織衣は真っすぐな眼差しで千菊に訴える。
「誰が何と言おうと、私は大社の巫女の在り方をどうにかしたいのです。左大臣さまは、前例に囚われることなく物事をお考えになる御方だとお聞きしました。必要ならば、私が直接会いに行きます。それでも駄目な時は……私が南の大社に参ります!」
「……織姫さまらしい物言いじゃ」
千菊が、やや困った様子で苦笑した。そして、織姫の隣で涙をぬぐう幸に声をかけた。
「幸姫さま、泣いている場合ではありませぬ。織姫さまが戦うそうでございます。あなたは? このまま泣き寝入りなさるおつもりか」
「……」
幸が大きく息を吸い込んで、やおら顔を上げる。彼女は、濡れそぼった目を手巾で何度もぬぐうと、両手をついて織衣たちを見た。
「見苦しい姿をお見せしました。私は、絶対に自由になると心に決めてここに参りました。泣き寝入りするつもりはございませぬ。どうかお力をお貸しくださいませ」
言って幸はきゅっと口元を引き結ぶ。その瞳には、自身の運命を嘆き悲しむ色はもうない。穏やかで、しかし芯の強さを感じる幸の目だ。
「上々、」
千菊が満足げに笑い、織衣を見やる。織衣もまた満面の笑みを浮かべて頷く。
その時、廊下で女房たちが騒ぐ声が上がった。
何ごとかと織衣たちは部屋の外に目を向けた。廊下に女房たちの必死な声が響く。
「お待ちくださいませ。今は、誰も入らないよう申しつかっております」
「なんだ、やましいことでもしておるのか」
生駒が誰かを止めようとしている。男の声は初めて聞くものだったが、その口調と生駒とのやり取りから、高貴な身分の誰かであることはうかがえた。
織衣たちは互いに目配せをして、居ずまいを正す。乱暴な足音と共に人影が現れたのに合わせ──、三人はさっと両手をついて頭を下げた。
「ほう、妃候補三人で密談……。なんの悪巧みだ?」
出し抜けに声の主が言う。どうやら側近の者を連れているようで、後ろにもう一つ足が見えた。
すかさず生駒が間に割って入った。
「どうかご容赦くださいませ。姫君さまたちが驚いておりまする。紀伊さま、お止めなさるのがあなたさまの役目でありましょう」
「うるさい、女房ごときが下がれ。礼人親王が、妃候補に会いたいと仰せなのだ」
側近の男が生駒を一喝して追い払う。そして、「礼人親王のお成りじゃ。頭をあげよ」と織衣たちに言った。
なんと──親王。しかも、惟人の腹違いの兄、中宮を母に持つ一の皇子だ。親王相手に、一度目の声かけで動くことはできない。織衣は頭を下げたまま驚いた。
(東宮さまも初対面はそこそこ横暴だったけれど……)
この礼人親王はそれ以上だ。
「一条元親の娘はどの者か」
「はい。私めにございます」
千菊が低頭したまま答える。礼人が「ふん」と鼻を鳴らしたのが聞こえた。
「女房の躾《しつけ》がなってないぞ」
「申し訳ございませぬ」
千菊が謝った。その淡々とした口調からは、彼女の感情は読み取れない。でも、たぶんきっと怒っている。
無礼はどちらだろう。皇族は下々の者に何をしてもいいと思っているのだろうか。
すると礼人は千菊の前にひざまずくと、不躾に彼女の顔を持ち上げた。
「ほう、なかなかの器量だ。あの鼻のひしゃげた元親の娘とは思えぬ」
「……畏れ入ります」
織衣は、その様子を上目づかいで見ながらぎりっと奥歯を噛み締める。
今、公の場で千菊の顔に触れていいのは惟人だけだ。それが妃候補に対する線引きであり、礼儀でもある。それをこんな風にあっさり侵すなど、妃候補を侮辱しているとしか思えない。
「名は何と言う?」
「千菊と申します」
「ふむ。どうだ千菊、私に乗り替えぬか? 聞けば、惟人は誰も選ばないと言ったそうだな。そんな見向きもしない東宮などより私に仕えよ。おまえたち一条は、皇族にたかる虫。地位と権力が好きであろう?」
その時、ぷつんと織姫の堪忍袋の緒が切れた。
「菊姫さまから手をお離しくださいませ」
織衣はきっと顔を上げる。惟人に似ているが、ずっと線が細く神経質そうな顔の男と目が合う。織衣は、千菊の顔を持ち上げる礼人に挑発的な眼差しを投げつけた。
「虫、とおっしゃいますが、虫にも好みと言うものがございます。何にでもたかる訳ではございませぬ」
「……私がたかるに足りぬ存在だと申すか」
「まずは、その手をお離しくださいませ。菊姫さまは、東宮さまの妃候補にございます。いかな一の皇子さまと言えど、気軽に触れていいものではございませぬ」
礼人がひくりと顔を歪め織衣をにらむ。彼は乱暴に千菊の顔から手を離すと、すっと立ち上がった。
「おまえは誰だ?」
「近衛大将大伴時国が娘、織衣にございます」
「時国の──無礼な物言いは、親子ともども変わらんな」
「畏れ入ります。おかしいことには声を上げろと父に教えられましたもので」
「私がおかしいと言うかっ。この──!」
礼人が顔を真っ赤にして手に持った扇子を振り上げる。女房たちから悲鳴が上がった。
なんと小さな男だろう。口喧嘩で負けて女を殴ろうとするなんて。自身の卑小さを露呈するだけだと分からないのか。
(やれるものならやってみろ)
織衣が礼人を真っ直ぐ見返したその時、咲子の鋭い声が響いた。
「おやめください!」
血相を変えた咲子が廊下を走るようにやって来て、礼人と織衣の間に割って入った。
彼女は両手をついて頭を下げ、必死な声を上げた。
「申し訳ございませぬ! 他の姫の無礼は全て私めの責任にございます。どうかお怒りを鎮めくださいませ。この者には私からきつく申しつけます」
咲子が謝る必要など、どこにもない。謝るべきは、この男だ。
思わず織衣は膝を立てて前に出そうになる。しかし、千菊が織衣の腕をがしりと掴んだ。思わず千菊を見れば、彼女もまた咲子と同じように頭を下げたままで、織衣は横目で「動くな」とにらまれた。
咲子が礼人に訴える。
「礼人さま、これ以上騒ぎが大きくなれば、守泰あたりが飛んで参ります。それはそれで面倒なことになりましょう。さ、私の部屋で菓子でも用意させます」
「……守泰か」
礼人が不機嫌な顔そのままに、振り上げた扇子を下ろした。全く納得していない様子だったが、ひとまず怒りを収めてくれたようだった。そして彼は、鼻を一つ鳴らすと咲子と共に去って行った。
「誰が何と言おうと、私は大社の巫女の在り方をどうにかしたいのです。左大臣さまは、前例に囚われることなく物事をお考えになる御方だとお聞きしました。必要ならば、私が直接会いに行きます。それでも駄目な時は……私が南の大社に参ります!」
「……織姫さまらしい物言いじゃ」
千菊が、やや困った様子で苦笑した。そして、織姫の隣で涙をぬぐう幸に声をかけた。
「幸姫さま、泣いている場合ではありませぬ。織姫さまが戦うそうでございます。あなたは? このまま泣き寝入りなさるおつもりか」
「……」
幸が大きく息を吸い込んで、やおら顔を上げる。彼女は、濡れそぼった目を手巾で何度もぬぐうと、両手をついて織衣たちを見た。
「見苦しい姿をお見せしました。私は、絶対に自由になると心に決めてここに参りました。泣き寝入りするつもりはございませぬ。どうかお力をお貸しくださいませ」
言って幸はきゅっと口元を引き結ぶ。その瞳には、自身の運命を嘆き悲しむ色はもうない。穏やかで、しかし芯の強さを感じる幸の目だ。
「上々、」
千菊が満足げに笑い、織衣を見やる。織衣もまた満面の笑みを浮かべて頷く。
その時、廊下で女房たちが騒ぐ声が上がった。
何ごとかと織衣たちは部屋の外に目を向けた。廊下に女房たちの必死な声が響く。
「お待ちくださいませ。今は、誰も入らないよう申しつかっております」
「なんだ、やましいことでもしておるのか」
生駒が誰かを止めようとしている。男の声は初めて聞くものだったが、その口調と生駒とのやり取りから、高貴な身分の誰かであることはうかがえた。
織衣たちは互いに目配せをして、居ずまいを正す。乱暴な足音と共に人影が現れたのに合わせ──、三人はさっと両手をついて頭を下げた。
「ほう、妃候補三人で密談……。なんの悪巧みだ?」
出し抜けに声の主が言う。どうやら側近の者を連れているようで、後ろにもう一つ足が見えた。
すかさず生駒が間に割って入った。
「どうかご容赦くださいませ。姫君さまたちが驚いておりまする。紀伊さま、お止めなさるのがあなたさまの役目でありましょう」
「うるさい、女房ごときが下がれ。礼人親王が、妃候補に会いたいと仰せなのだ」
側近の男が生駒を一喝して追い払う。そして、「礼人親王のお成りじゃ。頭をあげよ」と織衣たちに言った。
なんと──親王。しかも、惟人の腹違いの兄、中宮を母に持つ一の皇子だ。親王相手に、一度目の声かけで動くことはできない。織衣は頭を下げたまま驚いた。
(東宮さまも初対面はそこそこ横暴だったけれど……)
この礼人親王はそれ以上だ。
「一条元親の娘はどの者か」
「はい。私めにございます」
千菊が低頭したまま答える。礼人が「ふん」と鼻を鳴らしたのが聞こえた。
「女房の躾《しつけ》がなってないぞ」
「申し訳ございませぬ」
千菊が謝った。その淡々とした口調からは、彼女の感情は読み取れない。でも、たぶんきっと怒っている。
無礼はどちらだろう。皇族は下々の者に何をしてもいいと思っているのだろうか。
すると礼人は千菊の前にひざまずくと、不躾に彼女の顔を持ち上げた。
「ほう、なかなかの器量だ。あの鼻のひしゃげた元親の娘とは思えぬ」
「……畏れ入ります」
織衣は、その様子を上目づかいで見ながらぎりっと奥歯を噛み締める。
今、公の場で千菊の顔に触れていいのは惟人だけだ。それが妃候補に対する線引きであり、礼儀でもある。それをこんな風にあっさり侵すなど、妃候補を侮辱しているとしか思えない。
「名は何と言う?」
「千菊と申します」
「ふむ。どうだ千菊、私に乗り替えぬか? 聞けば、惟人は誰も選ばないと言ったそうだな。そんな見向きもしない東宮などより私に仕えよ。おまえたち一条は、皇族にたかる虫。地位と権力が好きであろう?」
その時、ぷつんと織姫の堪忍袋の緒が切れた。
「菊姫さまから手をお離しくださいませ」
織衣はきっと顔を上げる。惟人に似ているが、ずっと線が細く神経質そうな顔の男と目が合う。織衣は、千菊の顔を持ち上げる礼人に挑発的な眼差しを投げつけた。
「虫、とおっしゃいますが、虫にも好みと言うものがございます。何にでもたかる訳ではございませぬ」
「……私がたかるに足りぬ存在だと申すか」
「まずは、その手をお離しくださいませ。菊姫さまは、東宮さまの妃候補にございます。いかな一の皇子さまと言えど、気軽に触れていいものではございませぬ」
礼人がひくりと顔を歪め織衣をにらむ。彼は乱暴に千菊の顔から手を離すと、すっと立ち上がった。
「おまえは誰だ?」
「近衛大将大伴時国が娘、織衣にございます」
「時国の──無礼な物言いは、親子ともども変わらんな」
「畏れ入ります。おかしいことには声を上げろと父に教えられましたもので」
「私がおかしいと言うかっ。この──!」
礼人が顔を真っ赤にして手に持った扇子を振り上げる。女房たちから悲鳴が上がった。
なんと小さな男だろう。口喧嘩で負けて女を殴ろうとするなんて。自身の卑小さを露呈するだけだと分からないのか。
(やれるものならやってみろ)
織衣が礼人を真っ直ぐ見返したその時、咲子の鋭い声が響いた。
「おやめください!」
血相を変えた咲子が廊下を走るようにやって来て、礼人と織衣の間に割って入った。
彼女は両手をついて頭を下げ、必死な声を上げた。
「申し訳ございませぬ! 他の姫の無礼は全て私めの責任にございます。どうかお怒りを鎮めくださいませ。この者には私からきつく申しつけます」
咲子が謝る必要など、どこにもない。謝るべきは、この男だ。
思わず織衣は膝を立てて前に出そうになる。しかし、千菊が織衣の腕をがしりと掴んだ。思わず千菊を見れば、彼女もまた咲子と同じように頭を下げたままで、織衣は横目で「動くな」とにらまれた。
咲子が礼人に訴える。
「礼人さま、これ以上騒ぎが大きくなれば、守泰あたりが飛んで参ります。それはそれで面倒なことになりましょう。さ、私の部屋で菓子でも用意させます」
「……守泰か」
礼人が不機嫌な顔そのままに、振り上げた扇子を下ろした。全く納得していない様子だったが、ひとまず怒りを収めてくれたようだった。そして彼は、鼻を一つ鳴らすと咲子と共に去って行った。

