三乃舎に行くと、急な訪問にもかかわらず、幸は嫌な顔をせず織衣を迎え入れてくれた。彼女は女房たちに言って、すぐに菓子を用意させる。
ほどなくして、皿に炒った椎の実とお茶が運ばれて来た。
「こうやってゆっくり話をするのは、花合わせ以来ですね。さ、どうぞお召し上がりくださいませ」
「ありがとう」
お礼を言って、織衣は遠慮なく椎の実を口に入れた。香ばしい風味が口に広がった。
「おいしいです」
「良かった。そう言えば、東宮さまとは仲直りされましたか?」
「え?」
いきなり惟人の話を振られ、織衣は椎の実を喉に詰まらせた。
織衣は目を白黒させて、慌ててそれをお茶で飲み下した。
「仲直りって──」
「そろそろされないと、仲直りする機会を失い、拗れますよ」
まさか幸にまで心配をされているなんて。
織衣は恐縮しきりになる。
「それは、その、仲直りはしたように思います」
「まあ、他人事のように。そこが織姫さまらしいと言えばそうなのですが」
「はあ……」
幸から見れば、まともな恋愛経験のない自分の行動は幼く感じるのだろう。
貴清と幸はずっと思い合っていて、先日のような言い合いにはなっても、織衣たちのような喧嘩にはならない気がする。
「幸姫さまは、いつも仲睦まじく、喧嘩などされたことがないのでしょうね」
二人のことが少しうらやましくなって織衣はポツリと呟いた。
幸が目をぱちくりさせる。
しまった──! うっかりの失言に織衣は青くなった。
「もっ、ものの例えにございます! お優しい幸さまは、誰とも喧嘩をなさらないだろうなあ、なんて……!」
「しますよ。そうは見えないかもしれませぬが、まさに今、喧嘩の真っ最中でございます。とうとう昨日は、しばらく会わない方がいいと言われてしまいました」
幸が自嘲的な笑みを浮かべて織衣に言った。思わず織衣は真顔になる。
まじまじと幸を見つめれば、幸がことりと首を傾げた。
「織姫さま、いつぞやの夜に四乃舎にいらしたでしょう?」
思いがけず、幸の方から話を振ってきた。
織衣は、少なからず狼狽する。部屋には年配の女房が一人いて、彼女に聞かれていいものかと思ってしまう。
すると幸が、「彼女は大丈夫です」と言った。それで織衣は、腹を決めて幸に尋ねることにした。
幸の言う「いつぞやの夜」とは、幸と貴清の逢瀬を知った夜のことだ。あの時、うっかり物音を立ててしまったことを覚えている。
「気づいていらっしゃいましたので?」
「柱の影から衣の裾が見えました。最初は五つの女房かと思いましたが、噂などが広がらないので、これはきっと織姫さまだなと」
その言い方は、怯えたり悪びれたりする様子もなく、噂が広がってしまっても平気なようにさえ感じる。織衣はばつの悪い顔で幸に答えた。
「幸姫さま、確かにあの時、柱の影に隠れていたのは私です。覗き見するつもりは決してなくて……」
「分かっております」
「あの、それだけではなくて、実は……東宮さまもすでにご存知です。私が抱えきれずに相談しました」
「東宮さまに?」
「はい、ですから──」
「織姫さま、私は譲るつもりはありませぬ」
織衣の言葉を静かな口調で遮り、はっきりと幸が言った。織衣は、にわかに返す言葉が思い付かず、複雑な気持ちでうつむいた。そして袿の襟裾をぎゅっと握る。
「私は、幸姫さまに名前の通り幸せになって欲しいのです。でも、このままでは駄目です」
「分かっています。私が幻のような幸せを追いかけていることは。貴清さまの言う通り、阿部家に戻るのが正しいことも」
「ではっ」
しかし、幸は小さく頭を振った。
「でも私は、大好きな人と共に過ごす喜びを知ってしまったのです。もう後戻りはできませぬ」
ふと織衣の脳裏に惟人の顔が浮かぶ。なぜ今なのか、分からない。
ただ、幸の気持ちに自分の気持ちが重なる。
どうして大好きな人と一緒にいようとすることがこんなにも難しいのだろう。
(東宮さまは、何か考えてくれているかしら)
あの夜、誤魔化されたわけではなかったが、話がうやむやになってしまったのも確かだ。当然と言えば当然で、惟人にとっても即答できる内容ではない。
催促の歌を惟人に送ってしまったが、自分も動かないといけない。言い出したのは自分なのだから。
「幸姫さま、このことを女柏宮さまはご存知なのですか?」
「いいえ。私と貴清さまが幼少の頃より親しいことは知っておりますが、それ以上のことは知りませぬ。貴清さまが臣籍に降下されてからは、宮家とは関係がございませぬし」
「そうですか」
だとすれば、伝統や格式を重んじる咲子に相談するのは得策ではないかもしれない。実の兄が関わっている不貞行為を聞かせるのも気が引けた。
(さすがに相談できないわ。先日、公の場で東宮さまに異を唱えたことも怒られたばかりだし……)
となると、残るは一人。
一緒に咲子に怒られ、しかし、「困ったことがあれば相談を」と言ってくれた姫君。身の程知らずが好きだと言う、この御妻合わせの大本命。
彼女には、あの「主上の虫」と言われる一条元親がついている。
「幸姫さま、今から菊姫さまの元へ参りましょう」
「え?」
「菊姫さまはきっと分かってくださいます。あの方は、女は舐められたら終わりとおっしゃった方です。これは、女が舐められて終わるかどうかの事態ですもの」
「でも……」
「大丈夫です。善は急げと言うでしょう?」
織衣は幸の手を取り立ち上がった。
ほどなくして、皿に炒った椎の実とお茶が運ばれて来た。
「こうやってゆっくり話をするのは、花合わせ以来ですね。さ、どうぞお召し上がりくださいませ」
「ありがとう」
お礼を言って、織衣は遠慮なく椎の実を口に入れた。香ばしい風味が口に広がった。
「おいしいです」
「良かった。そう言えば、東宮さまとは仲直りされましたか?」
「え?」
いきなり惟人の話を振られ、織衣は椎の実を喉に詰まらせた。
織衣は目を白黒させて、慌ててそれをお茶で飲み下した。
「仲直りって──」
「そろそろされないと、仲直りする機会を失い、拗れますよ」
まさか幸にまで心配をされているなんて。
織衣は恐縮しきりになる。
「それは、その、仲直りはしたように思います」
「まあ、他人事のように。そこが織姫さまらしいと言えばそうなのですが」
「はあ……」
幸から見れば、まともな恋愛経験のない自分の行動は幼く感じるのだろう。
貴清と幸はずっと思い合っていて、先日のような言い合いにはなっても、織衣たちのような喧嘩にはならない気がする。
「幸姫さまは、いつも仲睦まじく、喧嘩などされたことがないのでしょうね」
二人のことが少しうらやましくなって織衣はポツリと呟いた。
幸が目をぱちくりさせる。
しまった──! うっかりの失言に織衣は青くなった。
「もっ、ものの例えにございます! お優しい幸さまは、誰とも喧嘩をなさらないだろうなあ、なんて……!」
「しますよ。そうは見えないかもしれませぬが、まさに今、喧嘩の真っ最中でございます。とうとう昨日は、しばらく会わない方がいいと言われてしまいました」
幸が自嘲的な笑みを浮かべて織衣に言った。思わず織衣は真顔になる。
まじまじと幸を見つめれば、幸がことりと首を傾げた。
「織姫さま、いつぞやの夜に四乃舎にいらしたでしょう?」
思いがけず、幸の方から話を振ってきた。
織衣は、少なからず狼狽する。部屋には年配の女房が一人いて、彼女に聞かれていいものかと思ってしまう。
すると幸が、「彼女は大丈夫です」と言った。それで織衣は、腹を決めて幸に尋ねることにした。
幸の言う「いつぞやの夜」とは、幸と貴清の逢瀬を知った夜のことだ。あの時、うっかり物音を立ててしまったことを覚えている。
「気づいていらっしゃいましたので?」
「柱の影から衣の裾が見えました。最初は五つの女房かと思いましたが、噂などが広がらないので、これはきっと織姫さまだなと」
その言い方は、怯えたり悪びれたりする様子もなく、噂が広がってしまっても平気なようにさえ感じる。織衣はばつの悪い顔で幸に答えた。
「幸姫さま、確かにあの時、柱の影に隠れていたのは私です。覗き見するつもりは決してなくて……」
「分かっております」
「あの、それだけではなくて、実は……東宮さまもすでにご存知です。私が抱えきれずに相談しました」
「東宮さまに?」
「はい、ですから──」
「織姫さま、私は譲るつもりはありませぬ」
織衣の言葉を静かな口調で遮り、はっきりと幸が言った。織衣は、にわかに返す言葉が思い付かず、複雑な気持ちでうつむいた。そして袿の襟裾をぎゅっと握る。
「私は、幸姫さまに名前の通り幸せになって欲しいのです。でも、このままでは駄目です」
「分かっています。私が幻のような幸せを追いかけていることは。貴清さまの言う通り、阿部家に戻るのが正しいことも」
「ではっ」
しかし、幸は小さく頭を振った。
「でも私は、大好きな人と共に過ごす喜びを知ってしまったのです。もう後戻りはできませぬ」
ふと織衣の脳裏に惟人の顔が浮かぶ。なぜ今なのか、分からない。
ただ、幸の気持ちに自分の気持ちが重なる。
どうして大好きな人と一緒にいようとすることがこんなにも難しいのだろう。
(東宮さまは、何か考えてくれているかしら)
あの夜、誤魔化されたわけではなかったが、話がうやむやになってしまったのも確かだ。当然と言えば当然で、惟人にとっても即答できる内容ではない。
催促の歌を惟人に送ってしまったが、自分も動かないといけない。言い出したのは自分なのだから。
「幸姫さま、このことを女柏宮さまはご存知なのですか?」
「いいえ。私と貴清さまが幼少の頃より親しいことは知っておりますが、それ以上のことは知りませぬ。貴清さまが臣籍に降下されてからは、宮家とは関係がございませぬし」
「そうですか」
だとすれば、伝統や格式を重んじる咲子に相談するのは得策ではないかもしれない。実の兄が関わっている不貞行為を聞かせるのも気が引けた。
(さすがに相談できないわ。先日、公の場で東宮さまに異を唱えたことも怒られたばかりだし……)
となると、残るは一人。
一緒に咲子に怒られ、しかし、「困ったことがあれば相談を」と言ってくれた姫君。身の程知らずが好きだと言う、この御妻合わせの大本命。
彼女には、あの「主上の虫」と言われる一条元親がついている。
「幸姫さま、今から菊姫さまの元へ参りましょう」
「え?」
「菊姫さまはきっと分かってくださいます。あの方は、女は舐められたら終わりとおっしゃった方です。これは、女が舐められて終わるかどうかの事態ですもの」
「でも……」
「大丈夫です。善は急げと言うでしょう?」
織衣は幸の手を取り立ち上がった。

