に聞く。
ふと織衣の顔が咲子の脳裏に浮かぶ。この窮屈な内裏で、真っ正直に「おかしい」と声を上げる姫。
咲子は、古来から受け継がれた儀礼と血統が何よりも大切であると教えられ今まで生きてきた。自分はそれを担う宮家の者であるという自負も誇りもある。
そんな咲子にとって、東宮にさえ臆せず物申す姫君の存在は衝撃であったが、それと同時に、胸をすくような新鮮さを感じた。
惟人もきっとそんな織衣に惹かれているに違いない。
「遠慮はいらぬ。分からないは、もう聞き飽きた。初乃舎の女房に聞いても口を揃えておまえが一番と言うだけだからな」
「まあ、」
咲子は苦笑した。初乃舎の女房は意識も高いが気位も高い。他の殿舎の姫君に東宮の寵を奪われているなど口が裂けても言いたくないのだろう。
咲子は、「そうですね」と答えた。
「一条家の菊姫は家柄も良く、立ち振舞いも素晴らしいものがありますが、少々気難しく感じます。阿部家の幸姫は静かな方で、これはこれで少し物足りませぬ。そして大伴家の織姫は先ほどの通り、東宮さまに対しても粗野で反抗的な態度です」
咲子は思ってもいないことを口にする。誰が選ばれても、それ相応に良い妃になるだろう。しかし、彼女はあえて厳しい評価を礼人に語って聞かせた。特に織姫については辛辣に断じた。
(私の役目は、波風立てず御妻合わせを邪魔すること──)
咲子は、惟人を牽制するために父親に言われて妃候補となった。宮家である自分が初乃舎にいる限り、仮に惟人が誰を選ぼうと「正妃」にはなれないからだ。
それでいい。惟人に誰も選ばせてはいけない。妃が決まれば、惟人の東宮としての地位はさらに不動のものとなる。
そうなれば、父親の柏親王が礼人をそそのかして良からぬことを企てるかもしれない。しかし、そんなことをやり通せるほど、礼人の心は強くない。
だからこそ、惟人の中で日に日に大きくなっている織衣の存在を、知られる訳にはいかなかった。花合わせの件で織衣を厳しく注意したのもそのせいだ。これ以上目立てば、父親がきっと動き出す。
咲子の厳しい言葉に、礼人が満足そうに笑う。どうやら御妻合わせがうまくいっていないことが気に入ったらしい。
「我が弟ながら狭量なやつだ。私が東宮であれば、全ての娘に情を与え、可愛がってやるものを。そう思わんか、咲子?」
「……はい」
叶うことのない地位を語る礼人の姿は滑稽にさえ映る。それでも咲子は礼人を捨てきれないでいる。
今は何かがうまくいっていないだけ。今の境遇を受け入れることさえできれば、きっとあの頃のように優しい礼人に戻ってくれる。
あの頃──礼人が東宮になると信じて疑わなかったあの頃、彼は柏の木の下で、可愛いどんぐりの首飾りを作ってくれた。
(礼人さまを私がお支えせねば)
諦めと嫌悪に押しつぶされそうになる気持ちを咲子は振るい立たせる。わずかな望みにすがる思いで礼人を見れば、彼はそんな咲子の気持ちをよそに子どものような顔で唐菓子を頬張っていた。

